第49話 本心
頭を下げたまま、しばらくの沈黙が訪れる。夏織さんの様子は分からない。怒っているのか、悲しんでいるのか……それとも。
「何を……」
「夏織さん?」
「何を言っているんだ、怜……」
顔を上げると、夏織さんは口元を手で覆って目を丸くしていた。たぶん驚いているのだろうな。俺からは何も言えない。夏織さんが何を思うか、ただそれだけだ。
「覚えていないのか? あの日、怜は……」
「今まで言い出せず、本当に申し訳なく思っています」
「わっ、私に『お嫁さんに貰っても』なんて言ったのも?」
「……ごめんなさい、全く覚えてないんです」
正直に打ち明ける。覚えていないのだから弁明しようもない。俺が夏織さんに発した言葉、文章、メッセージ。何もかもが記憶から抜け落ちている。
「どうして……」
「えっ?」
「どうして言ってくれなかったんだ、怜……」
呆然と立ち尽くしたまま、微かに口を動かした夏織さん。今の状況が信じられないといった表情だ。俺にずっと隠し事をされたことが予想外だったのかもしれないな。
「あの日、地下鉄の駅で夏織さんに声を掛けられた時、僕は何が起こったのか分かりませんでした」
「あ、ああ」
「急に飲みに誘われて、電話番号を渡されて。びっくりしたんですけど……」
「それで……?」
「――心のどこかで、嬉しく思う自分がいました。夏織さんみたいに綺麗な人と飲む機会があるなんて、思いもしなかったですから」
夏織さんは俯き、黙り込んでしまう。平手打ちされても仕方ないと思っていたのに、ちょっと意外だな。こうなったら、全部正直に言うしかないか。
「いざ居酒屋に行って、状況を理解しました。昨日の自分が夏織さんと会っていたんだなって」
「……」
「正直に『覚えてない』って言おうかとも思いました。だけど、出来ませんでした」
「どうしてだ?」
「夏織さんとまた飲みたい、そう思ったからです」
「えっ?」
「『嫁に貰っても――』とか言ったのに覚えてない、なんて嫌われてしまいそうだなって。だから、今の今まで言い出せませんでした」
目の前の夏織さんは、下を向いたままだった。これは……どっちなんだろう。受け入れてくれるのか、あるいは拒絶されるのか。どんな結果になろうとも、俺の行いが招いたことだ。言い訳するつもりはない。それでも、夏織さんには――
「……怜は」
「へっ?」
「怜は、嘘つきだ……!」
顔を上げた夏織さんは、目から大粒の涙を流していた。垂れた雫が地面を濡らし、雲の隙間から差し込む光を反射している。嘘つき、という言葉に夏織さんの本心が詰まっているような気がした。
「私にっ、『お嫁さん』って……怜がっ、言ったのに……!」
「夏織さん……」
「怜がっ、私をっ……! お嫁さんにしてくれるって……!」
夏織さんは両手で顔を覆ったまま、泣きじゃくった。その姿はあまりに悲痛で、俺の心にもぐさぐさと棘が突き刺さるような心地だった。あの夜、俺が言った言葉は宙に浮かんで消えてしまったのだ。
この人にとって、俺の言葉は宝物だったのかもしれない。だから今まで俺と一緒にいてくれたのかもしれない。だけど、宝物が偽物だったと知ることになれば――誰だって悲しむに決まっている。
何という言葉をかければいいのか分からない。謝って済む話ではないのだから、俺はただ夏織さんを待つしかない。どうか、どうか――
「……怜の、ばかっ!」
「かっ、夏織さんっ!」
その瞬間、夏織さんが元来た道へと駆け出した。一歩、また一歩と踏み出していく姿がスローモーションのように見える。俺はどうすればいい? 車椅子ではとても追いつけない。じゃあ諦めるのか? 今度こそ、夏織さんと二度と会えなくなってもいいのか? ……違うっ!
「待ってくださいっ!!」
気づけば、車椅子を蹴りだすようにして――走り出していた。




