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居酒屋で記憶をなくしてから、大学の美少女からやたらと飲みに誘われるようになった件について  作者: 古野ジョン


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第38話 沈黙と涙

「ど、どうしたんだ怜?」

「すいません、夏織さん……」


 どうやって夏織さんと出会ったのか。国分町の飲み屋で、とだけ言えば済む話だろうが、この「隠れファン」どもはそれで納得してくれるのだろうか?


「わ、私が怜と出会ったのは――」

「篠崎さん、今は岸本さんに聞いています」


 夏織さんが代わりに答えてくれようとしたのに、遮られてしまう。もしこの二人に詳細を問い詰められたら、俺は満足いく回答を示すことは出来ないだろう。


 たしかに俺はあの夜のことを打ち明けなければならない。今まで黙っていて申し訳ありませんでした、と夏織さんに頭を下げるのが筋に決まっている。だけど……こんな連中に強いられて白状するのは違う!


 雨はさらに激しさを増していく。このままでは夏織さんに風邪をひかせてしまうけど……こんな狭い歩道で挟み撃ちされては身動きも取れない。どうすればいい、どうすれば――


「岸本さん、あなたが何も答えなければ篠崎さんがびしょ濡れになりますよ?」

「黙れっ!!」

「れ、怜!?」


 反射的に叫んでしまった後、ハッとして我に返る。明らかに動転した夏織さんを見て、しまったと後悔した。この人の前で――取り乱したところを見せたくなかったのに。


「怜……本当に、どうしてしまったんだ……?」

「夏織さん……」


 夏織さんは呆然とした様子で、ショックを隠すことが出来ていなかった。それでも心配そうな目で、俺のことを見てくれている。失望したというよりは、俺のことを気遣ってくれているのか。……優しい人だな。


「!」


 その時、車道の向こうからタクシーが走ってくるのが見えた。本来なら流しのタクシーなんか滅多に走っていない場所だけど、運が良いのか悪いのか。隠れファンの二人に気づかれないよう、そっと遠くの運転手にアイコンタクトを取る。


「だ、大丈夫か? 怜、さっきから――」

「夏織さん、乗って!」

「え?」


 こっちの意図に気づいてくれたのか、運転手が俺たちのもとにタクシーを寄せてくれた。それと同時にファンの二人がハッとして近づいてくるが、夏織さんに触れさせないように俺のもとに引き付ける。タクシーの扉が開いたのを見て、俺は必死に夏織さんを促す。


「夏織さん、いいから乗って! 早く!」

「れ、怜!?」

「篠崎さんっ、乗っちゃだめですっ!」


 夏織さんはタクシーの前に立ったまま困惑している。やはり「ファン」というだけあって、二人は夏織さんを無理やり引き戻すことは出来ないようだ。その代わりに俺の服を掴み、夏織さんから離そうとしてくる。


「早く! 夏織さんっ!」

「でも、怜はどうす――」

「夏織っ!!」


 必死のあまり、呼び捨てにしてしまった。しかし――それが効いたみたいで、夏織さんは意を決してタクシーに乗ってくれた。夏織さんが何か運転手と会話を交わしたあと、扉がバタンと閉まり、タクシーが発車する。


「あっ、あなた……」


 先に話しかけてきた方のファンは呆然とした様子だった。通せんぼをしていた方のファンも、俺の肩を掴んだまま戸惑っている。俺はゆっくりと二人の手を振り払い、両方に告げた。


「お前ら、森宮大学の一年生だな?」

「そっ、それがどうしたというんですか?」

「この件は然るべき機関に通報させてもらう。立派なストーカー事案だ」

「何を言って――」

「昨日お前らが俺に突っかかって、今日は水族館でばったり遭遇。そんな偶然があるわけないだろ!?」

「「……」」


 二人の答えは沈黙だった。人に散々「答えろ」と言っておきながら、都合の悪い質問には全く答えない。こんな最低のファンに追いかけられるなんて、夏織さんが不憫で仕方がない。


「あっ、あなたこそ!」

「は?」

「あなたこそ、どうやって篠崎さんとお近づきになったんですか!? きっとあくどい手を使ったんでしょう!?」

「お前らにそんなこと言われたくねえよ! 変態ストーカー野郎ども!」


 本当はさっきから怒りが爆発しそうだった。せっかく二人でのデートを邪魔されて、しかもキレたところを夏織さんに見られる羽目になった。許せるはずがない!


「大学当局、必要なら警察にも伝える。覚悟しておけ」

「ふ、ふんっ! 私たちの名前も知らないで――」

「経済学部一年の中で夏織さんが見たことのある人間は相当限られる。総当たりすればお前らに行き当たるのも時間の問題だろうな。違うか?」

「くっ……」

「その気になれば白兎桜から情報を貰う。お前らだって知っている人間だろう?」

「あっ、あの女……! どうしてあなたなんかに……!」

「じゃあな。これに懲りたらストーカーはやめろ」


 二人に別れを告げて、土砂降りの中を歩いていく。ポケットに入ったスマホはさっきからずっと震えっぱなし。きっと、夏織さんが心配してかけてくれているのだろう。


「……」


 スマホを取り出し、画面を見る。やっぱり発信主は夏織さんで、しかも既に何件も着信履歴があった。


 俺は応答したくなかった。今の状態で、夏織さんに何を言えばいいのか考えが浮かばなかったからだ。だけど……心配もさせたくないしな。ややためらってから、雨に濡れたスクリーンをタップした。


『れ、怜! 無事だったか!』

「夏織さん……」


 声を聞いて安心した。走行音が聞こえてくるから、恐らくタクシーの中から電話をかけてくれているのだろう。


「僕は無事です。心配をおかけしました」

『さっきの二人は何だ!? 何だったんだ!?』

「僕がなんとかしました。もう夏織さんに迷惑をかけることはないと思います」

『そうか。せっかく怜と二人で出かけていたのに、邪魔をするなんて……極悪非道な連中だな。腹を切ってやりたい』


 あの夏織さんが極悪非道とまで言うのだから、どんなに俺とのお出かけを楽しみにしてくれていたのか痛いほど分かる。そして……最後までデートを完遂出来なかった己の未熟さを恥じる。もっと早くあの夜のことを打ち明けていれば、こんなことにはならなかった。


「すいません、夏織さん。僕のせいです」

『な、何を言ってる!? 怜は少しも悪くないだろう!?』

「いいんです。お見苦しい真似をして、申し訳ありませんでした」

『怜……』


 通話先から聞こえるか細い声に、胸が締め付けられた。夏織さんは、今どんな思いをしていることだろう。動揺、不安、心配。何より、寂しい気持ちを抱えているに違いない。


 本当は今すぐ走り出して、タクシーに追い付きたかった。たとえ追いつけないと分かっていても、そうしたかった。


 だけど、理性が俺を踏みとどまらせている。いまの自分が冷静でないことは重々承知。だから……もし夏織さんと会ったところで、うまく出来るか自信がない。


「夏織さん、今どちらに?」

『えっと……今朝一緒に降りた駅に向かっている。怜、そこで――』

「僕のことは待たなくて大丈夫です。雨もひどいですし、このままお開きにしましょう」

『……』

「夏織さん?」


 何も聞こえなくなったので、俺は立ち止った。雨が身体に降りしきる。冷たい水滴を感じていると――


『い、嫌だ!』

「えっ?」

『私はまだ怜と一緒にいたい! あんな形で今日が終わるなんて、私は絶対に嫌だ!』

「夏織さん……」


 心なしか、電話の向こうの声は涙交じりのようにも聞こえた。自分の目にも涙があふれるのを感じる。本当に……本当に、何の涙なんだ、これは?


『怜、私は待つぞ。駅でいくらでも待つ!』

「だ、駄目ですよ。どうか、先に……」

『私はっ、私は……! まだ怜と一緒にしたいことがたくさんある!』

「お願いですから――」

『怜に伝えようと思ったこともあるんだ! 今日の最後に、私が君に……』


 ここで電話を切るべきだと、これ以上夏織さんの気持ちを聞いてはならないと、分かっているはずなのに。こんなにも未熟な自分に、彼女の気持ちを受け取る資格などないはずなのに……!


『だからっ、怜……!』

「夏織さん」


 心を殺すとは、まさに今の自分のことなのだと思った。涙を目の中に引っ込めるような気持ちで、俺は電話の向こうに告げる。


「先に帰ってください。今日はありがとうございました」

『怜――』


 電話を切った。酷いことをしている自覚はある。夏織さんを傷つけたかもしれないとも思っている。だけど、これは今まであの夜のことを隠し続けた酬いなんだとも思った。


 今の自分に、夏織さんのもとに行く資格はない気がした。いや、今までもずっとなかったのに……それを改めて思い知らされただけなのかもしれない。


 これも自分勝手な考えで、最低な考えだ。だけど、全てを隠したまま夏織さんの隣にいることは限界だと悟った。


「……」


 雨の降る道を一人で歩く。靴はすでに汚れていて、今日のために新調したシャツもすっかり濡れてしまった。


 本当に、今日の出来事は夢のようだった。ワンピースを着た夏織さんは何者よりも綺麗で、自分の隣を歩いてくれることが奇跡みたいに思えた。だけど、夢にはいつか終わりがある。俺はただ、目を覚ましたくなかっただけなんだろうな。


 夏織さん、もう一度俺に会いたいと思ってくれるかな。いや、こんな不義理を働いた人間のことなど忘れてしまうか。それでいい。それでいいんだ。もう二度と……あの人には会えない気がする。


「さようなら、夏織さん……」


 やっぱり、タクシーには追い付かなかった。

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