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Messenger Ⅱ~空際のホールムスク~  作者: kagonosuke
第四章 パンドラの箱
30/60

4)二つのクリューチ

ご無沙汰いたしております。大分間が空きましたが、前回の続きです。それではどうぞ。


 時を前後して 。

 詰所内の会議室で自警団長のエンベルは、招き入れた二人の男たちに対峙していた。一人は、港湾組合の長であるシルヴェスタで、もう一人はティーゼンハーロム号の船長クラウスである。他に室内にいるのは自警団のハロムだけだ。

 シルヴェスタはスタルゴラドの遥か南方、プルシア出身の壮年の男で、たっぷりとした髭や頭髪には細かい三つ編みが幾つも施されていた。小さな縄の塊が動きに合わせて揺れる。かの国ではこの編み込んだ三つ編みの量―即ち本数―によってその者の社会的地位が分かるのだと言う。編み込んだ本数が多ければ多いほど、身分が高く裕福であるという証になるという。服装や髪形で相手の地位や立場、未婚既婚の区別などをつけるのはどの国や地域でも見られる共通の風習だが、三つ編みの本数を目安にするのはプルシアの特徴と言えるだろう。シルヴェスタはホールムスクに暮らして25年余り、元々は大海を渡る船乗りであった。この地に腰を据えてからはミール内で頭角を現し、マリャークたちの利益を代弁するまとめ役として港湾組合にとってはなくてはならない存在になっていた。


 シルヴェスタの表情は硬いものだった。だが、それよりも酷いのが隣に座る船長だろう。今回問題となったティーゼンハーロム号は、イシェフスクからの貿易船で、定められた寄港地で取引を行いながら、ここホールムスクでも荷降ろしや積み込みを行い、準備が整い次第、南方航路(ルート)を通って本国へと帰還する予定になっていた。船長のクラウスはイシェフスクのルリス(月の女神)商会に所属する腕ききの船乗りで経験も豊富であった。

「今回のことはお悔やみ申し上げる」

 形通りの口上を述べたエンベルに船長のクラウスは視線を下げたまま土気色の顔を擦った。目がしょぼしょぼとして、一晩で軽く10は年を食ったように見えた。

「おぞましいほどに不幸な事態だ」

 シルヴェスタも疲れたように息を吐いた。引き摺られるような重苦しい沈黙が足元にまとわりついて沈む。

「正確な被害状況は?」

 この二人の責任者はどれほどのことを把握しているのだろうか。

「積荷の目録はここに」

 そう言って船長は身に着けた革のヴェストの胸元から折り畳んだ油紙を取り出し開いた。

船箪笥(スンドゥーク)と為替…貴重品の類はなんとか持ち出せたんだが、前の港で大量に仕入れていた織物とここで積み込んだ鉱石類が全てパァだ。それから蜜蝋と塩に油。他にもイ・アフルムの酒に…ああ、それから」

 細々としたものを挙げればきりがない。

 吐き出された呼気には疲労とやり場のない怒りが混ざり合っていた。テーブルの上で折り皺の残るごわついた紙を平らに伸すようにしながら、船長は滲んだ目録の一覧をそっと指でなぞっていった。いまだ頭のどこかで大量の積荷を失った悪夢を受け入れられず、昨晩からの記憶が何度も繰り返し船長の首を絞めるように巻きついているのかもしれない。

「すると、炎が急速に広がった要因の一つとして積荷の中に大量の織物があったことが考えられますね。それから…香油…ですか?」

 受け取った一覧に注意深く目を通しながら、エンベルは頭の中に積荷と船の様子を描いていった。

「火が出たのは船尾だと聞いていますが」

 そこで対面に坐した二人に探るような視線を投げた。顔色を窺う。寸分もその変化を逃さぬように。


 シルヴェスタは険しい表情を崩さずに顎から伸びた三つ編みを所在なげに弄っていた。船長は眉間に深い皺を寄せて押し黙ったままだ。

 提出された目録の中には、エンベルが考えているような品物の記載はなかった。まぁ禁制の品を堂々と書類に載せることなど有り得ない。仮に黒の場合、こちらは便宜上の書類で、他に非公式の、実際を反映したものがあるとするのだ妥当だろう。

「出火原因に心当たりは?」

 エンベルの問いに船長は疲れたように首を横に振った。

「皆目見当が付かない」

 その言葉を信じでよいものか。

「明かりとりの蝋燭の不始末では?」

「いや、それは考えられない。船内では火の気が厳禁であることは皆、重々承知している。だから明かりには発光石を使用するのが常だ」

「では誰かが点け火をしたと?」

「そのような訳があるか!」

 船長は突然語気を荒げた。乗組員たちは長旅の危険と労苦を共にする仲間だ。信頼関係がなければ航海の安全は守れない。船長は自分の仲間が疑われたことを侮辱されたと腹を立てた。

 そこでエンベルは矛先を変えた。

「これまでの航海は順調でしたか? 何か不審に思う点などありませんでしたか?」

「いや、なにごともなかった。いつも通りだ」

 そう全てが順調だったのだ。昨晩までは。

 イシェフスクからの船は定期的にホールムスクに寄港しており、この船長も既に数え切れないほどの航海を経験していた。要するによく知る道だった。

 エンベルは立ち上がってテーブルを回り込むと船長の傍に腰を下ろした。鼻先を近づけんばかりに顔を寄せ、声を低くした。

「いいですか。どんな些細なことでも構いません。いつもと異なる点などありませんでしたか? 何でもいいんです。思い出してみてください。取引先が変わったとか、引き受ける荷物が変わったとか」

 他にもたとえば、取引先と揉めるようなことがあったとか。誰かに恨みを買っているかもしれない。内部の不始末でないとするならば外部の妨害という線も十分考えられた。

 船長は暫し考え込んだ後、

「問題は、何もなかった」

 再度きっぱりと言い切った。

 これ以上突いても無駄だと思ってかエンベルがゆっくりと体を引いた所で、同じ会議室内に控えていた部下のハロムが徐に口を開いた。

「それは実に奇妙ですねぇ。本当にお心当たりがないんですか? 船体に穴が開くほどの衝撃があったというのに。そして出火。船は瞬く間に炎上。火の回りも早かった。結果、多くの負傷者に死傷者までが出ました。【ただの積荷】が燃えただけではあのような惨事にはならないのではありませんか?」

「何が言いたい?」

 壁際からそっと離れ、足音を立てずにテーブルに着いたハロムを船長は苛立たしげに睨みつけた。ハロムは珍しくきちんと釦を留めた青い上着の裾をそれとなく引っ張った。

「我々は被害者だ。え? 積荷の殆どを理由もなく失い、船さえも失った。こんな馬鹿な話があるか! 半年以上の航海を何度も繰り返して来た丈夫な船だぞ。俺だって…長いこと船乗りをやっているがこんなことは初めてだ。一体全体、何がどうなってるんだか……」

 最後に小さく故郷(くに)の言葉で悪態を吐いて、船長はテーブルに突っ伏すように頭を抱えた。

 肩を震わせた船長を前にエンベルとハロムは素早く視線を交差させた。


「シルヴェスタ殿はどう思われますか?」

 暫し、蚊帳の外にいた港湾組合長は、その問いかけに悲痛な面持ちを返した。

「まっこと、不幸な事故…としか言いようがありませんな」

「事故、ですか」

 では船と船長に過失があったと言いたいのだろうか。

「貴兄らは何のために我々をここに呼びつけたのかね」

 これから惨事の後始末に負傷者の世話や振替輸送の手配、然るべき方面への通達などやるべきことは山積みで、ここで無駄に時間を費やすわけにはいかない。指揮官が不在では現場は混乱する。シルヴェスタは一刻も早く港湾組合の事務所に戻りたいという態度を隠そうともしなかった。

「もちろん、原因究明のためですが」

「そんなことに何の意味があるというのかね」

 そろそろ痺れが切れたのか、鼻息を荒くしたシルヴェスタに対し、エンベルは相手に敬意を払いつつも真面目な態度を崩さなかった。

「当然ありますとも。港の安全を守ることも我々の責務であります。このようなことが度々起こっては困りますから」

 今回の蛮行を引き起こした犯人がいるのであれば野放しにはできない。

 エンベルの隣でハロムが再び船長を見た。

「何か、そうですね。特別な荷を引き受けた…というような覚えはありませんか。たとえば積荷に妙なものが紛れ込んでいたとか」

 紛れ込んでいた。もしくは故意に紛れこまされていたとも考えられる。

 船長が口を開く前にシルヴェスタが目を眇めた。

「言いたいことがあるのならばはっきりとしたまえ。まどろっこしいやり方は好かん」

 それは海の男マリャークの流儀に反する。

 相手の苛立ちにハロムは微笑んで見せた。

「では単刀直入にお聞きしますが。違法な品物、たとえば爆発物のようなもの…を積んでいたのではありませんか?」


 火薬とそれらを用いた武器に関する取引は、ミールで厳しく管理されている。これらの情報は最終的には王都に集められ、中央の承認を得て初めてその年の取引相手と品目、そして量が決定されるのだ。裁定の鍵は首府(スタリーツァ)にある。この分野に関してはミールといえども独自に取引を持つことは禁じられていた。これはミールが自治権を保持する為の対価の一部でもあった。自分たちの商いに遠く離れた王都から横槍が入るのを好まない者はミール内にも多いが、それはまた別の話だ。この商取引を監視・監督する為に王都から役人が派遣されており、騎士団の隣の建物に詰めている。

 落ちた沈黙にハロムの淡々とした声のみが響き渡った。

「それが、何らかの要因で爆発した」

 もしくは故意に爆発させられたか。

 爆薬の運搬には細心の注意が必要であると耳にしている。取り扱いを間違えれば重大な事故に繋がると。通常の商船に気軽に積めるものではない。もしそのような品があったとしたら、この船は被害者どころか、ミールの掟に反していることになる。

「…そんな…馬鹿な」

 目録に記載されていないものは積んではいないと船長は繰り返した。

「でもその方が理由付けとしてはしっくり来るとは思いませんか?」

 ハロムは鷹揚に小首を傾げた。

「俺が不正をしているというのか!」

 (トップ)が関わっていなくとも、たとえば誰かが特別手当をもらって…ということは十分考えられるのだ。特に商人(あきんど)が暮らすこの世界では。誰もが潔癖で崇高な精神を持ち合わせているというわけにはいかない。そこには個人の思惑や利害が作用し、集団の利や規範と時にぶつかり、時に混ざり合う。そして欲望はいとも容易く人を絡め取るのだ。それは人を善意へと向かわせる動力(パワー)になることもあれば、悪意を焚きつける燃料(エネルギー)にもなる。汚濁の入り混じる混沌とした世界は、それこそが人の営みであり、この世界の在り方であり、変わることのない真実の一つである。全てが白、全てが黒。神話の中で神々が創りたもうた二つの世界は、長い時間をかけて混ざり合い、今では様々な色合いの濃淡を欠片(パッチワーク)にして生み出している。

 そして、ここで問題になっているのは、その中の小さな黒い点だ。


 船長の口元が歪み、歯を強く噛み締めているのが分かった。明確な言葉を口にするのは避けて、エンベルはじっとその様子を観察した。船長の瞳は怒りに震えていた。瞬きに合わせて火花が散る。

 ひょっとして、この男は何も知らないのではないか。エンベルの脳裏をその思いが掠めた。よく知るマリャークたちは曲がったことを嫌う。船乗りたちの日常に策略が入り込む余地は低い。これは勘だ。だが、完全に信じるには値しないのも確かだ。

「原因が俺の船にあったというのならば証拠を出せ」

 不意に立ち上がった船長は挑むように唸った。全身の毛を逆立てた手負いの獣のようだった。

「クラウスがこうまで言っているんだ。船を守る長が、みすみすそのような危険を冒すと思うのかね。自警団は何をしたいんだ?」

 沈黙を守っていたシルヴェスタが両者をとりなすように静かに口を開いた。それでも不愉快さを隠しはしなかった。

「原因を知りたくはないのですか?」

 エンベルは動じることなく港湾組合長と船長を順繰りに見た。今回の事件を船の所有者であり、航海を管理する本国のルリス商会に報告するにも尤もらしい説明が必要だろう。彼らも同じ商人(あきんど)だ。船が嵐で難破したというのならばともかく、積荷の殆どを失うという事態に必ず納得のいく説明を求めるに違いない。現時点では真相は闇の中だ。

「それは分かるに越したことはないが。こちらにはそんなことに関わる暇はない」

 シルヴェスタはけんもほろろに切り捨てたが、自警団は諦めなかった。

「ではこの件に関しては引き続きこちらで調査を続けても?」

「まぁ構わんだろう」

 但し、船員たちや港湾組合の業務の邪魔をしないこと、とシルヴェスタは条件を付けた。

「善処しましょう。クラウス殿もよろしいか?」

 船長はシルヴェスタと顔を見交わせると勝手にしろと言わんばかりに肩を竦めた。

「ではそういうことで。お手間をとらせましたね。もう結構です」

「ご協力感謝致します」

 自警団の二人は客人と型通りの挨拶を交わして、二人を放免した。


 確かな足取りで足早に詰め所を立ち去る男たちの背を見ながら、エンベルは腕組みをした。

「クラウスは白だろう?」

 その言葉に横に並んだハロムをちらりと見る。

「決めつけるのは早計だ。それよりもシルヴェスタの周辺を洗う必要があるな」

 前を向いたままこともなげに言った相棒にハロムは苦い顔をした。

「うへぇ。深入りしたらヤバいんじゃないか」

 相手はミールでも特別な力と繋がり(こね)を持つ港湾組合の長だ。昔から何かと灰色の噂が立つ御仁ではあったが、清廉潔白だけではこのような雑多な民が入り混じるホールムスクではやっては行けず、その指導力と手腕は大きく評価されていた。

「そこは上手く立ち回るしかないだろう」

 視界から大柄な二つの影が消えるとエンベルは踵を返した。その後にハロムも続いた。


 ***


 ちょうど同じ頃、街の中心部に位置する楕円形の広場を挟んで対面にある騎士団の詰所では、港で誰何(すいか)した胡乱な男たちへの取り調べが行われていた。殺風景な部屋に小さな古びた木の机と椅子が並び、背凭れのない椅子の一つに座らされた男がふてくされたように壁を睨みつけていた。男の前には少し離れてサラトフが座り、後方にはセルゲイが立つ。そして入り口付近の壁にもたれかかるようにして自警団から立会人として派遣されたヴォーサが腕組みをして立っていた。壁の上方、通風と明かり取り用に設けられた小さな窓からは、勢いを増した初夏の日差しがぽっかりと白い穴を開けるが、厚い石壁が囲む薄暗い詮議部屋はいまだひんやりとした朝の空気を低く閉じ込めていた。ずぶ濡れのまま連れてこられた男がぶるりと体を震わせた。

「なぁ、俺はなんにもしちゃぁいねぇんだ。だから解いてくれよ」

 縄で後ろ手に縛られたままが気に入らないようで不自由そうに肩を動かす。

 軍人らしく背筋をぴんと伸ばしたサラトフが睥睨するように男を見やれば、相手は気圧されてか、さっと目を伏せた。

「もう一度訊く、あそこで何をしていた?」

 綺麗に刈り整えられた髭の下、サラトフの唇は真一文字に引かれていた。声を荒げることはないが、有無を言わさぬ厳しさがそこにはあった。

「だからさぁ、さっきからなんべんも言ってんだろうがよぉ」

 男は疲れたように声を捩らせた。それから再度、昨晩、港での騒ぎを聞きつけて好奇心に駆られて様子を見に来たのだとの言を繰り返した。

「ならば、なぜずぶ濡れなんだ?」

 男は頭の天辺からつま先まで濡れていた。さすがにもう水は滴っていないが、ここまで来る途中、男が歩いた道筋はナメクジのような跡が残った。

「そりゃぁ、他の連中に突き落とされたからだよ」

「ずいぶん岸壁の方に寄ったんだな」

「人だかりがすごかったじゃねぇか。あんたも知ってんだろ? どこも押すな押すなってさ。もうちょいよく見ようって端に寄ったら、どっかのアホに小突かれてどぼーんさ。ついてねぇゼ」

 舌打ちをして鼻を啜る。先程からのらりくらりとこの調子が続いていた。悪びれる様子もない。

 サラトフはちらりと男の斜め後ろに立つセルゲイを見た。


 男は、ティズと名乗った 。市場に勤めていると答えたが、どうもまっとうな商売をしているようには見えない適当さと軽薄さが混在していた。

 それよりもサラトフには先程から気になっていることがあった。

「では尋ねるが、その懐のものは…なんだ?」

「あ? んだよ」

 とぼけたような顔をしたが、男が濡れて張り付いた上着の少し不格好に膨れた部分を頻りに気にしていることにサラトフは気が付いていた。

 サラトフの視線がそこに注がれる。

「なんだよ? あんたに見せるようなもんはなんにもねぇぜ」

 身じろぎした男の背後からセルゲイがその肩を抑え、二重になった隠し(ポケット)から何かを取り出した。

 テーブルの上に置かれたのは、指の長さ程の真鍮の鍵だった。真新しいのか(あかがね)色に輝いている。大きな縞模様の入った紅い貴石がつまみの部分に付いていてその周りには細かい飾り彫が施された拵えの見事なものだった。

 男の口元が僅かに歪んだ。

「これはなんだ?」

「見ての通りさ」

「ふむ。鍵のようだな」

「かもな」

「どこで手に入れた?」

「あ? 俺んだよ」

 嘯いた男にサラトフの視線が突き刺さる。

「あー、分かったって。落ちてたのを拾ったのさ。めっけもんだろ?」

「落ちていた? どこに?」

「あー、それは…えっとどこだったかな。港らへん?」

 男は態とらしく天を仰ぐような仕草をした。

「では、これは預かっておく」

 そう言って鍵を手に取ったサラトフに男が慌てた。

「なんでだよ。そいつは俺んだ!」

「あ? お前はこれを港で拾ったのだろう? 昨日のゴタゴタであの船に持ち主がいるかもしれない」

 確認する必要があると言ったサラトフにティズは目を細めて前かがみになった。

「ふん。あんたがせしめようってんだろ。俺なら高く売れる店を知ってるぜ。間に入ってやるから。なぁ俺に預けてくれよ。そしたらあんたにも礼を弾むぜ?」

 ―悪い話じゃねぇだろ?

 あからさまな買収の誘いにサラトフは片眉を跳ね上げた。そして同じように顔を寄せると、瞳に侮蔑を込めて髭の合間から白い歯を覗かせた。

「ほう? ではお前は盗品を横流しした罪で豚箱に入るんだな?」

 ―こっち(騎士団)のでもあっち(自警団)のでもどちらでも好きな方を選べるぞ。

 その瞬間、男の顔色が変わった。

「はぁ? なんでそうなるんだよ。俺は盗んだんじゃねぇぜ。拾ったんだ!」

「どうだかな。似たようなものだろう」

「ちょっ、それは勘弁してくれよぉ」

「これは没収だ」

 ぴしゃりとにべもなく言い放てば、ティズはふてくされたように体を引いた。

「ちぇっ、頭がかてぇなぁ。ちったぁ情けをかけてくれてもいいだろうに。つめてぇな」

「生憎、盗人(ぬすっと)にかける情けは持ち合わせていない。残念だったな」

「へっ、お高く留まりやがって。お騎士さまかぁなんだかは知らねぇが。いけすかねぇ。王都風吹かせやがって」

 薄ら冷笑を浮かべたサラトフを前に男はぶつぶつ文句を垂れ流した。悪びれることなく悪態を吐く男の態度をサラトフはまともに相手をするのも馬鹿らしく捨て置いたのだが、もう一人の客人は違ったようだ。

 それまで沈黙を守っていた自警団のヴォーサが徐に口を開いた。

「ティズ、いや、ヘララーだったな。てめぇは自分の置かれた状況をこれっぽっちも分かっちゃいねぇな」

 二つ目の名前を呼ばれた時、男の顔色が変わった。ヴォーサは肩にかけていた上着の下から二の腕をさり気なく前に出し、そこにびっしりと施された幾何学文様を思わせる見事な装飾を見せ付けた。男の瞳に恐怖がちらついた。ヴォーサは殊更ゆっくり男に歩み寄ると反射的に立ち上がろうとした男の薄い肩を抑えつけ、肘を乗せた。屈みこんで顔を寄せる。

「【三度目はねぇ】―覚えてるだろ? てめぇの空っぽの頭でもよ」

 低い囁きに男の顔が引きつった。

「あ、いや、待ってくれよ。ここは騎士団の詰所だろ。自警団のあんたらには迷惑かけてねぇだろ。だから数の内に入らねぇよな? な?」

 縋るように仰ぎ見た男にヴォーサは人の悪い笑みを浮かべた。

「馬鹿野郎、場所はかんけぇねぇんだよ。この俺がここにいる時点で【ニェット(アウト)】だ。このあんぽんたん」

「セリョーシュ」

 これで終わりだとばかりにサラトフはセルゲイに合図を送った。そのままヴォーサと二言三言言葉を交わして、騎士団の兵士たちが部屋から出て行こうとする。

「あ、おい、ちょっと待ってくれよ。どこ行くんだよ。ってか、これを解いてくれよ!」

「てめぇはこっちだ。なーにうんま(すぐ)そこだ」

 ヴォーサは後ろ手に縛られた男を引っ立て顎をしゃくった。海の神にまつわる伝説を描いたモザイク画が散らばる広場を挟んで反対側には、自警団の詰め所があった。文字通り目と鼻の先に。

「約束は守ってもらうぜ」

「……チッ…クショウ…」

 破れかぶれの悔しさを含む男の掠れ声が早朝の詰所内に情けなくも響き渡った。


 自警団側の目当てはどうやらこの男にあったようだ。向こうでそれなりに世話をしていた所謂スリの常習犯であったらしい。残されたもう一人の尋問に立ち合う気はないのかと問えば、その必要はないと言って、ようやくしおらしく項垂れたティズを引っ立てて行った。




 こそ泥ティズが懐に隠し持っていた鍵の冷たい感触を指先に触れながら、サラトフはもう一人を留め置いた詮議部屋に入った。見張り役のオットーと共に待たされていた男は二人の兵士の入室に体を更に縮こませた。

 男は酷くおどおどしていて落ち着きがなく、頻りに視線を彷徨わせていた。こちらも全身ぐっしょりと濡れそぼり輪郭を象るように貧弱な毛髪が青白い顔に張り付いていた。男の拘束は解かれていた。両手を縛らなくても反抗しないと見なされたのだろう。

 男の唇は青を通り越して紫に近くなっていた。

「寒いのか?」

 サラトフはオットーに合図をして粗末な毛布を男の肩に羽織らせた。男は震えながらも頭を小さく振って謝意を表そうとした。

「待たせたな」

 小さな机を挟んで前に座ったサラトフに男は毛布を胸元に手繰り寄せた。


 それからすぐに簡単な事情聴取が始まった。こちらでも同じ質問が繰り返される。もう一人の男との関係。港で何をしていたのか。ずぶ濡れになった理由と経緯。一通り形式的な質問を終えると、サラトフは男の顔をじっと見つめた。

 そして静かに問うた。

「それは…なんだ?」

 男は、先程から握り締めた両の拳を胸元に寄せていた。まるで神官が祈りを捧げるかのように。寒さに毛布を手繰り寄せているのかと思ったがどうも手付きが妙だ。男は言葉を発することなく目を微かに見開き、体をぶるりと震わせた。

「何を隠している?」

「あ…い……か…」

 寒さからか、それとも恐怖からか、男の口は思うように動かない。歯がガチガチと鳴って漏れる呼気は不明瞭だった。

「大事なものなのか?」

 相手を刺激しないよう、ゆっくりと繰り返された問いに男がこくりと頷いた。

「心配するな。誰もお前の物を取ろうとはしない」

 サラトフが促すように小さく顎をしゃくって暫く、男はゆっくりと寒さと緊張で強張った指を開いていった。

 そこに隠れていたのは、くすんだ色合いの細い(チェーン)にぶら下がる薄っぺらい金属片だった。サラトフの太い指が伸びた。金属札は長方形をしていて真ん中には鍵の意匠が施されていた。細い柄の先端部分に小さな貴石がはめこまれていた。裏にはサラトフ自身最近になってようやく目に馴染んできたミールの紋様が彫られていた。

 この男はミールの組合に属する職人だった。

「錠前屋か?」

 サラトフの手が離れると男はあからさまに安堵の表情を浮かべた。

「ああ」

 と聞こえるか聞こえないかのか細い声がした。

 そこで何を思ったのかサラトフは懐の中から(くだん)の物を取り出し、男の前に置いた。

「これが何だか分かるか?」

 もう一人の男ティズが港で拾ったという鍵だった。男は恐る恐る手を伸ばし、慎重に検め始めた。

「わしのものではない」

 掠れた声で男が言った。

「それはお前が所有するものではないということか? それとも、お前が作ったものではないということか?」

「どちらも」

「これは実用的なものだろうか」

 差し込み口の大きさを考えると錠前はかなりの大きさに思えた。

「鍵は全て対になっている」

 錠前があって鍵がある。両者は不可分のものだと男は言った。

「では、お前ならば、この鍵に相応しい錠前はどのようなものだと思う?」

 男は再び鍵の先端部分を見た後にこう言った。

「このくらいの…丸い筒型で、横に差し込み回すものだろう」

 男はかじかんだ自分の手を使って仕組みを説明したのだが、サラトフにはいまいち理解できなかった。

「錠前ってのは、こういう四角くて平たい形をしているものではないのか?」

 サラトフが自分の思い浮かべる形を手で示せば、

「それは余りにも古臭い」

 こともなげに一蹴されてしまう。

「……そうか。ではこれは特殊なものなのか?」

「珍しいものではないが、一般的なものでもない」

 遠眼鏡で焦点(ピント)が絞りこまれた途端に視界がぼやけるようだ。サラトフは奇妙な気分になった。

「そいつはどういうものに使うんだ?」

 ありふれたものではない錠前はどのような所に用いられるのか。その問いに男は緩く(かぶり)を振った。

「それはわしの領分ではない」

「ふむ。では質問を変えよう。そういう形の錠前を手掛けたことはあるか?」

「多くはないが、ないこともない」

「ミールの職人ならば注文を受けることがあるか?」

「そうだ」

「そうか」

 サラトフは少し考えてから言葉を継いだ。

「錠前職人は己が刻印をこういうものに残したりするのか?」

 たとえば刀鍛冶が刀身に製作者の名前や意匠を人知れず刻むように。

「それは場合による。各人の好みだ」

「ここにその印はあるか?」

 男はもう一度鍵をひっくり返して、持ち手の部分で石のはめこまれてない裏側を見た。そして否定の意味を込めて首を横に振った。

「これはお前と一緒にいたあの男が拾ったそうだ。港で」

 相手の反応を窺いながらサラトフは種明かしをした。

「あの船の物かもしれないと考えているんだが、どう思う?」

「分からない」

 男は淡々としたサラトフの視線にぶつかって目を伏せた。

 それから男は何を思ったのかぎこちなく腕を動かして自分の懐を探った。濡れて張り付いた着衣同士を剥がす。部屋の隅に立つセルゲイとオットーの顔に緊張が走ったが、サラトフはそれに気が付かぬふりをした。

「どうかしたのか?」

 男が尚もごそごそと濡れた衣服の袷をまさぐった。暫くして男の手はテーブルの上に乗った。こつりと硬い音がした。

「わしもこれを見つけた。誰かが落としたんだろう。ちょうど届けようと思っていた」

 これも一緒にしておいてくれと付け足した。

 男が差し出したのは、丸い硬貨(コイン)のような平たい金属の塊だった。

「なんだこれは?」

 少々歪な形をしたその表面は、不揃いに盛り上がっていた。元々あった装飾が経年により摩耗してしまったみたいだ。どのような絵柄がそこにあったのかは分からない。側面にはギザギザのこれまた不揃いな溝が付いていた。輝かしい光りもない。上等な衣類にあしらわれた釦のようにも見えたそれを前にサラトフは首を傾げたのだが、逆に男に訝しげな顔をされてしまった。

「これも鍵だ」

 テーブルに無造作に並んだものは同じものだと男は言った。

「鍵? どうやって使うんだ?」

「知らないのか?」

 と男が問えば、サラトフも浅く頷く。

「錠前にこれと同じ形の穴が開いていて、はめると開く仕組みのものだ」

「このような形のものもこっちでは普通なのか?」

「【普通】の定義が良く分からないが」

「ああ…だな、つまり、ままあることなのか? 街の誰もが知るくらいには」

 言い変えたサラトフに男は少し考えてから口を開いた。

商人(あきんど)の中にはこの形を好んで使う者もいる」

「一部…というと?」

「さぁ、詳しいことは分からない。ブルッヘやラグーサ辺りの…いや、それともンバーブか」

 男の口から聞こえた耳慣れない音―恐らく地名の類だろう―を素早く頭の中に刻み込んだ。

「分かった。ではこちらも預かって置こう」

 サラトフの申し出に男も頷いた。

 その後、念の為、男が店を構えていると言う場所―【リィナク(市場)】の外れにある金物屋の二階が作業場所兼店舗になっているそうだ―を聞いてから、騎士団は男を釈放した。まだ青白い顔をしていたので、毛布は貸したままにした。


 騎士団の詰所の裏口から広場に出た男は、背を丸めて吹き込んだ風に身震いした。広場の辺縁を市場がある方角に向かって横切る男の目の端に、この地域に伝わる神話や伝説の一幕を描いたモザイク画が入り込んだ。下半身を魚の鱗で覆われた艶めかしい水の精【ルサールカ(人魚)】がその青みを帯びた細い手に小さなかまぼこ型の木箱を持ち、頭上に掲げていた。閉じられた木箱には錠前が付いていた。その傍には大ぶりな鍵を持った仲間がいる。それは、この地域で昔から語り継がれているお伽噺の一場面だった。次に続く話の内容は、この街の住人ならば誰もが容易に思い描くことが出来るだろう。

 ―けっして開けてはならぬ。

 好奇心に負けた【ルサールカ】の姉妹が神の言い付けに反して鍵を錠前に差してしまうと……。

 不意に下を向いた男の口元に秘密めいた笑みが生まれては消えた。短くなった影が足元に落ち、次の場面へと繋がる場所を隠すように暗がりの中に淀む。その少し先で、弓矢を引き絞った狩人の絵が、足早に広場を歩く男をじっと見つめているような気がした。


【補足】

●クリューチ(ключ)とはロシア語で「鍵」意味します。「二つの鍵」の場合「два ключа」と名詞の語尾が変化するのですが、サブタイトルには単数を用いています(どうでもいいことですが)


●港湾組合長の髪型は、(うろ覚えなんですが)古いスロヴァキアの風習を参考にしました。あちらの男性はみつあみが何本もぶら下がるつばのある帽子を被りまして、みつあみの本数が多ければ多いほど社会的地位が高いことを表すそうです。他にもHobbitのドワーフたちの髪型を意識してみたり。


さて本編ではなにやら謎めいた事件が出てきました。今後、しばらくはオムニバス的に同じ時間軸をウロウロする予定です。相変わらずの亀更新、平にご容赦を。それではまた次回にて。ありがとうございました。

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