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約束

 駅に向かってとぼとぼと歩く。どちらも無言で俯いたまま、疲れた中年の男女のように、重い足取りで階段を降りた。

「桜が見たい」

 繋いだ手を不意に離し、芳音がぽつりと呟いた。

「ここなんかじゃなくて、もっと桜だけをゆっくり見られるところがいい。どっか、知らない?」

 見下ろす気配を片隅で感じ、恐る恐る見上げてみた。

「終電までに渋谷まで戻らなくちゃいけないんだ。それに間に合う程度の場所」

 そう言って笑う芳音の目には、怯えた顔が映っていた。

「目黒川は? 中目黒なら、地下鉄を使えばここからも渋谷までも一本で行けるけど」

「らぁっきー。そこがいい!」

「……じゃあ、こっち」

 おずおずと乗り場方面の記された看板を指差せば、その手をまた掴まれる。

「時間もったいなっ。走るぞ、のんっ」

「ちょ、恥ずかしいってばっ」

「二度と来ないからいいんだよっ」

 のんももう、二度と来るな。その言葉だけが低かった。

 ごった返す駅の中、無理やり人を掻き分けて前へ進む。人ごみに流されそうになると、繋いだ手が行くべき方へと導いてくれる。花見の帰り客で混雑する電車では、ふたり揃ってもみくちゃにされた。急カーブで立ち客が一斉に同じ方へと身を傾ける。望も類に漏れなくよろけてしまった。転びそうになった自分の腰が、逞しい腕に支えられた。

「へーき?」

「……うん」

 ほかの人より頭ひとつ分高い彼は、酸素をいっぱい吸えて快適そうに見えた。皆が吊り革に掴まっている中、彼だけその支柱部分を掴んでいる。

「……おっきくなったね」

「なんだそれ」

「前はおんなじ背だったのに。もう服の取り替えっこが出来ないわね」

「勘弁してよ。女装趣味ないし」

「あは、そっか」

 久し振りに笑った。皮肉や冷笑や軽蔑のこめた苦々しい笑みではない、心からおかしくなって零れたもの。

「芳音……ありがとう」

 やっとの想いで告げたのに。

「何それ」

 やっぱりまたそう言われた。何も訊かない芳音が何を考えているのか解らなくて――怖かった。




 目黒川沿いに佇むお薦めのカフェやレストランは、ほとんどオーダーストップになっていた。

「美味しい物を食べながら目線の高さで桜を見れるのが最高なのに」

 延々と芳音にそう愚痴零しながら、目黒川沿いの舗道を当てもなくふたりで歩いた。自販機で買ってもらった紅茶に口をつける。望の肥えた口には合わなかった。

「オーダー出来る時間帯だったらだったで、きっと満席で入れなかったよ。いいじゃん、俺は桜が見たかっただけだし」

 芳音がなだめるようにそう言った。同時に彼のコーラを持つ手が、目の前に見えた公園を指し示した。

「ほら、特等席だってちゃんとあるじゃん」

 不満を言っている自分がバカらしくなる。芳音の行き当たりばったりな能天気さが羨ましくさえ思えた。もちろんそれは皮肉だが。

「……ホントね」

 促されるまま東屋のベンチに腰掛け、夜桜を見上げた途端、芳音に対する皮肉が本物に変わった。

 置き去りにされた提灯が、名残惜しげに淡い灯りを零していた。その向こうに見える下弦の月は、さっきまでは消え入りそうな儚い光だったのに。

「月が、綺麗」

「花びらも、雪みたいだな」

 消えるのを抗うように煌々と夜空を照らし、雪のように舞い散る桜の花びらを薄桃色に輝かせていた。

 多分同じものを思い描いている。温泉街にある寂れた公園に佇んでいた、今にも枯れてしまいそうな桜の樹。翠の三回忌の時に見た夜の桜。遅まきに死の概念を知った四歳のその夜、湿った空気に耐えられなくて、ふたりで別荘を抜け出した。あの夜に芳音と一緒に泣きながら見たあの桜は、それからほどなく枯死したと泰江から聞いた。

「……やっと、翠ママに会えたって気がする」

 芳音のそんな上ずった声が隣から聞こえた。


 芳音はこの十二年の話を簡単に語った。とは言っても、そのほとんどが、バンドのことと何やら怪しい副業をしてお金を貯めていることなどの近況ばかりだったが。

「圭吾って、ガキ大将で芳音がぴーぴー泣かされてた、あのケイちゃんのことだったのね」

「うわ、そか。チビん時はあいつのこと、みんなケイちゃんって呼んでたんだっけ」

「あんなにボロクソに言ってたのに、親友、ねえ」

「殴り合ったら次の瞬間からダチ、って感じ? 今はあいつと綾華のツインボーカルでやってるバンドで、助っ人って条件で俺も時々ドラム叩いてる」

「ドラム? え、綾華って、綾華姉ちゃん?」

「うん。っていうか、のんと話してると、すっごい時差を感じるわ」

「だって」

 会わせてもらえなかったから、なんて人を責めるネガティブな言葉は、今この優しい時間で口にするのがはばかられた。

 突然襲った気まずい沈黙を、聞いたことのない着信メロディが終わらせた。

「あ、やべ。連絡入れるの忘れた」

 芳音がポケットをまさぐりながら取り出したのは、携帯電話。メールだったらしい。彼はほんのしばらくの間だけ無言でディスプレイを凝視すると、手早く何かを打ちこみ「終了っ」と明るい声を出した。

「噂をすれば、綾華から。どこほっつき歩いてんだって怒ってるから」

「から?」

「のんとデート、いいだろう、って返信しといた。これでギリまで時間確保確定っ」

 そう言って幼い頃の面影を思い出させる笑みを零した。懐かしさで、瞳が潤んで来る。

「のん?」

「なんで……」

 零れ落ちそうなものを隠そうと、俯いてスカートを思い切り握りしめて堪えた。なのに涙腺は望以上にわがままで、芳音に見せたくないものを握った拳の上に落としてしまった。

「ごめん。綾華に伝言とか、聞いてから送ればよかった?」

「違うっ。バカっ」

 やっぱり前言撤回だと心底思った。この能天気さは、バカに見える。絶対に見習いたくなんかないという強い意思を込めて芳音を睨みつけた。

「ケータイ持ってるんじゃないのっ。私の住所、知ってるじゃないのっ。どうしてなんにも教えてくれなかったのよっ。何がデートよ、軟派なその辺のヤツと変わらないじゃない。なんにも訊かない、なんにも言わない、だったら最初から放っておけばよかったじゃないのっ」

 いつまでも子供じゃない。親に隠れて自分の時間だって確保出来るはずなのに。そんな文句があとからあとから溢れて来ては、言葉の刃と化して口から吐き出される。自分でもとめられないその激情に、望自身が心の奥底でうろたえていた。

「芳音なんか、大ッ嫌い。なんにも考えてなくて、昔と変わらなくて、相変わらずとっぽくて鈍感で間抜けで、行き当たりばったりでヘラヘラ笑ってばっかりで」

 紅茶ごと缶を地面へ思い切り叩きつける。開いた両手は芳音の胸を思い切り何度も握り拳で殴っていた。

「芳音ばっかり昔のままで……私だけ……っ」

 殴り疲れて止まった拳を、気温の割に温かくて大きな手が優しく包む。

「ずっと、ほったらかしてて……ごめんね」

 俯いた望の額に、コツンと同じものが当たる。

「ケータイ、番号はホタからもらった番号のままだよ。いつか、のんが連絡をくれるかも知れない、って思って。こっちからなんて出来っこないじゃん」

 ――ホントの親父がどんなヤツで、何をしたヤツなのかを知っちゃったから。

 芳音に言われて初めて気づいた。芳音の父親が誰なのかを知らない。そこに思考が向いたことさえなかった自分を初めて自覚した。

「……本当の、お父さん? それが私達と、何か関係が、あるの?」

 尋ねる声が途切れ途切れになった。聞くのが怖いくせに、聞かずにはいられない。それほどの、胸の奥から湧き出ては溢れる不安。自分の中のものを吐き出し切って初めて気づく。望の中に住み続けて来た芳音らしくない、顔の右半分だけ麻痺してしまったかのような無表情。笑っているつもりだろうに、そんな風には見えなくて、ただならぬ雰囲気が望を一瞬震わせた。

「のんが思ってるほど、俺も昔のまんまじゃない、ってこと」

 温もりが遠のいていく。東屋のテーブルに置いた空き缶を手に、芳音がゆらりと立ち上がった。

「俺ってさ、いっぱい人を殺した、やくざの息子だったんだ」

 とうそ臭い言葉を、真顔で口にした。

「……な、に、言ってるの?」

 紅茶を飲んだばかりなのに、喉がカラカラに渇いていた。

「克美のやつ、それを知ってても、それでも辰巳との繋がりが欲しかったんだって」

 芳音の右腕が宙に円を描く。その先から赤い缶が放られ、ゴミ箱の縁を強く叩いた。

「辰巳がたった独りの家族だから、って。辰巳もバカな親父で、行って“来る”なんて期待持たせて死んじまって」

 彼は、いつか映画で見た生ける死人のようなおぼつかない足取りで、ゴミ箱に入り損ねた空き缶を拾いに行った。

「辰巳が自分と俺を暴力団から守るために死んだってことを、あとから知って。克美……壊れちゃった」

「……」

 芳音が嘘の下手なぶきっちょだと知っている。そんなドラマの脚本みたいな話をにわかには信じがたいけれど、多分、嘘じゃない。望のそんな根拠のない自信が、笑って濁す言葉を紡ぐことさえ許さなかった。

「のんは、気づいてなかっただろう。俺達が見た、ホタと克美の……あの時、もう克美は半分壊れちゃってたんだ」

 彼は身を屈めて手に取った空き缶を、ゴミ箱の真上に掲げてこちらを振り向いた。

「だから、自分からなんて連絡出来なかった。俺、のんの家族になる資格も、普通の暮らしってやつに憧れる資格もなかったんだ。いろんな人の犠牲の上になりたってる癖に、それってわがまま過ぎるだろう?」

 そう言った芳音の声と、彼の手から離れた空き缶の鈍い音が重なった。


 一陣の風が突然起こり、公園の桜と望の髪を舞い上げた。荒々しく頬を撫でた髪に釣られて天上を仰ぐ。散り始めた桜たちが望をなだめるように降り注ぎ、栗色の髪を彩った。

 ふと急に、懐かしい温もりが頬に宿った。気のせいだと解っているのに、華奢な細くて白い指が、愛しげに望の頬を撫でたように感じてしまう。

 ――素直じゃなくて、自分のことが嫌いになっちゃう年頃なのよね。

 映像から語られる、天使の微笑が脳裏を過ぎった。

 ――でもね、のんちゃん。大切な人を失いそうな時は、そんな自分をぐぐっと抑えて、ちゃんと自分の素直な気持ちを、伝えないと、ダメよ?

 ほんのりと頬を染めた翠が十四歳の望に宛てて、そんなメッセージを遺していった。どんなにあとで悔やんでも、大切な人につけた傷は、一生消えてくれないから、と。

「……芳音」

 からからになった喉の痛みを堪え、絞り出すように名を呼んだ。

「さっき、助けてくれたでしょう? 普通、他人だったら見て見ぬ振りして通り過ぎるものよ。姉貴って言ったよね。資格って、何? 誰がそんなことを決めるの? 誰にそんなことを決めつける権利なんか、あるの?」

 風が、さやりと、凪いだ。口角が勝手にゆるりと上がる。自分に都合のいいその思い込みが、望に苦笑を浮かばせた。でも今は、その思い込みにさえ縋りたい自分がいた。

「俺が、そう思ってる」

「どうして?」

 そう問いながらバッグを肩に掛け、音を立てずに立ち上がる。

「さっき、ガチで北城をぶッ殺してやろうかって、思った。初めて誰かをそんな風に見た。どう頑張っても足掻いても、結局辰巳の血が混じってる。さっき初めて、そう思った。なんか、そういう自分が、すっげえ今、怖い」

「全部……聞いてたの?」

「……聞こえてた。……風下、だったし」

 申し訳なさそうに答える彼の傍へ、ゆっくりと一歩ずつ近づいた。気分はまるで、毛の逆立った手負いの野良猫をなだめようと気遣う心境だ。

「じゃあ、私も芳音のお父さんの子ってことになるわよ?」

 気づいたら、口にしていた。望の湿っていた両のまつ毛も、いつの間にかすっかり乾いていた。

「そう思った自分が怖くて、脚がすくんだわ。この私を脅すなんて、って。どうしてやろうかって、はらわたが煮えくり返った」

 俯き加減だった芳音の面が少しだけ上がる。ようやく見えた表情は、驚きとも困惑とも言える複雑な色を浮かべていた。それに一瞬だけ怯んだが、近づく歩みをとめなかった。

「ねえ、私もあなたも、誰かの何っていう前に、私は私、あなたはあなた。そうじゃないの?」

 風が、あと押しをする。望は大きくその風を吸い込んだ。

「そもそも、約束のしかたが間違ってたのよ。家族に“戻ろうね”なんて」

 ゼロに近い距離まで近づき、顔を背けて髪で顔を隠す芳音の横顔をまっすぐ見上げて断言した。

「最初から、ずっと家族なのよ。芳音がさっき、自分自身でそう証明したんじゃないの」

 勝ち誇ったように微笑んでみる。翠の言葉を信じてみる。

「それとも、お金をもらえば簡単にそういうことが出来ちゃうお姉さんは、もう要らないってことかしら」

 もし芳音がそのことで傷ついたのだとしたら、その傷にガーゼをあてがうのは自分の役目だと思った。嫌われるのが怖いから逃げる、そんな無様な自分など許せなかった。

「違うっ」

 やっと望の方へ向けられた顔は、懐かしいくらいよく見た顔で。

「じゃあ、もう二度と屁理屈をこねて私から逃げようとなんか、しないで。私も、もう二度とあんなことは、しないから。失望したなら、自分のせいにして逃げるなんてことしないで、はっきり言って」

 厚かましいと思いながら、それでも自信ありげに命令する。バッグから取り出したハンカチで濡れた彼の頬を拭いながら、また苦笑を浮かべている自分がいた。

「昔っから芳音は、すぐ人の気持ちや話に流されちゃうんだから。そんなの全部、過去の話じゃないの。芳音が悪いわけじゃない。芳音自身が何か悪いことをしたわけじゃないでしょう? 全部独りで抱え込まないで、これからは、せめて私には話してよ。たったひとりの」

 続く言葉が、なぜか詰まった。

「……同い年の、家族、なんだから」

「……うん」

 芳音はそう言って、左の口角だけを引き攣れるように少しだけ上げた。彼の瞳に映る自分の口の端も、似たような笑みをかたどっていた。


 ベンチに戻って、ふたつの携帯電話を近づける。『送信が完了しました』という文字を見てにやりとしてしまう。

「やっとこれで、またいつでも話せるね」

 芳音は返事の代わりに、コツンと自分の額を望のそれに押し当てて来た。

「今日はタイムアップになっちゃったけど……帰ったらメール送ってもいい?」

 あまりにも消えそうな声で不安げに訊くから。

「ダメなら最初っから交換なんてしないわよ」

 と、わざと大きな声できつい言葉を返してやった。また無駄な負けん気を出して、元気な声で言い返して来ると思ったのに。

「ありがと……のん」

 くっついた額が離れなかった。芳音の吐息がかすかに望の鼻先をくすぐった。不意に懐かしくて優しい温もりが唇に宿り、胸がツキンと痛くなった。

 それは、食らい尽すような欲にまみれた汚いイメージではなく、あくまでも昔から何度も癒してくれた、“家族”の印。

「……すき」

 諦め切っていた言葉と気持ちを、突然贈られた。醜い自分の一部を知ってもそう言ってくれるのは、嬉しいことのはずなのに。

「……ありがとう。私も、すき」

 昔から何度も交わして来た、ライク、という意味の、すき。どこか物足りなさを感じている自分を嫌でも思い知らされる。芳音の純粋に嫉妬する。自分がひどく穢れた存在と打ちのめされた。

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