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左団扇奇譚  作者: 音叉茶
第六章『迷い家』
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音無し

 実のところ、少年に名前は無かった。


 「音無し」というのは、持っている脇差わきざしの名前だ。


「やっぱり本名じゃなかった!」


「仕方ないだろう。名前が無いんだから」


 怒った闇子やみこに無名の少年は諦めたような、他人事のような口調で静かに言った。無いものは、無い。


 少年は天涯孤独の身の上だ。


 自ら名前を決めても良かったが、名付けのセンスが悪いのかどれもシックリとこない。


 身の丈に合わない服を着るよりかはと考えているうちに、いつの間にか刀の名を名乗るようになっていた。もっとも、名乗るという行為自体がよくよく・・・・あることでは無かったし、脇差の名を付けたのも結局は少年自身だ。


 彼にしてみれば、「音無し」がどちらの名前であっても関係ない。


 そういう人間だった。


「だいたい君も君だ。名前に拘るあやかしなど、滑稽こっけいなものだ」


 妖を君呼ばわりする音無しも、かなり変わっていて滑稽といえる。


「君じゃない。闇子だ。それに私は妖ではなくてホムンクルスだ」


人造人間ホムンクルスだと?」


 単眼のホムンクスルなど、見たことも聞いたことも無い。


 それにホムンクルスの製造は条例で厳しく制限されている。医学的、科学的な見地からでしか製作することは出来ないはずだが、多くは軍事利用されているのが実情だった。


あすこ・・・で生まれて、あすこ・・・に住んでいる」


 闇子が指を差したのは丘の上にある洋館だった。車夫しゃふは誰も住んで居ないと言っていたが、錬金術士の館なら秘匿ひとくされるのは当然だ。


「そういうことは誰にも言うな」


 おそらくは軍の研究施設なのだろう。


「誰にもは言わない。音無しにだけだ」


「出会ったばかりの俺を過度に信用するのも良くないぞ」


「さっきから音無しは文句ばかり言う。顔は綺麗なのに、性格は悪いな」


 昔から変なやからに懐かれてきたが、ホムンクルスは初めてだ。しかもよく喋る。


 町の喧騒から静寂を求めて此処ここに来たというのに、とんだお喋りすずめに捕まってしまった。


 少年は座り込んだ。何だかとても疲れてしまって、溜め息が一つ零れた。


 いつの間にか、自分も多弁たべんになっていることに気づいて辟易へきえきしたのだ。


 ふところからキャラメルを一つ取り出して口に入れる。


「それは何だ?」


 小さな鼻をスンスン鳴らしながら、闇子は音無しに近づく。声には興味が乗っている。


「キャラメルだ。最近発売された菓子だな」


 少年は栄養補給と疲れたときのために携帯している。


 小さな立方体を箱から一粒取り出すと、それを闇子に手渡した。


「包み紙を取ってから食べるんだ」


「そ、そのくらい知ってる」


 強がりを言ってから闇子は四角い甘露かんろを口に入れた。


「これは……なんという」


 それだけ言うと、黙って口の中をモゴモゴと動かしている。「甘い」という味覚を初めて体験し、言葉が出ないのだ。


「何故、俺の影の中に入った?」


 返事は無い。


 しばらく風の音だけが二人の耳に無意味な戯言ざれごとを囁いていたが、遠くから聞こえてきた汽笛が一度だけ鳴ると闇子は口を開いた。


「音無しは私のことが怖くないのか?」


「何故、そんなことを聞く?」


「人間は皆、私の顔を見ると怖がる。だから影からそっと覗くだけにしている」


 少年は闇子が自分の影の中にいた理由を話しているのだと、言葉途中から気づいた。


「俺は君よりも恐ろしい人間を知っている。だから、怖くはない」


「そうか。音無しは……変わっているな」


 日が暮れるまで、ずっと深く沈んだ紺碧こんぺきの空を見ていた。


 二人の肩は知らぬ間に触れ合って、闇子は少し頬を染めた。



****



 深夜。一台の馬車が郊外の邸宅の前に停まった。


 刀を腰に下げた三人の軍人が、辺りを探るように降りてくる。頷き合ってから馬車の扉をノックすると、恰幅かっぷくのよい壮年の男が最後に降りて馬車は走り去った。


 軍人たちが隠すように護衛している男は政治家である。ただの政治家ではない。軍の権力を背景に政治を仕切ろうとする軍閥政治家の一人だ。


 普段なら物々しい警備など付けないのだが、最近の都は物騒である。次々と人が殺されている。


 鬼の仕業だなどと大衆紙は書き立てているが、連続殺人は間違いなく人の所業であることは明白。何故なら、殺されているのは政治家や官僚ばかりなのだ。


 護衛する三人の中に妖討伐関係者がいないのも、そんな事情からである。


 夜の闇に黒い風が舞った気がした。


 男の目の前に音も無く、かすみの構えで立つ美しい少年がいた。手には刀を持っている。


「お前が噂の鬼か。まだ子供では――」


 男は短い言葉を最後まで言い終えることが出来なかった。脂肪で太った首を声帯ごと突かれて膝をつく。


 助けを呼ぼうにも声が出ない。ヒューヒューと空気が漏れる音だけが男の耳に虚しく響く。


 やがて道路に倒れこむと、三人の護衛軍人のむくろがあった。同じく喉を突かれている。


 瞬殺と呼ぶには余りにも一瞬の出来事。


 やがて血が肺に溜まると、男は陸の上で溺死した。


 少年の姿はもう、どこにも無い。


 当時の政治は立憲政治とは名ばかりの、元老げんろうと呼ばれる一部の派閥が実権を握る独裁政治であった。


 軍部との繋がりが深いこの政治体制に不満を抱いていたのが財界人たちで、彼らは軍部ではなく自分たちが政治を支配したがった。


 音無しは財界に雇われた殺し屋である。軍閥政治家の暗殺が彼の仕事であった。


 そして税金を払わなければ選挙権さえ与えられない国民も、真に民主的な政治を望んで現政治体制に反発していたのである。


 この不満はいずれ大正政変を経て、大正デモクラシーという大きな流れへと繋がってゆく。


 音無しはそのための捨て石でもあったのだ。

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