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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第六章 残火の散華
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6)絡まる糸

 この街の中心地には円形の広場があった。色とりどりのタイルをモザイク状に散りばめ、海の民マリャークならば誰もが知る有名な神話の一場面が描かれていた。この物語を囲む海を背にした東側、正面に建つ一際大きな威風堂々たる建物はこの街の要、商業組合ミールの本拠地だ。そしてその左右、陣を固めるように建つのが、王都から派遣された騎士団の詰め所とミール自警団の詰め所だった。


 広場は街の人々の憩いの場所でもあり、日頃から多くの人々で賑わっていた。開け放たれたミールの入り口には各組合に所属する人々がひっきりなしに出入りする。その側に別途独立して建てられて港湾関係の事務所も鍛えられた肉体を惜しげもなくさらした屈強な男たちが行き来をしていた。

 それと対照的なのが、左右を固める騎士団と自警団の詰め所だ。それぞれの入り口は固く閉ざされているが、騎士団の詰め所には常時物々しいいでたちの兵士が立ち番として警備にあたっていた。ホールムスクの人々にとって自警団は自分たちの身内のような扱いだが、騎士団は余所者だ。王都、権力の象徴であり、寄り付きにくい場所だ。日常生活の上では余程のことがない限り関わることはない。揉め事や問題が起きた場合はミールや自警団を頼るのが、この街の人々の常だった。

 賑やかな表側とは違い裏手はひっそりとしている。非常時に合わせ詰め所の裏側にも出入り口となる門があるが、平時は硬く閉ざされていた。

 そんな人気のない裏通りに大きな影が二つ、門の前に立ったかと思うと瞬く間にその身を門扉の向こうへ滑り込ませ、木立の影に消えた。旅装だろうか、頭部をすっぽりと布で覆っているためその顔はよく分からない。二人は庭木が囲む非常時用に作られた小さな出入り口に大きな体を屈めるようにして中に入ると詰め所内の人気のない廊下を我が何食わぬ顔で歩いて行った。階段を音もなく上がり、最上階の最奥を目指す。その間、幸か不幸か二人を見咎める者はいなかった。目的の場所にたどり着くと訪いを入れることなく重厚な扉に手をかけた。

 部屋の中では二人の男が旅装の訪問者を待ち構えていた。略式の軍服に身を包んだ団長のユルスナールと副団長のシーリスだった。男たちはそこでおもむろに頭部を覆っていた布を剥いた。長く伸びた茶色の髪を鬱陶しそうに掻いた男の瞳は青灰色をしていた。もう一人は短く刈り上げた焦げ茶色の髪に理知的な瞳をのぞかせていた。隠密の任に当たっていたブコバルとロッソだ。

 シーリスは朋輩のすっかり変わり果てた姿を見てその余りの酷さに眉をしかめたが、いつもならすぐに吐き出される毒は喉元に止まってすぐに消えた。

 それをふんと鼻で笑って、ブコバルは慣れた様子で部屋に置かれた長椅子に体をもたせかけた。

「すっかり見違えたな。ロッソも」

 無精ひげの伸びた部下二人の顔を労うように順繰りに見てユルスナールはほんの少し険のある眦を細めたが、直ぐにその特徴的な瑠璃色の瞳を真剣なものに変えた。

「俺たちがせっせと汗水垂らして働いてる間に、こっちは随分と騒がしくなってるじゃねぇか、おい」

 伸びた髭をざらりと撫ででブコバルが好奇の目を光らせた。うっそりと舌なめずりをしそうなその目を不謹慎だと窘めるように睨みつけてから、シーリスが口を開いた。

「そちらは何か進展がありましたか?」

 ブコバルとロッソの二人には赴任当初からこの街の様子を探らせていた。兵士という身分を隠し、市井の中に溶け込ませる潜入調査だ。王都から派遣された部外者という面を通してでは知ることのできない表層ではないこの街の本当の姿を暴き描きだすためだ。二人には専ら地方から流れてきた旅の傭兵という形で口入屋を通じそれこそ様々な仕事をこなしていた。

 ブコバルたちはこの街の暗部へと自ら進んで身を投じていた。そうして見えてきたのは、この街ホールムスクを複雑に取り巻く重層的な権力構造だった。ミールが牛耳るこの街の表の経済とそれを隠れ蓑にした裏の経済。そこに絡みつくのがミールの恩恵から外れた勢力で、裏社会の一部を構成する彼らは、その影響力を伸ばそうと蔦のように触手を伸ばしていた。

 この所、市中を蜂の巣を突いたように騒がせている帆船火災の事件、抜け荷の件もミールの奥深く、暗部で燻ぶる対立の火種が噴出したに違いなかった。

「近々、でけぇ山がある」

 ブコバルの言葉にユルスナールとシーリスの顔が引き締まった。

「これが手付だってよ」

 ブコバルはそう言って懐から探り当てた巾着をユルスナールのいる机に放った。ズシャリと重みのある音が硬い木材に叩きつけられた。ユルスナールは粗末な巾着の中身を開き、そこに詰まった報酬に眉を片方、器用に跳ね上げた。

「一介の用心棒には随分な額だ」

「仕事は恐らく護衛のようなものだと思われます」

 ロッソが一歩前に出て、自分にも同じだけの手当てが渡されたと述べた。

「詳細は当日になってみないと明らかではありませんが、これまでの経緯から鑑みて、何らかの重要な荷が動くかと」

「この間の抜け荷と関係があると思いますか?」

 シーリスの問いかけにロッソはブコバルと顔を見交わせ、小さく頭を振る。

「そいつは何とも言えねぇなぁ。俺たちもここんとこやっと顔が売れてきたばかりでよ。そこまであちらさんの信用が得られてるかってぇとなぁ。正直、微妙なもんだろ」

「おや、随分と弱気な発言ですね」

 シーリスがからかいを含め半ば挑むように長椅子の方を流し見たが、

「ああ? 蛇の道は蛇っつうが、あそこにゃぁ得体の知れねぇのがうじゃうじゃいる感じだぜ」

 滅多なことでは動じないはずのブコバルが嫌そうな顔をする。

「情報統制はかなりしっかり行われています」

 ブコバルの補足をするようにロッソが切り出した。

「金で雇われる用心棒などたかが知れている。それでもそれだけの金額で我々を雇うというのですから、今回の取引は相応のものであるのでしょう」

 本当に重要な取引が行われる場合、それを知るのは買い手と売り手の当事者だけでよいはずだ。そこに用心棒として第三者を咬ませようとするのは、そこに危険があるからだ。ならば、中身は知らされないのが妥当だろう。そして取引が成功すれば、秘密を知った者は口封じに消されるだろう。金で動く用心棒など奴らにとっては使い捨ての駒なのだ。

「分かった」

 ユルスナールは言葉少なに頷いた。

「繋ぎは取れるか?」

「ああ。そんことだけどよ。リョウの奴にでも頼んでちんまいのを寄越してもらえねぇか」

 日時と場所が分かり次第、秘密裏に伝令を飛ばすようにしたいが、軍部で使う鷹や大鷲といった目立つものは避けたい。街の伝令屋が使うような鳩辺りの小振りな鳥を使いたいと申し出たブコバルにユルスナールは静かに頷いた。

「分かった。手配する。日時が分かればこちらからも応援を出す」

 みすみす仲間を死なせるわけにはいかない。ブコバルとロッソの二人がそれなりの腕を持つと分かっていても、どんな事態が待ち構えているかは分からない。危険な任務に就かせているという認識は十分にあった。

「ん。そうしてくれっとありがてぇ」

 取り扱われるものが禁制の品であった場合、それを見逃すわけにはいかない。場合によっては大捕り物になるかもしれない。その為の準備はしっかりとしておく積もりだった。


「そういや、そっちの抜け荷の件は当たりがついたんか?」

 何気ないブコバルの問いかけにユルスナールとシーリスの二人はちらと互いを見交わし、たちまち渋い顔をした。

 ミールの連中は真っ向から関与を否定したが、引き続き騎士団側では調べを続けていた。だが、今のところ、これといった目ぼしい収穫がないのも事実だった。いや、むしろ後手に回ってしまったかもしれない。

 あの荷の売り主、禁制の品の持ち主は誰であったのか。その手がかりとして事件があった翌日、鍵を拾った錠前屋だという男にもう一度話を聞こうと使いを出したが、男が以前、事情聴取の時に語った市場の外れに作業場兼店を構えているという金物屋の二階はもぬけの殻だった。軒を貸していたという金物屋の主は、男が五日程前に忽然と姿を消したという。店賃は前払いであったため主が損をすることはなかったが、ミールの紹介があったとはいえ気味が悪いものだと語った。派遣された第七の兵士、サラトフとアナトーリィーの二人はその足でミールを訪れ、男が所属していたという組合に問い合わせてみたのが、そこでそのような職人は登録されていないと言われてしまったのだ。男の尋問に当たったサラトフは、男が首から下げていたミールの登録札を実際に確認していたので、再度その辺りのことを訊いてみたのだが、組合の名簿を繰りつつ応対に出た男は事務的に知らぬ存ぜぬの一点張りだった。

 禁制の品を収めた箱の鍵を持っていた男が消えた。こうなっては港で拾ったという話も怪しくなる。ミールの組合員だと言って見せたあの登録札は偽物だったのか。それともミールが隠しているのか。ずぶ濡れになって震えていた男からは怪しい素振りがなかっただけに不可解だった。こうして掴みかけたかに思えた手掛かりは跡形もなく消えてしまった。

 いや、全てが消えた訳でもない。あの鍵に残っていた残存思念をリョウに視てもらった。そうして浮かび上がってきたのは、老いた男の手だった。赤い石の指輪がその指に嵌められていた。そして偶然かリョウが保護したサリドの子供、ユリムが同じような形状の鍵を持っていたのだ。細かい断片ではあるが無視はできない。その辺りの線を攻めてみる価値はあるだろう。

 ユルスナールが一人これまでのことを思い返していると、

「しかしまぁ、ありゃぁえらく派手にぶっ放したもんだよなぁ」

 ブコバルも思い出すように息を吐いた。

 あの夜、ロッソと二人で爆音を聞いた時のことをブコバルはよく覚えていた。真っ暗な夜の海に突如として爆ぜるように浮かんだ大きな炎。ゆらゆらと蠢く真っ赤な火は、鬼火のようにも見えた。

「怪我人が多数出た。損害も相当なものだと聞く」

 積み荷のほとんどが駄目になったという話だった。あの日、港の診療所に詰めていたリョウは、現場で怪我人の対応に追われ夜が明けても帰ってこなかった。

 積み荷に火が付いたことで暴かれたのが抜け荷だ。今となってはどうして織物を沢山積んだ荷の中に火の気があったのか、リョウの話ではミールだけでなく自警団も躍起になってその辺りのことを調べていたらしいが、原因は判然としなかったようだ。偶然の過失にしては出来過ぎていまいか。そう思えてならなかった。

「あちらも一枚岩ではないということだろう」

 ユルスナールは深く刻まれた眉間の皺を揉みこむように指で摘んだ。この春に赴任してから気の休まる時がなかった。元々取り扱いの難しい地域だと言われていたが、予想以上かもしれない。ただ、このような所で弱音を吐くつもりはなかった。術師としてミール内にいるリョウの存在も大きな助けになっているだろう。騎士団の通常業務だけでは得られない情報をリョウはもたらしてくれている。

 あの一件でミールの信頼が大きく揺らいだのは確かだ。組合へ恨みを持つ何者かの仕業か。それともミール内の不正を明らかにしようする何者かが強硬手段に出たのか。新参者の騎士団が何らかの解を導き出すには、圧倒的に情報が足りなかった。

 抜け荷だけではない。ミールにはその少し前から偽造為替や偽札の問題が上がっていたという。リョウの話では、その件は術師組合が主に対応するという。あちらでは偽造に手を貸した人物に心当たりがあるらしい。それにミールの長から協力要請のあった人攫いの件も、手掛かりが掴めていなかった。

「それにこちら側にもどうにも不可解な動きがありますしねぇ」

 ―そこら中敵だらけと思っていた方がいいかもしれません。

 シーリスがやれやれというように肩をすくめた。

 先日、王都にある第七の詰め所を預かるグリゴーリィから伝令が飛んだ。ここに赴任している地方役人からホールムスクの謀反を仄めかす怪文書が持ち込まれたとのことだった。グリゴーリィの機転で、妙な報告はそこで留め置かれた。それを出したと思しき当人にはシーリスが直接釘を刺しに出かけて行ったが、のらりくらりと肝心な所ははぐらかされてしまった。あちらはあちらで王都のどこかと繋がって妙なことを企んでいるのかもしれない。

 問題は山積みだ。だが、この街の軍事面での統治と治安維持を任された騎士団としては、不測の事態に一つずつ対処し、絡まった糸を解していくしかないのだろう。



***



 それとちょうど同じ頃、広場を挟んだ反対側に位置する自警団の詰所には、娘を攫われた織物問屋を営む大店の主ショフクが青い顔を必死に歪めて自警団の長、エンベルに追い縋っていた。


「どうかお願いです、後生ですから、どうにか娘を取り返してもらえませんか。エンベル、あなただけが頼りなんです。たった一人の娘なんです。あの子は私の命です。あの子に万が一のことがあったら…ああ…私は生きていられない!」

 悲劇の主人公さながら涙でぐちゃぐちゃになった顔をそのままにショフクは大声を上げて泣いた。

 自警団の団長室でエンベルは弱り切った内心を厳しい顔つきの下に隠して疲労の滲んだ面をつるりと撫でた。

「ショフクさん、我々とてできる限りのことはしたいと思っています。ですが、我々は万能ではありません。できることとそうでないことがあるのは事実です」

 エンベルはこれまで何度も繰り返された言葉を再び口にした。


 五日ほど前に橋向うを縄張りにするピュタクの頭が現れて織物商を営むショフクの店から金目になる持ち出せる限りの商品と一人娘のアリョーナが連れ去られるという事件が起きた。それが無頼の輩が集まって好き勝手に狼藉を働いた窃盗事件であれば、自警団もすぐにそれなりの対処をする用意があったのだが、話を良く聞くとどうも様子が違う。それを難しくしているのはショフク自身の行いだった。


 ショフクの店は代々織物を扱う大店だった。各国から船で運ばれた珍しい織物を商い、近年では隣国セルツェーリの高級品を一手に取り扱うことで流行に敏感な王都にも多くの顧客を持っていた。商いの規模に比例して決められる組合の会費も毎年滞りなく支払われ、店の経営は順調に見えた。

 だが、ここ三年余りのうちに店の内証はすっかり傾いていたという。それも元々浪費癖のあった妻が年頃になった娘の嫁ぎ先を探して方々に金をばらまいたからだとか、様々な贅沢品を買い込んだからだとか、畑違いの投資に手を出して失敗したという話もあった。その真偽のほどは分からないが、ショフクが金に困っていたのは事実だった。ミールの会員であるショフクには所属する織物組合から借金をする手立てがあったのだが、それを限度額一杯まで借り切ってしまい新たな融資は得られなかったという。そこでショフクはミールの禁忌を破ってピュタクの高利貸から金を借りた。それが始まりだった。

 5ゾーラタであった元金はたちまち膨れ上がり倍になった。ピュタクの方からはこれまで何度も催促があったようだが、それをミール組合員であるという持ち前の傲慢さから無視してきた。ショフクは事態を深刻には捉えていなかった。借金はすぐにでも商いで取り返せると思っていた節があった。何故なら近々新たな商いで金を目途が付くと思っていたのだ。その矢先、不幸がショフクを襲った。あのティーゼンハーロム号の事件が起きた。ショフクの積み荷はそのほとんどが燃えたり、海水に浸かりとして駄目になった。買い付けた品が全て売り物にならなくなり、ショフクの元にはさらなる借金が残った。そこで追い打ちをかけるように業を煮やした相手が店に押し掛け、強硬手段に出たというのだ。


 大事な娘を借金のかたに拉致されてショフクは漸く尻に火が付いた。すぐさまミールの長、イステンに助けを求めたが、組合の掟を破ったショフクに長は厳しい態度を崩さなかった。ショフクにしてみれば予想外の事態だったろう。

 イステンはショフクにミールの特別会計から金を用立てることを許さなかった。必要金額は所属する織物組合で用立てること。譲歩として、交渉にエンベルたち自警団から人を出すことを許可した。

 取り急ぎ向かった先で織物組合はショフクの懇願に難色を示した。組合の方でもショフクの債権が焦げ付いていた。そこに負債を挽回する商いの目途もなく、ましてや掟に反して他所で作った借金の為に組合の金を融通することは、組合内の規定に反し、許されないことだった。


 日没を知らせるリュクセンの鐘が鳴るまで。それがピュタクの出した条件だった。ホールムスク中心部と郊外とを隔てるキレンチ川の上流、山間部に近い高台の上にその鐘はあった。澄んだ軽やかな鐘の音は風に乗って街中に響き、一日の終わりを知らせた。それを合図に男たちは仕事を切り上げ、家に帰ってゆくのだ。

 あの日、ショフクはその鐘の音を呆然とミール本部前の広場で聞いた。金を用立てることはできなかった。せめてもとどうにかして家じゅうをひっくり返してかき集めた金目のものを懐に入れ、エンベルに頼み込んで自警団の男たちと共にピュタクの頭がいるという川向こうの店を訪ねた。


 応対に出た優男風の男は、ショフクの持ってきたものを一瞥して「話にならない」と一蹴した。

「商いの基本はなんだか、ご存じですか? 信用、ですよ」

 約束を守れない男の願いを叶えるほど、我々は能天気ではない。慈善事業ではないのだ。れっきとした商いだ。ミールの恩恵から外れたピュタクがこの街でやっていくには、その恩恵を当たり前のように浴している組合員には分からない苦労がある。そう言って男はショフクに去るように告げた。

「借金のかたにいただいたものはこちらで処分し、精算が済んだら金額をお知らせします。まぁ大した額にはなりそうにありませんが、それでも返済資金に回しておきましょう。残りはいずれまた。それまでには精々商いに本腰を入れて、傾いた母屋を立て直してほしいものですね」

 ピュタクの男は淡々と事務的な態度を崩さない。

「あの、どんな条件でも飲みます。せめて…せめて…娘のアリョーナだけでもどうにか返してもらえませんか。借りたお金はきちんとお返ししますから。ですからもう少し猶予を。どうかお願いいたします!」

 半狂乱になりながらどうにかして娘を助けようとその名前を繰り返し口にした父親にピュタクの男はぞっとするほど凄みのある笑みを浮かべた。

「御冗談を。今のところ、お宅のお嬢さんが一番の担保ですよ」

 それは思ってもみないことだった。

「そ……んな…」

 絶句したショフクに対し、男は冷ややかに言い放った。

「他に売り物がないのだから仕方がないでしょう。いいじゃないですか。精々値を釣り上げてあげますから、諦めなさい」

「こんの…悪魔! 人でなし! 娘をどこにうっぱらうつもりだ! ええ! お前、そんな外道が許されると思ってるのか、このホールムスクで。ミールの膝元で!」

 激高した父親は突然大きな声を上げて罵り、カウンター越しに男に掴みかかろうとしたが、その手が届く前に男の方がショフクの襟首を掴み、贅肉の弛んだ喉首を締め上げた。

「…クッ……」

 苦しさに歪む男にメンチを切るように顔を寄せて、男が囁いた。

「勘違いしてくださっちゃぁ困りますぜ、旦那。不義理をしてるのはあんたの方だ。俺たちゃぁあんたがミールのお偉いさんだろうが、大店の主だろうが、そんなのこれっぽっちもかんけぇねぇんだよ。貸した分はきっちり返してもらう。文句があんなら借りた金、すっかり返してから言いな」

 男はこれまでとは一転口調を変え一息に言い切ると掴んでいたショフクの襟首を最後にぐいと引いてからぱっと離した。顔を紅潮させたショフクはその場に崩れ落ち、ゲホゴホと詰まりかけた喉を広げるように背を丸め大きく息を吸い込んだ。


「どうぞ、お引き取りを。おう、お帰りだ」

 それが合図であったのか、カウンターの向こうから腕っぷしの強そうな男たちがわらわらと出てきた。無様に転げたショフクの腕を掴むと店先に放り投げた。そしてすぐさま店の中へと戻っていった。

 ―あの男の話に乗らなければ。あんな荷を受けなければ。

 一人、道端に残されたショフクは口惜しそうに握りしめた拳を乾いた土へ叩き込んだ。何度も。何度も。やがてそこに大粒の涙がぽたりぽたりと小さな染みを作る。しかし、闇を吸い込んだ黒い地面はその跡をすぐに分からなくさせたのだった。


 エンベルたち自警団はその様子を傍で最初から最後まで眺めていた。ピュタクの言い分はいちいちもっともで口を挟む場がなかった。ミールではならず者の集まりだと嫌悪されるピュタクだが、こうして商いの看板を掲げている分には無体な真似はしなかった。こちらに裏と表があるように、あちらにも裏と表がある。そこを履き違えているのはショフクの方だ。

「娘はどこに?」

 そう口にせずにはいられなかったのは、自警団としての役目か、体面からか。

 エンベルの問いかけに受付台にいたピュタクの男は、すうっと目を細めた。冷えた眼差しが突き刺さった。

「そんなことを聞いてどうするんです? それともあなた方があの男の借金を用立ててくださるんですか。全部で10ゾーラタ。両耳そろえてきっちりとですよ?」

 ―そもそもミールにはそんな気もないくせに。

 言外に告げられた含みにグッと唇を引き結んだエンベルを男は嗤った。

「あなた方と我々はそう変わらない。そちらは認めたがらないないでしょうが、我々は所詮、同じ穴の狢。そうではありませんか」

 冷ややかな口元が微かに笑みのような形を作る。それを視界の隅に目を留めてエンベルたちは無言のままその場を辞した。


 あの時のあの男の目を思い出してエンベルは顔をしかめたが、涙交じりのショフクの声で再び現実に戻された。

「そもそも私は騙されたんだ。あの取引だって…ひと儲けするにはいい機会だからと受けたのに……ああ、アリョーナ、可愛い子、父さんが不甲斐ないばっかりに……」

 ぐずぐずと泣き崩れたショフクの側でエンベルは静かに片膝を着いた。

「ショフクさん、こうなった以上、残された道は一つです」

「え?」

 涙で滲んだ父親の瞳にエンベルの粗削りな顔が映った。その手が縋るように青い上着の袖を掴む。

「買い戻すんですよ、お嬢さんを」

 あちらの手の内を利用することは業腹であるが、こればかりは仕方がない。スタルゴラドで人身売買は禁じられており、その規制はここホールムスクでも変わりない。だが、ここには闇市場が存在していた。ミールもそれを見て見ぬふりをしている。いや、場合によってはミールの組合も利用していた。

「え…そんなことが……できるん…ですか?」

 ピュタクの商いはミールでは関知しないし、感知できない。互いに不可侵。それがここの暗黙の法則(ルール)だ。織物組合に所属する大店の主は、まだミールの闇を知らないのだろう。

「できる限りの情報は集めてみます」

 近いうちに娘は競売にかけられるだろう。その日取りを聞き出し、買い手として交渉の舞台に上がればよい。それまでにはある程度の資金を用意しなくてはならないが、ピュタクの所から強奪するよりは格段に成功率が高いはずだ。あちらと揉め恨みを買うことなく、こちらもどうにか収められる。そう弾き出したエンベルは呆然と仰ぎ見る男の目をしっかりと見据えた。

「良いですか、ショフクさん」

 そうしてこれから取るべき手段とその手はずを父親に伝えたのだった。


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