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最近ね、気が付いたのだけれど、私って男嫌いが治ったのかしら?
以前までは嫌悪していた男性相手に、普通に接する事が出来るようになっているの。
この前だって市場に行った時に、腕に掴まっていたけれど何ともなかったし、休憩所で二人きりになっても居心地の悪さを感じないでしょう?それに全ての男性が変態であるとは限らないって分かったの。紳士的に接してくれる人も居るのに、今まで失礼な思い込みをしていたことを反省しているわ。
勇気を出して、この仕事を始めて良かったと今では思っているの。見識も広がった気がするし、苦手なものを克服出来たという達成感もあるわ!
--と、数時間前まで喜んでいたのに。
今現在、私は男の人に手を握られて、硬直をしている。
相手は私のことを知っているようだけど、全く記憶にないわ。私のことを褒めてくれているのに、ちっとも嬉しくないのは何故かしら?
それ以上に握られた手が気持ち悪くて、両腕には鳥肌が立っていて、額からは汗が吹き出ているのを感じているわ。背中からはゾクゾクと悪寒がしていて、心臓は早鐘を打つように激しく鼓動を鳴らしている状態が続いていたの。
どうしてかしら?男の人への嫌悪感は払拭されたのではなかったの?
自らに問いかけたけれど、湧き上がった不快な気分は拭われる事は無かったわ。
どうしていいか分からなくって、向けられた好意が恐ろしくて、思わず涙が浮かび上がって来そうになっていたから、瞬きをして何とか堪えようとしていたの。
…その場はイグニスが注意をしてくれて、事なきを得たわ。
私の手をいきなり握ってきた人の名前はイーオン・アストリム。後で思い出したのだけれど、以前ランドマルク領に居た時に、お見合いの話が来ていた男の人だったわ。勿論結婚なんてとんでもないと思っていた時期だったから、速攻でお断りをしたの。まさかこんな所で出会うなんて想像もしていなかったわね。
それに第七親衛隊所属、ということなので、嫌でもほとんど毎日顔を付き合わせるようになってしまうわ。
ーーああ、どうしましょう。
また迫られたら、私はどうすればいいのか分からないわ。一応この年で、異性に絡まれて泣いてしまうなんて恥ずかしいのは分かっているのよ?
涙なんて、自分の泣きたくない!という意思とは関係無しに溢れ出て来るものなの。自制心だけではどうにもならないものなのよ。
それから半泣き状態で休憩所を飛び出したけど、もう少しで就業時間も始まるし、お茶の用意をしなくてはと自分を奮い立たせて、食堂へ向かったのよ。
両手には不愉快な感覚が残っていたけれど、このまま逃げ出したいという気持ちを我慢をして、侍女としての勤めを優先したわ。
◇◇◇
――今日も一日が平穏に過ぎ、夕暮れと共に就業時間は終わりを告げる。
何だか嫌な予感がするからさっさと帰宅をしなくては、そんな考えが脳裏を過ぎり、私は早足で廊下を歩いていたの。
でもね、悪い予感って当たるもので、今朝方同様にイーオン・アストリムに付き纏われていたわ。なんでも彼は私と食事へ行きたいそうよ?
ここは立ち止まって、はっきりとお断りをしなきゃいけない場面なのに、何だか怖くて無言でイーオン・アストリムの言葉を歩きながら聞き流していたわ。
「――いいお店を知っているんだ。今は旬の魚介類を使った料理が出されていてね…」
私はよく知らない人と食事はしたくないの。それにお腹もあまり空いていないのよ。
この空気の読めない男と出掛ける位なら、イグニスの夕食を食堂で準備して貰って、あの人が食べる様子を眺めたり、お食事のお世話をする方がずっと楽しいに決まっているわ。
――ああ、助けて、誰か!!
私の日ごろの行いが良かったからか、心の中で無意識に助けを求めていた人の姿があったの。
その人…イグニスの背後に逃げ込んで、助けを求めたわ。
「――助けて、お願い」
「!?」
喉の奥から搾り出した声は小さく、しかも震えていて、多分あの人には届かなかったでしょうね。
イグニスはいきなり背中の方へ隠れた私に驚いたようで、言葉に詰まっていたけれど、異変を即座に察知してくれて、イーオン・アストリムから助けてくれたの。
イグニスの上着を掴んでいる手はぶるぶると震えていて、我ながら情けないと思ったわ。
そんな自分の姿を確認して、やっぱり、男嫌いは治っていなかったのね、と落胆したのよ。
でも、どうしてイグニスは触れたり、近くに居ても平気なのかしら?
その日は頭の中がイーオン・アストリムのせいで混乱をしていたので、深くは考えなかったのよ。
その日、帰宅をした私はお兄様に一通のお手紙を書いて頂いたわ。送り先はアストリム伯爵家のご当主様宛に。無理を言ってそのお手紙を本日中に届けて貰ったのよ。
翌日からイーオン・アストリムは私に近付かなくなったので、安心する事が出来たの。
…それにしても公爵家のお手紙って効果抜群なのね。
イーオン・アストリムは私の顔を見ると、距離を取ってくれるようになったの。
それにしてもイーオン・アストリムったら、萎縮し過ぎでは無いのかしら?これでは私が苛めているみたいじゃない。お兄様ったら何を書いて送ったのかしらね。お祖母様ではないから、過激な事は書いていないと思っていたのだけれど。
◇◇◇
その後の日々は怒涛の展開だったわね。こんなにも色々な出来事が起こったのは、初めての経験だったわ。
まずは、王太子・セレスタイトに初めての公務を任されたの。いきなり当日にお願いしてくるものだから、焦ったわ。
私は王族としての教育を受けていなかったので、最初はお断りをしていたのだけど、セレスタイトに「逃げるの?」って挑発的に言われて、頭がカッとなって受けてしまったの。すぐに後悔したわ。
私がちょっとした粗相をすれば、それは国の恥になるの。そういうのも深く考えないで、売られた喧嘩を買ってしまったのよね。
それから一時間で視察する場所についての資料を頭の中に叩き込んで、支度を済ませて騎士の待つ場所まで行ったのは良かったのだけれど、もう一つ問題があることを忘れていたの。
…私、馬に乗れないのよね。
幸いな事に護衛を担当してくれたイグニスが乗せてくれる事になったの。だけど、お尻は痛くなったし、白くて綺麗な馬なのは認めるけれど大き過ぎて、乗ったときに地面が遠くて眩暈が起きそうになったわ。座った状態だけでも怖かったのに、それが動くってなったら、もう、訳が分からなくなって。結局イグニスにしがみ付いたまま、村まで行ったのよ。
やっぱり公務はお断りをすべきだったわ。だって、こんなにも周囲の騎士に迷惑をかけてしまったし、同じ職場の人達に醜態を見られてしまってとても恥ずかしいと思ったわ。
イグニスには平静を取り戻してからお礼を言ったけれど、笑顔で許してくれたのよ。度量の小さい私と違って彼は広量なのね。馬に乗っている間も嫌な素振り一つ見せなかったし、きちんと落ちないように支えてくれたの。
前にね、一度竜に跨った事があるのよ。その時はお父様と一緒に乗って来たのだけど、やっぱり怖くてお父様に力いっぱいしがみ付いていたわ。
王都に到着してから、お父様は私とは二度と一緒に乗らない、大変な目に遭った、って怒っていたのよ。お父様も私と同じて狭量な人間だから仕方がないことなのかしら?
そんな身内も嫌がる行為を「気にしないでくれ」って言ってくれたあの人には感謝をしなければいけないわね。
そんな事もあって、馬になんか二度と乗るものですか!と考えていたのだけど、イグニスが乗り方を教えてくれるっていうから乗馬を覚えてみれば、案外簡単に乗れるようになったのよね。
今では馬を可愛いって思う位の余裕があるわ。美しい森の中を駆けたらさぞかし気持ちが良いのでしょうね。
でもイグニスは遠乗りに誘ってくれないの。私もお祖母様みたいに頼まないと連れて行ってくれないのかしら?若い娘が男の人を遊びに誘うのは、はしたないことかもしれないけれど、あの人は積極的に私と話をしようとしないから、こちらから行くしかないのよね。
…論点がちょっとだけずれたわ。
これは苦手だからって決め付けて避けるのは良くないことだ、という事が分かったお話ね。
でも男の人が苦手だというのは克服出来なくってもいいわ。
イグニスが怖くないから、それだけでいいと思っているの。
◇◇◇
それから数日は平和な日々を過ごしていたわね。 その日も一日が終わってパライバや隊員達の飲んだ紅茶のカップの回収をしに執務室に行ったの。もしかしたら夜勤のイグニスが仕事をしているかもしれないと思って、軽食と一緒に新しく淹れた紅茶も持っていったのよね。
その日のイグニスは元気が無くって、どうしたのかしら?って心配していたのだけど、私なんかに相談して心が晴れるなんて思わなかったから、何も聞かないで紅茶だけ置いて出て行こうとしていたの。
でも、その前にカーテンが開きっぱなしだった事に気が付いて、閉めてから退室しようとしていたのよね。
で、カーテンを閉めたまでは良かったのだけど、振り返った時にイグニスの後頭部の一部が円形状に禿げていることを発見してしまったのよ。
もしかして元気が無かった理由はこれかしら?見なかった振りをしたかったのだけど、発見した瞬間に「あら?」って声をあげてしまったのよね。
もしかして、心因性の精神的な緊張による脱毛なのかしら?
いえ、ね、以前ラウルスが妹離れをしようとしていて、結果的に気を病んでしまって、円形の禿げを作ってしまったのよね。
お医者様に見せたら頭部の皮膚疾患と診断されて、一時期お薬を飲んでいたの。
でもイグニスは違ったみたい。なんでも馬に髪の毛を食べられてしまったのですって。どういう状況でそうなったのかは謎だけど、凄い落ち込みようだったわ。
ラウルスは髪の毛が長かったから、なんとか隠せる髪形にして誤魔化せたけれど、イグニスの場合は短髪だから難しいわね。周りの髪の毛でどうにか隠せないか頑張ってみたけれど、全然駄目みたい。
それにしても意外だったのは、イグニスの髪の毛。
ずっと整髪料か何かで髪を立てているものだと思っていたけど、ただの癖毛なのね。まあ、冷静になって考えてみれば、この人が毎朝鏡の前で髪を整えている姿なんて想像できないわ。そんな風に格好にこだわる人には見えないもの。
その事が分かって、何だか安心をしてしまったわ。
それからイグニスは後頭部の禿げを気にしていたけれど、なんとか励まして元気を取り戻して貰ったのよ。
まさか孤児院で覚えた子供をあやす技術がイグニス相手に役立つなんて思いもしなかったから、驚いたものよね。




