るるる
雨下石 浅葱は少食だ。
武術家として、必要最低限の食事しか取らない。
食べること自体を我慢しているというわけではなく、「美味しい」「不味い」という人並みの感覚を彼は理解することが出来なかった。
だから好き嫌いも無い。というより「存在しない」といったほうが、より正確な表現になる。
おおよそ、料理と呼べるものに執着が無い。
それは自分が、真の空腹というものを知らない贅沢な環境に身を置いているからではないのか?
そう考えて何度か断食を試みてみたものの、ついに彼が食欲という境地に辿り着けることはなかった。
浅葱は一日に二度、昼と夜だけ肉体を維持するために、気の進まぬ食事という行為に時間を割く。
味や食感というものは理解できるが、彼にとっては血肉を得るための形式的な行動でしかない。
人形のように物を口にする必要が無ければ、どれだけ気楽であろうか。それが食事中の浅葱の思考であった。
ある種、食べ物に対する冒涜と云えなくも無い。
唯一つ、彼に欲なるものがあるとすれば、殺人衝動だろう。
――美しくあるものを、美しく斬りたい。
結果、美が崩れれば執着しなくて済む。彼の心に安寧と悲しみが訪れる。
雨下石 浅葱は自分を誘惑するものを愛し、許さない。
味気無い人生を歩む、素っ気無い魂。
甘い菓子を好むのは、単に精神の安定を得るためだ。糖分を摂取することで、彼は人を斬りたくなる衝動を緩和させている。
傍から見れば、甘いもの好きに映るというわけだ。
もっとも、浅葱が美しいと感じるものは滅多に存在しないのだが。
今夜の渚家の夕食は、思いがけず豪勢なものになった。
旬の魚や野菜を贅沢に使った料理の数々が、座卓に照りも美味しそうに並んでいる。
「なんだか悪いな浅葱殿。こんなご馳走まで用意してもらって」
この日、浅葱は雨下石家を暫し離れる旨を報告しに帰った。無断外泊は当主以外に許されないからだ。
「気にしないで頂きたい。私が作ったわけでなし、それに、やはりウチにとっても妖刀使いは特別ということなのですよ。失礼の無いようにと念を押されました」
ご馳走は雨下石家からの粋な計らいということらしい。
浅葱は座布団の上で恐縮する。食べ物ごときで何故有り難がるのか。気遣いも含めて、その心理が分からないのだ。
「折角ですから、今夜は大いに食べて飲みましょう」
作り笑い。浅葱の頭の中には『るるるるるるるる』と、意味の無い音が鳴り続けている。
それは何かの警告音のようでもあり、無意味な雑音のようでもあった。
「蘭丸、今夜のお銚子は三、いや四本にしてくれ」
彩子の声が楽しげに弾む。
「ダメですよ。ウチでは晩酌はお銚子二本と決まっているでしょう」
蘭丸は努めて冷静に対処しながら燗をつけた。
「こんな目出度い日にいけずは無しだよ」
「どこが目出度いんですか?」
「それは、その……旧友が合いに来た。これは私にとっては大変珍しいことじゃないか」
確かに彩子が「友人」と自ら口にする人物が訪ねて来たのは、蘭丸が弟子になって初めてのことである。
それは喜ばしいことなのかもしれない。
「それじゃあ、三本までつけましょう」
蘭丸は少し嬉しそうに酒の用意を急いだ。
冬は魚介の美味い季節だ。刺身、天麩羅、煮付けに酒蒸し。とても三人では食べきれないほどの量が並んでいる。
浅葱と蘭丸は茶碗を持って、彩子は酒の肴として、贅沢な冬の美味に箸を伸ばすのだった。
「やはり、大勢で食べる御飯は美味しいですね」
るるるるるるるる。
浅葱の食事は普段一人であるから、三人でも大勢という感覚になる。それでも彼は食べ過ぎることなく、必要最低限のカロリー摂取を終えると静かに箸を置いた。
「なんだ? まさかもう食べないんじゃないだろうな?」
「今夜の食事は充分に堪能しました」
浅葱は柔らかい表情でゆるゆると答える。その声音は満足そうだ。
「しかし、この量は私と蘭丸だけでは食べきれないぞ」
「蘭丸君は食べ盛りでしょう? 勉学も剣術も体が資本ですよ」
線の細い男が言っても説得力が無い。
「とはいえ、蘭丸も食が太いほうではないからなぁ」
「蘭丸君はもう少し肉を付けたほうがいい。細いと刀に重さが無くなる」
それは彩子も心配していたことだった。蘭丸の長身を考えれば、彼はもっと筋肉があっても良い。
「では痛みやすいものから頂きます」
下手をすれば明日の弁当は重箱になりかねない。蘭丸は、いそいそと箸を動かし始めた。人並みに食欲はあるのだ。
「そうそう。若いうちはよく学び、よく体を動かし、よく食べないと」
「私らだって、まだまだ若いだろう。ええ?」
彩子が浅葱に軽く絡む。
「師匠、浅葱殿に用意したお酒まで呑んでいるじゃないですか!」
「ふえぇ?」
彩子が見て取れるほどに酔うのは珍しい。普段はどれだけ呑んでも、涼しい顔で蘭丸にちょっかいを出してくるというのに。
「浅葱も呑め!」
唐突に彩子が酒を勧めた。「浅葱の分まで」と言われたのを気にしたらしい。
「では、少しだけ」
浅葱が盃を受ける。
「蘭丸は付き合ってくれないんだよ。下戸なのか?」
下戸であった。酒が美味いと思ったこともない。
「呑めない酒を勧めるのは野暮というものです」
「では浅葱に付き合って貰うとしよう」
酒の相手を見つけた彩子は得意気に目を輝かせた。
るるるるるるるる。
「お二人は何がキッカケで知り合ったのですか?」
二人の慣れたやり取りは、蘭丸の興味を引いた。普段は他人の過去に興味を示さない彼も、賑やかな食事で無自覚に浮かれているのだろう。
「妖退治だよ。確か九尾の狐だったかな」
「十年くらい前だな。私も若かった。今も若いけどな」
彩子が一人では仕留めきれないと判断し、雨下石家に相談をしたら浅葱をお供に付けてくれたのだという。
「実際は彩子さん一人で、事は足りたと思うんですけどね」
彩子は黙って盃を傾けている。当時を思い出しているのか、その表情は不愉快そうに歪んでいた。
「浅葱殿は普通の刀で大妖と渡り合えるのですか?」
蘭丸は驚きを禁じえない。ならば目の前で存在感無く座っている水色の男は、人の域を軽く超えていることになる。
「刀には元来、魔を退ける力があるんだよ。蘭丸くんだって、妖を斬り伏せたことがあるんだろう?」
それにしたって限度というものがある。九尾の狐といえば、国一つ滅ぼすほどの妖なのだ。
「彼は妖刀使いだよ」
彩子が静かに呟いた。
「確か『落花葬送』……だっけ?」
妖刀の名前一つで食卓の場が静かになる。それ程に不吉な響きを持つ妖刀であった。
彩子は黙って刺身を突き、浅葱は表情無く盃を口に運ぶ。
部屋の空気が質量を持ったように重くなって、圧し掛かる。部屋の四隅に座している女人形の一つが首を傾かせて、カタンと音を立てた。
「雨下石家から妖刀使いが出たのは、浅葱で二人目だそうだ」
「彩子さん、私が妖刀使いであるのは秘密にするよう口止めしたでしょう」
「良いじゃないか。隠しているのは君くらいのものだ」
「妖刀は師匠の持つ一振りだけでは……なかったのですか」
言葉途中で当たり前であると気づく。妖は全国に生息しているのだ。
若き蘭丸には、まだまだ知らないことが多い。
「妖刀はこの世に五振りある」
浅葱の声は、僅かに深みを持って蘭丸へと届いた。
「たった五振り? 随分と少ない気もしますが」
「そうかな。五振りでも多すぎるくらいだと私は思うけれどね」
酒に呑まれて口を滑らすような男ではない。相手が彩子の弟子であるなら、妖刀について知る時が必ず来る。渚 蘭丸に取って、それが今夜なのだ。そして、語るのが自分の役目なのだろう。
予期せぬ必然に、浅葱は身を任せることにした。
「妖刀は何のために存在するのか。考えたことはあるかな?」
「人が妖に対抗するための切り札としてあるのではないですか?」
予想通りの回答だった。妖刀使いも含めて、妖に関わる者の殆どが概ね同じ認識でいるだろう。
「私の考えは違くてね。人と妖を争わせるために、何処かの誰かが創ったのではないかと思っている。人の側にコレが五振りある限り、人と妖は絶対に共存できない。話し合う余地すら無いほどにね」
「誰がそんなことを……」
蘭丸は途中で言葉を紡げなくなってしまった。浅葱の言うことが、思いもしない突飛なものだったからだ。
「あくまで、これは私見だ。まったくの的外れな見解かもしれない。ただ、君には教えられた物事を受け取るだけでなく、あらゆる角度から見て疑い、考えて行動して欲しいんだ」
その後、蘭丸は食事を済ますと、彩子と浅葱に一礼してから部屋を出て行った。
勉強か、或いは道場で剣を振っているのかもしれない。まだ宵の口である。
「明日の蘭丸の弁当は重箱だな」
彩子は座卓の上の余った料理を眺めて薄く笑った。
「余計なことを口にしたかもしれません」
「私も初めて聞いたよ。貴方の妖刀に対する考えというヤツを」
二人きりになって、彩子は呆れたように嗤いながら浅葱を見た。彼の笑顔は自嘲気味に揺れながら、盃に視線を落としている。
「それにしたって人と妖の共存とか、あれだけ恐ろしい妖刀を持っていながら、よくも口に出来たものだな」
浅葱の『落花葬送』の能力を思い出すと、彩子は未だに背筋が寒くなる。
事実、浅葱がいなければ最強の妖狐を封印するなんて、到底出来なかったのは間違いない。
「夏姫だったっけ? 彼女、どうしてる?」
「殺生石になって拗ねたままです。それにしても――彼女は美しかった」
誘惑されたから斬る価値があったし、殺す価値もあった。浅葱にとって、石になってしまった夏姫には何の興味も無い。
「貴方が普段、妖刀を持たないのは共存とかいう与太話のせいか?」
「まさか。早々に勝負が着いてしまっては面白くないからです」
美しい者には美しい死を。そうでない者には残酷な死を。
浅葱が『落花葬送』を抜くことは滅多に無い。
「私が鬼なら、貴方は死神だ」
限りなく透明な存在の水色。
彼が咲かすは深紅に染まった徒花の花言葉。
散った後には影さえ残らぬ虚ろ虚ろの通りゃんせ。
「こんな無邪気な死神がいてたまるかい」
「ならば、こんな可愛らしい鬼もいないな」
二人は互いの盃に酒を満たしながら、不敵な笑みを交換した。




