戦列に加える為には
探索者法
探索を円滑に進める為に、世界中の探索者に適用されるバベルの大穴内での法。何事にもルールは必要だ。探索者が探索を終えた後は人間に戻るためにも。
探索法についての考察より抜粋ーー
英雄がその歩みを止めた。振り返る事のないその背中の向こうで、耳の化け物の巨体が胎動しながらその形を取り戻そうとしている。
戦いの時は近い、だがまだ猶予があるはずだ。
俺にはやらねばならない事がある。それにはこの英雄の力がどうしても必要だ。
「……何? まだ話す事があるの?」
背中の向こうから返ってくる声は冷たい、その声に混じるのは明らかな失望、自らの期待を裏切られたようなーー
「俺は逃げない」
一方的に俺は宣言する。返事は聞かない、さっき踏み出せなかった一歩を踏み出す。なんだ、こんなに簡単だったじゃないか。
一歩、また一歩。
思ったより彼女と俺の距離は空いていなかった。すぐに追いつき立ち止まった彼女の隣に並ぶ。俺より少しだけ高いその目線はまっすぐ前を向いている。俺の方を見る事はない。
「俺も一緒に戦うよ」
「……そう」
どこまでも冷たい声。それは返事ではなくただの反応に過ぎないのだろう。
俺は彼女の言葉を待つ。言えないのではなく言わない。
怪物の身体の内側からスープが煮えたぎるような音が聞こえる。目の前に火口でもあるのではないかと錯覚する。
そして、彼女が口を開いた、俺の方を見ることなく
「人間ってのはね、三種類に分けられるってアタシ思うのよ」
俺は黙って彼女の話を聞く。その横顔を視線だけで見つめながら。
「出来る人間と、出来ない人間。そしてその出来ない人間も二種類いてね。自分が出来ない事を自覚出来る人間と、自覚できない人間。大抵の人間はこれで種別分けできるわ」
あら、これじゃあ四種類ね、まあいいわ。と彼女は小さく呟き、言葉を続ける。
「軍隊でも似たような話があってね、無能な働き者と無能なサボり屋、どちらが役に立つかっていう話なのだけど」
「アタシ、あなたは少なくとも自覚出来るタイプだと思っていたわ。じゃないとおかしいもの、アレと戦って生き残ってるのだから。きっと、自分を理解しているのだと…… ある意味信じてたのだけど」
俺は何も言わない。彼女の言葉を待つ。
「あなたの事はあまり知らない、だけどあなたは分かってるタイプだと思ってた……」
「それとも」
彼女の声が一段、低くなる。おいおい、化け物の叫びを聞いた時みたいな寒気がしたぞ。これが指定探索者の殺気か、化け物と変わらねえな。
「それともアタシの逃げて、という言葉、アタシがあなたにお願いしたのかと勘違いしてるのかしら」
「だとしたら、ごめんなさい。訂正するわ。探索者法に則り、指定探索者として命令するわ、逃げなさい、探索者。」
なるほど、そうきたか。
たしかに探索者法では、緊急時において指定探索者が他の探索者に対して絶対的な命令権を保有する事を認めている。
今、この状況は探索者法第十三条、緊急時における指定探索者命令権が発動するに値する状況だ。
俺は、彼女に従わなければならない。
彼女が逃げろというのなら、逃げなければならないのだ。
だが勉強不足だ、指定探索者。その理屈は俺には効かない。
「その命令は聞く事は出来ない、俺の獲物を横取りする気か?」
「は?」
怖い、怖い、怖い。彼女が今度こそ俺を見た。口がほんの少しぽかりと開き、その碧眼は鋭く尖っていた。
睨まれている、あの英雄、指定探索者に。同じ人間だからこそ感じる恐怖。怒らせてはいけない人間を怒らせているのはわかってる。
だが、ここでビビるわけにはいかない。出来る、自分を騙せ。英雄を呑め。回れ、俺の口先、三年間のクソみたいな営業マン時代は全てこの時の為のものだったんだ。
「知っているはずだ、アメリカ人。アンタが持っている命令権は確かに俺に対しての拘束力を持っている。だが、今回はその拘束力は発揮しないんだよ」
「…………」
彼女は黙ったままだ。今だ。たたみかけるのは今しかない。頼む、耳の化け物よ、空気を読んであともう少し大人しくしててくれ。彼女の説得が終わった後に
きちんと殺してやるからな。
俺は、言葉を続ける。俺は、真面目な人間だ。だから真面目に探索者の事についても勉強していた。
「探索者法第十三条、全ての指定探索者は緊急時において、上級探索者以下の探索者に対して絶対的な命令権を得る。この命令に従わない探索者はその免許を剥奪される」
読み込んだ本、その内容を諳んじる。ここからだ。間違えるな、俺。真面目なのが取り柄なんだろ?
「ただし」
「ただし、この命令が著しく命令対象の探索者の利益を損なう場合においてはこの命令権を認めない」
「第十三条、の全文だ。」
俺は彼女を見つめる、あともう少しだ。
「……それが今回の話となんの関係があるの? アタシはあなたにこの場から退避せよという命令ーーっ」
彼女が口を噤む、その碧眼をパチクリとさせて。
気付いたか。流石指定探索者。頭の回転も早い。
「あなた…… まさか」
彼女の目が見開かれる。初めて見る彼女の驚愕、凍りついた美貌が、一瞬溶けた。
たたみかけるのはここだ。ここしかない。
「まさか? 何がだ? そもそも、アレと今まで交戦し続けたのは俺だ。あの耳を発見したのも、報告したのも、交戦したのも全て俺。探索の三要素、全て俺が行なってるんだ」
「ヤツは俺の獲物で、俺の取得物だぜ、指定探索者」
「アンタの命令は、まるで俺の取得物を横取りしているようにしか聞こえない。あの未知の怪物種狩りの成果を奪おうとしているようにも感じる」
「つまり、俺の利益が損なわれる可能性があるんだよ、アンタの命令は」
「だから、アンタの命令は聞けない、聞かない。違うか? 指定探索者」
ああああああ!
言った、言ってやった。言ってしまった。ああ、もうボケ!
違うか? 指定探索者 じゃない! 違うわ!
なんだ、このめちゃくちゃな発言は、中学生でももっとまともな言い訳思い付くだろ! おもっくそにかっこつけて、頭悪すぎな事を言ってる。
だが、もう言ってしまった。溢れた水は還らない。かえすつもりもないが。
彼女の反応を待つ。いつのまにか彼女は俺から視線を外し、俯いている。その横顔に血濡れの金髪が張り付き、前髪が垂れている。表情は見えない。
時間が、わからない。まだ説得は終わっていない。耳の化け物の身体からゴボリと音が鳴った。
「……そう、ね。あなたの言う通りかも知れない。あなたにはアタシは命令出来ないわね」
彼女が顔を伏せたまま、呟くように声を発した。
俺は彼女を見つめる。
「オーケー、オーケーよ。日本人。あなたには負けた、いいわ、戦いましょう。一緒にね……」
彼女の声は暗い。俺の心臓は彼女が声を出す度に嫌な鼓動を続ける。
「戦列に加わりなさい、日本人。アタシの狩りの仲間に入れてあげる……」
どことなく、彼女が嗤っている。
それでも彼女の表情は見えない。
「分かってくれて、ありがとう、信じてたよ」
「……そう、どういたしまして」
俺は耳の化け物を見つめる。ゴボリ、ゴボリ。音が鳴るたびに、ヤツの身体はその脈動のリズムを増していく。
再生が近い。
「ああ、でも、その前に」
不意に彼女の声がトーンを上げた。明るい、雲の切れ間に陽が差したようなその声。
「日本人、ブーツの靴ヒモ解けてるわよ」
……ああ、ありがとう。
彼女の声に従い、足元を見やる。本当だ、右足のコンバットブーツの紐が、ほつれたようにほどけている。
俺は、紐を結ぼうと、しゃがんでーー
「馬鹿ね」
ひゅっ、パチ。
空気を裂く音。頭上で聞こえた。同時に鞭が翻るような、鞭が空気を叩くかのような乾いた音も鳴った。
「なっ!?」
頭上で聞こえた彼女の驚愕の声を聞きながら急いで靴ヒモを結んだ。
そのまま、ゆっくりと立ち上がり、彼女の方を見つめる。
驚愕により開かれたその碧眼。大きく開かれたくちびる。
そしてしなやかな肢体から伸びる、右腕に何かが巻き付いている。地面から伸びたそれは、見慣れた奇跡。俺の、特別の象徴。
地面から伸びた木の根。腕の力により操られたそれが、彼女の手首を絡めとっている。
絡め取られた彼女の手首の先は、指先が全て揃えられ尖っている。
そう、手刀の形に揃えられ、尖っていた。
「ありがとう、アメリカ人。意外と足元のことには気付かないものだよな。お互いに」
「あなたっ! 何を!」
彼女が今度こそ、驚愕を隠さずに叫んだ。初めて彼女の顔を見た気がする。
「どうしたんだ? そんな驚いて。まるで何か予想外の事でも起きたのか?」
「そう例えば」
「言って分からぬ馬鹿への不意打ちが防がれたとか?」
彼女の顔が、紅潮する。恐らく、それは怒りーー
さあ、ここからが勝負だ。
俺の狩りに彼女が必要だ。俺の戦列に彼女を加えなければ勝機はないのだから。
ぼこり、また、耳の身体が鳴った。
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