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イグニスに渡す為の手紙を書いて布団の中に潜り込んだのはいいけれど、結局あまり眠れないまま朝を迎えてしまったわ。
手紙を使用人に持っていくように任せ、それから厨房に行って今日のお昼に用意するものをお願いに行ったの。
今日のお昼は何がいいかしら、イグニスはどんな食べ物が好きなの? とラウルスに相談をすれば、出来るだけ格式を重んじるような席は避け、食事も軽くつまめるような食べ物がいいのでは? と助言を受けたわ。だったら王宮に居た時にイグニスに持って行っていたような、パンにお肉や野菜を挟んだものやチーズがいいかと思って、使用人達に作ってもらったの。
今日は天気が良いから、薔薇園にある屋根付きのテラスで食べたらきっと美味しいに決まっているわ。
それから出来上がった昼食を籠に詰めながら、それを執事に預けて、心配をかき消すように晴天の空を眺め、イグニスが来るのを静かに待っていたの。
イグニスは今日来てくれるのか、当日にいきなり呼びつけて不快に思っていないか、そんな思いが浮かんでは沈むことを繰り返していたわ。一人でグルグル考えても仕方が無いことなのにね。
でも、イグニスは来てくれたわ。それにあの人は昨日のことを謝ろうとしていたの。…悪いのはこちらなのに。
想いを伝えるのは薔薇園で、と決めていたのに、いざ本人を目の前にしたら本当に言えるの? という不安が過ぎったわ。今までこんなに緊張をしていた時があったのか、という位に胸がドキドキしていたの。
そんな風にまごついていた私にイグニスはあるものをくれたわ。
小さな籠に入った10輪の薔薇の花。
まさか手土産を貰えるなんて思ってもいなかったから、嬉しかったわ。
小振りだけれど、形の均等の取れた薔薇の色はイグニスと同じ赤。花弁に鼻を近づけて香りを楽しんだ後、お礼を言って近くにいた侍女に部屋に持って行って花瓶に生けておくように命じたの。
その後は薔薇が咲き乱れる庭を散策して、テラスで食事をしたわ。
イグニスは美味しそうに用意したものを食べていたし、ゆっくりお話もして、本当に楽しい時間を過ごすことが出来たの。
そして勇気を出して帰り際に、イグニスが好き、と伝えて、お祖母様の言った通りに返事は急かさずに、そのまま帰って貰ったわ。
部屋に戻ってからは、寝台の上にドレスを着たままだったけれど転がって、恥ずかしいという気持ちを何とか静めようとしたけれど、駄目だったわね。やっと落ち着いたかと思ったら、イグニスに貰った薔薇が視界に入って、先ほどの告白が蘇ってしまって、一人で身悶えていたの。
翌日からは王宮に行かなくてもよくなったので、仕事が終わった後はお祖母様と二人で暇を持て余していたわね。
イグニスに貰った薔薇をお祖母様に見せたら、初めて見る品種だというので、書店に行って薔薇の図鑑を購入して、どの種類かを調べたけれど、結局分からなかったのよ。
素人目にはちょっとした花や葉の形で品種を見分けるなんて困難だと初めて知ることになったわ。
でもここまで調べたら気になるから駄目もとで庭師に聞いてみたのよね。
「おや、フロースお嬢様、いかがなさいましたか?」
「ごきげんよう、アイン。聞きたいことがあるのだけれど、この薔薇の名前は知っているかしら?」
花瓶ごと持ってきた薔薇を庭師のアインに見せると、目を見開いて驚いたような表情になったわ。
「――これは珍しい」
「やっぱりそうなの? お祖母様も初めて見たって言っていたわ」
「ええ。この薔薇は【シンシア・アモル】というお隣のユーリドット帝国原産の品種ですよ」
「シンシア・アモルですって!?」
「はい。ルティーナ大国の寒暖の激しい気候では花を綻ばせることが難しく、国内では栽培する家も無いに等しいのです」
「……」
シンシア・アモルって確か御前武道会の優勝者へ贈られた【炎撃の剣】に刻まれた蔓薔薇の名前だったわよね?
こんな偶然ってあるのかしら?
「――誠実な愛」
「そうです、よく意味までご存知でしたね。古代の古い言葉なんですよ」
「そうなのね」
「はい。帝国では愛する人に贈るそうです」
「それは、素敵ね」
「ええ! ところでお嬢様はその珍しいお花をどうされたんでしょうか?」
「貰ったのよ、好きな人に」
「いいですね。いやはや、若いって素晴らしいです!」
きっとイグニスは知らないで持って来たのね。教えたらどんな顔をするのかしら?
昨日会ったばかりなのにもう会いたくなっているわ。
…でも、待たなきゃいけないのよね。大丈夫、今度は失敗しないわ。
二日目まではそんな風に毅然としていたのに、一ヶ月も過ぎると駄目ね。
私、自分が短気だということを忘れていたのよ。
日に日に我慢出来なくなって、気が付けばイグニスの玄関の前で、家の主の帰りを待っていたの。
雪はまだ降っていなかったけれど、風が冷たくって外で待つのは辛かったわ。馬車の中で待っておけば良かったのだけれど、思った以上にイグニスの家の前の道が狭くて、往来の邪魔になるから帰してしまったのよね。
今日は夜勤明けだからもうすぐ帰ってくると思っていたのに、なかなか帰って来ないのよ。
それに暇だからフロイラインとお話をしようと思って馬小屋の中を覗いたけれど、残念ながら不在だったの。もしかしてあの子も一緒に王宮に行っているのかしら?
イグニスが帰って来たのはそれから三十分後だったわ。図々しくも家の中へ入れてもらって、さらに暖かい飲み物まで用意してくれたの。
フロイラインを連れていなかったから不思議に思って所在を聞けば、今は隣の子供に貸しているみたい。学校で乗馬の授業があるのですって。
案内された家の中は物凄く綺麗だったわ。誰かお手伝いでも雇っているのかしら? って聞いたら、そんな人を雇う余裕など無いって言っていたの。どうやら炊事や掃除は自分でしているみたい。洗濯物だけはお店に頼んでしているのですって。
それから返事を聞いたけれど、私の想いには答えられないってお断りをされてしまったわ。どうして? って聞いても謝るだけで答えてくれないの。
私のことをね、姫様って言ってくれなくて、殿下と呼んで、まるで他人行儀のようにきっぱりと自分のことは忘れて欲しいと言われたわ。
そんなの、無理に決まっているでしょう?
私はこんなにあなたのことが好きなのに。
気持ちに答えてくれないのなら、どうして優しくしたの?
一ヶ月前だって、どういう気持ちで薔薇を持って来てくれたのかしら?
いきなり窓から逃げたことに対する謝罪? それともただの気まぐれ?
あの【誠実な愛】の花は、凄く手入れが大変だって聞いたわ。
もしかして、苦労して花を咲かせたんじゃないの?
それに普通の薔薇じゃなくって蔦状になっていたから、花束にも向かない品種だったわよね?
あなたはその蔦を枝に巻きつけて花束を作っていたけれど、棘を抜いて紐で縛る作業は大変だったでしょう?
花屋で適当な物を買った方が楽出来たんじゃない?
私のことが好きだから、そこまでしてくれたのよね?
ずっとそう思い込んで疑わなかったのよ。
イグニス、本当に酷い人。こんな風に残酷な断り方をするのだったら、私に薔薇なんて持って来なければよかったのに。
床に額と両手を付けて謝るイグニスに縋り付いて、お願いだから好きになって、と懇願しそうになっていたけれど、美しく、気高い私でいて欲しいと言われたから、そんなみっともない真似は出来なかったわ。
私なんて気高くなんてない、子供のような考えしか持っていない世間知らずの小娘なのに…。
いいえ、だからこそ、お断りをされたのかもしれないわ。
王族の血縁のお陰で美しく生まれる事が出来たけれど、私ってそれだけなんだわ。
中身がからっぽの綺麗なだけのお人形さん。…あの人にはそう見えていたのかもしれないわね。
それに私は公爵家の娘だもの。優しくしてくれたのは当たり前なのよ。あの人は私情を挟まずに、騎士として親切に接してくれただけ。最初に分かっていたのにね。イグニスは本当に本当の騎士だと。
私はいつから自分だけが特別だと勘違いをしていたのかしら?
もう、自分自身が嫌になっちゃうわ。
家に帰ってからは、ラウルスが心配そうに周りをウロウロしていたけれど、構う余裕なんてなかったの。
執務室で仕事を何日も先の分まで終わらせて、何もすることが無くなると、自己嫌悪が襲って来てどうにかなりそうだったわ。
執務室の机に突っ伏していると、扉が開く音が聞こえて誰かが入ってきたの。
石の床を足音も無く近付くのはきっとお祖母様。顔を上げれば無表情で佇む、予想通りの人物が私を見下ろしていたわ。
「フロース、また、しくじったのね?」
「……」
一ヶ月前の夜会の日と今日。私は二回も選択を誤った。
「果報は寝て待つものなのよ?」
「……」
そう、幸運の訪れは自然に時機が来るのを待たなければいけなかった。それにお祖母様は男の人は追いかけてはいけないって教えてくれたのに、我慢出来ないで会いに行って、この様。
「フロース、宝石商が来ているわ。客間へ」
「いいえ、今日は」
「来なさい」
「…はい」
誰かに会う精神状態では無かったのに、お祖母様に引っ張られて宝石商が待つ居間へと連行をされてしまったわ。
まだ夕方だったけれど、お兄様みたいに布団の中で丸まろうと思っていたのに、どうしてこうなってしまったのかしらね。
客間に居た商人は揉み手をしながら、丁寧に机の上に広げられた宝石の説明をしていたけれど、全く頭の中に入って来なかったわ。
サファイア、ダイヤモンド、エメラルド、天然真珠に短剣やナイフなどの柄や鞘に細工がされた小型の武器まで並べられていたわね。
でも、どれを見ても、美しく見えなかったの。机の上には、何一つ欲しいと思う品は置いていなかったわ。
「――ええ、もう説明は十分よ。少し考えたいから席を外してくださる?」
お祖母様の言葉に従って、商人は部屋から出て行ったわ。
机の上の中の首飾りをお祖母様は軽く摘んで、私の胸元に当てていたけれど、そんな物は意味を成さない事を知っているわ。
だってあの人は、いくら美しい、煌びやかな宝石を身に付けて着飾っていても、見向きもしなかったのだから。
「フロース、とっても似合っているわ。これにしましょう?」
「…いらないわ」
「どうして?」
「こんなものを付けていても、大切な人には気付いて貰えないから」
「……」
「それに、あんなに以前までは綺麗な宝石が欲しくって堪らなかったのに、今は全然輝いて見えないの。こんなもの、ただの石だわ。だから、もう、必要ないと…」
「そう」
今まではガラスケースに収められた宝石を見るのが大好きだったわ。買った宝石を眺めるのは勿論の事、身に付けるのも好きだった。新しく作ったドレスに合う宝石を選ぶのは至福の時間だったし、それを褒められるのも嬉しかったわ。
けれど、今は違う。私が欲しいものはこんなものではないの。
でもね、手にすることは出来なかったわ。
またお祖母様に呆れられる、って思っていたのに、優しく背中を撫でてくれるだけだったの。
「あなたは、宝石よりも美しく、掛け替えの無いものを見つけたのね」
「でも、駄目だった…手を伸ばしたら、避けられてしまったわ」
「そう。でもね、本当に欲しいものは簡単には手に入らないものよ?」
「…?」
「フロース、あなたはそれを手に入れる為に何か努力をしたのかしら?」
「努力…?」
お祖母様に指摘をされて、その言葉を口に出してから、私は気が付いたの。私はまだ何の努力もしていないと。
頑張って、頑張って、駄目だったら、またさらに頑張ったらいいの。
私はまだ何も頑張っていない。だから悔しいと思ってもいい場所まで来ていないのよ。
頑張って、努力をしてから涙は流さなきゃいけないのだわ。
どうして今まで気がつかなかったのかしら?
「お祖母様、私、まだ何もしていない」
「そうね」
「イグニスを手に入れようって夢中になって、自分自身の努力を怠っていたわ」
「あら、気が付いた?」
「今までは誰かに頼ってばかりで、自分でどうにかしようと考えていなかったのよ」
「よく気が付いたわ。その通りよ。あの子、イグニス・パルウァエはね、とっても頑固な人なの。言い出したらきっと聞かない。決めた事は誰が何を言っても変えないわ。そんな人を公爵家の力で無理矢理ねじ伏せても、幸せにはなれなかったでしょうね。多分、イグニス・パルウァエもあなたのことが好きなのよ。でもね、好きなだけでは上手くいかないことも沢山あるのよ?」
「!! ……」
お祖母様は最初からイグニスを公爵家の婿として迎えるつもりは無かったのね。だから失敗するような作戦を考えたのかしら? だって作戦が失敗したのにお祖母様ったら悔しそうにしていなかったもの。
イグニスを公爵家に迎える事は不幸になる。
だったら私がする事は一つだわ。
「お祖母様、私の我儘を聞いていただけるかしら?」
「言って御覧なさい?」
「…公爵家のお仕事をお休みしたいの」
「構わないわ。あなたの他に人を入れようかと考えていたのよ。だから家の仕事は気にしないでちょうだい。それと公爵家の中のものは何でも使いなさい。私が許します」
「ありがとう、お祖母様!」
「さあ、行きなさい。時間とはこうしている間にも過ぎていくのですよ」
「はい!」
私は部屋を飛び出して、目的のものを探したわ。
一体何処に行ったのかしら? その辺に転がっていると思っていたのに、当てが外れたわね。
丁度近くを通りかかった執事を捕まえて、探しものの在り処を確認すれば、先ほど戻ってきたと報告をしてくれたわ。
お礼を言ってから、教えてくれたその場所に行けば、目的のものが居間で一人、うな垂れていたの。
こちらの様子に気が付くと、困ったような、途方に暮れたような、そんな表情で見ていたわね。何があったか知らないけれど、私に協力をして貰うわ。
「フロース…その」
「ラウルス、ちょっといいかしら?」
「…な、なんだい?」
「お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「……? ああ、勿論だ。私に出来ることであれば、だが」
「良かったわ」
「?」
椅子の上に座るラウルスの腕を掴んで、私はにっこりと孤児院で子供達を泣かせた微笑を向けたの。そして声だけは出来るだけ可愛いらしくお願いをしてみたわ。
「――ラウルス、私と新婚さんごっこをしましょう?」
「!?」
私の些細なお願いを、ラウルスは驚きの表情で聞いていたわ。




