煙羅煙羅
コバルトブルーに輝く空の下に、歪む景色が拡がっている。
この鮮やかな薄暗さは黒い太陽が生み出す独特の光景だ。
まるで漸く光が届く海の底でも歩いているような気分も、この世界の住人には今更の感覚で誰も気にしない。
今日の蒼は一段と深く辺りを包んでいて、寒々しかった。冬が近いのだ。
昼も過ぎた頃、墓所を歩いてくる青年が一人。否、女性かもしれないが、着ている着物が男物なので男性なのだろう。
その足運びは速い中にも優雅さがあり、夜を溶かし込んだような長い黒髪を風に靡かせている。
佇まいには隙が無く、流れるような動作には一切の無駄が無い。
引き締まった表情は美麗だ。
墨黒色の着物に黒いインバネス外套を着込んでいる姿は闇を纏っているようで、やや異色かもしれない。
否、彼は成るべくして異色なのだ。青年を知る者の大半が彼を「妖殺し」と呼ぶのだから。
妖刀『電光石火』の現在の所有者、渚 蘭丸。
漂う気配はやはり只者ではない。
この場に彼の他は誰一人無く、やがて青年は一つの墓石の前で足を止めた。
渚家代々の墓。
蘭丸は墓の掃除をしてから花を生け、墓石に水をかけた。
年に一度の墓参りだ。
「師匠、今年も来ましたよ」
優しい声音で墓に話しかけると、線香から立ち昇った煙が何やら人の形を描き出すように渦巻く。
煙羅香という特殊な線香は、煙の中に見る者の思い出を映すと云われている。
「蘭丸、少しは人らしい幸せを見つけたかい」
煙はやがて流れるような長い黒髪のスリムな体型の女性の姿を取ると、少しハスキーな声で蘭丸に話しかけてきた。
「君には守るべき者が必要なんだ。でなければ自滅の道を辿ることになる」
クールな落ち着きを持った女性の姿が煙の中に浮かんでいる。
「師匠はいつだって俺に無理ばかり言ってましたね」
困ったような声音で下手な笑顔を作る。
蘭丸は感情の中で笑顔というものが苦手だった。正確に言えば、どんなときに作れば良いのか分からない。
嬉しいときか。可笑しいときか。それとも自分を幸福と感じた時だろうか。
元より、それらを体感したときに自然と出るものなのだろうか。
しかし結局どんな言葉で飾ろうと、人は独りだ。
そんなことを考えながら、腰に差してある刀を鞘ごと抜いて墓前に掲げる。
「コイツも師匠に会いたがっていたと思います」
「ソレはもう君のものだよ。妖刀とはどういうものか、ちゃんと教えたじゃないか」
瞳にどこか優しそうな光を湛えながら、やがて煙の中の女性は冷えた空気に溶けた。
もちろん、死者と会話をしているわけではない。蘭丸の記憶が煙を通して曖昧な形を作っているだけだ。
言うなれば、独り言に近い。
渚 彩子は寒い季節に死んだ。
暫し立ち尽くしてから墓石を三回だけ撫でる。硬く冷たい手触りにヒリヒリと心が疼いた。
人は生きているうちは暖かくて柔らかいのに、死ぬと冷たくて硬くなる。
死というものは詰まるところ、生きていた頃とは真逆になるということなのだ。
それは概念だけの話でなく、手触りのような触感も含めて。
「俺は特に何も感じません……か」
何処かでピーピーと鳴く鳥の声が、静寂に穴を開けては去っていった。
腹が鳴る。気がつけば、もう昼をとっくに回っていた。
鞄の中から作ってきた弁当を取り出すと、思案の末に筑前煮は墓へ供えることにする。
彩子は蘭丸の作った筑前煮を肴に酒を呑むのが好きだった。もっとも酒好きな人であったから、肴はついでだったのかもしれないが。
オニギリも取り出す。中身は鮭とタラコで、筑前煮に使った食材同様晩秋から初冬にかけての旬だ。
「亜緒には悪いが、俺だって稲荷寿司から解放されたいんだ」
両手を合わせて「いただきます」を言ったところで視線を感じた。
子供が一人、蘭丸を見つめている。正確には蘭丸の持参した弁当に興味があるようだ。
気がつかなかった。一年ぶりに師匠に逢って、気が緩んでいたのかもしれない。
「腹が減っているのか?」
子供は小さく一度だけ頷いた。
蘭丸はオニギリと一緒に箸をつけて筑前煮を手渡す。
「冷えたもので申し訳ないが、食べろ。栄養がつく」
子供は震える手で受け取ると、小さく「ありがとう」と言った。
「誰も居ないところで食べるんだぞ」
やはり小さく頷くと、子供は足早に駆けて行った。
蘭丸は自分の行為を偽善だと思った。しかし彼女にもいずれは人生の転機が訪れるはずだ。
それが一日遅れてくるとすれば、今日一日でも餓えに苦しむことは無いではないか。
首都から離れたこの辺りは、まだまだ貧富の差が大きい。ボロを纏って一日の食べ物に困って、蘭丸もそんなようなものだったのだ。
墓参りを済ませると蘭丸はかなり遅めの昼食を取ってから渚の家へ帰り、掃除の続きに精を出した。
狭い家だし、泊まるのに必要な部屋にしか手を入れないからそれほど大仕事というわけではない。
彩子の命日には蘭丸が出来る限り渚家の掃除をしている。今はもう管理する者も無く、誰も住んで居ないから家屋も道場も年々荒れる一方だ。
家は人が住まないと痛む。
蘭丸は此処で大学に入学するまでの六年間を過ごした。
毎日が辛い修行の日々であったが、複雑な事情と思いが交錯した家だ。無くなってしまえば、やはり寂しいと思う。
そんな感情を教えてくれたのも、師匠である彩子であった。
掃除にキリがつくと銭湯で汗を流し、帰る頃には夜も良い具合に更けていた。
軽めの夕食を済ませると、もうやることが無い。蘭丸には趣味と呼べるものが何一つ無いのだ。
そうなると「斬る」という行為は不謹慎ながら、蘭丸を蘭丸たらしめる要素の大部分であるのかもしれない。
それにしても久しぶりの独りである。やはり騒々しい空気の中に居るよりも落ち着く。
そもそも最近の『左団扇』は、蘭丸には賑やか過ぎるのだ。
それを悪いとは思わないが、性に合わないものは合わない。
今頃、亜緒たちはどうしているだろうか。ちゃんと夕食は食べただろうか。
柄にも無く『左団扇』の面々を心配する。それほど時間を持て余していた。
蘭丸は急ぎで金が入り用になった時のために箪笥預金をしている。例えば銀行が開いていない時分に仕事が入った時などには、何かと重宝するからだ。
その金の一部を、出掛けに目の付く場所へと置いてきた。
亜緒の食事を気遣ってのことであるが、理由はもう一つある。
もしも金を置いて来なければ、亜緒は粗暴な家捜しを始めるに決まっているからだ。畳もひっくり返そうかという勢いで、ついには隠した金を見つけてしまうことだろう。そして間違いなく、全額を使い込んでしまう。
蘭丸には豪遊する亜緒の姿が目に浮かぶ。
雨下石 亜緒とはそういう奴なのだ。
けれど、それなりの金銭を目の当たりにすれば、わざわざ金を探し回ることもないだろう。
やはり、どうしようもなく雨下石 亜緒とはそういう男なのである。
「まったく、本当に困った奴だ」
出会った頃から、後先考えないところは変わらない。
昼間に干した布団を敷く。結局、もう眠ることにした。
ところが体を横にしても、不思議と眠気が降りてこない。
昼間の掃除で疲れているはずであるが、どうにも寝付けない夜になった。
慣れない酒を口に当ててみるが、一向に眠くなる気配すら無い。
遠くにチロチロと揺れる火の手が見えた。何処かで妖退治でも行なわれているのだろう。
「闇子を斬る……」
などと口に出してはみたものの、彼女を前にして本当に斬れるのかと心の何処かで囁く者が居る。
闇子を前にすると、いつも迷いに捕らわれる自覚はあるのだ。
蘭丸は傍にあった妖刀『電光石火』を抱えた。コレならば闇子を斬ることが確実に出来るだろう。
絶対的な確信がある。
「出来ないよ。だって、お前は心の何処かで闇子に消えて欲しくないと思っているから」
酒に酔ってきたのか、煙羅香の影響が残っているのか、昔の自分が目の前に現れて言う。
「あの時も結局斬れなかったじゃないか。否、斬らなかったのか」
煙羅香の効果が後を引いて見える幻覚の正体を、俗に妖怪「煙羅煙羅」という。
「斬るさ……」
蘭丸は黒い袴姿の少年を憐れむように囁いた。
幻に声は届かない。
過去はいつまでも蘭丸を見ていた。




