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大人のやり方 1

 市街では気温を意識させない快適さだった午前の空気も、里山辺まで来るとまだ少し肌寒さを感じさせる。いったい何歳なのだろうと思わせる白筆眉毛の藪医師は、白衣の上に丹前を羽織り背中まで丸めて寒さをアピールしているくせに、妙に血色のよい顔色で愛華と芳音を出迎えた。

「ったく、休診の朝っぱらから叩き起こされたかと思えば、じじいに面倒を押しつけて来やがって」

 そんな悪態と裏腹に、芳音の額を指でコツンと弾いて苦笑する老医師の口許には、哀れみに近い苦笑さえ浮かんでいた。

「……ごめん、藪じい」

「てめえが謝る話じゃねえだろ。望には一発説教をかまさにゃ気が済まんけどよ」

「藪じいにも、だわね。また朝からお酒を飲んでいたんでしょう」

 芳音の顔色を察したのか、愛華がふたりの会話に横槍を入れた。

「……てめえは俺のかかあか」

「独り者気分でいるのは藪じいだけよ。まったく、男ってのはどいつもこいつも心配ばっか掛ける生き物ね」

 愛華のそんな悪態を横で聞いている芳音の方が肩を縮こまらせる。そんな芳音を見て、藪と愛華が同時に苦い笑いを零した。

「まあ入れや」

 藪にそう促され、彼の居室を兼ねている診察室へふたりは足を踏み入れた。


「――そんな感じで、俺が見た限りだけれど、北城だけに非があるってわけでもなさそうで」

 芳音は受診者用の椅子に腰掛けて藪から両手の処置を受ける間に、昨夜見聞きしたことと私見を彼に話した。藪は専門分野が精神分野なだけあって、芳音のわずかな沈黙や小さな動きなどから触れたくない部分を察し、それには言及しなかった。恐らく愛華を通じて粗方のことを聞いているから、という部分もあるだろう。

「ホリエプロダクションの北城大樹、それと、週刊女性エイト編集長に、同じ出版社のグルメ雑誌の榊、か。二百万……ガキが手にしていい金額じゃねえな。何に使う気なんだかな」

 手も洗わないまま、藪はメモにペンを走らせた。

「望はその辺りを話してはいなかったのか」

 と問われても、芳音は首を小さく横に振ることしか出来なかった。

「何を聴いても、少なくても俺は変わらないからって伝えたつもりだったんだけど……なんにも、話してくれなかった」

 ありったけの想いをこめたつもりだったのに。胸の内だけでそう呟く。欲しかったのは、あんな寂しげな遠い眼差しなんかじゃなかった。“私も”という苦しげな答えでもなかったのに。

「助けて、って言って欲しかったのに。俺にも壁を作っちゃった」

「……翠が泣くぜ」

 重い重い溜息とともに、そんな言葉が藪の口から零れ出た。

 愛華は藪の遅い朝食を整えながら、ふたりのそんな会話を黙って聞いていた。簡易キッチンから聞こえる焼き物の音や水道の音が、妙に大きく響いていた。


 藪はペンで机を叩きながらメモした紙をしばらく眺めていたが、やがて視線を紙面から外すとおもむろに電話へ手を伸ばした。愛華が藪の机に野菜サラダとフレンチトーストの載ったトレイを置くと、予備のパイプ椅子を持って来て芳音の隣へ腰掛けた。

(夏にここへ来いってのんちゃんに伝えておいたのは、芳音にしちゃアドリブが利いたじゃないの。上出来)

 彼女は小声でそう囁いて、顔を上げた芳音ににこりと笑った。日頃はあの愛美夫妻の娘とは思えないほど口汚い姉妹だが、こういう瞬間に、思う。

(マナママみたい。本当は上出来どころか、ベターとも思ってないくせに)

 あからさまな慰めは、変に天邪鬼な自分にさせる。普段ならゴツンとお見舞いされそうな憎まれ口が零れ出た。だが今日の彼女はそんな芳音を咎めもせずに、ただ苦笑を浮かべるだけだった。

「おう、俺だ」

 藪の通話相手が電話に出たようだ。その声をきっかけに、ふたりの小声の会話は中断された。

 通話相手が誰なのかは解らない。だが、日頃であれば必ず名乗る藪がそれを省いていることと、彼の砕けた口調などから、気心の知れた信頼のおける誰かだということだけは察せられた。

「ちぃとばかしワケありのクランケから漏れ聞いた話だけどよ、芸能プロダクションのホリエプロ所属、北城大樹、こいつの埃を叩くと、てめえにも厄介なネタが出て来るらしい。それと女性エイトっつったら、てめえが若え頃さんざっぱら世話したんだかされたんだかした出版社のゴシップ誌だよな。てめえの方で上を押さえられるんじゃねえか? ちっと調べてみろや」

 藪の簡素でありながらポイントだけを抑え、尚且つ相手の関心を煽る曖昧な打診は、あくまでもこちらの指示ではなく、相手の自発性に基づく空気を醸し出していた。

 仮に望が情報を辿り辿ったとしても、それを自分が明かしたとする証拠がない。それに胸を撫で下ろす一方で、通話相手が誰なのかを察して全身が強張った。

 藪が相手と二、三のやり取りと相槌を繰り返したあと、彼の眉尻がひくりと片側だけ上がった。目を覆い尽くすほど長いそれの隙間から、わずかに弧を描く目の輪郭が覗く。

「……そうさな。望をたまには寄越して来いや。何も『Canon』へ行かせろとは言ってねえ」

 そんな言葉を聞いて、つい愛華と顔を見合わせる。彼女はほんの一瞬、芳音に得意げな笑みを零して見せた。

「おう。まあそういうこった。ヒントはそこまでだな。……ああ、相変わらずっちゃあ相変わらずだ。……ンなもん、てめえで直接訊きやがれ」

 解らない会話の中、藪がちらちりとこちらを見遣る。芳音は反射的に、その視線から逃げた。

「……おう。そいつは邪魔した。まあ早急に対応した方が身のためってのだけ頭の隅っこに入れておけ」

 藪はそう締め括ると、受話器を本体へ投げ出すように置いた。

「ま、あとはやっこさんに任せることだな」

 やっこさん。それはほぼ間違いなく。

「……ホタに、助けてもらうことになっちゃうのか」

 そう漏らした確認の声が、自分でも意外なほど震えていた。

「やっこさんが望の親だ。当然だろうがよ」

「……」

「お前の進路を気に病んでたぞ。いい加減、水に流してやったらどうなんだ」

「……ムリ」

「ったく。向こうッ気ばっかり強いところは、悪い意味で克美とそっくりだな」

 藪の深い溜息と心配げな瞳が、芳音の苛立ちを上乗せさせた。

 相変わらず頼りないと不安げに見られてばかりで、藪に余計な気苦労を掛けている。それは藪だけでなく、隣につき添う愛華にしても、即決で芳音のすべきことへと導いてくれた綾華にしても、ふたりの母親・愛美にしても、そして北木にも心配ばかり掛けている。

「……藪じい、ありがとう。やっぱ俺、今日は帰る」

「あ?」

「克美には内緒にしておいて。ちょっと調べたいことがあるから、ネカフェで一泊してから『Canon』へ帰る」

「ちょっと、芳音」

 芳音は愛華にまで説得されるのは勘弁とばかりに、手早くバックパックを背負って逃げるように診療所をあとにした。

 今の芳音には、自分を取り巻くどれもこれもが自分の手に負えないと見せつける出来事ばかりで。

「……ムリ」

 そんな小さな呟きが、温かくなり始めた昼の空気に溶けて、消えて、なくなった。




 気づけば遅い春を過ぎて季節がひとつ巡り、長いと予報されている梅雨の半ばになっていた。今日も芳音は学校帰りにネットカフェへ立ち寄り、調べ物に勤しむ。

「克美に話す前に、まずは外堀を埋めなくちゃ」

 外堀とは、幾つかの目ぼしい専門学校の案内資料の請求や、体験入学、説明会の参加予約などで、あらかじめ自分自身が志望校の概要を把握しておくこと。家賃の相場や治安のよい地域、ほか、生活面で事前調査が必要な項目など。克美が心配しそうな事柄をあらかじめ調べてから話せば、今からでも間に合うかも知れない、と思った。

 芳音にそう思わせたのは、この春初めて独りの夜を過ごした克美の変化だった。

『お帰りっ』

 そう言って子供みたいに抱きついて来るのは、芳音が愛美の家や藪診療所に泊まったあとにもよく見られることだったが。

『芳音っ。ライブ、どうだった?』

 克美が、芳音を辰巳と間違えなかった。驚きのあまりに言葉がすぐには出なくて、しげしげと克美の顔を眺めてしまった。

『なに? 何かヤなことでもあったのか?』

『……あ、いや、別に。ただいま』

 そのあと夜遅くまで雑談がてらに克美とそれぞれの時間を報告し合っていて解ったこと。

 芳音が愛美や北木に克美の夜の時間を頼んでいたが、克美自身がそれを断ったということ。

『マジ大丈夫だったんだってっ。マナに聞いてもいいぞっ!』

 寂しい胸を精一杯張って得意げに言う克美を見た時は思わず笑ってしまったが、内心信じてはいなかった。子供っぽいくせに、親の沽券を妙に気にする克美の虚勢だと心の中で苦笑していた。

 だが、日を改めて愛美にこっそり聞けば、どうやら本当らしいことが判った。愛美は万が一に備え、店まで何度か往復してくれたそうだ。

『克美ちゃんね、ずっと三階の倉庫で辰巳さんと話をしていたみたい』

 扉を挟んで愛美が耳にしたという克美の語り掛けるような言葉の中身は。

 ――芳音をかごの鳥になんかしたくないんだ。『Canon』はボクだけのもの、辰巳もそれでいいよね?

『自分のせいで進路を決められないでいるんじゃないかって、心配してたわよ』

 と教えられた。決められなかったわけではない。ただどうしても、両立が難しい。そんな類の話をしたら、愛美に困った顔で笑われた。

『親子逆転ね。甘やかすところが辰巳さんとそっくり。でも、自分独りで突っ走ってしまわないところが、芳音らしいわ』

 あのふたりはお互いが近過ぎて、お互いを解っているつもりで解ってなくて、すれ違ったまますぐ突っ走ってしまっていたから。

『俺は、勘違いしてない?』

『君の自信のなさが、時々自分を過小評価させちゃうこともあるかな、とは思うけど。でも自分の気持ちや考えに対して、一度踏み止まって相手の立場に立って別の角度から見ようとすることが出来るでしょう? だからこそ、悩んじゃうんでしょうけど。芳音らしくて、私は好きよ』

 愛美が口にしたその言葉は、日が経つにつれて芳音の中に自然と心地よい形で受け容れられていった。


 特定の指定着信音が小さく響き、芳音は少しだけ過去になった追憶から今に引き戻された。

(やっべ、マナーモードにするの忘れてた)

 わざわざ脳内でそう言葉に置き換えるのに、本音はまるで別の方にあるとばかりに口の端がだらしなく緩む。

 特定の着信音は、望からのメール。あの再会の日から少し経った頃に、望の方からメールをくれた。それは夜もかなり更けた時間で、しかも本文は

“おやすみなさい”

 とだけしかない無愛想なものだった。それでも本当に連絡をくれたことが、こちらからも連絡していいという許可に見えた。許されたのはそれだけでなく、いろんなものも、少しだけ許してくれたような気がした。

“のん、おやすみー。よい夢を”

 それにつける絵文字を、ハートと音符と笑顔のアイコンと、どれにしようか一瞬迷った。普通、女の子は遊び心の多い絵文字が好きらしいが、どうも望のイメージにそれが感じられない。

 結局、ありふれたそれらの代わりに添えたのは、オムライスの絵文字だった。

 芳音が作ったオムライスを絶賛してくれた望だけれど、それを望自身が覚えているのかは解らない。ただ、それをきっかけに、度々メールのやり取りが出来るようになったのが、芳音の楽しみのひとつになったのは確かだった。

 芳音はリサーチの手を一旦とめ、もどかしい手つきで上着のポケットから携帯電話を取り出した。

“元気? 今、何してる?”

 望からのメールは、相変わらず簡単だ。芳音はそれに対して、長文をいそいそと叩き込む。

“元気ゲンキ。今はネカフェでプチ調べ物。家からだと克美が覗いて来たりして、何かと面倒ではかどらないから。どうした?”

“調べ物? 邪魔したのならごめんなさい。もし手が空いていたら、写メ送ってもらおうかな、と思っただけ。”

“邪魔なら返信しないって。写メって、なんの? 調べ物って言っても、急ぎじゃないから。専門ガッコ、調べてた。まだ克美にはきちんと決めるまで知られたくなくって。今日、進路指導のセンセに呼ばれてまた説教食らってさ。(苦笑)のんは、もう決めてるのか? って、受験するなら、とっくにもう決まってるのか。(汗)”

“受験? 大学なんて行かないわよ。もうずっと前に芳音にも話したと思ったんだけど、忘れてる? 一応パティシエ養成の専門を目指してるんだけど、マネージメントも教えてくれる学校がないかなあ、って悩み中。写メって言ったら、芳音のに決まってるじゃないの”

「……決まってる、んだ……」

 こそばゆいものが走り、顔が妙に熱くなる。カフェシートの席ではなく、個室にしておいてよかったとしみじみ思った。一瞬湧いた都合のよい想像を、頭を強く振ってかなぐり捨てる。

「何に使うんだ?」

 独りそうぼやきながら、自分を撮った。照れ臭いから、あかんべえをしてやった。

“忘れてないしッ! やっぱあのまま同じ道を目指してるんだな。俺もいっしょー。課程は別枠だけど。マネージメントか。ついでにそっちも調べてURLを送るよ”

 送信後に届いた返事は“ありがとう”の五文字だけだった。

「ちぇ。今日はこれで終わりかよ」

 番号を知っているのに、いつもメールばかりだ。そんな芳音も自分から一度も電話をしたことがない。

「……気持ちわる……」

 空調の整ったネットカフェのはずなのに、じめりとした湿気が漂い、芳音の不快指数を上げていく。望との再会を果たしてから、もうすぐ二ヶ月が経つ。一番気になることには触れられず、望も一切それには触れない。まどろっこしくて曖昧で、無難としか言いようのないやり取りに限界を感じ始めていた。

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