はじまり
懐かしい。私のかけらと貴方の残滓。ただ懐かしくおもう。
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声がした方を確認する。いた。斜め前方から人がこちらへ向かい歩いてくる。
無骨な緑デジタル模様の迷彩服に、黒いコンバットブーツ。
歩くたびにキラリと金髪が光を受けて煌めく。
一体どこから来た? 何故今? 誰だ、コイツ。色々な疑問が押し寄せる。
だが。何故だろう。
軽い足取りで近づいてくる彼女から目を離せない。
こんな状況にも関わらずこの距離でもわかる笑顔を浮かべながら彼女は顔の隣で手をヒラヒラと振っている。
「ハァイ。日本人、まだ生きてるわね?」
一瞬、この女とデートの待ち合わせでもしていたのではないかと錯覚する。しかし
眼前で鬱陶しそうに耳を振るう化け物を見てすぐにそれを打ち消した。
「Faire mal Faire mal Faire mal!! ضوء! 」
叫びのような大音量。耳だ。
その巨体を揺らしながら彼女の方へどろりと体の向きを変える。俺にはヤツが威嚇しているようにも見える。
「ふーん、報告や通信で聞いてたのとはちょっと違うのね。なるほどこれはたしかにモンスターだわ」
彼女がそんな耳の化け物の威嚇を気にもしていないように呟いたのがはっきり聞こえた。
そして、彼女と目が合う。その碧眼を間違えるはずも、忘れるはずもなかった。
あの時見た、あの瞳と同じ。俺が沈む時に最後に網膜に焼け付いたあの碧だ。
「あ、あんた、なんで……」
息も絶え絶えに、俺は喘ぐように言葉を紡いだ、彼女はそれに答えない。ただ完璧なウィンクを俺に向けてかましてきた。
ここまでウィンクが似合う人間は見た事がない。彼女のための仕草のようにも思えた。緊張感や恐怖心とは別に心臓が少し、跳ねた。
そして彼女が歩みを止めて立ち止まる。
耳の化け物の矛先はすでに俺ではない。先程まで俺の方を向いていた耳穴はすでに彼女を捉えていた。
耳の化け物と彼女が俺の目の前で向かい合っている。
両者の距離は十メートル。
彼女の金髪が風に揺らめく。黄金の稲穂を思わせるそれが女性としては完璧なバランスを持つ長身の痩躯に映える。
風の音のみが世界に満ちる。
耳の化け物は爬虫類のように動かない。カマキリのような胴体。四本の節足のような人間の足。背中で揺れる体毛のような複数の腕。ヤツの脇腹……か?
その部分からは腸が垂れているようにあの長く歪な腕が引き摺られている。
立ち止まったまま彼女はポケットに手を
突っ込んでいる。男性的な所作が、気味の悪いほどよく似合っていた。
耳の化け物がゆっくりと体をかがめ始めた。それは引き金。解放される時をゆっくりと待っているかのようにも思える。
口の中に唾が湧いた。乾いた口内を唾液が満たしていく。喉を鳴らしながら俺はそれを飲み込む。
風が止まった。
はじめに動いたのは耳だ。
体を震わせたかと思うと彼女に向けて、走り出す。
四本の節足をわさわさ動かすその姿は見ていて、足の底が痒くなるような、筋肉が粟立つ、嫌悪感を呼び起こすものだった。
「ああああああアヤハか!?!?」
奇声。以外にどう表現すればいいけ分からない声をあげながら耳が彼女の元へ突っ込む。大質量の突進。それだけでも人など容易に殺してしまう。
トラックに轢かれた人間がどうなるかなど簡単に想像ができる。
「危ない!!」
思わず悲鳴をあげてしまう。やめろ、俺の目の前で俺を助けにきた人間が死ぬのだけはやめてくれ。
悲鳴をあげながら、彼女を見た。
化け物と彼女の距離が縮まり、ゼロ距離に近くなったその時、何故か彼女が笑った気がした。
虎かライオンが、人間のように笑ったように見えた。猛獣のような凶暴な笑みーー
怪物が走りながらその勢いのまま、地面に立ち尽くす彼女に向かい、鉄槌を振り下ろすかの如く耳を叩きつける。
草花が飛び散り、地面が砕けた。
あ……、終わった。
悲鳴もなく、流血もなく呆気なく俺の救出劇は終わった。
目の前でグリグリと叩きつけた耳を地面に擦り付ける化け物が映る。
もはやこの化け物を止められる者などいない。これからこいつは俺を殺し、そしてもっとたくさんの探索者を、他の怪物を殺すのだろう。
俺は膝の力が抜けていくのを感じる。そのまま木の幹に体重を預け、ずりずりと腰を下ろしていく。
まさにコイツこそーー
「立って、探索者、今から始まるんだから」
潰れた筈の彼女の声がどこからか聞こえた。
「っ!?」
俺はその声を探す。右、左、いない、どこにもいない。
目を見開く俺の視界、その上の方にキラリと輝くものを見つけた。
上だ。彼女は上にいる。まるで翼を持っているかのように彼女は耳の化け物の真上まで跳んでいた。
踊るように空中で身を翻す彼女が、一回転。空中で駒のようにくるりと回る。
「オオ!! ギャァ」
耳が、叫びをあげた。それは威嚇ではない。おそらく悲鳴だ。痛みによる悲鳴に聞こえた。
よく見ると、いつのまにか耳の胴体の背中に何かが突き立っている。
あれは……、槍?
どこから?
俺は視界を彼女へ戻す。十メートル以上は跳んでいそうな彼女がまた空中で体勢を変えた。
その腕にはいつのまにか、槍のような、棒のような黒いものが携えられていて。
ひゅん。空気が綺麗に裂ける音が聞こえる。彼女だ。
竜巻のように体を空中で回転させた彼女の腕から槍が放たれる。
真下に投げられた槍が、再び耳の化け物の胴体、背中に突き刺さった。
彼女が重力に従い、落ちる。
猫のように体をしならせながら、耳の化け物の背中に彼女はトッ、と降り立つ。
あの大耳がゆっくりもたげられ、真後ろにねじれ、背中に立つ彼女を睨みつけるようにその耳穴を向けていた。
俺はただ眺める事しか出来ない。
生命の常識から外れた怪物とその背中に悠然と立つ金髪碧眼の女性が、互いに向かい合う。
その光景はまるで、只人が手を出す事は許されない神話のワンシーンのようにも見えた。
風が強くなる。原理の分からぬ地下に広がるこの風は一体どこから吹いてくるものなのだろうか。俺はそんなどうでもいいことを少し、考えた。
切り取られた写真、絵画のように動かない両者の均衡もやがて破られる。
もたげられた耳の穴から俺にも聞こえる音量で音が鳴った。
「害怕尖叫 害怕尖叫 害怕」
彼女は、音を垂れ流す耳穴をじっと眺める。
そしておもむろにすぐそば、耳の化け物の背に突き立つ槍を乱暴に片手で引き抜き、これまた乱暴に、流れるような動作で叩きつけるように、耳穴に向けて槍を投げ入れた。
「〜〜!!??」
耳が耳穴から槍を生やして、悶える。あれは歓喜によるものではない事は俺にも分かった。
「英語、喋ってよ。出来ないのなら」
彼女が、ベルトを撫でた。
さっと、それを撫でた彼女の右手にいつのまにかまた、あの槍、黒い杭にも見える細い槍が握られていた。
彼女はその切っ先を悶えるように震える耳に向ける。
「あなたを殺す」
表情は、俺の位置からは見えない。
だけど彼女が笑っていない事だけはわかった。槍の切っ先が俺でなくてほんとに良かった。もし生きて帰れたら、少しだけ英語を勉強しよう。
そして、俺の目の前で神話の戦いが始まる。
化け物と、人から外れた超人の殺し合いが静かに、幕を開けた。
最後まで読んで頂きありがとうございます!




