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懺悔 3

 アナログの時計が秒針で時を刻む。セミの鳴き声に混じって、その音をどれくらい長い時間聴いたのかも解らなくなっていた。

 先に動いたのは、望だった。散らばったカードの絵柄を確かめるように、写真を一枚一枚見ながらそれを手に集めていく。

「芳音は、これをいつ知ったの?」

 彼女はそう尋ねながら、釣られるように写真を拾い始めた芳音の手を軽く制した。

「中三の時」

「どうして克美ママは話す気になったのかしら。知れば芳音が苦しむことくらい、私でも解るのに」

 そんな批判を口にする望の真意は解らない。抑揚のない語り口調が、芳音に彼女の本音を隠そうとしているように思わせた。

「克美は多分、翠ママの資料まで俺が見つけるとは思わなかったんだと思う。わかりにくい表示でごまかしてまとめてあったし、隠すみたいに奥のほうへ片付けてあったから」

「そう。芳音はどうしてママの資料を探したの?」

「翠ママの遺した日記から、辰巳が死んだことを知った、って克美が言ってたんだ。だから、翠ママに関するものを見れば、辰巳のことがもっと解るんじゃないかと思って」

 行き場を失くして膝に置かれた芳音の両手が、握り拳を作って手の甲に血管を浮き立たせた。

「それで、この資料を見つけて。隠しカメラで撮った映像とかも見つけて、見て」

 それを見るまでは、克美の心が壊れてしまったのは、全部辰巳のせいだと思っていた。周りの人たちの一部から、「辰巳さんに逃げられたんだよ」「克美ちゃんは彼に騙されたんだよ」などと聞いたり、古参の客に辰巳のことを訊くと、困った顔で巧く話を逸らされて答えを曖昧にされたり。その繰り返しから、辰巳は芳音が克美に宿ったと判って困った末に逃げたのだと思い込んでいたことを望に話した。

「克美を夜ひとりにはしておけなかったから、俺が小学生の頃までは、よくマナママや赤木さんが来てくれてたんだ。俺が寝てると思って、のんのことも、いっぱい話してた。そこまでしてるのに、なんで会えないんだ、って。元を正せば、全部、親父が母さんや俺から逃げたせいだ、って、思ってた……けど」

 映像の中で動く辰巳を見て、辰巳の話す声音を聴いて、それまでの全部がひっくり返った。見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、克美のことしか見えていなくて。そのくせ克美が一番願っていたことをひとつも解っていなかったバカ親父の、くすぐったい微笑ばかりが脳裏に焼きついた。

「バカだけど、憎めなくなっちゃったんだ。俺や母さんから逃げたんじゃなくて、あいつなりに守ろうとして逝っちゃったんだ、って解ったら……そしたら、余計に言えなくなった。のんの伯父貴を殺したヤツなのに、その息子がのんに会いたいなんて、勝手過ぎる、って思ったから」

 自分が遺された理由を知った。克美が独りだと思わなくて済むように、辰巳の命を犠牲に自分が存在しているということを。そのせいで、克美が時間をとめている。そのせいで、克美を心配した翠が療養と称して信州に帰って来た。愛美や赤木、藪の手を煩わせ、何人もの母親がいる奇妙な“家族”が出来上がった。

「翠ママの日記を読み進めていくうちに、どんどんその先を読む勇気がなくなっていって」

 あんな思いをしたのに、それでも辰巳を赦した翠。彼女の辰巳に対する憤りが別にあることを知ってから、読み進められなくなった。


 ――行って“来る”なんて、どうして最期までウソをついたまま逝ってしまったの。

 辰巳さん、全然克美ちゃんの気持ちを解ってない。アタシはそれが悔しくて堪らない。

 どうやって克美ちゃんに、事実を伝えたらいいんだろう。

 あの人がすべてだった克美ちゃんに、アタシはまだ事実を伝えられていない。

 残された時間はあと少ししかないのに、まだどうしたらいいのか迷ってる。

 辰巳さんの、バカ。そう言って引っ叩いてやりたいのに、あの人は、もういない――


「たくさんの人を巻き込んで、いろんな人に迷惑を掛けて。それで今の俺があるのに、これ以上望んだら、ばちが当たる、って、思ったんだ」

 膝の上で握っていた拳は、いつの間にか解かれていた。勝手に体が動き出す。顔を上げることが出来なくて、目の前に両手を広げて指先を揃え、重い頭をそこへ添えていた。それ以外の行動を取るのは芳音自身が許せなかった。

「……ごめん、のんが一番助けを必要としていた時に、俺、自分のことで精一杯だった……ごめん、なさい」

 辰巳が企業に就職して海外出張中だなんてウソを素直に信じていられた小さな頃に戻りたかった。なんの疑問も抱かずに、望が隣にいるのが当たり前な毎日に戻りたくて仕方がなかった。それが壊れた時から、自分がどうあればいいのか解らなくなって、迷ってばかりいた。「会いたい」と「どうせ会わせてもらえない」がせめぎ合う毎日。「俺は芳音だ」と克美に主張したい自分と「辰巳の代わりに、すべての人に償わないと」と頭を垂れる自分とが、毎日入れ替わって混乱する日々。

 その頃の望が何を感じ、何をして、どんな状況にあるだろうという考えに至れないでいた。ただ会いたい、という我欲だけで、望のことが見えていなかった。

「守れなくって、ごめん……自分のことばっかりで余裕なくって……家族だとか言う資格もない自分で……」

 “ごめん”ばかりを繰り返す。気持ち悪いほど濡れた手の甲が、芳音の額にべったりと前髪を張りつける。芳音が懺悔を口にしている間、望は一度も口を開かなかった。その沈黙が怖くて、顔を上げることが出来なかった。

 口先で謝罪を口にするばかりではなくて。償うべき相手の翠がいない。辰巳のせいで家族のありようを歪められてしまった望に償い続けるべきだ。自分が彼女を傷つけた分も含め、自分の願いを二の次にしてでも、彼女のゆがんでしまった心を本当の意味で守るべきだ。それが、この二週間で芳音が出した結論だった。

「ごめんでは済まされないとは思うけど、でも、のんには笑ってて欲しいから。俺が出来ることがあれば、と思ったんだ。色々考えて、それでやっぱり、ちゃんと知ってもらった方がいいと思ったんだ。翠ママは、笑ってた。日記に何か、のんの助けになることがあれば、と思って、藪じいにノートパソコンを渡したんだ。今の俺が出来ることって、それしか」

「バカみたい」

 芳音の言葉を最後まで言わせない冷ややかな声が唐突に降った。

「ねえ、何言ってるの? いつまでそんなことしてるの? さっさと顔を上げなさいよ」

 彼女の発したその声には、さっきまで感じていた機械仕掛けの無機質な音と違い、再び感情の色が宿っていた。

「私、前にも言ったわよね。芳音は芳音、私は私。どうして芳音が謝るのか解らない。そりゃこの写真の背景ってのを聴いてビックリしたけど、正直言って、全然そんな実感なんて湧かないし。会ったこともない親戚なんて、私にとっては架空の存在でしかないわ。死んで当然の人としか思えないし。私がママなら、あなたのお父さんの手を借りるまでもなく、とっくに自分の手でどうにかしてるわ。くだらない」

 前にも言った、という言葉。桜の舞い散る公園で聴いた彼女の言葉を思い出す。北城を本気で殺してやりたいと思った、と吐露した自分の言葉を受けて、不敵に笑って彼女は言った。

『この私を脅すなんて、って。どうしてやろうかって、はらわたが煮えくり返った』

 守られるなんて弱い立場に甘んじているほど弱くはないと、強く芳音に主張する。彼女がバランスを取ろうとするかのように、芳音と真逆の態度を以て虚勢を張っていると、今の芳音にはよく解った。解るように、なっていた。

「私、今ものすごく怒ってるの。何に対してか、解る?」

 そんな問いが強い口調で投げられ、それと裏腹な優しさで、そっと頭を撫でられる。

「私はあなたのご主人でも被害者でも雇用主でも依頼人でもないのよ。ずっと一緒に肩を並べて歩いて来てたと思ったのに、今頃になって、何歩も、後ろへ、下がって」

 震え始めた望の声に、芳音は思わず伏せていた身を起こした。

「私を、ひとりぼっちに、するつもり、なの?」

 驚いて目を見開いた芳音の先に捉えたのは、栗色の長い髪を頬に張りつかせ、それに気づきもしないで泣きながら微笑む心細げな望の瞳だった。

「ひとりぼっちに、しないでよ……」

 返す言葉が浮かばなかった。そんな解釈をされるとは思ってもみなかった。シミュレーションして来たのは、彼女に自分の存在そのものを否定された場合に備えての自分の立て直し方ばかりで。望にどうやって自分がモラトリアムという意味で彼女と同じ立場であることを納得させ、まっとうな形で穂高と向き合うように導けばいいのか、そこにしか意識が向いていなかった。

「のん……俺のこと、憎いとか怖いとか、ないの?」

 芳音の問いに、彼女はためらうことなく強く縦に首を振った。

「人殺しの、息子だよ? のんの身内まで殺したヤツの息子だよ?」

 しつこいくらいに問い質す声を、彼女が千切れんばかりに首を振って否定する。

「!」

 甘い香りが鼻を刺激すると同時に、栗色の髪が芳音の鼻先をくすぐった。芳音に負けないくらいびしょ濡れになった彼女の頬が芳音の頬をかすった。芳音のそれと交じり合い、そしてそれを彼女の髪が拭うように撫でていった。

「昔のことなんか、どうでもいい。罪悪感なんか欲しくない」

 首が絞まって苦しいくらい、きつく芳音を抱きしめる。二度目の力がこもった望の腕は、芳音に拒絶以外の理由から来るものだと信じさせてくれた。

「……触っても、へーき?」

 とくん、と、心臓がひとつ、強い脈を打った。行き場を失っていた両腕が、彼女の返事を待ってゆるりと上がる。

「芳音なら、へーき」

 その言葉を待ちかねていたとばかりに、芳音の両腕が彼女を包んだ。前に彼女を怯えさせたような、自分の感情のままに突っ走ったそれではなく。壊れ物を扱うような頼りない力で、望の背中をそっと包んだ。

「……ごめん。ひとりぼっちにするつもりだったわけじゃあ、ないんだ」

 ありったけの想いをこめて、言葉に置き換える。

「これから先もずっと、ありのままののんでいられる場所に、俺、なれるかな……ずっと一緒にいても、いい?」

 懐に納めた彼女の頭上で囁く。彼女が強く頷くたびに、栗色の髪が芳音の顎を優しくくすぐった。

「もっといろんなこと、欲張っちゃおうよ。諦めないで……一緒に。な?」

 シャツの胸元が湿っていくとともに、望の嗚咽が次第に大きな泣き声になっていった。

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