28
身なりを整え、医務室から出ると副隊長であるイリエ・ロンバルトが居た。これからの予定は閉会式を行い、その三時間後は王城で開かれる夜会への参加が決まっているらしい。現在二名の親衛隊員が殿下の護衛任務に就いているので、そいつらと交代して閉会式は貴賓席後方での警護となる予定だとイリエは言った。
「六日間お疲れ様でした」
「いやいや、お前の方が大変だっただろ。あいつらちゃんと言う事聞いたか?」
「……」
御前武道会の前日も休みを貰ったので、合わせて七日間イリエが隊長業務を務めていた。きちんと言う事を聞いたか?の問いかけに対してイリエの表情は険しくなる。大変だった事を汲み取ってイリエの背中を一発叩いて慰めた。
貴賓席の端に座っていたパライバ殿下に戻って来ましたと報告すると、こちらを振り返って御前武道会の健闘を称えてくれた。
そして閉会式が始まる。
開会式同様に精霊教会のお偉方の話から始まり、優勝した者が受け取れる魔技工士の手によって作られた剣が公開された。驚いたことにその剣はラウルスの叔父の手によって製作された品で、世界のどこかにある【花守りの剣】の対となるものだと説明される。
…花守りの剣って俺がラウルスの叔父さんから貰った魔剣じゃないか!
あのオッサンが一体何を考えて製作をしたのかは謎だ。
その剣の名前は【炎撃の剣】というものらしい。【花守りの剣】とは夫婦剣だと追加で解説される。
どうして近衛団の総隊長と揃いの夫婦剣を所持しなければならないのか。ますます理解が出来なかった。
炎撃の剣、という勇ましい名前とは裏腹に、白い柄に白い鞘、剣身は白銀で花の模様が刻まれているという。ラウルスの叔父さんから貰った花守の剣の柄や鞘は暗い赤で、剣身は普通の剣の色と変わらない。もしかしなくても炎撃の剣と名前が逆なのでは?と考えてしまう。
泥で泥濘んでいた地面は綺麗に整えられ、一部に赤い絨毯が敷かれている。出入り口から優勝者である近衛団のバーンズ・オリガーン総隊長が姿を現すと、会場内は歓声に包まれた。その後にはフロース様がラウルスを伴って出て来る。
精霊教会の司祭が祝福の祝詞を読み上げ、フロース様の手から片膝を付いたオリガーン総隊長に渡される。
受け取った剣を抜き一度振りかざしてから、捧げるように両手で持って高い位置まで上げる。フロース様は剣の平を手で支え、その中心に口付けをした。
神聖なる聖剣の姫君の儀式は以上で終わりだと、精霊教会の司祭によって告げられる。
……あれ?今の姫君による聖剣授与の儀式、何かおかしかったような?気のせいだろうか。総隊長に口付けをしなかった気がするのだが。
頭の上に疑問符を浮かべながら陛下による閉会宣言を聞いていると、正面を向いたままのパライバ殿下から声がかかる。
「イグニスよ。今宵の夜会だが」
「はい」
「フロースと参加をしてくれ」
「パライバ殿下の護衛は…?」
「必要ない。他の者に頼んでおる」
「分かりました」
殿下の命令は絶対だ。疑問に思う事があっても口に出してはいけない。分かっているが、何故フロース様と夜会に参加をしなければいけないのだろうか?今日は怪我も全快状態で、おまけ髪も切って男前になった護衛を連れていたというのに。
こうして六日間にも及ぶ御前武道会は幕を閉じる。
大会の歴史ある書物に近衛騎士団の新たなオッサンの勇姿が追加される事を思うと、感慨深く思った。
夜会までの三時間はイリエからこの七日間にあった事の報告を聞き、ついでに仕事も片付ける。明日も休むよう殿下に命じられたので、次の出勤が明後日となってしまうのだ。
三時間という時間はあっという間に過ぎ去り、そろそろ夜会がある会場へ向かわなければならないなと壁掛け時計を見上げる。
そういえばフロース様とはどこで落ち合う事になっているのだろうか。そんな疑問を考えていると、執務室の扉が開かれた。入って来たのは偶然にも頭の中に浮かんでいた人物で、フロース様本人だった。単独で来たのか供の姿は無い。
「こんな所に居たのね。探したわよ」
藍色のドレスを纏って現れたフロース様はいつも以上に美しく見える。袖の無いドレスは胸元が大きく開いている形をしており、ふんわりと広がったスカート部分には小さな宝石が散りばめられているのか、キラキラと輝いている。髪の毛は一つに纏められており、動く度にビラの付いた金の髪飾りがしゃらしゃらと音を立てていた。
いつの間にか腕を取られ、執務室の机から引き離されていた。イリエに見送られ、夜会会場へと向かう。
聖剣の姫君の口付けについて聞きたかったが、フロース様は一言も喋らないまま進むので、こちらから話しかける事も出来ずに目的の場所へと到着する。
「お父様とお祖母様が来ているのよ。挨拶に行きましょう」
「はい」
会場の人込みの中でも、アルゲオ様とフェーミナ様はすぐに見つけ出す事が出来た。若草色のドレスを着たフェーミナ様はこちらの存在に気が付いて微笑み、手招いてくれた。隣に居る前髪を下ろしたアルゲオ様は、着こなした礼服との相性がいいからか、年齢よりも随分と若いように見える。そんなお二方の周辺を見渡したが、ラウルスとレグルス様は来ていないようだ。
「あら、もう来ていたの。そのドレス、素敵ね」
「ありがとう、お祖母様」
「イグニス、先日はとても楽しかったわ」
「お誘い頂きこちらも楽しい時間を過ごす事が出来ました。それに私には勿体無い贈り物も…」
「気にしなくていいのよ」
フェーミナ様の前では自分の言葉使いが大丈夫なのか分からないので、ついつい口数も少なくなる。
「母と娘が我儘ばかり言ってすまないな」
「いえ…」
気が付けばユースティティア家の輪の中に取り込まれ、挨拶に来る人に「こいつは何者だ?」と言わんばかりの鋭い視線が向けられる。だんだんと何故自分がこの場所に居るのか分からなくなって来た。フロース様はぴったりと身を寄せているし、それを誰も注意しない。先ほどからやって来る、若い貴族の男を追い払う為の番犬代わりかもしれないが、それだったらラウルスでも出来るのではないかと指摘したい。
「――なんだか疲れたわ」
自分の心の声が出てしまったかと思えば、フロース様の呟きだった。
可能ならばこのまま家に帰りたいと密かに願う。頭の中に湧き上がる邪な雑念は、寒空の下に出れば吹き飛んでしまうかもしれない。
「そう。ではもう下がってもよいですよ。大丈夫よね、アルゲオ?」
「はい。挨拶をしなければいけない者は全員来ましたので」
「ですって。良かったわね、フロース。休む場所は知っているかしら?」
「大丈夫」
「明日のお昼までには帰るのよ」
「分かっているわ」
…何だ、随分長い門限だな。今日は帰らずに城に泊まるという事なのだろうか?
事情を把握出来ないまま、部屋まで送り届けようとフロース様の隣を歩く。
しばらく歩くと王族しか入れない区間に入り、たどり着いた部屋の扉をフロース様は叩く。中から出てきたのは金髪碧眼の見慣れた変人の姿だった。
「やあ! 早かったね。一人で待ち草臥れていた所だ」
「……何をやっているんだ? ラウルス」
「何って、いい子でお留守番をしていたのだよ。さあ、中へ入ってくれ」
「いやいや、俺はもう帰るよ」
「そんなことを言うなよ、水臭いなあ。今晩は語り明かそうではないか」
「ま、待て、本当に」
ラウルスから腕を取られ、部屋の中へ強引に引き入れられてしまった。
「ちょ、おま」
「さらばだ、心の友よ! 素晴らしい夜を楽しみたまえ」
「は?」
扉を閉めた音と鍵を閉めた音が同時に鳴る。どういう素早さを用いて行った技術なのかは謎だ。鍵を開けてラウルスを追いかけようとしたが、扉のつまみの下にあるのは鍵穴だけだ。内からも外からも鍵が無いと開け閉め出来ない種類の扉らしい。戸口を叩きながらラウルスの名前を呼んだが反応は返ってこなかった。
恐る恐る振り返るとフロース様が長椅子に座り、こちらを見ている。
「あの、一体」
「少しお話をしましょう」
「いや、しかし」
「ここに来て、座りなさい」
「……はい」
命令されると素直に従ってしまう癖をどうにかせねばと思った。
◇◇◇
部屋の天井には明かりの類は無い。机の上にある小さな灯火が仄かな光を放っているだけで、外の月明かりの方が明るいのでは、と思う位に部屋の中は薄暗いものだ。
フロース様は水差しの水をコップに注いで差し出してくれる。相変わらず何を考えているのか全く理解出来ない。
「――ゆっくり話がしたかったのよ。あの場所じゃ騒がしくて」
「そうでしたか」
「ええ。それでね、話なのだけど」
「はい」
「侍女の仕事ね、昨日で終わりだったの」
「え?」
「新しい侍女の子が決まってね、それを言いたくって」
「……」
フロース様の後任は随分前から決まっていたらしい。今まで忙しくて言えずにいたのだと言う。
「だからね、今日で最後なの」
フロース様の視線を感じていたが、まともに見る事が出来なかった。頭の中は混乱をしているのだと思う。部屋の奥にある扉の先には寝台がある。こんな場所に男を連れ込んで、フロース様は本当に何を考えているのだろうか。あまりにも危険意識が無いのでは?と責めたい気持ちを押し止める。
寧ろ誘っているのだろうか。頬に口付けをした位だから嫌われてはいないのかもしれない。それ以上にフロース様の好意と思わしき感情を感じる時もあった。もしかして、フロース様は俺の事が好きなのでは?そんな都合の良いものまで浮かんできて、首を振って我に返れと自制する。
――馬鹿馬鹿しい。そんな訳があるか。
姉が言っていたではないか、男はすぐにこちらに好意があると勘違いをする気持ち悪い生き物だと。
気持ちを落ち着かせる為にコップの中の水を一気に飲み干す、と同時に激しく咽せてしまった。
「ちょっと大丈夫なの?」
コップの中身は酒だった。喉が焼けるようにヒリヒリと熱い。というか舌先も喉も痛い。何故水だと思い込んでいたのか。本当に馬鹿だ。
体を半分に曲げて咳き込む俺の背中をフロース様が優しく撫でてくれた。最後までお世話になるなんて本当に恥ずかしい話だ。
「少し横になる?」
「いえ、大丈夫です」
咳もなんとか治まり、これでは馬に乗って帰れないなあとボンヤリ考えながら、すぐ目の前にある素晴らしく白い谷間を凝視する。
「胸、寄せて上げているだけだから」
「……」
ーーご本人様の自己申告により、偽りの山だという事が発覚した。
しかしとても白くて、柔らかそうで、おいし…ではなくて、お綺麗ないい胸だと思ったが、余計な感想は伝えないほうがいいと思って口を閉ざした。
「…あの、フロース様」
「なによ」
「もう、帰ってもいいですか?」
「駄目よ」
「……」
酔っ払っているのか思考や行動がどんどん危ない方向へ向かっているのを、フロース様は気付いているのだろうか。早くここから抜け出して、冷たい水でも頭から被って正気を取り戻さなければならない。
机の上に部屋の鍵は無い。フロース様の手は膝の上にあり、何か持っているようには見えなかった。
「何か、私に言いたいことや聞きたいことはない?」
「……」
「今日で最後なのよ。何でも言ってちょうだい。この小娘が、って思った事も一度や二度じゃないでしょう?」
「そんなことは一度も」
「そう? 他は…」
「昼間の…」
「え?」
「祝福の口付けの練習に意味はあったのですか? 本番と形式が違ったように見えましたが」
「……」
「知らなかったのですか?」
「いいえ」
「では何故あのような意味の無いことを?」
「――意味は、あるわ。頬に口付けをしたいと思ったからよ」
「!!」
ぐらりと視界が歪む。酔いのせいだろうが、意識も散漫となる。しっかりと抑えてあった理性までもが緩んでいく気がして、これではいけないと手のひらを握り締める。自我を保とうとするが、フロース様に腕を掴まれあっさりと理性に蓋をする集中力も途切れてしまった。
視線を横にずらせば深緑の瞳とぶつかり、言いようが無い支配下に置かれたような錯覚を覚える。このままでは呑み込まれて、訳が分からない状況になってしまう。
――ならば、奪われるまえに、奪えばいい。
そう思って近くにあった肩を引き寄せ、頬を撫でて髪を留めていた櫛を引き抜く。するとその櫛だけで留めていたようで、纏まっていた髪は崩れ散り、体の線に沿って流れる。
フロース様は抵抗する所か、嫌がる様子も無い。大人しく潤んだ瞳でこちらを見上げるだけだ。しかし、ここまで来たのに目が合った瞬間に逸らされてしまった。
「…ねえ」
「……?」
「こういう時ってどうすればいいのかしら?」
「……はい?」
フロース様は何を言っているのだろうか、意味が分からない。行為を受け入れて良いのか悪いのかの区別が付かないという意味だろうか。二十五にもなる娘が何を言って…
「…は、初めてなの。男の人と、こういう風な雰囲気になるのが」
「……ナンダッテ?」
「え? ここまで言わせるの? ……男の人とお付き合いした事がないから、どう反応を返したら良いか分からないって言っているのよ!! もう!!」
「……」
「フ、フロース様、は、その、ずっと今までラウルス一筋で」
「十二歳の頃から十二年間、ラウルスが王子様に見える呪いがかかっていたのよ」
「……」
どこからか見えない冷水を頭からかけられた気がした。酔いも一気に醒める。
「ねえ、続きを早くしなさいよ。……でもその前にどうすればいいのかを教えなさい」
「……」
「ねえ、聞いているの!?」
「うわあああああああ!!!!」
気が付いた時には叫びながら窓から外へ飛び出していた。飛び込んだ瞬間にここが二階だったことを思い出す。
――ああ、死んだな。
自らの死に際を咄嗟に悟る。
短いような、長いような、そんな人生だった。田舎者の俺が王族の親衛隊長になって、密かに憧れていた御前武道会に出場出来たなんて凄いじゃないか。それだけで十分だろう。
親孝行をしようと、御前武道会の入場券と旅費も送ったが、王都は遠いから行きたくないと入場券だけ送り返されたりもして、結局親孝行も出来ぬまま散っていくのが唯一の心残りだ。……どうでもいいが母さんよ、旅費はどこに消えた?
でも、死ぬんなら勇気を出してフロース様に口付けの一つ位しておけば良かった。……いやいや、駄目だ。男性経験がある娘ならまだしも、生娘なフロース様に責任を取れない奴が手を出すなんて勝手過ぎる。そうだ、自分の選択は間違っていない!!
いい人生だった。素敵な思い出をありがとう、フロース様!!
落ち行く一瞬の間に様々想いが脳裏を過ぎる。が、体は自然に着地の体勢となり、地面に接する前に受身を取って、ごろごろと地面を転がって、植木にぶつかり止る事となった。
――生きてる、俺、生きてる!!
奇跡的に助かった命を神に感謝をしていると、背後からフロース様の叫び声が聞こえて我に返る。
その姿を振り返る事が出来ずに、そのまま走って逃げてしまった。




