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時流れ、天使の願いが叶う時 1

 ――慌しくも穏やかな毎日が、全ての人に等しく時を刻んで通り過ぎてゆく――。




 辰巳は芳音に思わぬ置き土産を遺していった。土方零という存在だ。

 そもそものきっかけは、GINが芳音に断りもなく『Canon』へ赴き、好き放題をやらかした挙句、逃げるように香港へ帰ってしまったことからだ。

 零からもらった名刺を頼りに、初めての国際電話を試みた。結果、GINは二ヶ月の予定で旅に出ていると言われ、やむなく零にGINへの文句を零すしかない状況になった。

『風間は勝算のないことはしませんよ』

 刑事をやめたあとは、情けないほど繁盛してはいなかったものの、興信所を自営していたような人だから。

『特に今回は、事件当時に面識のあった赤木さんや久我さん、克美さんをよく知る安西さんとも別ルートでコンタクトが取れる状態にあったことで、事前の情報収集がたやすかったこともありましたから』

「母が辰巳ではなく北木さんを選ぶ、って、解っていた、ということですか」

『はい。風間というよりも、あなたのお父さんが』

 辰巳と繋がったGINだからこそ確信を持てたことだ、と言われれば。

「そう、ですか」

 この場ではこちらが退くしかないような気がした。

 用件だけで電話を切るのは無愛想過ぎるかと思い、彼女が料理店を経営していることもあって、少しだけその話題にも触れた。

「零さんがシェフ! なんか、意外です」

『そうですか?』

「はい。てっきり経営管理だけで、シェフは雇っているのだとばかり思ってました」

『元々料理は嫌いではなかったんです。創作を始めたきっかけは、体力と健康の維持からだったのですけれど』

 彼女は学生のころから現場に携わる刑事を目指していたそうだ。女だと、どうしても男性刑事よりも体力的に劣ってしまう。それを理由に捜査一課から外されることを殊更に警戒し、健康管理重視の創作料理を思いついたのがことの始まりだったらしい。

『お店をやってみて、よかったと思います。これまではせいぜい風間にしか作ったことのない手料理でしたから、作り甲斐のないことこの上ない、と言うか』

「あ、解る気がします。GINさんって、よくも悪くも大雑把ですよね」

『そうなんです。おなかが満たされればそれでいい、という感じで作り甲斐がありません。その点、おいしそうな顔をして食べてくれる人を見ると、もっと味や盛り付けにも工夫を、と欲張ってしまいますね』

 そんな話をしている向こうから、いきなり賑やかな大音響が響いた。

『あ。すみません。ちょっとだけ待ってくださいね』

 そう言ったきり、なかなか応答に戻らない。芳音がどうしようかと迷い始めたころ。

『ダディ? マム? グランパ?』

 と、立て続けに小さな子どもの声が芳音の鼓膜をつんざいた。つんざく、という表現がふさわしいほど、呼んだ相手を待ち焦がれている声だった。

『す、すみません。孫が先に受話器を取ってしまって』

「孫ぉッ!?」

 青天の霹靂とも言える零のひと言が、芳音に敬語を忘れさせた。

「って、え、ちょ、零さん、いったいいくつッ!? どっからどう見ても母さんと同世代だろ!」

『克美さんとふたつしか違いませんよ。ちなみに私のほうが年下です』

「えっと、あれ、なんか計算が合わな」

『数えないの。そもそも女性に年齢を訊くなんて失礼ですよ』

 零が初めて砕けた口調でそう言い、心からおかしそうに笑った。

「ご、ごめんなさい。あんまりにもおばあちゃんって印象からかけ離れてるから、つい」

『孫と言っても、血の繋がりはないんです』

 GINと同じ能力を持った仲間の娘らしい。戦地などの危険区域で活動している父親が、彼らに妻と娘を預けたそうだ。零は「預けてくれた」という言い方をした。その両親と彼らは、ほんの数年前に養子縁組をして戸籍上の親子になったばかりだという。

『この能力のせいか、皆子どものころに捨てられた孤児なんです。何かあったときに、家族の形をとってあれば一番に連絡をもらえるし、いつでも駆けつけることが出来るでしょう?』

「う、ん……確かに」

 なかなかに衝撃的な彼女たちのお家事情は、芳音に歯切れの悪い返事を漏らさせた。

『血の繋がりだけが家族の条件ではない。それは芳音くんもよくご存知ですよね』

 そう言ったときに零の聞かせた誇らしげな声が、印象的だった。自慢の家族だと言外に伝える彼女が、とても幸せそうに感じられた。


 それをきっかけに、零とたびたび連絡を取るようになった。国際電話ではとんでもない通話料になるので、資料探しなどの利便性も考え、芳音は自宅のアパートにネット回線を導入した。メッセンジャーのオンライン通話で、零から中華のノウハウを教わるためだ。だが、ほどなくそのやり方に限界を感じた。味見をしてもらえないので、これでよかったのかどうかが解らない。日本では手に入らない食材や調味料もある。倣うだけでは零を超えられない。自分の持ち味にすることが出来ない。

 次第に零の店への弟子入りを真剣に考えるようになっていった。


 いよいよ三回生の夏に入り、本格的に就職活動に入る学生が増えたころ、芳音は零に改めて弟子入りしたいと意向を示した。

『こちらとしては、ありがたい話です。孫が随分と元気よく走り回るようになって、お店で子守りをしながら営業、というスタンスが難しくなっていたところです。信頼の置けるスタッフが欲しかったので、ご家族のご了承さえいただけたら、是非』

「ありがとうございます! 母からは了解を得ているので、のんとホタにも報告させてもらいます!」

 三食下宿で子守込み。日本レートの賃金を保証、まずは暫定三年間の契約で。極めるには短過ぎる期間だが、あくまでも芳音の勝負場所は日本だ。感覚さえ掴めれば、あとは日本人の口に合うアレンジで充分に商品としての料理に仕上げられるだろうと判断した。

 そんないきさつを、まずは望へ報告した。

「三年……」

 個人経営のレストランに就職した望と学校帰りに待ち合わせ、自宅へ立ち寄らせてもらった。まともに顔を合わせて話をしたら決意が鈍りそうで、一緒に夕飯を作る中での報告だった。

「うん。またしばらくは遠距離になっちゃうけど」

 芳音が粉とバターからカレールーを作る横で、野菜を切っていた望がシンクに水を流し始めた。

「たまねぎ、ちょっと足りないからもうひとつ入れるわね」

 彼女は顔を上げないままそう言うと、シンク下の野菜貯蔵庫から小ぶりのたまねぎをひとつ取り出した。

「でも、LANで回線を繋いでもらうから、メッセンジャーを繋ぎっ放しにしておけば毎日顔は見られるし。話だって出来るし」

「そうね」

 望はひと言それだけ言うと、淡々とした仕草でたまねぎの皮を剥く。

「のんもカメラ据えておけよ」

「わかんない。機械に詳しくないもの」

 まな板の上で小さなたまねぎが、ドカっと派手な音を立てて真っ二つにされた。

「んじゃ、俺が設定していくから。カメラはあるんだっけ?」

「わからないわ。でも、パパに聞いてみる」

「……うん」

 コツコツとたまねぎを刻む音だけが響く。

「あのさ、のん」

「なに」

 言わなくちゃと思うのに、喉の奥につかえたままで、なかなか本題を切り出せない。

「たまねぎ、みじん切りにしたら溶けちゃうよ?」

 チャレンジ第一回目は失敗に終わった。心の中で涙目になる。

「隠し味なの」

「あ……そ」

 望は無抵抗なたまねぎを、親の仇とばかりに切り刻んでいた。不機嫌なのがあからさまだ。益々言いづらくなる。芳音が悪戯にルーを混ぜ合わせながら悶々としていると、望がぽつりと呟いた。

「……部屋、何も下宿にしなくても、近くに借りればいいじゃない」

 芳音にとって、それは想定外な不満の内訳だった。自分よりも夢を優先しようとしているからだとばかり思っていただけに、つい返す反論が弁解じみたものになった。

「家賃がもったいないじゃん。ただ寝るだけって感じになるだろうし」

「どうして?」

「だって、GINさんが近々旅から帰って来るって言うし、どうせ酒の相手をさせられるだろうし。それにチビっこの子守もしないと、零さんは仕込があるだろうし」

 そう返しながら、ちらりと隣を盗み見る。

「そ。まあいいけど」

 という言葉と裏腹に、まな板にポタポタと雫が落ちていた。

「なんで泣いてるの?」

「たまねぎが目に沁みるから」

「ふーん……そんでさ、のんに相談なんだけど」

 平静を装ったつもりなのに、やけに大きな音で喉が鳴った。

「相談って、結局決めていることの報告でしょう? 芳音、一度決めたら頑固だから、私の意見なんて説得するために聞くだけでしょうし」

「あー、うん、まあ、そうと言えばそうなんだけど。んでも、これの場合、のんから同意のサインが必要になるから」


 ――向こうへ発つまでに、籍だけでも入れとかない?


 さりげなく、世間話のような軽さで、望が話の流れでついうっかり「うん」と言いやすいように、そう言わせるつもりで何日も練習して来た台詞なのに。

「……イヤ」

 というあまりにも残念な反応が返って来た。ルーを掻き混ぜていたしゃもじが滑り、せっかく仕上がり掛けたそれがコンロ周りに飛び散った。

「あ……もう、バターのストック、ないわよ」

「気にするトコ、そこ?!」

 芳音が業を煮やして顔を上げて見れば、懐かしい子どもみたいなくしゃくしゃな顔がそこにあった。

「……なんで、そんな顔してるの?」

「だって……芳音はまだ学生だもの。パパが許すはずないわ。まだ二十歳だし、芳音にはまだこれからいっぱい出逢いがあるかも知れないし。それに……零さんだって」

「待てコラそこか! そこなのか! のんが怒ってるのは、それか?!」

 そう勘繰らせる理由は、なんとなく解る。自分の記憶にはないだけで、望にしてみればこだわる部分だとも思う。けれど。

「あのさ、零さんって、GINさんの奥さんだってこと、ひょっとして知らない?」

「……え……えぇ?!」

 望はそう叫ぶと同時にやっと顔を上げてくれた。大きく見開かれた彼女のまなじりから、つ、と涙が零れ落ちる。

「やっぱり」

 芳音は彼女の頬を拭いながらわざと大きな溜息をもらした。だがつい顔がにやけてしまう。

「のんが妬きもちなんて、なんか意外」

 弱々しく抗って俯こうとする顔を、少し強引に上向かせる。

「零さんが言ってて、“ああ、そうだよな”って思ったことがあったんだ」

 家族の形を取っていれば、お互いに何かが起こったとき、一番に知らせてもらえる。少しでも早く駆けつけられる。

「俺、ずるいから。こういうきっかけと理屈があれば、ホタが折れてくれるんじゃないかな、って、割と楽観してるんだ。だから、きっと、大丈夫」

 芳音は望の不安へ直接刻むように、彼女の額に唇を押し当てたままそう言った。

「俺、十四年も待ったよ? 修行の身だけど、一応ちゃんと収入も確保出来るよ? 三年以内にモノにして、『Canon』を立て直す自信もあるよ」

 切り出すことさえ出来てしまえば、望からイエスの答えをもらえる自信はあった。小ざかしいと自分でも呆れるほどシミュレートをして、「答えをもらえたらそうするんだ」などと妄想していたことが実現出来そうだと思うと、勝手に鼓動が早くなる。

「だから、サインして」

 きゅっと噛み締めて涙を堪えるその唇を、こじ開けてやりたくなる。それに売約済の印を刻もうと、芳音は顔を近づけた。あと少しで唇が重なろうとしたそのとき。

「私たちだけ願いが叶ってて、いいの?」

 という呟きに契約の印を拒まれた。

「克美ママを独りにしちゃって、本当に大丈夫なの? それに、私はパパとお母さんのことも心配。気掛かりを残したまま自分だけなんて、そんなの自分が自分に許せない」

「心配って、なにかあったのか?」

 芳音はコンロの火をとめ、望をリビングのソファに促した。


「私の勘繰り過ぎなだけかも知れないけれど」

 そんな前置きのあとに望が語ったのは、穂高と泰江、それぞれの見せる些細な、でも気になり出したら膨らんでゆく不安の要素。

『就職先も決まって、成人式も迎えて。のんちゃんももう一人前だね。あとは無事にお嫁に出すのが私の最後の役目かなあ』

 成人式を迎えた今年の初めに、泰江が望の晴れ姿を見て感慨深げにそう呟いたそうだ。芳音はそのとき地元の成人式に出席していて不在だったので、そんなやり取りがあったことなど知らなかった。

「そのときは気にも留めなかったの。いろいろたくさん心配を掛けて、これでも少しは落ち着いたつもりだし、お母さんもそんな風に感じてくれたのかな、と思って、“ありがとう”って、ありきたりなことしか言えなかったの。でも」

 ほどなく、穂高に変化が表れた。と言っても大した変化ではなく、ただ単純に帰宅することが以前よりも多くなっただけのこと。

「一度だけパパに聞いてみたの。“最近は帰れることが多くなったのね”って。時間も以前みたいに午前様になることもないし」

 望のその問いに返って来た答えは無言と苦笑だったらしい。

「例えば、例えばよ? 子どものころは私、早く寝なさいって言われていたから、十時には自分の部屋にこもってしまっていたのね。パパが帰って来たことが解ると寝た振りをしていたし、だからパパもそっと帰って来ることが多かったの。でもね、もしかしたら、本当はもっと今みたいな時間帯には帰って来れていて、上に帰って来なかっただけだったとしたら」

「あ……あ、そうか。本来の帰宅時間に直行でここに帰って来ているだけのこと、っていう話になるのか」

「うん」

 それに加えて泰江のサロンへの客足が減っているという。

「今夜みたいに、セラピスト仲間さんの手伝いに泊り掛けで行くことが、ここ半年ほど増えているの」

 それはまるで店じまいを示唆するように。

「ねえ、芳音。最後の役目って、どう解釈したらよかったのかしら」

 それは問いというよりも、自分の中に一度湧いたら消えなくなった悪い予感を拭って欲しいと願うような声。

「ちょっと、探ってみる。のんのオッケーがもらえるなら、就活も終わってるようなもんだし」

 相変わらずここ一番で思うようにキメられない自分に自嘲しながら、それでも余裕のある振りをして望の頭をくしゃりと撫でた。

「ありがとう……ごめんなさい」

 なかなか見せてくれない弱い部分をさらけ出されると、それ以上のことが言えなくなる。

「つうかさ、なんで俺らの親って、こうも手が掛かるんだろうね」

 普通なら、親のそんな事情は、子としては想像もしないし、したところで気持ち悪いと感じるものなのだろう。

「そうね。どっちが親なのかわかんないわね」

 そう言って、やっと望が少しだけ笑える柔らかさを取り戻した。

「取り急ぎの問題は、切っちまった野菜を使って何を作るか、だよな」

「あ……ルー……」

「ごめん。ポトフにでも替えよっか」

 穂高がそろそろ帰って来る。それまでにいつもどおりの望に戻しておく必要があった。

 本当ならば、彼が帰って来るまでに役所からもらっておいた届に望の署名を書き加え、それを穂高に差し出して「保証人よろしく」と先制攻撃を仕掛けるつもりでマンションを訪ねたのだが。

(しゃーないかあ……)

 少しだけ、自己嫌悪した。芳音が自分のことしか考えていなかったのに対し、望はその更に広い範囲を慮って自分の行動を決めている。相変わらず、今一歩のところで頼りない自分だと感じさせる。

「のん」

 へこんでいる暇があるなら、自分も一歩前へ進めばいい。芳音は気を取り直し、望に今一度の確認を取った。

「母さんの件は、北木さんに根回ししてあるから、そっちは多分問題ないよ。だから、泰江ママとホタの件が解決したら、一緒に役所へ行こう。来年の春までに、絶対ケリつけるから」


 ――だから、俺の姉貴じゃなくて、奥さんになって。


 予想以上に噛みまくりながら、やっとそれだけを口にすると、望は初めて首を縦に振ってくれた。そして滅多にくれないご褒美もつけて、芳音からの礼の言葉をふさいでくれた。

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