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時流れ、天使の願いが叶う時 2

 芳音や克美にとって大きな転期となった二年前には、こういう形に落ち着くとは思ってもみなかった。


 芳音の方は、辻本調理師専門学校を無事卒業し、三年間勤めたバイト先のレストランからも壮行会をしてもらい、あとは就職に関わる諸々の段取りをするだけになっていた。勤務先はもちろん『神童(シェントォン)』だ。そこへ至るまで大変だったのは、芳音自身のことよりも克美に関することだ。

 二回生でもコンペの参加権を獲得し、最優秀は逃したものの準優勝を勝ち取った。それを手土産に初めて帰省した。そのとき克美に初めて当面の進路についての考えを伝えた。

「へえ、あのふたりが直接厨房を、ねえ。知らなかった。んで、実際のところ得るものはありそうなのか?」

 克美は芳音の心配をよそに、随分と前のめりになって興味深そうに尋ねた。

「うん。部屋にネットを通したじゃん? オンラインでビデオ通話の機能を使っていろいろ教わってるんだけど、やっぱ限界があるんだよな、そのやり方だと」

 芳音は眉間に皺を寄せて愚痴零しながら、久しぶりに味わうおふくろの味を口に運んだ。

「うま。オムライスのくせに、ピリ辛」

「お、イケる? ほんのすこーしだけ、ピラフにキムチを垂らしてみた」

「って、俺は実験台かよ」

「いいじゃん。美味かったんだろ? よかったー、ボクの味覚がズレてるわけじゃないんだなっ」

 そう言って子どものように無邪気な顔をして笑う。何が彼女にそうさせるのか、芳音にはわからないけれど。

(なんか、俺のルーツを見た気がする)

 特にこれといった自信のない中で、誰かが自分のしたことを喜んで受け容れてくれると、妙にくすぐったい感覚になる。それが存外に心地よいのだ。

(でも、当たり前だと思って見落としてることがあるよ、母さん)

 だから背中を押してあげる。多分きっと今度こそは、克美も気づいているだろうから。

「克美、GINさんから受け取ったモノの話、なんで俺にはなんにも言わないの?」

 他愛のない世間話のように切り出した。向かいの席から、かしゃんとスプーンの落ちる音が小さく響いた。

「だって」

 克美はそう言ったきり、何も言わない。伏せがちな顔を少しだけ上げて彼女をちらりと盗み見れば、居心地悪そうに肩をすぼめて、しかしシッカリちゃっかりとオムライスを食べ続けている。

「って、ちょ、そこ食欲失せるくらいの罪悪感があってもいいんじゃね?! 自分でダメ出しして来てたくせに、自分が親子で隠し事かよ!」

「親子とか言って! そのくせお前はボクのことを親だと思ってなんかいないじゃんか!」

「……は?」

 想定外のリアクションのせいで、芳音の勢いが一気に削がれた。

「なに泣いてんだよ。俺が泣かしたみたいじゃん」

 しかしそれでも食い続けている辺りが、克美らしいと言えば克美らしい。

「だって、人のこと見下すようになっちゃってさ。“母さん”とも呼ばなくなっちゃったしさ。そりゃ頼りない親かも知れないけど、お前のおむつを取り替えたのも、お風呂に入れてやったのも、熱出したら夜中だろうとなんだろうと藪ちゃんを叩き起して診せに行ったのも、全部ボクなんだから」


 ――お前の母さんは、ボクなんだぞ。


「……」

 ヤケ食いのようにせっかくの美味いものを掻き込むのがもったいない。そう思っているだけだと自分に言い聞かせ、かなり渋々と言った口調で本当のところを白状した。

「ばかじゃねえの。辰巳辰巳ってうるさかったから、真似てやってただけじゃん……上っ面だけで、全然そうは見えなかったんだろうけどさ」

 芳音も克美に勝るとも劣らない勢いで、試作品のオムライスを掻き込んだ。

「……うん、全然似てない」

「うっせ」

「辰巳の方が余裕があった」

「うるさいっつの」

「それに、辰巳の方が嘘つきだった」

「うるさ……あ?」

「辰巳はボクの息子じゃなかったし、誰かが代わりなんか出来ない存在だったし、それに……替わりの利かない宝物をくれた人だ。お前なんかに代わりが務まるか」

 そう言った彼女は、はにかんだ笑みを浮かべた。睫毛はまだしっとりと濡れているが、もう新たな涙が溢れて来ることはなかった。芳音に辰巳のことを話して以来、辰巳のことを話すと涙ぐんでいた彼女が、初めて笑みとともに辰巳を語った。

「ボクの無意識にあるホントの気持ちなのかも知れないんだって。でもね、辰巳がありがとう、って。後悔してないんだって、芳音のこと。……ちゃんと、ボクをボクとして見てくれてて、うん、なんていうか、だから……やっと、吹っ切れた」

 いっぱい心配掛けてごめんね、と。自分はもう大丈夫だから、自分の夢を追うといい。応援する、と、そんな形で芳音の将来にエールを送ってくれた。

「……さんきゅ」

「うん、頑張れ。つか、頑張ってるのか」

「おう。母さんこそ自分のことを頑張れよ」

 と切り返すとき、少しだけ気恥ずかしかった。

「ちゃんと、今度こそ北木さんに返事しろよ?」

 イエスの答えが返って来る前提でそう背中を押してみたら、意外といえば意外にも克美にしては現実を考えた答えが返って来た。

「それはまだちょっと、悩んでる。だってボクはもう北木さんの子どもは産めないし、北木さんは地主さんの跡取り息子だしね」

 縁があればどうにかなるだろう。そんなことを言うくせに、克美の微笑はどこか諦めを感じさせる哀しげな雰囲気を漂わせていた。

 時は人を優しく癒すこともあれば、残酷なほど取り返しのつかない現実を突きつけることもある。

 克美のその実感が、芳音の背中を押しているのだろう。今しか出来ないことを悔いなくやり切るように。

「ボクみたいに時間を無駄にするなよ」

 という克美のひと言に彼女の想いが凝縮されていた。


 克美の背中を押し切れなかった理由が北木の置かれた立場にあると判り、次の根回しを画策したのがクリスマスを迎える直前。

「北木さん、俺、今年の正月は成人式でそっちに帰るから、東京へ帰るまでにちょっとだけ会えないかな」

『もちろん。もう二年近く会ってないんだね。お祝いしなくちゃ。克美ちゃんと相談しておくよ』

「あ、違う。母さんには内緒で会いたいんだけど」

 そんな形で北木に克美の本音を密告した。


 そして迎えた成人式のあと、一次会だけで切り上げるつもりが泥酔軍団に足を引っ張られる。

「おーまえーッ! ちっとも帰って来ないじゃんかよ!」

 とくだを巻くのは圭吾である。

「お前さ、酒弱いんだから、加減しろっつうの。俺、明日早いから二次会はパスな」

「つべたい。芳音、すっかり都会人になっちゃった」

 と、今度は元クラスメートの女子が泣き出した。

(泣き上戸かよ……)

 賑わう中で、芳音の携帯電話が望からのメールを受信する。

「!」

 メールを開くなり、酔いが回ったかと思うほど顔が熱くなった。だが次の瞬間、冷や水をかぶったような寒気に襲われた。


 ――Sub:芳音のばーか。

 本当はこっちも今日が成人式だったのよー、だ。

 絶対芳音には振袖姿なんて見せてあげない――。


「うわああああああああ!!」

 携帯電話を放り出し、居酒屋のテーブルに全力で突っ伏す。先に今回の帰る理由を望に言わなければよかった。と思ったところであとの祭りだ。

「おあ? 何いきなりしょげてんだ?」

 圭吾がとろんとした目で勝手に芳音の携帯電話を弄繰り回し、また芳音を青ざめさせた。

「おま、勝手に見るな!」

「おおおおおおおお!! 振袖写真じゃん!」

「へ?」

 慌てて圭吾の横から自分の携帯電話を覗いてみれば、『なーんてね』という件名で、もう一通が届いていた。

「ちょっと、そこのバンドチーム。何騒いでんのよ」

 高校時代の懐かしい括り方で呼ばれ、感傷に浸れたのは一秒にも満たなかった。

「見る見る? 芳音の女装写真」

「な……っ、ちが」

「うそっ! 何それオイシイ」

「見せて見せて」

 女は化け物だと思う。それは望も例外ではなく、普段の五割増でメイクしたそれは、見様によってはテレビなどでよく見掛ける女装か女性かのダウト判断をする番組に出て来るような、見映えのする振袖姿の写真だった。

「きゃ――ッッッ、ちょ、これは犯罪でしょ!」

「なんで男の方が美人になるのよ、むかつく!」

 そしてお約束の展開が芳音を待っていた。

「圭吾ってば、なんでこういうのをリアルタイムで教えてくれなかったのよ」

「あ、私、着付け出来るわよ」

「剥くか」

「だな」

「い……ッ!?」

 酒乱ほど性質(たち)の悪い輩はいない。次に厄介なタイプは、お祭り大好きノリノリキャラである。

「ま、ちょ、それ、俺じゃな」

「男子ー、芳音を押さえるチームと剥くチームに分かれてー」

「っしゃー!」

 逃げようと思えば逃げられた。だが脳裏を過ぎる「この人たちも、一応『Canon』の常連客」という定形文。

「やめ……ッ」

 染みついた商売魂が抵抗の邪魔をする。

「友恵ー、あんた着替えたんでしょ。振袖貸して!」

 あとの顛末は、思い出したくもない――。


 そんな犠牲を払ってまでも画策した結果、北木は夏の声が聞こえるころになってようやく克美へ五回目のプロポーズをしたそうだ。芳音が東京へ戻ってから、北木がその結果を電話で知らせて来た。

 返事は保留とのこと。そして北木が歯切れの悪い口調で芳音に謝罪したのは、克美の予想通り親族からの煙たそうな反応だった。

『恥ずかしい話でごめんね。遠い親戚ほど難しい顔をされてね』

 北木自身も今回初めて知ったことで驚いたらしいが、嫁いだ彼の妹が『Canon』の常連客だったという。兄の長年の想い人に興味を持って、という理由から、敢えて家族には常連であることを隠し、克美には北木の実妹だったことを隠して足繁く『Canon』に通っていたという。

『家族は妹のお陰もあって歓迎ムードなんだけど、結局ね』

 相続問題なんだ、と言われてピンと来た。

「母さんのことだから、そういうのには無欲でしょ。放棄って言ってるはずだよね」

『う、ん、まあ』

「ってことは、つまり俺でしょ。北木さんちの心配事は」

 少しだけ心配な気もするが、北木がきっと守ってくれるだろう。これまでもそうして来てくれたように。

「あのね、北木さん。俺は守谷のまんまでいたいから、最初から北木さんとの養子縁組なんて考えてなかったよ」

「そ、それはそれで、すごく残念な、っていうか、芳音くん?」

「そんなこと、ホタに言ってみなよ。きっと北木さんを全力で追い込むよ。あそこの顧問会計士もしてるんでしょう?」

 なんだったら公正文書も書く。親戚の人たちには、渡部薬品と関わりのある人間だからそこまで金に困ってなどいないとでも言って安心させてあげたらいい、と強い口調で北木の厚意に固辞の意向を返した。

 辰巳と克美が家族だった証を受け継いでいきたいから。それで克美と他人になるわけじゃない。克美とは、血と心で繋がっている。そんなことで切れてしまうほど脆い絆じゃない、と言ったのは、少し北木の世代に合わせた臭い言い回しだったけれど。

「だから、母さんをよろしくお願いします」

 心の中では何度も思い描いて来た本当の気持ちを言葉にしただけだったのに。

『ごめんね、芳音くん……ごめん……ありがとう……でも僕は芳音くんのことだって』

「解ってるよ。ずっと俺を支えてくれてたのは北木さんじゃん。北木の親戚の前で他人の振りするだけだよ」

 電話の向こうで何度も謝る北木をなだめるのに苦心した。


 なかなか現実はままならない。北木にお節介を焼いた芳音だったが、まさか自分まで保留にされる事態になるとは想定外もいいところだ。

「私たちだけ願いが叶ってて、いいの?」

 望のその言葉は、痛恨の一撃だった。自分のことで精一杯になっていて、どこか浮かれた気持ちでもいて、穂高や泰江の変化に気づけていなかった。

「探ってみる」

 望にはそう答えたものの、相手はあの泰江だ。かまを掛けたところで尻尾を掴ませるようなヘマなどしないだろう。彼女が手伝っているというセラピスト仲間などに素性を偽ってコンタクトを取ってみたが、閉業や雇用して欲しいなどの言質は取れなかった。

(でっかい借りになりそうだけど、奥の手を使うしかないか)

 芳音はオンライン通話回線を繋ぎ、零のアカウントをコールした。

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