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Clone 1

 午後三時十五分。六時限目終了のチャイムが鳴ると同時に、芳音(かのん)はバックパックのショルダーに手を掛けた。授業道具は五分前からすべて鞄に納めてある。日直の

「起立、礼」

 を合図に、ひとり教室を飛び出した。

「こら、守谷! 挨拶ぐらいちゃんとしろ!」

 担任でもある倫理の教師、高橋の怒声が今日も飛ぶ。

「あざーしたーっ!」

「日本語を喋らんか!」

「芳音、掃除当番!」

「ごめんっ。明日の人、誰か替わっておいて!」

 高橋や学級委員のクレームを受け流しつつ、それでも昇降口へ慌てて走る。今回の依頼主は、かなりうるさい上に、芳音の弱味を握っている人物だ。そもそも三時ジャストに校門の前で待ち合わせなんてこと自体が、ほとんど嫌がらせに近いと思う。

「くっそ、学校の終わる時間を知ってる癖に。バカ綾華っ」

 面と向かっては絶対に言えない文句が、上がる息と一緒に零れ出た。


 校門が視界に入ると、ひと組のカップルが揉めている姿も目に留まる。芳音は心の中で舌打ちしつつ、その一方の人の名を叫んだ。

「綾華、ごめん! 遅くなっちゃったっ」

 綾華自慢の天然の巻き毛が、ふわりと春の風に舞う。柔らかなその髪は、フランス人形を思わせる可憐さなのに。

「遅いっ!」

 怒気を孕みに孕んだ形相が、せっかくのかわいさを半減させていた。

「ほら、ウソじゃないでしょう」

 綾華は芳音が傍らに立つと同時に、馴れ馴れしく腕を絡めて来た。そして正面で呆然と綾華を見下ろす男を見上げてそう咆えた。

 依頼内容は、「サークルのしつこい男に諦めてもらう為、彼氏の振りをして欲しい」、ということだった訳だが。

(綾華に惚れている、っていうより、自意識過剰っぽい感じ、かな)

 目の前に佇むこの男、自分の容貌をよく解っている。そして自分を最も見栄えよく見せる仕草や恰好も心得ているようだ。芳音とそう身長差のない長身を、流行を追わない品の良いブランド物で統一させていた。明るめに染めたブラウンの髪は、綾華の自然なそれに近い。自分が近づく前まで見せていた余裕の微笑と、「こんな手の込んだ嘘なんかつかなくても」云々の台詞があまりにも気障で、砂を吐きそうになる臭さだ。特に後半部分の台詞などは、脳が記憶するのを拒絶した。綾華にどうこうというよりも、今の自分の横に立つ女は綾華が一番似合う、と言いたげな感じ――つまり、アクセサリーとしか綾華のことを見ていない、ということだ。綾華の性格を知っているなら、こんな形でつきまといはしないだろう。

「誰、これ」

 思ったままを口にする。嘘が下手だという自覚はあるが、不遜な態度なら幾らでも出来る。

「これ、この間話した、例の大学で同じサークルの、って奴。信じてくれないのよね、彼氏がいるっつってんのに」

 綾華があらかじめすり合わせたとおりの言葉を口にする。真実味なんか出ないよ、と忠告したとおりの展開がふたりを待っていた。

「ふぅん。でも、その割には年下クンの目が随分醒めてるよね。さしずめ学校の後輩か何かで、彼氏の振りを頼まれてるだけ、とか」

 芳音は、どうせこうなると思っていたので、綾華に内緒で奥の手を考えてはあった。

「綾華」

 だが目を細めた男の勝ち誇った語り口調が、そこに芳音の負けん気を上乗せさせた。

 綾華の絡めた腕からするりと腕を抜く。一瞬眉をひそめた不快げな表情を、アイドルも顔負けな微笑に変えて男を一瞥する。宙に浮いた手はそのまま、肩よりも低い位置にある綾華の頭を手繰り寄せ。

「お帰りのキスがまだ」

「はん?!」

 多分、十年振りに綾華と“家族のキス”をした。コンマ一秒にも満たない内に芳音の頬から「ぱんっ」という景気のよい音がし、同時に激痛が走った。

「人前でするもんじゃない、って何回言ったら解るのよ、このバカ!」

「だって、綾華が変なのを連れて来るんだもん」

 本気の喧嘩だった場合、芳音は絶対綾華に言い返さない。「言い返せない」とも言うが。敢えて反論したという行為が、綾華に芳音の手を気づかせた。一瞬目を見開いたあとニヤリと笑ってしまうところが、綾華もまた嘘のつけないバカ正直な性格だと示している。

「もしかして、また別れたいって言われるんじゃないか、とでも思ったの?」

 痒い。個人的に、かなり抵抗のある展開だけれど仕方がない。

「だって、俺まだ高校生のガキだし」

 キャンと言わされた野良犬のように、しおらしく頭を垂れてみる。

「綾華より年下だし」

 ふざけた台詞をこれから吐くかと思うと、笑いを噛み殺そうと握りしめた拳が震えた。

「余裕ないし。こんな人を連れて来たら、その、なんて言うか」

 帰ったら、速攻で歯を磨いてうがいをしよう。浮いた歯の気持ち悪さを軽くしよう。ベタでこっ恥ずかしい展開を人前で晒しながら、芳音は心の中で固く誓った。

「綾華ちゃん。そこのボクちゃんの泣きそうな顔に免じて、ここは潔く身を退こう」

 自信過剰はおだてて持ち上げ、こちらの都合のいい方へ転がすに限る。上から目線の立ち位置を満足させてやれば、自分の立場を貶めることなく舞台から素直に降りてくれるから。

 芳音はさっさとこの茶番を終わらせたくて、「顔見えてねーし」というツッコミをやっとの思いで呑み込んだ。

「……あんた、キスは余計だったでしょ」

 立ち去る男の後ろ姿を見送りながら、綾華の低い声が地を這った。

「報酬からキス代、差っ引くから」

「……はい」

 実際の芳音と綾華の関係は、どこまでも似非姉弟でしかない。確実に諦めさせるため、体を張って依頼を遂行したつもりなのに。引っ叩かれるのも覚悟の上だったのに。報酬の値引きにどこか理不尽を覚え、こっそり小首を傾げてしまった。




 その足で連行されたのは、我が家のライバル店、カフェ『マッターホルン』。その奥がパーテーションで軽く仕切られ、ガラス張りのこの店内で唯一外から見えない席なのだ。母の克美に内緒でやっていることを話すには絶好の場所だった。

「はい、じゃあ三千円」

 紙幣を三枚テーブルに並べられる。

「さっすが綾華。なんだかんだ言って満が」

「と、キス代。高いよ」

 紙幣を二枚、細い指で摘まみ返された。喜び勇んで伸ばした右手の指先に残された一枚から、夏目漱石が芳音に哀れみの視線を投げていた。

「あんなの、俺らの場合、普通でいうところのキスの内に入らないじゃん」

 渋々残った一枚を財布に納めながら、恨めしげな視線を綾華に向けた。

「あのね。私は普通でありたかったのよ。まったく、克美ママと芳音が“家族の挨拶”なんかを教えてくれちゃったお陰で、トキメキの初ちゅうだって、ぜんっぜんドキドキ出来なかったんだから」

「お。さすが成人。そういう男がいた時もあったんだ」

「あんた、自分がそれなりの面構えしてるからって、私のことバカにしてるでしょう」

「あ、じゃあトキメキはベロちゅうだ、ベロちゅう。マナママに言ってやろう」

「克美ママをごまかすダシにした慰謝料、今後無料で依頼を請けるって形に変更してやろうか」

「……一年以上前の話をまだ言うか」

 気丈な表情を頑張ってみたつもりだったのだけど。

「あのさ。無理して気にしてないを振りするの、そろそろやめなよ」

 どうして『なんでも屋』なんか始めたのとか、そんなにお金を貯め込んで何をするつもりなのかとか。

「……」

 色々訊かれても、答えることが出来なかった。どれもこれも、克美が聞いたら頭ごなしに全部ストップを掛けるに違いない理由ばかりだから。

「まだ上京を諦めてないの?」

「……」

「のんちゃんとの約束、まだ芳音の中では有効なの?」

「……の、つもり」

「向こうは忘れてるかも知れないじゃん。全然向こうからの連絡はないんでしょう?」

「……」

「一途というかバカというか。十二年も会わせてもらえないんだよ。いい加減、のんちゃんのことは割り切りなさい」

 お姉さん口調でそう言われ、哀れみを交えた瞳で苦笑されれば、釣られて笑みをかたどる形でやり過ごすよりほかに手が浮かばなかった。




 のん――安西望。芳音や綾華、その姉の愛華(まなか)と、姉弟妹のように育って来た幼馴染。ふたり一緒に並んだりすれば、周りの大人たちは口を揃えて

「本当の双子みたい」

 と驚き、面白がって揃いの服ばかり用意していた。克美の心友、翠のひとり娘。芳音と同じ日に同じ病院で生まれた、芳音にとってたったひとりの心許せる女の子。

 本当の姉弟だと思っていた。違うと知ったのは、翠が亡くなってから数年が過ぎた時だった。当たり前だと思っていた家族の形が普通と違うと知ったのも、この頃だ。

 綾華と愛華姉妹の母親を「愛美ママ」と、望の母親を「翠ママ」、そして芳音の母親を「克美ママ」と呼んでいたあの頃は、母親がたくさんいるのが普通だと思っていた。望と自分の苗字が違うのも、なんの根拠もなく当たり前のことだと思っていた。親が好きな苗字を名乗っているから自分たちも親のそれを引き継いで、望は「安西」、芳音は「守谷」と名前の前についているのだとばかり思っていた。

 翠の故郷がここ、信州松本だとは知っていた。望の父親、安西穂高が一流企業「渡部薬品」の社長だということも。ただ、それが望と自分を別れさせるものだというところには繋がらなかった。まだ幼かった小学生の自分たちに、そんな概念などあるはずがなかった。翠の死をきっかけに離れて暮らしていたのは、それ以前にしばしばあった“一時的なお泊まり”の長期バージョンだと思っていた。

 なぜこんな不思議な家族の形態だったのかを知ったのは、中学三年の時だった。ずっと克美と自分を捨てて行方知れずだと思っていた芳音の父親が実は死んでいたということや、その経緯、それに付随して皆が克美を支援していたことも、その頃から少しずつ周囲の大人が教えてくれるようになった。父が好きで自分達を置いて出て行った訳ではないことを知った。それを教えてくれたのは、ディスクのデータに収まった映像の中の父本人だった。

 ――もし俺の子が宿ったら、芳音、と名づけてくれると嬉しい。

 望まれて生まれて来たことを知った。紙面を賑わせるほどの事件が掲載された古い新聞記事に載っていた父の写真。それを読んで、父が出て行った理由も初めて解った。父に対する恨みつらみや誤解は、それらのお陰で消えたけれど。


 ただ望の名前を聞いただけなのに。それだけで、呆気なく平常心が崩れてしまう。幼かった頃に戻ってしまう。父が使命よりも自分や克美を優先してくれていたら、ここまでずれた自分にならなくて済んだかも知れないのに。ここまで望に拘らなくて済んだかも知れないのに。つい、そんな繰り言が脳裏を過ぎる。

 父が――辰巳さえずっと傍にいてくれたなら、穂高も克美も、間違わずに済んだ。自分と望がここまで逢えなくなるほどのことは、きっとなかった。

『……ボクは、翠じゃ、ない』

『……俺かて、辰巳やない』

 幼い頃に望と見てしまった、大人のやり取りを思い出す。自然と眉間に皺が寄り、頬が片側だけ引き攣れる。ふたりで子供部屋へこっそり戻ってから見せられた、望の泣きじゃくった顔を思い出す。穂高に対する憤りや、克美に対する複雑な心境と一緒に、望に逢いたい気持ちが溢れ出す。ふたりでひとりと言っても過言ではなかった。そのくらい、ずっと一緒に過ごして来た。


『のんが僕のおよめさんになればいいんだよ』

『そしたら、芳音とまた家族になれるの?』

『うん、お店のお客が前にそう言ってた。だから、僕がのんをおよめさんにする。そしたら、またずっと一緒にいられるよ』

『うん、わかった。約束ね。早くおとなになって、家族にもどろうね』


 小学校最初の夏休みの夜、そう約束して望を泣きやませた。克美や穂高の干渉から解放されれば、また昔のように望と一緒にいられると思ったから。

 今、望はどうしているだろう。結局その夏以来、連絡し合うことさえ出来なくなった。




「芳音、聞いてる?」

 声と同時に額を突かれて、そこへ刺さった爪の軽い痛みで我に返った。

「ごめん。ぼぉっとしてた」

 綾華から、呆れた苦笑が返って来る。普段いじわるだけれど、結局姉みたいな彼女は、本当に芳音が沈んでいる時、絶対に茶化したりはしない。結局話を聞き直してみれば、愛華ともここで待ち合わせていると、別の話題を振ってくれていたようだ。先日こなした依頼の報酬を渡すついでに、夕飯を奢ってくれるらしい。

「お姉ちゃんも、あの人なりに芳音のことを心配してるんだよ。やることなすこと、次々と辰巳さんの真似ばかりしてるから、あんた」

 その名を聞くと、胸がツキンと痛くなる。恨むことはもうないけれど。

「別に、辰巳の真似をしてるつもりはないよ。普通のバイトより実入りがいいから」

 芳音は綾華に、下手な嘘をついた。

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