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高く、厚い壁 2

 貴美子の強行により、“新たな友人たちと親睦を深める”という芳音の権利はあっさりと棄却された。気づけば半ば拉致に近い形で、タクシーの後部座席に押し込まれていた。

「何逃げてるのよ。人よりデカい分、コソコソしてるのがバレバレだったわよ」

 隣からそう詰め寄る貴美子の口調が尖っているのは、タクシー内が禁煙だからに違いない。芳音は自分にそう言い聞かせて、怯む気持ちを奮い立たせた。

「べ、別に逃げてないし。コソコソしてないし。た、ただ」

「ただ?」

「俺の知人だなんて思われたくなかっただけ」

「なんでよ」

「もうすぐ赤いちゃんちゃんこな年齢の人がここまでケバ」

「余計なお世話よっ」

「あだっ」

 ゴツンという鈍い音が、芳音の脳内にだけ轟いた。

「それに、その言い訳はダウトっ」

 結局貴美子は、芳音に最後まで言い訳をさせなかった。

「どいつもこいつも、口に出さないで影でグジグジと。みんなして中途半端に態度に出すから、見てるこっちが苛々するわ、まったく」

 と、毒舌ばかり吐く貴美子だが、翠と養子縁組をしたことで義理の母親という立場にある彼女に逆らう度胸はない。つまり、望から見れば義理の祖母に当たる人だ。貴美子のキャラクターを考えると、確かに祖母とは思えない若さと柔軟な思考回路をしている。

 だが、芳音が彼女に逆らえないのは、個人的なそういった理由からだけではない。伊達に四十路から起業して成功を収めているわけではない、と納得させる観察眼が芳音に足掻くのを諦めさせる。それは今回も例外ではないらしい。芳音は大袈裟な溜息をひとつつくと、シートに深く身を預けてくたりと頭を下げた。

「ごめんなさい。……貴美子さん、のんから何か聞いてる?」

「別に。でも、あんたたちを見てればね、色々と解っちゃうものなのよ。この年になると」

 彼女はそれだけをポツリと返し、長い爪の先を芳音の顎に食い込ませた。くいと爪を食い込ませたままの顎を引き上げられれば、必然的に貴美子とまともに視線を合わせる格好になる。

「ほんッと、辰巳と瓜ふたつなのは面構えだけね。中身はまだまだお子さま。逃げても始まらないでしょ。ちゃんと、向き合いなさい」

 貴美子が芳音へそう言い含めると同時に、目尻の上がった鋭い目つきを和らげ、苦笑混じりのゆるい流線を目の縁で描いた。

「……別に、俺は辰巳みたいに貴美子さんから逃げたわけじゃない」

 不貞腐れた小声で言い放ち、手の甲で軽く貴美子の手を払いのけた。

 貴美子はいつも“生涯現役”を豪語する。そんな彼女の傍らには、今でも常に年若い恋人がいるらしい。そんな生き方にさせたのは、辰巳だ。彼が貴美子から逃げては都合のいい時だけ利用して、そして克美を押しつけたに等しい。その罪悪感が、不器用な形で芳音の口から零れ落ちた。

「貴美子さんは辰巳を買いかぶり過ぎだよ」

 堅苦しいスーツに限界を感じていた。芳音の手が無意識にネクタイをゆるめ、さほど締まってもいない気道の確保に勤しみ出した。

「あら、そう? じゃあどうして友達とランチに行こうとなんかしてたのよ。こっちの方が先約だったでしょ。ほかの日ならともかく、泰江から穂高が時間の都合をつけたから必ず来て、と言われていたでしょうに。逃げたんじゃないなら、なに」

 たたみ掛けて来る言葉の嵐と、詰め寄って来た般若の形相に、ついうっかり本音が口を突いて出た。

「なに、って……だって、今更どんな顔してホタと顔を突き合わせたらいいのか、わかんない、っていうか」

 貴美子は意外そうな表情で少しだけ大きく目を見開いた。彼女は芳音と少し距離を取り、しばらく言葉を探しているような仕草でシートに背を預けたが、やがて

「自分の思ったまま、感じたままでいいんじゃない? 無理して完ぺきな自分を装おうとすると、辰巳の二の舞を踏むわよ」

 とだけ言って、寂しげな微笑を芳音に向けた。

「辰巳の二の舞、って?」

「こう在るべき、こうすべき。そういうものに囚われ過ぎて、肝心な大切なモノを見落としちゃう、ってこと。男は順位を決めるのが苦手な生き物らしいけど、それでも、ここ一番のときには自分にとっての一番を決めて、それ大事にしないとね。後悔するのはほかの誰でもない、自分よ」

 その言葉の最後につけられた「きっとね」という貴美子の言葉が重く沈んだ。

「あいつ、結局土壇場になって悔やんだんじゃないか、って思うのよ。事件後、何人かあたしのところにも刑事が事情聴取に来たんだけどね。無難な話だけ聞かせてもらったの。信州へ逃げる前とは別人みたいに、目が死んでた、って」

 人の事後ばかりを考えて、自分の気持ちをおろそかにし過ぎたのよ、と彼女は独り言のように呟いた。彼女の言う“あいつ”が誰なのか、この場合ひとりしかいない。

「貴美子さんは、克美じゃなくて辰巳が可哀想だと思ってる、ってこと?」

「今となってはね。その場の状況に流されて、こうすべきだと思うことに囚われて、誰も望んでいないことなのに行っちゃった、なんて。バカ以外の何者でもないわ」

 あんたは場の空気に流されないようにね、と告げた彼女の瞳は真剣だった。穂高とは正反対のことを言う彼女が、なぜ入学式の会場に来てまで先に自分との合流を試みたのか、なんとなく解った気がした。




 高層ビルのひとつを見上げ、ごくりと生唾を飲み下す。

「こんなとこ、入ったことないや」

「だと思った。井の中の蛙、大海を知りなさい」

 そう言って苦笑を零す貴美子に案内されたのは、若者の集う繁華街にはまずないと思わせる、かなりターゲット層を限定しているのがあからさまな店だった。落ち着いた雰囲気のオフィス街に建つ高層ビル群のひとつの前でタクシーを降りた瞬間もそう思ったが、ビルを出入りする客層を見て再認識した。

「貴美子さんの経営してるレストランって、ちゃんと儲かってるの?」

 思わずそんな不躾な問いが出てしまう。ランチタイムの今は、スーツの馴染んだサラリーマンや有閑マダムと思われる落ち着いた服装の女性が多い。見るからに裕福層だと判る、芳音から見れば異世界の人間だ。

「失礼ね。採算の合わないことに固執するほどバカじゃないわよ」

 芳音はそんな貴美子の叱責を聞きながら、自分のような若造がエントランスをくぐる姿を見ることのないままエレベーターに乗り込んだ。


「なあ、貴美子さん。見てれば解るって、のんのことも?」

 タクシーの中で芳音が尋ねた「のんから何か聞いているか」という言葉に曖昧なリアクションしか見せなかった貴美子に、別の問い方で話を蒸し返した。穂高への対応を考える時間が、もうあと数分しかないことに少しばかり焦っていた。

「そういうのって、ホタや泰江ママもおんなじ、なのかな」

 階数ボタンを睨んだままぼそりと呟く芳音の背後から、淡々とした答えが返された。

「泰江は仕事柄、まず見抜いてるでしょうね。何より、望自体が判りやすい子だし。穂高は、どうかしら。普段接する時間が少ないから解ってない部分もあるでしょうけど……正直なところ、穂高のことは、アタシにも最近よく解らないの。お互い自分のことで忙しくて」

「そっか。そりゃそうだよな」

 芳音の背の向こうから、かすかに溜息の漏れる音。貴美子の掻きあげた髪が、彼女の耳を飾るピアスのヘッドをじゃらりと鳴らした。

「穂高は昔よりも、随分と可愛げがなくなっちゃったわ。アタシの言うことなんか利かなくなったし、何を考えているんだか」

 彼女の溜息と苦笑が、改めて芳音に十二年という歳月の長さを実感させた。

 自分の目で直接見て来た、遠い昔の穂高を思い返してみれば、いつも女性陣の反論に遭ってはやり込められ、口惜しそうに謝ってばかりいた。そのたびに、影で芳音に愚痴を零していた。穂高は大人でありながら子どもでもある、近づきやすい存在だった。だが、小学生の夏休みに見てはいけないものを見て以来、芳音は自分の中から意識して穂高の存在を消していた。彼が一時期テレビに顔を出していた時も、気づいたと同時にチャンネルを変えるほど、徹底して自分たちの生活から排除していた。

 そのタイムラグが、彼を遠い存在に感じさせるのだろうか。去年の夏休みに雑誌で見た彼や、サンパギータのライブ映像に一瞬だけ映った彼からは、そういった親近感がゼロに近い印象を受けた。

 だがその一方で、望から聞く穂高は相変わらず過干渉な親バカのまま、という気もする。その辺りは泰江の語る穂高からも感じられるので、自分の勘違いではなさそうだが。

(俺がホタの中でどういう立ち位置なのかなんて、今まで考えたことなかったな)

 初めて行き着いたその疑問が、妙に芳音を戸惑わせた。湧き出したらとまらない疑問。改めて感じる“他人”としての穂高という存在。突然コンタクトを取って来た真意。判りやすい態度を取ると言われる東京での望。昨夜のメールで今日のランチに招待されたと知らせてしまった。確認して来ると言って泰江の部屋へ行ったあと、穂高の帰宅を知って部屋に引きこもってしまったらしい望は、穂高とどんな表情で顔をつき合わせているのだろう。そんな彼女から、穂高は何を察するだろう。

(……まだ、今の俺じゃあ……)

 芳音はそれに続く混沌とした思いを、言葉に置き換えるだけの勇気が持てなかった。


 チン、というエレベーターの音で芳音は我に返った。

「何も取って食おうってわけではないんだから、そこまで強張った顔をしなくてもいいのよ」

 くすくすと笑う貴美子のその言葉に促される形でエレベーターを降りる。地に着いた靴底の感触が、硬質から柔らかなものに変わった。扉を出ればそこはすぐレストランのエントランスになっており、起毛のカーペットのふわりと宙に浮くような感覚が芳音の心情とシンクロした。

「いらっしゃいませ」

 支配人が直々に入口まで出迎え、明らかに未成年と判る芳音にまで恭しく頭を下げた。

「あ、どうも」

 そんな扱いを受ける店の出入りの経験がない芳音は、つい立ちどまって同じように深々と頭を下げ、そして貴美子にまた笑われた。

「芳音、いいのよ。頭を上げなさい。宍戸、みんなをもうお通ししてる?」

 宍戸と呼ばれた支配人は、貴美子にそう問われて一旦歩みをとめ、彼女の一歩前から振り返って問いに答えた。

「はい。安西社長は三十分ほど前に、奥さまとお嬢さまは十分ほど前にご到着されて個室へお通ししてございます」

「そ、ありがと」

 再び三人で個室のエリアに向かって歩を進める。芳音にはその赤い絨毯の道のりが、罪人を審判の場へと引きずり出す法廷のカーペットに見えた。

 支配人が扉を開き、先に貴美子を個室へ促した。芳音がそれに従う恰好でのそのそと扉をくぐると、背後で音もなく扉がそっと閉ざされた。

 広い個室に、六人掛けの大テーブルがひとつ。その上に整然と並べられているカトラリーは、芳音にもひと目で一流ブランドの製品だと判る彫刻が施されていた。少し見慣れた後ろ姿が芳音の視覚に入った。栗色の髪をアップスタイルにまとめ、淡いオレンジのスーツとそろいのシュシュがアクセントをつけている。

「お待たせ。やっぱり雰囲気に流されて、さっそく出来た友達に持ち帰られちゃうところだったわ」

 そんな貴美子の声が部屋に響いた瞬間、手前に位置する場所で腰掛ける後ろ姿の少女が小さく肩を揺らした。芳音は咄嗟に、彼女の後ろ姿から視線を逸らした。彼女が振り返る素振りを見せたからだ。

 必然的に芳音の視線は、テーブルの上座側に腰を落ち着ける親たちの方へ向いた。

「……ご無沙汰、してます」

 渇いた喉からかすれた声が小さく漏れ、同時に深く下げた芳音の頭が少しだけ持ち上がった。貴美子が奥の左側へ移動するのを視界の左隅に捉えた芳音の視線が、ゆっくりと中央に座る人物へとスライドされていった。

 肉眼で直接まみえる彼は、十二年前とほとんど変わらない風貌だった。克美のような意味合いとは違う。四十路とは思えない無駄のない体躯は、サプリメント頼みではなく自身の力で鍛えているものだとひと目で判る。マスメディアを通じて見た彼とは違い、無造作に洗いざらしただけの自然なヘアスタイルは、一瞬芳音を十二年前にタイムスリップさせた。長い前髪から見え隠れする瞳が、不遜にしか見えない笑みを湛えたまま、まっすぐ芳音を見つめていた。そして一度俯いて瞼を閉じたかと思うと、おもむろに椅子から立ち上がった。芳音はついと視線を右へ流し、そこに身を落ち着けている泰江に縋る目を向けた。同時に右足を一歩後ろへ退かせていることには、彼女の苦笑で気がついた。

「久しぶり……十二年ぶり、になるんか。でかくなったな――芳音」

 その歳月の長さを感じさせない声音が、懐かしい響きで芳音の名を呼んだ。芳音は泰江に言外で見限られ、下げた顔を再び上げることが出来ないでいた。そんな芳音の頭を、大きな手がくしゃりと撫でる。その手に吸い寄せられるように、頭が勝手に上がっていった。目の前には、自分のようなスーツに着られる滑稽さのない彼の姿。至近距離だとよく判る。即席で芳音が購入した安物とはまるで違う、オーダーメイドの高級なスーツ。そのスーツが持ち主のことを、自分に見合うだけの人物だと芳音に強く主張した。

「入学、おめでとうさん。ようやく克美抜きでお前と話せる」

 そう告げる彼の目線が、まだわずかながらも自分より上にある。「でかくなった」と言いながら、自分を不敵に見下ろしている。含みのある彼の言葉が、ようやく芳音に声を取り戻させた。

「……どういう、意味、ですか」

 自分の都合で見限ったくせに、という言葉までは出せなかった。そうさせない万感を秘めた切れ長の瞳が、芳音を黙らせた。

「筋違いとは思うねんけど、俺は克美にとって、望を取り上げた“敵”みたいなもんやからな。お前まで取り上げられると警戒されてしもうた」

 そう言って寂しげに浮かべた彼の微笑が、遠い昔に映像の中で克美に向かって見せた辰巳の微笑と重なった。

「変な考え方ですね。俺の父親は、辰巳なのに――ホタじゃないのに、克美の敵なんて、おかしな話ですね」

 自分にも言い含めるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。ようやく口にした言葉には、露骨な敵意がこめられた。そんな芳音の低い声が、穂高に怪訝な表情を一瞬だけ浮かばせた。

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