化かし合い
紅茶と焼き菓子を持って、小夜子が戻ってきたのは十分も経った頃だった。
ダージリンの仄かな香りが部屋に踊る。縫いぐるみが転がる応接室には不釣合いな上品さだ。
小夜子は木目も鮮やかな深い茶色のテエブルに、白磁のティーカップを静かに置いた。カチャリと磁器独特の澄んだ音色に紛れながら、チラと亜緒に視線を送る。
顎に指を当てながら考える仕草は、少女に教師の苦悩というものを考えさせた。やはり教師というお仕事は、大変なのだろうなと思う。
人に何かを教えたり、導いたりするのはとてもデリケイトなことなのだろう。生徒と教師と云うものは演奏者と指揮者ほどにも、やっていることが違うのだ。何にしても、人を纏め導くということは大変であると思う。
「先程から何を難しそうに考えてらっしゃるのですか?」
相談相手になろうなどと、おこがましいことを考えているわけではない。単純に興味から出た発言であった。
「いえね。大したことではないのです。僕は貴女の名前を、さっきからまるで思い出すことが出来ないのですよ」
さすがに小夜子は呆れた。先程から若い教師が難しそうな顔つきで考えていたのは、自分の名前だったのだ。
「私は小夜子。鍋島 小夜子というのです」
声音から不機嫌が透けて見える。
「ああ、思い出した。災難でしたね。小夜子さん」
亜緒は不本意な教職の現場で、鵺とノコギリの名前しか覚えていない。覚えるつもりすら無かった。
此処を訪れた先から、少女の名前など知りもしなかったのだ。
「あの……先生はワザと話の腰を折っているのですか?」
災難という言葉の尻尾が、妙に小夜子の気に掛かった。
「貴女は僕が何を言っているのか、本当に分からないのですか?」
小夜子は首を傾げた。分からないものは、分からない。
「そんなことよりも先生、私は先生に大切な質問があるのです」
大事な大事な質問です。と、生徒は教師に念を押す。
「僕に答えられるものなら、何でも答えましょう」
亜緒は教師らしく足を組んだ。小夜子はその仕草に少しだけ安心をする。
「先生は魂の在り処というものを、ご存知ですか?」
「はい。知っています」
「それは何処に在るのでしょう。私の心がこんなにも空っぽなのは、魂を無くしてしまったからとしか思えないのです」
少女の声音は熱を帯びて、カップの中のくすんだオレンジから部屋中に渡った。
「その通りです。貴女には魂が無い。けれど、心はある。貴女のお父上は本当に厄介なことをしたものです」
会話に暫しの間が空いた。小夜子は亜緒の言葉を反芻しているようだった。
「それは……父様が私の魂を持っているということでしょうか?」
青年は意味ありげに笑った。およそ教師らしくない、意地の悪い笑顔。
「或いは、そうかもしれません」
のらりくらりと確信を外され、一向に進まない会話。その苛立ちが小夜子の表情から好意の柔らかさを消し始めると、青年は再び言葉を紡ぎ始める。
「小夜子さんは『あげる』という言葉をどう思いますか?」
「物を持ち上げるとかの『あげる』ですか?」
少女の声音は険しい。また、関係の無い話になったとウンザリする。
「違います。何かを人に与えたりする行為のことです。物に限らず『見せてあげる』等も含みます」
つまりは相手に、何かしらの心理的影響を与える行い全般のことです。と、亜緒は付け加えた。
「どう思うかと聞かれましても……ただの言葉であるとしか言えません」
「そうです。ただの言葉です。されど、言葉でもある。『あげる』という言葉は怖い。それは『返せ』という言葉と隣り合わせにあるからだ」
小夜子の言葉無い瞳を見返しながら、亜緒は続いて口を開く。
「本来『あげた』ものは帰っては来ません。そういう契約が互いの元で、暗黙の了解としてあるからだ。それでも、何故か人は『あげた』ものを何らかの形で取り返そうとする。見返りを求めたり、貸しを作ったと思い込む」
怖いとは思いませんか? と、亜緒は無口になった少女の右目を楽しそうに覗き込んだ。思わず視線を落とした先に、手付かずのお茶とお菓子が目に留まった。
「だから、『もらう』という行為も非常に厄介なのです」
言いながら亜緒はテエブルの焼き菓子が並んだ皿を遠ざけた。
「つまり、何かを教えてもらうには対価のようなものが必要ということですかしら」
顔を上げた小夜子の表情には不敵な笑みが宿っていた。この風変わりな青年の前では、どうやら猫を被っていても意味が無いらしい。
「小夜子さんは理解が早くて助かる」
「それで、私は何をすれば魂の在り処を教えてもらえるのでしょう」
小夜子から少女らしさが消えた。声も表情も一変して、まるで大人のようだ。
「僕の話を聞いてくれるだけで良い。今回は、それだけで充分におつりが来る」
「分かりました。先生の御話を聞いてあげます」
ただの言葉。されど言葉の、貰い合い。最後にジョーカーを持っていたほうが負けの会話が始まった。




