会いたい人 2
十ヶ月ぶりに訪れた高千穂の間がある四十八階に辿り着くと、芳音は自分でも驚くほどの変化を漂う空気から感じ取れた。
「ホントだ。寒くない」
前回訪れたのは夏だったのに、それでも何度か寒気で肩を震わせた。今は日中とは言え春先だ。あのときよりも気温が低いはずなのに、当時のような冷気や湿った不快感を刺激されることがない。
「だろ?」
「はい。それに、エレベーターもエラーしないでこの階に停まったし」
そして高千穂の間に施錠はされておらず、両開きの重厚な扉が客人を待ちかねたように全開にされた状態で三人を待っていた。不意にそこから空気の流れを感じる。風と呼ぶには弱過ぎる流れ。それが芳音の頬を撫で過ぎてゆく刹那、くすぐったいぬくもりを残していった。
(空調が機能するようになったんだ)
ぼんやりとそんなことを思っていたら、
「ああ、そっすか」
と、GINが唐突に呟いた。
「へ?」
間抜けな芳音の声を聞いて、深緑の瞳がゆるい弧を描いた瞼の奥で微笑んだ。
「キミひとりで行っておいで。俺たちはここからのサポートで充分らしい。息子クンと差しで会いたいんだって」
「……」
息子という単語を耳にした途端、返す言葉を失った。それが誰の代弁なのかさえ浮かんでいる自分が、我ながら可笑しくて笑えて来る。どこの三文芝居の下手な脚本なんだろう。そう思う一方で、信じてしまっている自分も存在していることに笑えた。
「もう血を見るのはイヤなんだけど」
都市伝説か怪談か、そんな疑いを捨て切れなくて無駄に足掻いてみたが。
「ホントは解ってる、って顔してるよ。感度いいもんね」
GINがおどけた口調で芳音の抵抗を難なく拒否し、そして零がそっと背中を押した。
「大丈夫ですよ。あなたが彼に“本当に望んでいたもの”を思い出させたのですから」
「本当に望んでいたもの?」
それは“彼”から直接聞きなさい、と零に軽く躱わされ、芳音はようやくホールへと一歩ずつ近づいた。
ホールの中に入ってみれば、もう以前のように突然景色が変わることはなかった。芳音は部屋の隅にある格納庫から椅子をふたつ取り出し、ホールの上座へ向かった。そこでふたつの椅子を向かい合わせに配置する。そのひとつに腰を落とし、ぼんやりと周囲を見渡した。
(えーと、どうしたらいいんだろう)
戸惑いながらも辺りを見回し、以前見たときとの違いを見つけては時間を潰してみる。シャンデリアは銃弾で壊されてはいないし、カーペットはむらのないベージュを保ったままだ。手入れの行き届いているのが一目で判る。芳音が用意した椅子も、前に来たときに見た光景の中にあったものとは違い、高級家具店で流通している、流行りのデザインのものだ。嵌め殺しの窓は、薄い角度で開けられている。締め切っていた前回に比べ、ホール内の空気がよどんでいない。
そして今座っているこの位置は、前回このホールを訪れた芳音が辰巳から名を呼ばれたときに、彼が立っていた場所だ。自分の父親、芳音にとっては祖父に当たる海藤周一郎に、銃弾が尽きるまで撃ち込んでいた場所でもある。
「たつ……親父」
ぽつりと、零す。海藤周一郎の命が途絶えた瞬間に見せた横顔を思い出して、顔がゆがんだ。
「くだらないことに命懸けちゃったな、と思ったんだろう」
芳音の方へ目を向けた瞬間に見せた辰巳の表情が、あれからずっと芳音にそう思わせていた。
「後戻り出来なくなってから気づいて、本当は後悔したんだろう?」
じっと見つめていたカーペットが、次第にその起毛のラインを曖昧にさせてゆく。
「だから、あの歌を流すと、来た人の前から消えたんだろう?」
あの歌――克美の好きなアーティストが歌う、『明日の風』というタイトルのほろ苦い歌詞の曲。芳音の物心がついたころには、子守唄代わりにしょっちゅう克美が口ずさんだり、そうでないときはCDで聴いて来た曲だ。
「かーなしい夢でー、寝不足ぎみーの僕がいーるー」
芳音まで空で覚えてしまったその歌を、小さな声で口ずさんでみる。
「鏡のなーかー、なーくした言葉ー、思い出せずに、朝は過ぎてーくー」
伸ばす音が意図せずビブラートする。どんな思いで克美がこの歌を歌い、そして聴いていたのか、今の芳音にはなんとなく解る。この曲の入っていたCDだけが、ほかよりも真新しいケースだった。
『んー、多分、辰巳が持っていったんじゃないかな、と思う。ベストで一番お気に入りのCDだったのに、あいつってばさー』
初回版にだけついている帯がない理由を尋ねたとき、克美はそう言って苦笑した。辰巳を思うときにだけ見せる、どこか遠い目で芳音ではない誰かを見つめながら。
――優しさの意味 はきちがえて いくつもの季節をやり過ごしてた
ありったけのこの声を届けて欲しい 君のとこへ
悲しみを残したまま 僕らは次の場所へもう踏み出してる
明日に向かう風が町を通り過ぎて
少しずつ変わっていけばいい
いつの日か この痛みが眠りにつければいい――
辰巳が数ある克美のCDからこれを選んで携えていった理由は、克美の思い以上に想像が容易だった。それが芳音の歌声を聴き苦しい震えたものにさせた。
普通から隔絶されていた不器用な両親は、お互いのことしか見えていなくて。自分のことなどまるで解っていないまま、何年も似非兄妹で過ごして来た。
気づいてからの辰巳の葛藤は、高木という戦友を叱咤したときの瞳で一目瞭然だった。
“ぬるいぞ、高木”
携帯電話を片手に、モニタに映った自分を諌めているように見えた。モニタに映った自分の中に、己の敵を見ているような。それはまるで芳音自身が、自分の中に辰巳を垣間見るような悪循環を思わせた。
そんな辰巳が貫き通して来たモノを、きっと克美の頑固なまでの一途さが、本音を隠した心の蓋ごと壊してしまったのだと思う。
「親父は俺と違って、女遊びが派手だったんだろ? 女ってしつこいほど一途だってことくらい、どうしてわかんなかったんだよ」
望と再会してから、彼女と心を交わして今のお互いを知るに従い、そんなことが解っていった。偉そうに言えるほど女性とつきあったことなどないけれど、少なくても芳音の周りにいる女たちは、漏れなく執着や愛着が強い。それがいいのか悪いのかは解らないけれど、芳音にとってはそんな彼女たちの心根は愛情に満ちている、と思う。
「時間が経てば、忘れられると思ったのか?」
辰巳の中に燻っていた克美への本心が。克美の中で育っていった辰巳への想いが。時の流れがそれらすべてを綺麗に洗い流してくれるとでも思っていたのだろうか。
「母さんがそんな器用なヤツだったら、とっくに北木さんと再婚してるよ。俺なんか邪魔にしかならなかっただろうし、あんたにここまでこだわったりなんかも、きっとしなかったと思う」
自分たちを捨てた、軽薄なヤツ。自分の婚約者だった人の妹に手を出した、卑劣なヤツ。中学三年の誕生日、事実を知るまではそんな風に思っていた――と、芳音はそこに辰巳がいるかのように、とつとつと自分のこれまでを語り続けた。思って来たこと、あった出来事、克美や北木や穂高を始め、たくさんの人に迷惑を掛けて生きて来たこと。多くの人の犠牲の上に立って、何も知らずに生きて来たという表現をした。その最たる犠牲が辰巳の命だと知ったとき、克美に自己主張をするのが罪に思えて出来なくなった。そう語り紡ぐ言葉が、次第に途切れ途切れになっていった。
「俺は、母さんが、心から笑える、そのときまでの繋ぎ、ってことかな、って、思ったんだ。母さんが、死んでる暇ないって、思えるように。あんたは、そういう意味で俺を遺して行ったのかな、って」
本来ぶつけるべき相手への恨み言をようやく口にする。はたはたと落ち続けている雫は、カーペットが優しく吸い取ってくれた。
「でも、無理。俺は、俺でしかいられない」
辰巳のような思い切りのよいことが出来ない自分を矮小で情けなく思っていること。
穂高のように、護るだけの力もない。
未だに克美や穂高からは、レアチーズケーキの合格ももらえない。
「あんたみたいには、なれない」
もう一度口にしたとき、堪え切れずにしゃくり上げた。
「母さんは、とんびを生んじゃったんだ。俺は、鷹になんか、なれない」
ひどく惨めな気分になって居た堪れなかった。ついには椅子の上で膝を抱えて背中を丸め、嗚咽交じりの言葉になった。
「のんと一緒に、生きていきたい。一緒に店をやる、って、ちっさな夢しか持てない。俺には、のんひとりしか抱え込めないし、それでいいや、って風にしか思えない。親父やホタみたいに、少しでも多くの人を、なんて、無理過ぎて、そういう気になれない……」
そんな自分の曲げられない思いは、また克美を犠牲にすることになるのだろうか。穂高の失望をいや増させるのではないか。それらが巡り巡って、望を不幸に陥れるものになるのではないか。
芳音は思いつくままに迷いや愚痴を零し続けた。相槌のひとつもない呟きの塊は、芳音に嫌でも気づかせる。自分の中で燻る本音を。自分の中に居座る短所や欠点の数々を。
失敗をしたくはなかった。もし自分が失敗したことに気づかないで過ごしていけるとしても、自分の選択が原因で誰かが泣くと思うと、こうと決めたり譲れないと感じたことすべてに、結局は二の足を踏んでしまう自分がいる。
その一方で、やはり一番欲しいモノは、今でも克美を載せた天秤の反対側に載せられない。克美とは別の意味で、“一番”だからだ。どちらも得たいという自分の強欲さを思い知る。
「なあ、本当は後悔してるんだろう? 今のあんたなら、もし俺の立場だとすれば、のんと克美、どっちを採る?」
ともに生きて克美を不幸にするか、別離を選んで克美の平穏を守るか、そのどちらかしか選べないと思い込んで逝ってしまった辰巳が「思うままに生きていい」と言うならば、少しは自信が持てるだろうか。そんな甘えた期待が芳音にそう言わせた。
「いっつもおんなじ台詞しか言わないじゃんか。よろしく、とか言われたって、無理だよ。一度くらい、ちゃんと俺の質問に答えてよ」
子どものように泣きじゃくって零す文句が、次第に恨み節へと変わっていく。
「なんで行って“来る”なんて、母さんを期待させるようなことを言ったんだよ。こんなとこで、何やってんだよ。自分で落とし前つけろよ。このまんまじゃあ、ずっと母さんの時間がとまったまんまなんだぞ。あんたはそんなの望んでなかったんだろ……なんとか、しろよ……」
――母さんを閉じ込めないで。思い出という名の過去の中から、母さんを助けて。
「俺じゃ、ダメなんだ。北木さんでさえ、ダメなんだ。誰もあんたの代わりなんか出来やしない。ホタが『Canon』は母さんを閉じ込めた鳥かごだ、って言うんだ。そんな場所にはしたくないんだ。だって『Canon』は……楽園の象徴、なんだろ? 俺も、そう思うから」
嗚咽混じりの訴えが無人のホールに吸い込まれてゆく。嵌め殺しの窓から吹き込む凪いだ風が、芳音を慰めるように優しく頬を撫でて通り過ぎていった。
(?)
一面のベージュだったカーペットの起毛が別の模様に変わる。涙でぼやけた視界が抱えていた膝の隙間からそれを捉えると、芳音は膝頭で乱暴に瞼を拭い、更に袖を使って両目をこすった。
(……)
言葉すら思い浮かべられなかった。クリアになった両目が見たのは、純白の革靴。それがカーペットの質感との落差を見せていた。視線を恐る恐るゆっくりと上げていく。自然と折り曲げていた膝が下ろされた。
真っ白なスーツのジャケットから覗くのは、どう見ても明後日な方向にしか見えない、その取り合わせを決めた者のセンスゼロを確信させる色のネクタイ。臙脂の基調に、深緑の刺繍で昇り龍がかたどられ、その下に合わせて着ているシャツは、限りなく黒に近いグレー。ただでさえ白のスーツは合わせる色が難しいのに、濃い色同士の取り合わせがより過剰な自己主張を際立たせていた。まるで白いキャンバスの中で、原色が喧嘩をしているようなちぐはぐさだ。
そんな間抜けな感想でも浮かべていなければ、その更に上へ視線を向けるだけの勇気が出せなかった。
一度も眠気や意識の飛ぶ感覚は襲って来なかった。GINがホールへ入って来て催眠か何かを掛けた、という可能性も考えたが、そういった記憶も気配もなかったはずだ。何よりも五感がはっきりとしている。前回味わわされた恐怖心が、芳音に現状把握を怠らせていなかった。なのに、“存在していないはずの人”が目の前で芳音の向かいの椅子に腰掛けていた。
《芳音》
左右非対称にゆがめた口角はきっと、彼なりに苦笑をかたどっているのだろう。肩の下まである黄金色の髪は、映像で見るよりもはるかに傷んでいた。まるで彼が自分の代わりに自分の髪を痛めつけているように見えた。
涼しげな目許がひどく困ったように細まっているのを見て、魔法の鏡で未来の自分を見ているような錯覚に陥った。同時に、テレビに映っていたころの穂高の作り笑いが脳裏を過ぎった。
《ごめんな。克美やお前さんが、そんな解釈をするとは思ってもみなかったんだ》
さわり、と、また風がそっと空気を動かした。芳音は自分の頭上から影が落ちたのを感じた。次の瞬間、薄暗い感覚が視界いっぱいに広がった。
《お前さんの言うとおりだよ》
声の導くままに抱えられた頭を動かし、おずおずと頭上を見上げた。
《誰かが俺の代わりになんて、無理な話だよなあ》
そう言って微笑む両の目は、グリーン・アイズではない。彼自身が持っている明るいこげ茶色の瞳だった。
《だからお前さんは、お前さんとして生きていいんだ。自分の望むままに、自分らしく》
突然現れた彼は、そう言って芳音の前髪を掻きあげ、そして慰めるようにくしゃりと撫でた。
《克美に似たな。そういう自虐的な思い込みも、泣き虫なところも》
大きく見開いた芳音の瞳いっぱいに彼が映る。
《あは、でも克美、でかしたなー。お陰でとんびのダメ親父が鷹の息子をゲット出来ちゃった》
おどけた口調でそう告げる声は、録画を通じて聴いたときの芳音自身の声によく似ていた。だが芳音よりも、ずっと穏やかで落ち着いたバリトンの声。その声が、ゆっくりとくぐもっていった。
《芳音。ありがとうさん。お前さんが訪ねてくれたお陰で、俺が誰だったのか、なんのためにいつまでも還らなかったのか、思い出せた》
あり得ない出来事なのに、確かな手の質感が再び抱き寄せられた頭に感じる。これは自分の夢か、無意識に内在している願望か何か、自分の作り出した幻影だと思う自分がいるにも関わらず。
「……ッ」
抱き寄せた彼の胸を借りて、何度も拭うのに。芳音は拭ってはまた零れて来るものをとめることが出来ずにいた。リアルを感じさせる自分の五感、その中の嗅覚が、彼の漂わせるコロンの銘柄を当てていた。
(これ……北木さんのと、おんなじ香りだ)
不意に北木の寂しげな微笑が脳裏をよぎった。あの微笑の意味を初めて理解する。彼は芳音に諭す一方で、彼自身が辰巳の代わりであろうと演じ続けて来たのだ――克美の心を砕かないために。
《ごめんな。独りで抱え込ませちゃって》
芳音の夢の中にさえ一度も現れてはくれなかった人が、確かな存在感で芳音を包む。いつからそれを諦めたのかももう覚えていない。だが今この瞬間思い出した。夢の中ででもいいから、もしも会えたなら絶対にそうしようと決めていたこと。
「……の……ッ」
彼の背に腕を回し、ジャケットに皺がつくのも気にせず思い切りしがみつく。体重の任せるままに、思い切り寄り掛かる。
「……か、やろう……ッ」
悪態をつく中、バランスを崩していく。
《お?》
間の抜けた頓狂な声が、やたら心地よく響いた。椅子から崩れ落ちていく中、芳音はまるで護られて当然とばかりに、下になって自分を庇う彼に身を委ねていた。
《あっぶな。お前さんね、あんま身長差がないんだから、いきなり》
といきなり小言を述べる彼の言葉を遮った。
「こンのクソ親父! 大バカ野郎ッ!!」
その叫び声には、積もり積もったさまざまな感情がこめられていた。




