5)縦糸と横糸
ご無沙汰いたしております。前々回の「ルサールカの惑い」から続くシーン。
使いに出かけたリョウとアルマトゥイの二人が戻って来るまでの間、自警団のセヴァートはふてくされたように寝台に横たわるゼバシャの傍にいた。
診療所内は静かだった。時折、怪我人同士の他愛ない会話が密かに囁かれる以外は。術師のトレヴァルは、片手にいつもの酒瓶を握って外の空気を吸いにいったようだ。もう一人、手伝いに入っていた線の細い若者は、リョウの依頼を受けてトレヴァルに作成してもらった一覧を手にミールの薬師組合へ出掛けていた。
「なぁ、ゼバシャ」
セヴァートは自分の役目を忘れたわけではなかった。
「なんでもいい。覚えていることを聞かせてくれないか」
小さな丸椅子に大きな体を丸めこむように前かがみになりながら、セヴァートはこんもりとなった上掛けをじっと見据えた。くすんだ洗いざらしの上布がぎこちなく捲られて、ゼバシャの落ちくぼんだ目がセヴァートを捕らえた。
目にも鮮やかな青い上着を肩に引っ掛けた男の瞳には、これまでにはない真剣な光りが宿っていた。ゼバシャは小さく身じろいで体勢を変えるとゆっくりと目を閉じた。天井を向いた顔を片腕で覆った。それから緩慢な動作でいまだ湿り気の残るざんばら髪を掻き毟ると力なく首を振った。
「よく…分からねぇ」
そう言って、再び石壁の方へ視線を逸らした。
「どんな些細なことでもいい。何を覚えてる?」
セヴァートは辛抱強く待った。再び長い沈黙が落ちた。
やがて切れ切れの記憶の断片を掻き集めるようにしてゼバシャが昨晩の出来事を訥々と語り始めた。
ゼバシャは船乗りではなく、港湾組合に所属する作業員で、荷役の手伝いや船の入出港の手続き業務に携わっていた。船側から提出された、ホールムスクで新たに積み込んだ品物の一覧を精査し、この街の掟、及びスタルゴラドの法に抵触するような物品が混じっていないかの確認をすることが重要な仕事の一つだった。品物によっては港湾組合への届け出が必要なものもある。その場合は組合で船側から提出された申請書に基づき許可証が発行され、船長が保管することになっていた。必要があれば書類を手に船に乗り込んで積荷を検めることもある。正式な検査官は別にいるのだが、近年取引が増えるにつれてこなさなければならない件数が増大したのにも関わらず人員補充が追いつかない所為で、その埋め合わせのためにゼバシャのような熟練の作業員が補佐のようなことを行っていたのだ。
初めて入港する船には積荷の細かい検査をするのだが、定期船のように船長を始めとする船員たちと顔馴染みになると形式的な遣り取りで簡略化されてしまうのが常だった。もちろん、港湾組合側と船側、互いの信頼関係に基づいていると言えば聞こえがいいが、正規の手続き通りに行おうとすると煩雑で手間のかかる作業でもあるので、特に繁盛期には簡単な口頭での確認のみで省かれてしまうことの方が多かった。
他には船側から頼まれた品物―日用品や食料、水の類だ―の手配などもある。そしてごくまれだが、停泊料の清算・徴収も行ったりした。ゼバシャは文字も読めるし、簡単な計算も出来たので何かと頼りにされることが多かったようだ。
昨晩、事故が起きた時、ゼバシャは偶々船の中にいた。ティーゼンハーロム号の出航間近になって、組合の事務所内にぽつんと忘れ去られていた木箱を見つけて、頼まれていた品物の受け渡しが行われていないことに気が付いたのだ。一抱えはある積荷を肩に担いで急いで船に赴いた。そしてそのまま船長か船員に受け取りの署名をもらって引き返そうと思ったのだが、声をかけた顔馴染みの船員は忙しそうに立ちまわり、手が離せないので奥へ積んでおいてくれと言われる始末。その船員は文盲だったので署名はもらえそうにない。元々お人好しな所があるゼバシャは、仕方がないとばかりに荷を階下へと運んだ。船長室へ行って通常通りの受け渡しを行おうと思ったのだが、そこに目当ての人物はいなかった。そのまま更に一段下りて奥へ進むと貨物室に辿りついてしまった。中では出航を控え、最後の積荷の運びこみが行われていた。
「おーい、頼まれてたもんを持って来たんだが、ここらへんでいいか?」
荷が雑然と置かれている合間を抜けて辿りついた隙間でゼバシャは大声を張り上げて振り返った。大小様々な木箱の壁の向こうで作業をしていた船員たちは適当に置いておけとばかりに手を軽く一振りした。彼らは荷が船内に均一に配置されているかの最終確認をしているようだった。一方に偏り過ぎると船体の均衡が崩れ、安全な航海に支障をきたす恐れがあったので重要な作業でもあった。
あの様子ではこちらに構っている余裕などないだろう。そう考えたゼバシャは、荷を下ろすと港湾組合からの品であることを示す白地に青い×印が描かれた荷札を見えるように前に垂らして、早いとこ下りてしまおうと思った。貨物室をぐるりと回った所で、運よく船長の姿が見えたので書類に署名をもらい、任務完了となった。
それからすぐに陸へ上がろうと船内を足早に歩いていると通路の途中で小箱のようなものを手にした船員とすれ違った。ゼバシャとしては特に気に留めるような事柄ではなかったのだが、薄暗がりの中でもその小箱に付けられた鍵が箱の大きさに似合わず妙に大きなものだったので、ちょっと目を引いたのだ。すれ違いざま、船乗りからは不思議な匂いがした。
「臭い? どんなものだった?」
それまで静かに話を聞いていたセヴァートが唐突に口を挟んだ。
ゼバシャはなにかを思い出すように顔を顰める。
「んー、なんつーか、変な匂いだった。垢だらけのこきたねぇ男の臭い…みてぇな。いや、あそこにゃ風呂嫌いのバーツがいたか」
セヴァートの喉が小さく鳴った。かさついた唇を素早く舐めた。
「他には?」
甘いような饐えたような妙な匂いだった気もするが、記憶は既に曖昧だ。
「…わからねぇ」
ゼバシャはもう一度繰り返した。それから暫し沈黙した。その次に覚えているのは、大きな音…いや、衝撃か。気が付けば息が苦しくて、なぜか海の中に投げ出されていた。海水をいきなり飲み込んで錯乱したが、手足をばたつかせ無我夢中で水面へ浮上した。暗い水面の光る岸壁へ齧りつき、力を振り絞って岸に上がった。体中が猛烈に熱かった。全身が海水から抜け出た所で強烈な痛みが襲い、その場に崩れ落ちた。訳が分からぬまま、じんじんと全身を包む鈍痛が体を火照らせ、激しい痛みが波のように襲う。霞んだ視界、真っ赤に揺らめく炎がゼバシャに向かって柔らかで熱い手を伸ばそうと踊りかかった。いや、炎の精霊【セマルグル】が犬のような風貌の背に真っ赤な翼を広げて、闖入者を噛み殺そうと唸り声をあげていたのかもしれない。紅蓮の炎に焼かれ続ける煉獄の入り口がぽっかりと口を開けたのをこの目で見たのだ。
「うわぁああぁああぁ」
突然大声を上げてゼバシャは頭を抱えた。背中を丸めて縮こまるような体勢を取った。昨晩の恐怖が突然蘇ったのか、小刻みに体を震わせている。
「おい、ゼバシャ? どうした? 大丈夫か?」
ぎょっとしたセヴァートが慌てて手を伸ばしたが、勢いよく振り払われてしまった。
「…もう…分からねぇ。なにもかも……おしめぇだ……チクショウ」
絞り出すような声の後に微かな啜り泣きが混じり始めた。
「おい? ゼバシャ?」
思わず声を高くしたセヴァートが立ちあがった所で、ちょうど室内に戻ったトレヴァルが異変を察知してやって来た。無言のまま患者と自警団の間に体を割りこませ、ゼバシャの様子を見る。その際、セヴァートに対し非難を込めて睨みつけるのを忘れなかった。
噛み殺した嗚咽が顔を埋めた枕の下から漏れていた。丸めた背中、上下する肩をトレヴァルの手が宥めるようにそっと撫でた。トレヴァルの口から微かに呪いのようなセヴァートには理解できない不可思議な旋律が低く呟かれると、ゼバシャの呼吸が徐々に落ち着いていった。
***
リョウとアルマトゥイが戻ってきたのは、それからほどなくのことだった。
昼下がり、中天から射す日差しは短くも濃い影を診療所の一角に縫い止めていた。じりじりと石壁に照りつける熱は海から吹く初夏の風に運ばれては流れて行く。
建てつけが悪くなった木の扉を開けると室内は驚くほど静まり返っていた。ひんやりとした空気と薬草の青臭さが混じり合い、独特の匂いが鼻についた。
壁際に顔を向けて横たわるゼバシャと出がけに煎じた薬湯が効いているのかうつらうつらとまどろむ患者たち。中には馬が鼻を鳴らすような音でいびきをかいている者もいた。
セヴァートは隅の方で一人険しい顔をしていた。その周りだけ暗い靄がとぐろを巻いているかのように陰鬱な空気が漂っていた。
「ただいま戻りました! ゼバシャさん! 奥さまお手製のカーシャですよ。他にも色々買ってきましたからお昼ご飯にしま………しょ…う………?」
軽やかなリョウの声は、途中で萎んでしまった。部屋の空気が出掛け前よりも確実にどんよりと重くなっていることに気が付いたからだ。然程広くはない室内をぐるりと見渡せば、その発生源はすぐに見つかった。一人窓際の壁に寄り掛かるようにして立ち、物思いに耽るセヴァートが、ぴりぴりとまるでその背に小さな雷を集め、遊ばせているかのように近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
リョウとアルマトゥイは戸口で思わず顔を見交わせた。どうしたのだろうかと隣にもの問いたげな視線を投げても、青い上着姿の同僚は分からないと肩を竦めるばかりなので、気にしないふりをして食事の支度を始めた。リョウにとって大事なのは怪我をした患者の方で、青い上着の男ではない。
そうして食事の準備が整うと匂いに誘われてかまどろみから抜け出した患者一人一人に声をかけた。むくりと起き上ったゼバシャには奥さんお手製の粥が待っていた。
ゼバシャは俯き、粥を一匙ずつ味わうようにして口に運んだ。その眦に薄らと涙が滲んでいたことに気が付いた者はいただろうか。他の患者と自分たちには体が温まる薬草入りの汁だ。自警団の二人にも買ってきた丸パンのブーラチカを付けて簡単に腹ごしらえをしてもらった。昨晩からの騒ぎできっと食事をする暇もなかったことだろう。お使いに行ったユリムの分を残しておいてささやかな食事を頂く。ここでリョウもやっと一息吐いた気分になった。
食事を終えると自警団の二人は、礼を口にしながら再び足早に詰所の方へと戻って行った。
その後、後片付けやら、患者の怪我の具合を確認し、薬を調合したり、汚れた包帯を取り換えるなど細々とした処置を行っていると、思いがけない人物が診療所の戸口に立った。
逆光に縁取られた輪郭は違えようがなかった。
「ルスラン!」
予期せずして現れた夫を前に驚きに目を見開いた後、リョウの顔には明るい笑みがこぼれた。
「どうしたんですか?」
約一日ぶりに顔を合わせたユルスナールも昨晩から働き詰めなのか、整えられているはずの前髪がいつもより多く額際に零れ落ちていた。それでも顔色はよい。目が合うと酷薄そうな口元が微かに吊りあがった。
習慣で反射的に差し出された腕の中に飛び込もうとしたのだが、リョウは寸での所で躊躇い、慌てて汚れた前掛けを外した。そして他に目立った汚れがないことをざっと確認し、照れたようにさっと手櫛で髪を撫でつけた。そんな妻の様子を見てユルスナールはどこかおかしそうに笑った。
「何を気にしている?」
「ええと、ちょっとね」
好いた男の前ではどんな時でも【女】でいたいものだ。リョウとて例外ではない。
「大変だったようだな」
軽く頬と唇に掠めるような挨拶の口づけを贈りあってから、ユルスナールは抱きしめた腕に力を込め、労わるように妻の背をそっと叩いた。ユルスナールの目にも診療所内の様子は雑然としているように見えた。何よりも粗末な寝台に横たわる患者たちの姿が昨晩の慌ただしさを雄弁に語る。血の匂いと薬草類の匂い、それから食事をしたのか粥の匂いが不可思議に混ざり合っていた。ユルスナールは無意識に少し濃さを増した妻の香りを吸い込んでいた。
「ええ、まぁ。でも、そちらも似たようなものでしょう?」
頬に触れる夫の指の感触をこそばゆそうにしながらも、リョウは静かに微笑んだ。
「まぁな」
切れ長な瑠璃色の瞳がそっと細められた。そのまま見つめ合った二人は、瞬時に閉じられた世界の中でごく自然に唇を寄せ合ったかもしれない。
邪魔が入らなければ。
―ゲッフ…グフ。
場違いな程に甘さを帯びた空気を蹴散らすように大きなげっぷ音が響いたのは、その時だった。泡が弾けたように振り返ると酒瓶を呷ったトレヴァルが、奇怪なものを見るような目で二人を眺めていた。トレヴァルから「なんだその男は」とでも言いたげな視線を受けて、リョウは咄嗟に誤魔化すように苦笑いをした。
「あ、ちょうどよかった。ご紹介しますね」
ユルスナール は妻に促されて中に入るとトレヴァルの元へ足を運んだ。リョウはすぐさま間に入って夫をトレヴァルに紹介した。
「妻がいつも世話になっている」
「ふん」
トレヴァルは相変わらずの愛想のなさでじろりと相手を見上げたのだが、ユルスナールは気を悪くした風ではなかった。これまでリョウを通してなんだかんだと話を聞いているからということもあるが、リョウ同様、ユルスナール自身も【変わり者】の扱いには、それなりの経験があるからだ。
「で、なんだ?」
トレヴァルは卓の上、傍らの小皿に入ったおやつ―炒った木の実だ―をぽいと口の中に放り込んでから、ごりごりと音を立てて噛み砕いた。髭に付いた殻のくずを軽く叩いて下に落とす。
「ああ、妻を借りたいのだが、暫時よろしいか?」
治療院で助手として働いている手前、この場を仕切るトレヴァルに筋を通す積りらしかった。
「何かあったの?」
「見てもらいたいものがある」
リョウの囁きにユルスナールも小声で返した。そのやりとりは無論トレヴァルにも筒抜けている。
トレヴァルはまた皿に手を伸ばし、木の実の殻を剥いてから口の中に入れた。
「好きにしたらいいろいね。おめぇさんの嫁だすっけな。なぁして俺が口を挟もうばね?」
「少なくともこの場では、リョウはあなたの下で働く術師だ。そちらの都合もあるかと思ったのだが」
「ふん」
トレヴァルは勿体ぶったように鼻を鳴らしたが、悪い気はしなかったようだ。そして、とっとと行けとリョウを追い払うように片手を振った。
「リョウ、もういいすけ、おまんもちったぁ休め。まぁた明日から使いもんにならんかったら困るすけ。こいつらのこたぁ、しんぺぇすんなや」
言葉使いは相変わらずぶっきら棒だが、リョウはそこにトレヴァルの優しさと気遣いを感じ取り、素直に頷いた。
「分かりました。ではお言葉に甘えます。でも、もし、何かあったら連絡をくださいね?」
「ああ、そんときゃぁ、夜中だろうがなんだろうが叩き起こしてやるすけ、覚悟しろいね」
そう言って殻が付いた髭の合間からニヤリと笑う。この頃にはもう、リョウもトレヴァル流の言い回しを理解していたので、
「ええ、お願いします」
とにっこり笑ってみせた。
「礼を言う」
ユルスナールも合間に軽く会釈をした。
「あ、ではユリムが帰ってきたら戻るように伝えてください。イフィを寄越しますから」
「あのまっくれぇ犬っころか?」
「ええ」
「おいおい、あいつはんなガキじゃねぇろいね」
「ええ、でもこの辺りはまだ不案内のはずなんで、念の為」
トレヴァルの目にユリムは一人前の青年と変わらないものと映っていたので、過保護過ぎると言いたいのだろう。だが、トレヴァルはユリムの事情をリョウ程には知らない。
「あ、あとユリムの分のスープが残ってますから」
「わぁーったすけ」
ここまでくるとやってられないとばかりに面倒くさそうに片手を一振りしたのだが、トレヴァルはきっと気にかけてくれるだろうという予感がリョウにはあった。
満足そうに頷いて。こうしてユルスナールとリョウの二人は連れ立って診療所を後にした。
一方、術師が一人減った診療所内では……。
端迷惑な程に仲睦まじい夫婦の様子に当てられてか、口を開けてぼんやりと眺めていた患者の一人に、トレヴァルがからかいの声をかけた。
「なんだ、おめぇ、かかぁのおっぱいが恋しくなったか? え?」
我に返った男はこう切り返した。
「ば…馬鹿いうなや。俺んとこはちんまいのがぶら下がってるすけ、俺の分はねぇよ。ま、それもあと少しの辛抱だけどよ」
そう言ってニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる。
「…にしてもえれぇのが来やがったな」
一人が自分の目の端を指で吊り上げるようにしてユルスナールの顔真似をしてみせた。
「やっこさん、剣を佩いてたぜ」
「ここいらのとは毛色が違う」
「ああ、女がほっとかねぇってやつさ」
「ま、早い話が、おれたちみてぇな男の敵だな」
そんなことをぼやいた一人に隣の男が軽口を叩いた。
「なんだ? おめぇ張り合う気かよ?」
「あ? ばっか言え。男は顔じゃねぇ。心意気ってもんよ」
―俺みてぇにな。
そう言って一人が反らした胸元を拳で叩くと、別の一人も、
「あとは腕っ節だな」
そう言って、対抗するように包帯の巻かれた腕をこれ見よがしに持ち上げたのだが、その時、傷口に障ったのか、「いてぇ!」と情けない悲鳴が漏れて、周囲からは「へっ、ざまぁねぇ」と笑い声が起こったのだった。
***
さて、その頃、使いに出たユリムは、ミール薬師組合の事務室の中にいた。ミールの建物は堂々たる姿で街の中心に聳えているので束の間の旅人のユリムにとっても診療所からの道は間違えようがなかった。そして、圧し掛かる程に圧迫感のある巨大な建物内に入っても、リョウから詳しく場所を聞かされていたので、迷わずに済んだ。
ユリムのような素性の分からぬ者を無条件で受け入れただけでなく、その上色々と世話を焼いてくれるリョウは【莫迦】が付くほどお人好しで親切だった。他人を疑うこと、人に裏切られることを知らないのだろう。この広い世の中には偶にそういう幸運の星の下に生まれる者がいることは知ってはいたが、ユリム自身はこれまでそのような者と関わり合いになったことはなかった。
この街は、ユリムが暮らしていた国とはまるで違う。国という枠組みを越えて商いをする者たちが自由に集い、取引を行う場だ。商人という職業意識がこの世界の広大な地域を緩く繋いでいる。祖国を遠く離れたユリムの姿や顔立ちは、ここでは余り見かけないものではあるのだろうが、それを異質なものとして注視する者たちはいない。国の違い、部族の違い、言葉の違い、姿形の違いはここでは当たり前のことで、取り立てて騒ぐようなことではないのだ。
この街は雑多だが、けして無秩序な訳ではない。商業組合のミールが掟を作り、治めている。これはリョウから聞いたのだが、【ミール】とはここの言葉で【世界】という意味を持つそうだ。と同時に【平和】の意味も。彼らはこの街、彼らの世界を治めることを誇りに思い、それによってもたらされる富と豊かさは、安定と繁栄の象徴であるのだ。
この国の言葉も、話すのはまだまだ難儀な所があるが、聴いて理解する方は大分鍛えられてきた。ユリムが現在身を寄せる騎士団の中でも正しくかつ綺麗な言葉使いをするのは副団長のシーリスだと聞いてはいたが、ユリムの手本には余り役立たなかった。一番多く言葉をかわす相手―リョウ―は、そもそも訛りがあるし、外に一歩足を踏み出せば、周囲に溢れる言葉は各人のお国柄からくる独特な音や調子が介入した混ざりものであるからかもしれない。いずれにしても意思疎通の用が足せればそれでいいのだ。
そういった点では、ユリムを迎え入れた事務方の薬師は、上品な声音で簡潔に話す男だった。落ち着いた物腰に争いごととは無縁のようでありながらも、ひ弱な感じはしない。世慣れた旅人のような風情があった。
「そろそろ来る頃だろうと思っていた」
口上を述べて一覧を差し出したユリムを前に男はそう言ってひっそりと笑った。口の周りに皺が寄る。草笛のような掠れた声だとユリムは思った。だが、なぜそんな風に言われるのか見当が付かなかい。
薬師は若者の反応がないことには別段気に留めず、
「ちょっと待っていてくれ」
そう告げると壁一面に備え付けられた無数の小引き出しが並ぶ薬草棚の前に立ち、手慣れた様子で必要な薬草類を選び出し始めた。薬師の動きに迷いや無駄はない。もしかしなくてもこの壁にずらりと並ぶ小さな真四角の小部屋の、一つ一つの中身と場所が正確に頭の中に入っているのだろうと思うと感嘆せずにはいられなかった。それにしてもどうやって引き出しを分類しているのだろう。ユリムの目には区別が付かないように思えて、不思議さと共にぼんやりと見つめていると、
「どうだ? そっちは落ち着いたか?」
背を向けたまま男が口を開いた。
ユリムは最初、訊かれたことに見当が付かなかった。
「ええ……恐らく。よくは分からないが……多分」
一夜明けて港の診療所は、昨晩のような緊迫感からは解放されたと感じたのだが、薬師でも術師でもないユリムには患者たちの容態はよく分からない。
曖昧な返事をしたユリムに薬師の男が微かに笑ったような気配が伝わった。
「君も術師ではないのか?」
「いえ」
「では見習いか? ならば姉上の仕事をよく見ておくといい」
「…いや…それは…」
低く否定を繰り返したユリムの声から戸惑いのようなものを感じ取ってか、薬師の男は作業を続けながらその場で首だけ振り返った。片眉が鋭角な山を描くように形よく吊りあがる。
男はユリムと同じように長く伸ばした髪を後ろで一つに結えていたが、柔らかで明るい色をしていた。所々紐でくくられ三つ編みが施された部分が、艶やかに鈍い照りを返し、収穫間際の【リース】のように見えた。
「おや、違うのか? てっきり君は弟かと思ったんだが」
どうやらこの男はリョウを知っているようだとユリムは見当をつけた。リョウならばここでにっこり笑って相手の勘違いを正すのかも知れないが、生憎ユリムにはむやみやたらと微笑む芸当は出来ない。
「…いや……」
赤の他人の空似だ―と言いそうになって、リョウから遠い血縁者にしておいたからと言われたことを思い出した。その方が騎士団に世話になる口実としていいと。どこまで有効か分からないが、その予防線をここでも張ってみた。
「…弟…ではない」
「そうか? 一目見たらすぐにピンと来たんだが。よく似ていると思うが、言われないか?」
「…さぁ」
ユリムは困ったように首を微かに傾いだ。それはあくまでも癖のない黒髪と濃い瞳の色、彫の浅い顔立ちというここでは少し珍しい組み合わせの所為かもしれない。ここの人たちには、馴染みがない分、それだけで皆似たように見えてしまうのだ。ただ、この場でユリムは相手の言葉を全て否定しようとは思わなかった。真実を説明する必要などない。
「そうか」
薬師の男はそれ以上問うことはせず、すぐに仕事に戻った。取り出した薬草をそれぞれ小袋のなかに入れ、丁寧に記号を振る。最後に一覧と照合して満足そうに頷くと大きな包みの中に入れた。
その袋をユリムに差し出した。
「ほら、出来たぞ」
「かたじけない」
口をついて出た古めかしい言い回しに男はユリムをじっと見つめた。
「君の姉上…ではなかったな。あの術師殿によろしく伝えておいてくれ。それからトレヴァル殿にも」
ユリムは袋を受け取り素直に頷いた。
そうしてその場を去ろうとしたのだが、戸口に手をかけた所で、再び男から声をかけられた。
「つかぬことを訊くが、君はサリドに縁があるのか?」
何気ない世間話のような軽い声音に思わず頷きそうになったが、寸での所で思い留まった。何を知りたいのか。その問いに隠された相手の真意を測るように男の瞳を見返していた。凍りついた仮面の下、ざわつく不安を封じ込めながら。
からくり仕掛けの人形のように瞳孔を収縮させたユリムに対し、男は気安い感じで小首を傾げた。
「あれ、私の勘違いか? てっきり君もそうかと思ったんだが」
―君も。その一言が心に妙なさざ波を立てては消える。この男は故郷の民に知り合いがいるのだろうか。それとも……。
―アノ…オトコ…ヲ…シッテイルノカ。
「ここに来る前は私もあちこちを放浪した口でね。サリダルムンドにも行ったことがあるんだ」
そこでやっとユリムは詰めていた息を吐いた。
「…随分と遠くまで」
ここまでの距離を思い、どこか遠い目をしたユリムに男が微かに笑った。
「それは君も同じことだろう?」
「そう…かもしれない」
この時、ユリムは図らずも己が出自を認めることになったのだが、薬師の男はそれ以上問いを重ねることはしなかった。
「ではこれで。ありがとうございました」
再度、普通の言い回しで礼を口にして包みをしっかりと胸に抱く。そして軽く会釈をして薬師組合を後にした。
客人が去った後、薬師の男は次の間へと移動した。徐に窓辺に向かい硝子窓を大きく開け放つ。雲が薄くかかった蒼穹の向こうに小さな染みが見えた。その点がみるみる内に姿を変えるのをじっと見守った。
やがて、大きな影を頭上にはためかせ、風を翼の下に従えた頭の白い鷲が一頭、窓辺に降り立った。
「久し振りだな、ヴィー。達者だったか?」
男は懐かしそうに目を細めて大きな鷲を室内に招き入れた。
「ツレは?」
男は飄々と言葉を紡ぐ。大鷲の声は術師である男にしか聞こえない。その後も他愛ないことを問いかけながら、大鷲の脚元に括りつけられた筒を外し、中から細長く丸められた紙切れを取り出した。
小さな紙を開く。それまで薄ら笑いを浮かべていた男の顔から笑みが消えた。
そこには何も書かれていないように見えた。墨の跡などどこにもない。ただのまっさらの紙切れ。だが、男には事足りたようで、不可思議な文言を低く唱えながら小さな紙の表面を撫でると、その紙片は男の掌の上で突然青白い炎に囲まれ、めらめらと燃え出したかと思うと跡形もなく消えてしまった。男は揉み込むように片手の指を擦り合わせた。
それを見届けてから大鷲は再び窓辺から飛び立った。一人室内に残った男は、窓を閉め何事もなかったように日常に戻る。
必然と偶然の間を紡ぐ糸は時に絡まり、時に解けながらも何かを描き出そうとしている。そうして生み出されるのはどのような柄なのか、今はまだ誰にも分からない。
仄かな甘さを挿入せずにはいられませんでした(笑)
少々マニアックですが。【セマルグルсемаргл】というのは、両翼を持った雄犬の姿をしたスラヴの神(精霊)で、月と炎(生贄の炎、家やかまどの炎)を司ります。炎の神様は他にも多々いるのですが、根源的な炎を操るという点では、ズヴァローグの方が有名です。
それではまた次回にてお会いいたしましょう!ありがとうございました。




