第44話 良い薬
松岡は台所に立って、鍋を火にかけているみたいだ。良い「薬」と言っていたけど、何を持って来たんだろう。まさか漢方薬でも温めているわけではあるまいな。
「温まったかな。怜くーん、適当に器借りるよー!」
コンロの火を止めて、松岡は鍋から何かをよそっていた。何かの料理? 鼻が詰まっていて匂いも分からない。だいたい、良い薬ってのはどんな意味なんだ?
「まつ――げほっ、げほっ……」
声を出そうとして、再び咳き込む。高三の頃に一度壊れた俺の体。すっかり治ったと思っていたのに……また脆くなってしまったのか。
「はいっ、お待たせ!」
聞こえてきた声に、ハッと視線を上げる。松岡はお盆を持って歩いてきて、ベッドのそばに座った。身体を起こして、載せられた器の中を見ると――
「肉豆腐だよ、怜くん!」
濃い醤油で煮つけられた豆腐と牛すじの上に、たっぷりの青ネギが乗っていた。茶色と緑のコントラストが見るも鮮やかで、思わずよだれが出そうになる。詰まった鼻を突き抜けるような、そんな良い香りが漂っていた。
「これ、お前が……?」
好みの料理だし、居酒屋でもよく頼むけど……こんなに美味そうな肉豆腐を見たのは初めてだ。まさか松岡がこれを作ったのか? いや、そんなに料理の上手い奴じゃ――
「篠崎さんだよ。怜くんのために作ってもらったんだ」
「……へっ?」
思わぬ返答に、思考が停止する。夏織さんが? 俺のために? ……わざわざ、肉豆腐を?
「昨日うさぎたんから事情を聞いたとき、篠崎さんも一緒にいたんだよ」
「か、夏織さんが?」
「体調を崩しているかもしれないから、何か栄養のつくものを――って言ったら、気合を入れて作ってくれたんだ」
「……そうか」
「怜くんのためにここまでしてくれるんだからさ。篠崎さんの気持ち、信じてあげたら?」
そう言って、松岡は器と箸を差し出してきた。近くで見るとますます美味しそうに見える。どうして夏織さんはここまでしてくれるんだ。あの人は、まだ……俺のことを待ってくれているのか。
「……いただきます」
箸を持って、よく煮られた豆腐を崩した。そのかけらをつかみ、口の中に運ぶ。……牛肉の味が染みていて、信じられないくらいに美味い。今まで食べた肉豆腐の中で一番かもしれないな。
「うん、美味しいよ」
「おおっ、良かった!」
松岡はほっと胸を撫でおろしていた。咀嚼するごとに、熱々の汁が口の中に広がる。久しぶりの感覚だ。やっぱり物を食べると心が安らぐ。積もり積もった心の疲れが、一瞬で癒されていくようで――
「ずっとまともに食べてなかったからさ、本当に……」
「れ、怜くん?」
「いや、大したことじゃないんだ。気にしないでいいからさ……」
「怜くん……」
一口食べ終えた時には、涙を流していた。美味しいからもっと食べ進めたいのに、身体が動かない。松岡は本当に良い薬を持ってきてくれたんだな。
「ほ、本当に大丈夫? 食べないんだったら、冷蔵庫に――」
「大丈夫だ、ゆっくり食べるよ。ありがとな」
夏織さんはどんな気持ちで料理をしていたのだろう。忽然と姿を消した俺という人間に対して、何を思って豆腐を煮ていたのだろう。それでも……夏織さんが、俺のために行動してくれたことはたしかなんだ。
箸で豆腐を崩し、肉をほぐす。本当に少しずつ、少しずつ肉豆腐を食べ進めていった。
***
「悪いな、洗い物まで」
「いいよいいよ、休んでて!」
なんとか完食すると、松岡は食器洗いまで買って出てくれた。俺は再びベッドの上で横になりながら、ゆっくりと考えを巡らせる。
いくらか心は平穏を取り戻した。さっきまでのネガティブな気持ちはだいぶ消えた気がする。だけど……体はすぐに良くなるわけじゃない。
「終わったよー!」
そんなことを考えていると、松岡が台所から戻ってきた。洗った鍋を保冷バッグに入れて、しゃがんだまま荷物をまとめている。とにかく、今日はこの親友に感謝しないとな。
「いろいろありがとな。助かったよ」
「ううん、僕は何もしてないから」
「いや、お前が来なきゃ――」
「怜くんが本当に感謝しなくちゃいけない人、いるんじゃない?」
松岡はズボンのポケットからスマホを取り出し、何やら操作していた。何をしているのかと思うと、通話を保留にした状態でこちらに渡してくる。電話先の名前は……「うさぎたん」?
「お前の彼女と電話してどうするんだよ?」
「いいから、早く話してあげて」
首をかしげながら、松岡のスマホを受け取った。保留を解除して、そっと耳に当てる。すると――
「……怜、怜なのか?」
凛とした声が、俺の鼓膜を震わせた。




