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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第七章 それぞれの正義
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6)智者の一矢


 ユコスとタナトスの二人組に連れられてやって来たのは、もう二度と敷居を跨ぐことはあるまいと思っていた商業組合ミールの術師組合の一室だった。堂々とした威圧感さえ与える佇まいは、相変わらず尊大で反吐が出そうになる。夏の盛り、日没にはもう少し間がある時分、傾きかけた西陽を浴びて橙色に染められた石壁は禍々しい匂いを発していた。


「久しぶりだな、ダスマス。ざっと十年振りになるか」

 記憶よりも皺の増えた目尻がダスマスを捉えた。

「そうしているとお前が初めてやってきた時を思い出す」

 まるであの日を繰り返すような気分だと当時と変わらない静かでいて力強い声が言った。

 あの時も得られた伝手を逃すまいと酒場で知り合った術師だという二人に頼み込んでここに連れて来てもらった。その時の高揚感は今でも手に取るように思い出すことができた。


 各地を気ままに転々とする内にこの街のことを聞きつけた。山を超えた向こうに凄腕の術師がいると。特定の師を持たない流れの術師がその技を磨くためには、それ相応の努力がいる。その土地その土地で術師だと名乗る者を探し出し、未知の分野を得意とする者、自分よりも力があると思った相手を束の間の師と仰いだ。

 元来、一般的に術師というのは訳の分からない力を行使する近寄りがたい者という見方をされるものだが、それはあくまでも限られた一面に過ぎない。市井の人々と同じで一口に術師と言っても様々な性質の人間がいる。隠遁者風を気取る者から学者肌の者、人に交わり商人のように金儲けに勤しむ者などなど。術師の中には自分の技を誰かに伝えたい、後の世に名を残したいと思う者がいる。相手の自己承認欲、自己顕示欲をくすぐり、おだてることで、その懐に入り、その技を引き出させた。大抵の師は弟子入りしてきたダスマスの学びを喜んで受け入れた。そうして教えを砂が水を吸い込むように吸収してゆく優秀な弟子を持ったことに満足した。ダスマスはそうして技を磨いてきた。その原動力はひたすら上を目指したいという飽くなき向上心と技術が磨かれることで跳ね上がる仕事の幅と依頼料の上昇だった。行く先々で師と仰いだ術師はダスマスにとって上へ行くための踏み台だった。普通の出世とは異なるが、自分の中で着々と溜め込まれてゆく知と力がダスマスにとっての喜びだった。

 その歯車が狂いだしたのが、この街に来てからだった。

 懐かしさなど微塵もない。それは向こうも同じはずなのに表面上十年来の知己に会ったかのような素振りを見せるのだからいけ好かない。

「あんたは老けたな。すっかりジジイだ」

 深い藍色の髪には所々白いものが混じるようになっていた。

 執務室の景色は記憶と寸分違わなかった。古ぼけた大きな机を囲む壁一面の書棚。世界各地から取り寄せられた様々な書物が隙間なく並んでいた。窓側には本物かと見紛うほどの木が部屋を縦に貫くように床から天井まで生えていて、伸ばされた見事な枝振りはニスが塗られているように黒々と光る。それが伝令で使われる猛禽類専用の宿り木だと知った時は誰の趣味かは知らないがけったいなものをこしらえたものだと思ったものだ。

 元々ここは人をもてなすような場ではない。だが呼ばれた以上、遠慮をする気などさらさらない。ダスマスは入り口に近いところに申し訳なさ程度に置かれた小振りの長椅子に腰を下ろすとおもむろに脚を組んだ。背もたれに両腕を羽ばたくように広げて、背後にある戸棚を仰ぎ見る。そこには上等な酒の瓶が得体の知れない器具の合間に埋もれるようにして並んでいた。何気なくそのうちの手前にあった瓶へ手を伸ばした瞬間、パチンと弾ける音とともに指先にピリピリとした痺れが走って、ダスマスは忌々しげに舌打ちした。

「……っつ、クソッタレ」

「ああ、“視”てのとおりそこには術がかけてある。不遜な輩が悪戯をしないようにね」

 術師組合長リサルメフはうっそりと笑った。

「随分なこって」

 いまだ痛みの残る手をひらひらと振ってダスマスは口を歪めた。

「ごくたまに手癖の悪いのが入り込むからねぇ。用心に越したことはない。ここに置いてあるのはどれも私にとっては大切なものだ」

 以前、書棚の本を無断で持ち出したことを未だに根に持っている。そんな口振りだった。

「あんたも出世したもんだ」

 ただの組合員だった術師が今は長の椅子に収まっている。前任者は隠居したのか、またぞろ別の街へと流れたのか。その地位を手に入れるのにどんな手を使ったのか。この男ならば他人を蹴落とすことに躊躇はしまい。ここにだって欲望が渦巻くことを知っている。伊達に五年もこの街にいなかった。

「その様子では、お前も大概変わっていないようだな」

「はっ、十年かそこらで人の根性が変わるっって方が可笑しいぜ」

 殊勝な心など元来持ち合わせていなかったが、それでも対人関係ではこれまで上手くやれていた。ただその経験がここでは通用しないのだ。被った猫を一瞬で剥がされたのはこの男が初めてだった。

「それもそうか。“三つ子の魂百まで”などという風に言う国もあるらしい」

「なんだそれ」

 初めて聞く言い回しに眉をひそめれば、

「言い得て妙だと思わんか。(よわい)三つになるまでに形成された心根は死ぬまで変わらんと言うことだ。お前の基本はもう既に赤ん坊の時で決まっていたと言う話さ」

 そんな昔のことなど引き合いに出されても覚えていないのだからどうしようも無い。

「ふん」

 だからなんだと言うのだ。ダスマスは不満げに鼻を鳴らした。

「てか、こんなとこに呼び出して、何の用だ?」

 かつて追放した身にここの敷居を跨がせたのだ。世間話をするつもりではあるまい。ダスマスとて長居をする気などなかった。久しぶりに来てみたが居心地の悪さは相変わらずだ。

「ハハ、分かっているからあの二人についてきたんじゃないのか?」

 リサルメフは乾いた笑みを浮かべて隣の部屋へ尖った顎を向けた。ユコス、タナトスの二人は術師の溜まり場に止まっていた。

 だが、そう言われて本心を告げる素直さなど生憎持ち合わせてはいない。

「さてね」

 (おど)けたように肩をすくめたダスマスを一瞥して、リサルメフはパチンと指を打ち鳴らした。それを合図に隣室から男が一人やってくる。確か名はフェルケル、冗談の通じないクソ真面目、面白味のない男で術師ではあるが、ここではこの男の手と成り足と成り、事務方のようなことをしているのはいまも昔も変わりがないようだ。

 フェルケルの手には小さな籠があり、そこには様々な木片のような残骸が入っていた。リサルメフは籠を受け取ると執務机の上等そうな椅子から立ち上がり、ダスマスが居る長椅子の方へ音もなく歩み寄った。ダスマスの組まれた足先が届くか届かないかの場所に置かれている小さな卓の上へ籠を躊躇なくひっくり返した。ざらざらっと様々な種類の木札が卓に当たって弾けては散った。床にこぼれ落ちた破片がからりと乾いた音を立てて転がった。どれここれも焦げたように煤けていた。

「この短期間で随分儲けたようだな」

 リサルメフの骨張った指が木札を摘み上げて卓に並べていった。同時に紡がれた小さな(まじな)いが指先に乗って札に触れた瞬間、紫混じりの黄みを帯びた赤い光が粒子となって揺らぎ始めた。

 それはダスマス特有の色だった。術師には各人の素養・魂の性質によってそれぞれ使う力に色が違いとなって現れる。それを隠す技をかけたとしても、力が上の相手にはこうして簡単に暴かれてしまうのだ。

「何をどう誤魔化しても作り手の痕跡は残る。お前は消したつもりだったかも知れないが、まだまだだな」

 リサルメフは圧倒的な力量の差を示した。ダスマスとてのうのうと生きてきたわけではない。ここを離れて十年、余所で技を磨いてきた。ノヴグラードに渡ってここよりも遥かに優れた技術を学んだ。

 それなのに。まだ及ばない。いつになったらこの男を超えることができるのだろうか。いつになったら追いつけるのか。ダスマスは口惜しさに奥歯を噛み締めた。

 それらの札はダスマスがここに来て請け負った仕事の数々だった。ミールに弾かれた者たちが喉から手が出るほど欲しがる偽造品だ。これを使えば違法なものでも正規の荷としてさばくことが出来る。ここで仕事を受けたのも腕試しがしたかったからだ。ここの奴らを出し抜く力を得られたかどうか、試してみたかった。最初は上手くいっていた。ダスマスの噂を聞きつけて仲介屋が次々に仕事を回してくるくらいには。

 だが、その結果がコレだ。

「ふん、だったらなんだ」

 居直った態度にリサルメフの口からはやれやれというような大袈裟な溜息が漏れた。

「おや、大人しく認めるのか」

「ここに来て知らぬ存ぜぬは通じねぇってぇことぐらいは分かる。今更無様な言い訳なんざぁしねぇよ」

 ダスマスは吐き捨てるように言って、未だ自分の認識色が陽炎のように揺らぐ木札の残骸を見た。

「で、何が問題だ? 俺はもう組合員じゃあねぇんだ。俺が請け負ったのはここの仕事じゃねぇ。何をしようと俺の勝手。あんたらには関係ねぇだろ」

 十年前とは立場が違う。流れの術師、一個人としての仕事に組合が口を出す権利などないはずだ。

 長椅子に背を預け、踏ん反り返ったままダスマスはひょろ長い脚を持て余すように組み換えた。

「お前は追放された…と言っても元組合員だ。五年近くここにいてここの技を会得した。その事実は、この街にいる間はついて回る。お前の道理はここでは通用しない。大体、ここの手の内を使って我々の鼻をあかそうという根性が気に食わん。いいか、これは抜け荷に使われた札だ。中には禁制の武器が入っていた。我々の鼻先でこうおおっぴらに悪事を働かれるようでは他の組合員に示しがつかんからな。面目丸潰れだ」

「はっ、ここの体面がそんなに大事かよ。あんたもすっかりミールの犬ってわけか。墜ちるとこまで墜ちたもんだ」

 嘲りの声にリサルメフが渋面を作った。

「それが組織に属するということだ」

 リサルメフが放浪の末、ここホールムスクに腰を落ち着けたのは単に居心地が良かったからだけではない。ミールに入ったのもそこに術師として旨味があると考えたからだ。ただそれをダスマスに理解して欲しいとも理解できるとも思ってはいない。まぁ最低限、同じ術師と名乗るならば、越えてはいけない線引きがあることを弁えて欲しい。そう願うのは大それたことだろうか。

「言ったはずだ」

 再び、執務机の向こうから注がれる長の視線が鋭さを増した。

「二度目はないと」

 裏切りには相応の報いを。

 この男が単なる流れの術師だとしたら、知りうる情報を組合本部か自警団に渡して捨て置けばいい。それをしないのは、かつて五年もの間、この男を組合員として懐に入れたからだ。その責任は負わなければならない。相手の貪欲さに目を瞑り、見せかけの向上心に足元を掬われる形になった己が浅慮への戒めだ。

 リサルメフの指がついとダスマスの方を向く。濃い青みを帯びた光の粒子が放たれた。その刹那、ダスマスの身体に痺れが走った。光はぐるぐると螺旋を描いて小さな渦となり手首、足首、喉元に絡みつく。肘掛を掴む手に力が入り、手の甲に青筋が浮いた。

「……てめぇ……っく………」

 苦しげに歪んだ息の下からダスマスは相手を睨みつけた。薄い唇が対抗するように微かに術を刻み始めればリサルメフの口元が弧を描いた。愉快そうに細められた瞳が好奇に瞬く。

「ほう、それなりに腕は上げたようだな。だが、まだまだだ」

 リサルメフがふっと息を吹きかけると拘束の威力が再び増した。

「何の………真似…だっ…」

「そろそろ己が力の限界を見極めたらどうだ。お前の飽くなき向上心は見上げたものだが、力への執着だけではいづれ身を滅ぼす」

 リサルメフの声はどこか冷めていたが、その声音には憐憫のような色があった。それが余計にダスマスの苛立ちを誘った。

「ハッ………んだよ、俺の人生は…俺のもんだ。やりたい…ように…やる。他人の指図は…受けねぇぜ」

「まぁいい。それもお前の選んだ道だ」

 但し「行い」には必ず「結果」と「責任」がついて回る。そろそろそれを学んだほうがいい。そう言ってリサルメフは卓上にあった小さな呼び鈴を鳴らした。チリリと涼やかな音が響いた。

 程なくして隣室からまた別の術師がやってきた。煌びやかに着飾った派手な男だ。初めて見たときは女かと思ったが、突き出た喉仏とその低い声ですぐに違うと知れた。なんでも故郷(くに)の習慣で男の方が身綺麗にするのだと言う。この街には自分が知る凝り固まった慣習を軽く飛び越えるものがそこかしこにある。その気風は気に入っていた。

「これでいいかしら」

「ああ」

 男が手にした小さな台には金属の輪が乗っていた。リサルメフはそれを受け取ると手の内で弄ぶように触れた。きらりきらりと骨張った手の中で輪が冷たい光を放つ。身体の自由を封じられたダスマスにはその反射がひどく眩しく映った。

「……何を……する……つもりだ?」

 嫌な予感に瞳孔が開く。詰まりそうになる喉を唾を飲み込むことでこじ開けて、どうにか気道を確保する。ダスマスの背に冷たいものが走った。

「隷属の術をかけたそうだな。あちらで習得したか。ただ、それも解かれたらしいじゃないか」

 リサルメフの声は抑揚なく淡々としていて感情が読めない。

「あいつが………あんたんとこの術師ってのは真か。じゃぁあれはあんたが教えたのか?」

 ダスマスの脳裏に強い意志を持った黒い瞳が浮かんでは消えた。だからあの技を、自分が苦労して習得した技をあんな短時間で解くことができたというのか。術師の世界は力がものをいう実力主義だ。能力の高さはそのまま術に反映される。あれを解いたということはあのひよっこがダスマスと同等かそれ以上の力を持っていることを意味する。突如として現れた見えない壁、苦労して登った先でその遥か高みから見下ろされ、突き放される悔しさが心を支配する。ダスマスの中にあの若者への嫉妬心が芽生えた。失って久しい指先が鈍い痛みを訴え始めた。

「いや、あの子はこの春先にここにやってきたばかりでね。私が教授する機会はまだないが、中々に面白い子だろう? 今はトレヴァルのところに預けている」

 港の診療所に詰める悪名高い酔いどれ偏屈おやじの名が出て驚くと同時に半ば納得もした。

「はっ、だからあんなに気がつえぇのか。たいしたタマだぜ」

「はは」

 嫌そうに吐き捨てたダスマスにリサルメフは初めて声を立てて笑った。

「道理で、とんでもねぇガキだ」

「違いない。ま、それを知らずに関わったのが、お前と主人の運の尽きというわけだ」

 取ってつけたような台詞には重要な意味が隠されている。

「……何が……言いたい?」

 ダスマスは言外の含みを感じ取ったが、それに対する答えはどこか謎めいた微笑みに掻き消されてしまった。

「それよりも、折角だ。後学の為に一つ、教えてやろう。隷属の術というのは元来、人を拘束するのに編み出された術式だが、腕輪など必要としない。こういう道具を補助的に使うのは力のないものがすることだ」

「……なん……だと?」

 初めて耳にする話にダスマスの目が見開かれた。執務机の上、片手で頬杖をついたリサルメフは意外そうな顔をして片方の眉をひょいと上げた。

「驚くことか、そんなに? 目に見えるものだけが力ではない。それは術師の基本だ。で、今、実際に囚われている気分はどうだ?」

 胡散臭い微笑みがリサルメフの顔に浮かんだ。力を楯に人を弄び愚弄する底意地の悪さに吐き気がする。

「こんな…もの、チクショウッ…」

 ダスマスがもがこうとすればするほど拘束がキツくなった。ゆらゆらと揺れる光の輪にじわじわと喉を締め付けられ、額に脂汗が浮かぶ。

 ダスマスはどうにかして逃れようとありったけの知力と集中力を総動員して術式の解除に充てた。苦しい息の下から(まじな)いの文言を紡ぐと、紫色のもやが四肢に絡まる青白い光を飲み込み、浸食するように赤い粒子が湧き上がった。赤みを帯びた光は喉に巻きつく光の枷に食らいついた。だが、ダスマスの光が拘束を飲み込んだかにみえた直後、反発するように一際強く青白い光が出て、みるみるうちにその身体を再び飲み込んでいった。

「無駄な抵抗はよせ。お前の力では私には敵わない」

「……う……ぐっ……ざ…けん……な」

 憤怒の形相で歯を食いしばっていた顔が傾き、ガクンと前に項垂れた。力んで強張っていた四肢が緩み、どさりと背もたれに倒れ込む。ダスマスは長椅子の上で気を失っていた。

 その様子を見届けたリサルメフは(おもむろ)に立ち上がると再び長椅子の方へ歩み寄り、手にした輪をダスマスの左手首にはめた。特殊な(まじな)いを囁きに乗せながら指先を輪に滑らせる。一重すると青白い光が炎のように揺れて消えた。

「やれやれ、これで少しは懲りれば良いが」

 独りごちたリサルメフに隣の部屋から声がかかった。

「…あの、何を…したんですか?」

 ダスマスにとっては疫病神となった黒い瞳が心配そうに揺れる。その視線が男の手首に光る腕輪に注がれると変化した。

「……まさか、隷属の腕輪にしたんですか!?」

 驚き、動揺、非難、軽蔑といった負の感情が帯のように編み込まれてリサルメフを真っ直ぐに見ていた。深い黒、(まった)きを飲み込む漆黒の闇。遥か昔、失われたとされる男神に通じる色。切れ切れに伝承として残る神話の一節が頭に浮かんだ。この黒は、元来、持ち合わせていないはずの情を何故か己の胸内に呼び起させるのだ。

「勘違いするな。こいつがここにいる間は、術が使えないように封じただけだ。この地を離れれば問題ない」

 黒い眼差しは真実を確かめようとじっと腕輪に注がれた。

 ―具現せしめよ(パイェヴリャーイ)

「リョウ」

 半ば無意識に紡がれた(まじな)いに嗜める声が被る。

「視るだけです」

 二人の事情に首を突っ込むつもりは無かった。ここで長が自らの手で技をかけた。その重みを頭では理解している。

「視る…だけです」

 リョウは棒切れのようにぐったりとして動かないダスマスの傍に寄ると首に指先を当て脈を確かめた。大丈夫、死んではいない。無意識に安堵の息が漏れた。

 リョウはその場に膝を着くと男の左手首に輝く細い腕輪に触れた。

 ―展開(アトクリィチ)

 ここに来て覚えた術式を紐解く(まじな)いを舌に乗せれば、指先から伸びた青白い光が柔らかく立ち上って、その場に複雑な紋様を浮かび上がらせた。古代エルドシア語の単語が飾り文字のように幾つも組み込まれていた。

「あとは任せたぞ」

 リサルメフは傍にいたフェルケル、ミリュイの二人にそう告げると長い外套の裾を翻して部屋を出て行った。

「どう? 言った通りでしょう」

 ミリュイが同じようにリョウの傍に跪いて浮かび上がる七色の粒子が象る文様を見た。リサルメフの術式にリョウの力が反応して生まれた色合いだ。

「はい。ホールムスク限定での術封じになっています」

 力を引き出そうとすると打ち消されてしまう。いや、飲み込まれるというべきか。使われる言葉の選択と配置は仕組みを覚えたばかりのリョウにはかなり複雑で高度なものに見えた。文言はシェフの言葉通りではあるが、これを文字通りに受け取るわけにはいかないだろう。リサルメフが戒めとしてかけたのならば、きっと普通ではないからくりがあるはずだ。

 そう、たとえば。

「ただ、これに対抗しようとした時の反作用は……」

 恐ろしい強さになりそうだ。解除を試みて失敗した際の苦しみは恐らく先程の比ではあるまい。皆まで口にせず黙り込んだリョウの薄い肩をミリュイが腕を伸ばしてさすり、立ち上がるよう促した。

「あら、そこまで分かるのね。中々やるじゃない」

「これを解くことができるのは……」

「う~ん、多分、シェフにしかできないでしょうねぇ。てか、こんなの普通の術師だったらおっかなくて手が出ないわよ。久々に本気を見たわ」

「そう…なんですね」

 入れ替わるようにして隣の溜まり場に控えていたユコスがやってきてダスマスの身体をひょいと肩に担ぎ上げた。

「悪いな。手間をかける」

 フェルケルの言葉に、

「いや、元々この馬鹿を引っ張ってきた俺たちにも責任はある」

 ユコスはほろ苦いものを飲み込むように笑った。

「ほんと、これで少しは大人しくしてくれればいいんだけど。どうだかね」

 そのそばでタナトスがうんざりという風に肩をすくめた。

 大変な仕置きがなされたというのにユコス、タナトスの二人のみならず、ミリュイ、フェルケルも平然としている。まるで冗談にでもしてしまいそうな軽やかさえある雰囲気にリョウは戸惑いを覚えた。

 ダスマスはかつてこの組合に属していたが、禁を犯して除籍されたという。この街でミールからの除籍は、追放に等しい。

 負の烙印を押された男が十年振りに舞い戻ってきた。腹に一物の感情を抱えて。ダスマスを犯罪に加担させたのは復讐心だろうか。だが、一矢報いんと挑んで返り討ちにあった。禁忌に手を染めた男に同情はない。術師組合としては問題に対処し、自らの手でお灸を据えたことになるのだろう。偽造札というミールの懸案事項が一つ、これで解決した。それは喜ぶべきことなのにリョウの心には染みのような暗い点が残った。



***



 目が覚めると宿屋の一室にいた。寝台の上で跳ね起きたダスマスはその刹那、頭に走った痛みに顔をしかめた。

「お早いお目覚めで」

 声がした方に目を向ければ部屋の片隅に置かれた粗末な丸椅子にユコスが座っていた。

 自分は術師組合の一室にいたはずだ。それが馴染みの宿に戻っているということはこの男が運んだのだろう。

 リサルメフに術を掛けられて無様な真似を晒した。怒りと口惜しさが腹の底から湧き上がってくる。やはりこの街は呪われている。パサついた髪をぞんざいに掻き毟って、不意に視界に入り込んだ銀色に気がついた。

「……なんだ、こいつは」

 己が左手首に細い腕輪がはまっていた。

「シェフからの贈り物(プレゼント)よ。似合ってるわ」

 ベッドの端に浅く腰掛けたタナトスが歌うように告げて微笑み、喉の奥を震わせた。

「……まさか」

「ふふ。これでこの街にいる間、おいたは出来ないわ」

 タナトスは軽やかに立ち上がると呆然と腕輪を見つめ続けるダスマスの喉元へしなやかな指を走らせた。

ぐっと顔を近づけると耳元に唇を寄せた。

「じきにここを立つんでしょう? あのノヴグラードの男と一緒に。それまでの我慢よ」

 まるであやすようにダスマスの痩けた頬に軽く唇を押しつけた。タナトスは差し出されたユコスの手を取ると踊るように(ステップ)を踏み部屋を辞した。

 ただ一人、絶望に染まる白茶けた瞳を残して。


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― 新着の感想 ―
毎回読み応えが凄くて、ハラハラしながら読みました。続きが是非読みたいです。 今の世の中になって、こういうロシアの雰囲気を持つ文学も世に出にくくなっているなら切ないです。作者様の作品に出会って、下敷きに…
[一言] はじめまして´ᴗ` メッセージを送らせて頂いくのは初めてですが、お月様含めて、これまで何度も読ませて頂いております。 久しぶりに、Messengerが読みたくなって、最初からまた読ませて頂き…
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