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先制攻撃 2

 泰江の部屋から出る直前までの穂高は、芳音たちを問い質すつもりでいた。

 週末とはいえ、学校があったはずだ。学校からまっすぐ帰ったとしても、夕刻の現段階でこんなイタズラを仕掛ける下準備の時間があるなんてことはあり得ない。それに望が漏らした“課題”とはなんなのか。少しだけ毛色の違いそうな無言のふたりは誰なのだ。そして何より糾弾すべきは、年ごろの娘が、しかも親に堂々と将来がどうこうなどとご大層な宣言をかました相手の家に泊まる、だと?

 それらの言質を取った上で、「大人をからかって遊んでいる暇があったら、今から進級試験の勉強でもしろ、どこの親も無駄に学費を出しているわけじゃない!」と一喝する予定だった。


 最初に下手を打ったのは、この大人数だ。八人乗りのエレベーターに、並外れて背の高い穂高と芳音が重量オーバーの原因となった。

 ふたつめの敗因は、クソガキどもが逃げ出さないよう、自分がエレベーターに載る順番を最後にしたこと。芳音と君塚はそこまで計算していたのだろう。警告ブザーが鳴ると同時に穂高と泰江を押し出した。

「なっ」

 つんのめる穂高の背後から、久し振りに聞く機嫌のよいアルトの声が生意気に命じた。

「プレゼンターが優先よ。ふたりはあとから来ること。じゃ、ごゆっくり」

 慌てて振り返ると、やはり久々と感じる娘の微笑を一瞬捉え、あまりにも屈託のない素直な表情を見た穂高は咄嗟に言葉を失った。そしてその笑みは、穂高が何も言い返せないでいるうちにエレベーターの扉に隠されてしまった。

「……泰江、お前やっぱり子どもらとグルやろう」

 いきり立っていた自分がバカバカしくなって来て、憤慨が幾分か萎えた。泰江を問い質す声には、そんな内心がありありと滲み出ていたらしい。

「だって、のんちゃんたちのお誕生日プレゼントがすごくステキなんだもの」

 そう答える泰江もまた、嬉々とした声でまあるい笑みを浮かべている。何かと意見の食い違いが多かったこのごろでは滅多に見られなくなっていた顔だ。思い返せば、今日は泰江も朝から機嫌がよかった気がする。

 なぜエントランスで気づかなかった。昇っていく階層表示ランプを忌々しげに見上げながら、穂高は己の鈍さを激しく呪った。

 それからようやく最上階へ辿り着いて玄関の扉を開けた瞬間、完全に彼らの先制攻撃に敗北した事実を痛感させられた。

 ふわりと漂って来た香ばしい匂いは、ハーブを用いた肉料理だろう。リビングから零れる光は照度を調整されて、日ごろよりも柔らかなオレンジ色で満ちている。外で散々クリスマスソングばかりを耳にしていただけに、慎ましやかに流れるバロック音楽は穂高の耳と心を少しずつ癒していった。泰江を伴い奥へ進んでみれば、娘三人がふたり分の配膳をしているところだった。男子学生たちはキッチンを占拠し、ひとりはオードブルをカウンターに並べ、娘たちに配膳を指示していた。もうひとりはオーブンを覗き込み、そして穂高のよく知る残りのひとりは、慎重な面持ちでミルクパンの中身を丁寧な手つきで攪拌している。その横顔が不意に上がり、そしてこちらへその視線を傾けて来た。

「ホタ」

 こちらの気配に気づいて呼び掛けて来た芳音の目を見て、そこでようやく気がついた。いつの間にか一人前の顔をするようになった。鍋の中を凝視する瞳に違和感を覚えたのは、今こちらに向けている視線とはまるで違い、緊張感が漂う真剣な眼差しだったからだ。

「プライベートでは気の合う人としか食わないんだろう? まずい飯にはしないから、口をつけてやってよ。俺だけで作ったものじゃないから」

 そう言って浮かべられた苦笑に、内心で舌打ちをさせられる。ここで人の言葉の揚げ足を取る幼稚な負けず嫌いは、若気の至りと断言してもよい愚かな虚栄心が起因する。若いころの自分も年長の者から、さぞかし影でそう思われ苦笑されていたことだろう。順繰りだ。

 穂高は半年以上も前に自分が放った失言をほじくり返す芳音に

「お手並み拝見させていただきましょか」

 と軽口を返すだけにとどめた。精一杯対等に見ろと誇示しているのだ。調理――仕事に面していたときの芳音の姿勢は、彼の意向を少しは汲んでやってもいいと穂高に思わせるものだった。悪友どもを巻き込んだ理由が少しだけ解ったような気がした。

(今更ほかの連中と同じように、自分のことも距離を置いて見ろ、ってか)

 苦々しい思いで笑んでみれば、頬が軽く引き攣れる。こうも外堀を埋められていたら、完敗を認めざるを得なかった。だが、今日の出会い頭に溢れ返った不快感は随分と軽くなっていた。




 オードブルのカルパッチョまでは娘たちの給仕だった。望が友人たちと交わすやり取りを聞いたり、また友人たちから直接日ごろの望を知らされたり、なかなか父親気分を満喫出来る時間ではあった。

 常々泰江から報告として聞いてはいたものの、直に娘たちが交わす言葉を聞いてみて、初めて泰江が「信用してあげて」と言った意味を理解した。知らずに望やその友人たちを個として受けとめず、メディアなどから聞くステロタイプな十代の在り様になぞらえた偏見で見ていたのかも知れない。

 それは望の友人たちに対してだけでなく、芳音やその友人たちにしても同様だ。先に“悪友”“クソガキ”と言った単語をあげつらった自分の偏見に軽く落ち込んだ。

 男子勢の手が空くと、女子勢の面々は泰江の部屋にあるキッチンで待機させているデザートをデコレートして来ると言って出て行った。

 今夜のディナーという名の贈り物は、純粋にプレゼントというだけではないらしい。望たちに代わってワインやメインディッシュの給仕を始めた三人は、口々に今日のメニューについての意見を求めて来た。

「俺はこちら方面にまったく疎い素人でしかないねんけど。貴美子さんの方がよほどいいアドバイザーになるんと違うか?」

 確かに穂高の経営する渡部薬品は、クガフーズとサプリメントの共同開発をしている。だが、味などについては食品分野に精通している貴美子のほうが、市場で受けている傾向などの情報も含めて穂高よりも適任だ。そう思っての打診だったが、芳音にはあっさりと却下された。

「うん。でもプロの判断はもう解った、っていうか」

「貴美子さんは何もアドバイスをくれなかった、ということか?」

「ううん。相談はしてない。実はこれ、今回のコンペで特別賞どまりだったメニューなんだ。つまりプロの審査員から見たら、この程度では評価出来ない、ってことだろう?」

「どまりって、新参で最優秀狙いやったんか」

 本気で悔しげな表情を浮かべる芳音に呆れてしまい、ついそんな言葉が口を突いて出た。

「これまでの最優秀作品を遡って調べてみたら、和風ベースの創作ってなかったんですよ。ターゲット層を健康志向の女性に、っていう割と平凡なテーマにしたんで、レシピそのものを斬新に、と思ってこのメニューで揃えてみたんですけど。自信はあったんだけど、ダメでした」

 と苦笑交じりに補足したのは君塚だ。それに続いて調理中オーブンを担当していた寡黙な子が、初めて自己紹介以外の言葉を口にした。

「コンペでは、その、海のものばっかり僕が選んでしまったせいで、飽きられちゃったのかな、とか、その、思って」

 おずおずと述べたこの子は、確か佐藤と言っていたか。彼はどうやら緊張症らしい。何度もどもったり言葉を言い替えたりしながら、今日はその反省を活かし、コンペでは魚三種の味比べだったメインディッシュを低カロリーな皮無鶏肉の香草焼きに変更したと説明してくれた。

「佐藤くんは、最優秀を逃した理由のすべてが自分ひとりの責任だと思っている、ということか?」

「は、ははははい」

 穂高からの声掛けにひどく緊張したらしい。どもる彼を怯えさせないよう、出来るだけ柔和な笑みに務めて彼を直視した。

「それは芳音や君塚くんに、ある意味で失礼な考えだと思うぞ? この面では敵わんと思ってるからこそ、ふたりは君の案に同意したと思うが。少なくても君たちの年のころに俺が共同作業に当たるときは、そういう考えでモノを作っていた。結果はよくも悪くも、自分ひとりのものではない。それが共同制作の基本だ」

 まったく世話の掛かる、と頭の中で苦言を浮かべつつ、懐かしい思いで口許がゆるむ。前職だった建築設計の職場で佐藤と似たような仲間がいたのを思い出した。同期だったその仲間とのくすぐったいやり取りまで思い出し、穂高の面に気恥ずかしい苦笑いが浮かんだ。

 どうせ佐藤も身内びいきと受け取り、芳音や君塚の意向を歪曲させて受けとめていたのだろう。芳音たちには巧いこと利用された体にはなるが、それはそれで人生の経験値が高い者として認められたのだと解釈すれば、決して不愉快なことではない。

「君の責任感は評価したいところだが、今回についてだけは三人で分け合って、今後に活かしてみたらどうだ?」

「は、は、はい! あ、ありがと、ございました!」

 そう言って佐藤は、初めて目許までゆるむ笑みを見せた。仲間からも同じことを言われたのだろうが、仲間だからこそ信じられずにいた部分なのだろう。第三者の言葉で初めて救われる場合もある。モチベーションを取り戻し始めた佐藤を見て、穂高の微笑も自然なものへと変わっていった。

「で、審査結果の詳細は知らされないのか?」

 特に誰と特定せずに尋ねると、君塚がバトンを受け取った。

「各項目の個別評価と総合得点、総評として審査員全体からのもので内訳は全部でしたけど」

 続いて芳音が補足する。

「佐藤の言ってた“飽きた”ってのは確かに選評にも書かれていたけど、それは納得出来なかったんだよな。そこまで同じ食材や似た味付けにはなってないだろ?」

「ふむ……審査員の肩書きなどは?」

「うちの理事と、大手飲食チェーンの社長何人かと、あと料理研究家とかいうオバサンと、それから」

「ああ、了解。なんとなく、大体理解した」

 要は芳音たちの世代よりもはるかに年上だ。高齢期に入っている評論家もいたと思われたので、年齢や具体的な諸々を聞けば、穂高の推測がほぼ確信に変わっていった。

(くだらんプライドっつうか)

 噛み砕くには高齢だと少々難儀するタコという食材。喉が細くなっているため、鯛の骨抜きに信用を置けなければ神経を使って食事そのものを味わえない。健康を意識したので、繊維質が豊富なごぼうを使った添え物も敗因だろう。そういった辺りの推測を「あくまでも素人の要望に近い私見だが」と前置きした上で述べてみた。

「あ、そっか」

「ちょっとコンペに意識が向き過ぎて」

「審査員イコールお客さまって意識が薄かった、かも」

 適当に思いつくままに告げた私見をこうも素直に肯定してしまうのかと呆れるほど、三人は穂高の推測をあっさりと受け容れた。

「講評とはいえ、結局は主観の話やさかい、自分の老いをさらけ出すような選評はよう出されへん、言うところと違うかな。意外と小物を審査員に揃えたコンペやな」

 穂高がそう締めくくると、それまで傍聴に徹していた泰江がナイフとフォークで食事終了をかたどり、両の手を合わせた。

「ご馳走様でした。タコのわさび風カルパッチョ、私はこれが一番のお気に入りだなあ。今まで食べたことのない味だし、食欲のない時期でも美味しく平らげてしまいそう。すごいね、ないものを生み出せちゃうなんて」

 励ましや慰めの混じらない素朴な感想ほど、自信をへし折られていた三人を力づける言葉はない。泰江のひと言を聞いた途端、ぱぁっと明るい表情に様変わりした三人の顔を見て、そう思った。


 それからそう時間を置かずに、デザートが並べられた。こちらはシェフやパティシエールたちも同席するらしい。

「誕生日プレゼントと違うんかいな。なんでお前が一緒になって食ってる」

 望にそんな皮肉を零せば、

「私は食べるのが好きだから作るってタイプなの。自分の口に入らないなんてつまらないでしょう」

 と可愛げのない、しかし望らしい照れ隠しの言葉が返って来た。

「デザートは飯を食ってからだとしつけて来たつもりなんだがな」

「芳音たちの下準備を手伝っている間に、ちゃんと味見でおなかを膨らませたもの」

「望、それ、味見って言わないよ」

「百花だって一緒に食べてたじゃないの。肩を持つ相手が間違ってる!」

 笑いで部屋が満たされる。プチケーキとジェラートの盛り合わせ、という贅沢な量の味比べデザートに舌鼓を打ちながら。どれも小さな望と芳音が大好物だったスイーツで、よく克美が作っていたり、東京では美味い店があると聞けば買いに走ったものだ。そんな遠い記憶を思い出させる甘さを伴って、口の中で心地よく溶けていく。

「あ、パパ。それとね、私、来年度の選択専攻科目をパティシエじゃなくてマネジメントにしようと思ってるの」

 望がそう言って笑みをかたどるものの、どこか苦々しげな表情になるのは、ティラミスの苦味を口にしたせいだけではないだろう。

「夢とやらは諦めたんか」

「ううん。ティラミスは私が作ったんだけど、これを食べてみたら解るでしょう? マニュアル人間どまりだって痛感したの。あくまでも私の理想は、おなかも気持ちも満たしてくれる“食事”だから。そっちは芳音に任せて、デザートはおまけのスタンスで。芳音はお人好しが過ぎるから、私がマネジメントを勉強してきっちり締めていく役割を受け持とうかな、と思って」

 パパが大学の経済分野の学部を薦めた理由がやっと解ったと言われれば、そして彼女の吹っ切れた表情を見れば、その決断が卑屈な気持ちからではないとよく解る。

「さよか。ほんならまた保護者の同意が要るんやな。書類に目を通しておくさかい、もらったら書斎のデスクに置いといて」

「ありがとうございます」

「ってことは、河野さんとはクラスが変わることになるんやな」

 せっかく望に友人が出来たのに、それは少し残念だ。今の若者は、共有する時間を失うことが、そのまま存在の消失に直結するらしいとよく耳にする。だが。

「そうですねー。でも学校がすべてじゃないですし、これからもお邪魔しまっす」

 河野百花というこの娘は当たり前のようにそう言って、穂高の懸念を簡単に掻き消してくれた。

「泰江に断りを入れた上で遊ぶのであれば、いつでもどうぞ。ただし今日みたいにサボって溜まり場にするのは厳禁」

 なかなか個性的な子どもたちについ苦笑が浮かぶものの、一応けじめとして全員にそんな釘を刺した。少々おどけた口調ではありつつも、それぞれが素直に「はーい」と答える辺り、今どきの若者らしいこちらへの配慮、というか適当にあしらう様子が窺えた。


 友達なんて、その場だけ波風立てずにやり過ごす程度の存在。中二のあの事件以来、そう言って人を家に呼ばなくなり、友と呼べる同世代を失くした望が笑っている。細かいことを気にせず、大口を開けて豪快に笑う裏表のなさそうな好感の持てる同級生と笑っている。物怖じしている内気な友人には、さりげなく話の輪に加えて居心地をよくしてやる心遣いも窺えた。いつの間にかたくさんの成長を実感させてくれる望が、そこにいた。

 半年以上もの間、どう接触を試みようかと考えあぐねていた似非息子と、気がつけば以前と変わらない口調で話せる今を手に入れていた。そんな彼もまた思春期のころに荒れていたと聞いている。独りで見知らぬ土地に来て、望への依存を恋心と勘違いしているのではないか、と思った時間もあった。だが、少なくても独りではないらしいと知ることが出来た。お調子者で口のうまい、だがよくも悪くも賢い友人と、素直で優しく、だけど少し自分を過少評価し過ぎな友人。彼らはそれぞれ、どこか芳音と重なる部分を持っている。互いを鏡として見合いながら、無意識に己を磨き合っているのだろう。友人たちのことは正直そこまでは知らないが、この半年の間で、芳音は君塚の柔軟さを学んだのだろうし、佐藤は芳音の影響から諦めずに突き詰めることを学んだのだろう。


 穂高はデザートについての考察を交し合う未来の料理人たちをそんな思いで見ていたが、隣に席を移動していた泰江の耳許へそっと囁いた。

(なあ、こいつらからの誕生日プレゼントって、もしかして目に見えないほうのヤツのこと?)

 例えば芳音の妥協とか。望が心の垣根を取り外した素振りとか。

 穂高のそんな問い掛けに、泰江はやはりいつものように、嬉しげなまあるい笑みを浮かべた。

(そうみたいだねえ。パパさんも、そういうものの方が嬉しい人だってことを、のんちゃんや芳音くんは解っているんだね。なんか感動しちゃった)

 パパさん“も”という彼女の言い回しにだけは、少しだけ不満が残った。ついと視線を逸らし、デザートへ逃げる自分がいた。

 目に見えないモノばかりを欲しがる欲張りなもう一人とは、とうの昔に目の前から飛び去った、傷だらけの天使を指していると解ったから。

(ないものねだりのウザいおっさんで悪うございました)

 泰江に返した慇懃無礼な謝罪が、八つ当たりに近い言い草になってしまった。




 夜の十時を回ったころ、結局穂高は皆が芳音のアパートへ泊まる話に許可を出すこととなった。調理師専科の面々は、今日の一連をレポートにして講師へ提出するらしい。忘れないうちに穂高や泰江の述べた私見もレポートに盛り込みたいそうだ。その間に女性陣は、若人だけのクリスマスと、四日後に控えている芳音と望の誕生日を祝う席の準備をするとのこと。年明けには、和・洋・中三段重ねの創作御節の自主制作課題を提出するので、いつまでもコンペ作品の改善という課題に取り組んでいる暇はないらしい。

「熱心なこって」

 半分ばかりは心からの本音、もう半分は、待ちぼうけを喰らってばかりと見受けられる女性陣たちへの同情が混じった意味合いの言葉だった。君塚の彼女とやらが場違いな自分と自覚しつつも同席した心情を想像すると、根は真面目な子たちでもあるし、まあいいか、と気が変わった。


 エレベーターホールまで六人を見送った。

「芳音」

 穂高は最後に載るつもりで最後尾にいた芳音の腕を取り、耳許に口を寄せた。

(折りを見て訪ねるよう克美に伝えておけ。俺と会うのが面倒であれば、泰江に諸々を預けておく)

 もちろんそれは“交際の許可”ではなく、その前段階として向こうの親がどういう意向でいるのかなどの話し合いが目的だ、ということも伝え添えた。

 芳音は逃げるように穂高と距離を置くと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔でしげしげと穂高の顔をまともに見つめ返して来た。ぽかりと開いた口が少しずつ閉じてゆくと、次第にゆるりと小憎たらしい笑みをかたどる。

「……わかった」

 芳音の口から漏れた小さなそれに、エレベーターの到着音が重なった。それぞれが穂高と泰江に簡単な挨拶をしてエレベーターに乗り込んでいく。最後に背を向けた芳音がこちらを振り返ったかと思うと、穂高の腕を取って自分の方へと手繰り寄せた。

「ホタ、だから自分らのことも許せって意味じゃないけどさ」

「は?」

 呟くように告げられた謎の言葉に、つい間抜けな声を漏らす。それを受けた芳音が、くつくつと笑いながら耳許に囁いた。

(十三年前にあった、ホタと克美とのこと、克美にデバガメしてたのをゲロったら、“泥酔の黒歴史だ、穂高と泰江に悪いことした!”って悶絶してたし、その件は赦してあげる)

「!」

 それはこの夏に穂高が望からも糾弾を受けたことがらだ。ふたりが情報を共有している可能性の有無など、今更な話だと痛感させられる。咄嗟に穂高の右手が拳をかたどり、思い切り大きく振り上げられた。が、あと少しというところで芳音に逃げられる。

「こ、の……ッ」

「自分と俺らを一緒くたにしないでねー。じゃ、一時ごろには戻るつもりだから。行く前に連絡するっす」

 邪魔しないからごゆっくり、という生意気且つ小っ恥ずかしい捨て台詞に一矢報いることも出来ないまま、芳音たちを載せたエレベーターは彼の肩を持って下へ降りてしまった。

「パパさん、一緒くたって、なあに?」

 と、素で解っていないことを知らしめる口調で尋ねる泰江の方を振り返ることが出来なかった。

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