3)ルサールカの惑い
エンベル は顔を上げると椅子の背もたれに体をそらすようにして両手を伸ばし、きつく目を閉じた。固まりかけた筋が本来の役目を思い出すように伸びる。節に溜まった血液がじわじわと末端に届くのが分かった。鈍く痛む目頭を揉んだ。目は充血しているだろう。突如として湧いた大声で叫びたい衝動を我慢して、代わりに深呼吸をした。そして天井を睨みつける。窓の外、東の空は白み、淡い群青と紫が褪せてゆく。朝日が静かに、圧倒的な熱を持って大地と海を侵食する。
夜が明けた。
清々しいはずの一日の始まり。だが、エンベルには最悪の気分だった。
睡眠による記憶の整理と断絶のない、だらだらとした時の連続。休息を入れるかどうか、たった数刻の違いが驚く程に一日の意味を変える。今ならありとあらゆる悪態を吐ける気がした。人生を呪い、己が役目を呪詛する。だが、エンベルには悲劇の主人公になる積りはなかった。嘆く暇などない。次から次へと頭の痛いことが起きていた。何かが動き出している。いや、動き出そうとしているのか。不穏な雲がこのホールムスクの街を覆う。その予感がエンベルを妙に不安にさせた。
エンベルは椅子から立ち上がると執務机を回り前に出た。腕組みをして壁一面に張られた地図を睨みつけた。それはホールムスクを中心にした世界地図だった。命がけで未知の世界へと旅立っていった先達たちの足跡。商隊が使う交易の為の陸路、海路、その道筋が詳細に記されていた。ここに描かれた地域、諸都市との繋がりは、長きに渡りホールムスクが繁栄をほしいままにしてきた証でもあり、その為の努力の結晶でもある。今でもこの地図を前にすると記憶の中にその道程が鮮やかに蘇る。飢えと渇きに極限の疲労。マリャークの末裔として、かつてエンベルも先人の例に倣い見聞を広げる為の旅に出たことがあった。
左側にある出入り口の扉が開き、青い上着を着た男たちが入って来た。皆、煤と油で汚れた顔をしており、目が血走っていた。目の下にも薄らとくまが出ている。昨晩から一睡もしていないからなのだが、それにしても消耗の度合いが激しい。
入室した部下たちに腕組みをしたままエンベルは体を開いた。
「被害状況は?」
団長の問いかけに部下の一人が姿勢を正した。
「負傷者は26名。うち重傷者が2名。死亡者は1名。港の診療所、港湾組合の仮設救護所、それからオトヴェンとラグーサ の診療所に収容されています」
どれも港の近くだった。
続きを促すように頷いたエンベルに部下のエールトは報告を続けた。
「船はイシェフスクからの大型商船で5日前に入港。荷を積み替えた後、昨晩出航予定でした」
イシェフスクは、この大陸の裏側に位置し、ホールムスクとは昔から交流のさかんな地域だった。
「ティーゼンハーロム 号は炎に包まれ全焼。沈没は免れましたが、帆柱の天辺まで黒焦げの状態で辛うじて船であったことを留める骨組みが残るのみ。どう見ても状況は最悪であると言えるでしょう」
積み込んだ荷もその殆どが消失した。一夜にして。持ち出せたものは少ないと聞く。損失はかなりの額になるだろう。
「それで、原因は分かったのか?」
「現時点では……」
そう切り出したエールトにエンベルは眉を寄せた。
知りたいのは、憶測ではない具体的な事実だ。なぜ、何が、どのようにして、いつ、どこで。単純なことだ。それなのに部下が集めた話ははっきりとしないどころか、虚ろなエンベルの脳内を海に注ぐキレンチ川のように止めどなく、そして捉えどころなく流れていった。
出航間近、突然、積荷の一部から火が出た。同時にドーンという大きな音がした。弾けるように船尾の一部に穴が開き、海水がどっと流れ込んだ。船が大きく傾き始める。慌てて消火に走ったが、炎の勢いはいよいよ増し、瞬く間に帆柱まで駆けあがり、船全体を真っ赤な灼熱で包んだ。衝撃で海に投げ出された者、怪我をしたもの多数……。
とりとめがなくばらけていた証言をまとめ、順序立てて並べてみる。だが、どうにも釈然としなかった。それこそけして元には戻らない波間に浮かぶ砕け散った積荷の断片を掻き寄せ繋ぎ合せようとするかのように。
誰もがとある言葉を避けている。エンベルにはそう思えて仕方がなかった。
そこで質問を変えた。
「積荷はなんだったんだ?」
もちろん、出火原因となったものだ。外部から火矢を射かけられたということも考えられなくはないが、火元は船尾の船底に近い部分だと報告を受けている。それすら間違いであったのならば、話は別だが。
背筋を伸ばし報告をしていたエールトは、困惑気味に口の端を下げた。
「それが…明確に答えられた者はなく」
「そんなわけがあるか!」
エンベルは低く唸った。普通の荷ではあのようなことにはならない。大きな商船に穴を開け焼失させるなどということには。昨晩のような事故が起きたのは、エンベルが知る限り初めてのことだった。
「積荷の目録があるだろう?」
港では外国船及び自国船の出航、入港時に港湾組合立ち合いの検査を行い、そこで入港許可証や停泊許可証の発行をし、出航前に停泊料の徴収を行う。積荷も港で下ろしたものとホールムスクで仕入れたものに関しては、一覧にして報告する義務がある…というのが建前としてある。
「港湾組合に提出された目録をこちらに早急に提出するよう通達はしています」
「船長は?」
「シルヴェスタ殿と共に会議室の方に」
その名にエンベルは港湾組合長の顔を思い浮かべた。さぞかし胆を冷やしている…いや、そんな軟なタマではないか。問題は船長の方だ。
「ふむ。では、これより御機嫌伺いに訪ねるとするか」
東に向いた窓からは朝日が差し込み、冷ややかな空気を少しずつ包もうとしていた。
この期に及んで隠しだては許されない。知っていることを洗いざらい吐いてもらう。固く誓ってエンベルは部下を引き連れて部屋を出た。
***
昨晩 、港で起きた大型商船炎上の騒ぎは、夜が明けるころには埠頭の周辺はおろか街中に広まっていた。朝から野次馬が黒焦げになった帆柱の残骸を一目見ようと集まって来るが、周囲には警戒線が敷かれている為、近くまで辿りつくことはできない。関係者以外の侵入を避ける為に自警団と騎士団が辺りを巡回し、警戒にあたっていた。
「なんだと! もういっぺん言ってみやがれ!」
「そいつらの取り調べはこちらで行う」
「ハッ、なま言ってんじゃねぇ。ここはわっての縄張りだ。よそもんが首を突っ込む必要はねぇ」
埠頭の一角に人だかりができていた。度々剣呑な声が上がる。毛色の異なる男たちが真っ向から対峙していた。どちらも一歩も引かないというように胸を反らしている。明らかな威嚇だ。
「そうは行くか。あれを捕らえたのは我々の方だ」
片方は青色の上着を様々にひっかけた男たち。この街では誰もが知る自警団の団員たちだ。もう一方は、柿渋色の上下に身を包み、腰に長剣を差していた。王都から派遣されている騎士団の兵士だ。
昨日から夜通しで警戒にあたっている所為か、自警団の男たちは皆、気が立っていた。それに引き換え騎士団の兵士たちは、所々疲労の色が垣間見えるものの小ざっぱりとした身なりをしている。
隅の方では兵士が別の二人組の男を後ろ手に拘束していた。留め置かれた二人組は全身びしょ濡れで酷い格好をしていた。一人はふてくされたようにそっぽを向き、逃げる機会を窺って手首に巻かれた縄を解こうとするが、その度に諌めるように手綱を握る兵士から引かれて痛みに顔を顰めている。もう一人は青ざめた顔をして怯えたように視線をうろうろと彷徨わせていた。
どうやらこの二人の男の処遇を巡って両者は真っ向から対立しているようだ。
「これはうちの案件だ。あんたらの手を煩わせる必要はない」
自警団の頭格の男が毅然とした態度で騎士団に言い放てば、
「そうだ! てめぇらは引っ込んでな!」
青い上着を肩にひっかけ、マリャークの証でもある二の腕の彫物を見せ付けるように腕組みをした仲間が居丈高に援護する。
だが、相手も引かなかった。
「そういうわけにはいかない。昨夜の一件は我々の領分でもある。第一、あの男らを最初に誰何したのはうちの兵士だ。我々が尋問をして当然だと思うが」
「そうそう。あんたらだって他にやるこたぁあんだろうがよ、たんまりと。こいつらはこっちでやるから、そっちはそっちの仕事しな」
努めて冷静な対応を心がけるのは騎士団の中でも中堅どころのサラトフで、その隣で見た目はいい加減だが、交渉術に長けたセルゲイが援護した。
「ハン、てめぇらで手柄を横取りする気かよ」
頭の天辺にだけ髪を生やした大男が嘲るようにすごめば、
「あんたはひっこんでろ、このハゲ!」
「んだと! 生意気な口ききやがって、ケツの青ぇガキが!」
騎士団の兵士の中で図体だけは立派だが一番若く堪え性のないオレグと自警団の中でも気性の荒いディーシャが互いの胸倉を掴みかかって睨みあった。
「あ? やるのか、おい」
「あ? 上等だ、クソガキ。吠えづらかくなよ」
鼻面を突き合わせんばかりにして共に空いている拳を突き出そうとした所で、
「……オレグ」
「…ディー」
サラトフとセヴァートが仲間の手綱を引くように窘め、周りにいた其々の仲間が子供染みた男たちの襟首を掴んで引き離した。
先程から両者の議論は平行線をたどっていた。元より自警団にとって騎士団の連中は気に入らない存在だ。双方の上層部は別件―子供の行方不明案件―で協力することに合意はしていたが、騎士団内ではしっかりと統率がとれているものの、誇り高いマリャークたちは自分たちが不能だと暗に仄めかされたようで気に食わず、それを隠そうともしなかった。今回も要らぬ横槍を入れられては堪ったものではない、そう思っている節があった。
昨晩の騒ぎを聞きつけて騎士団からも情報収集と見回りの兵士が派遣されていた。団長であるユルスナールの意向はミール及び自警団への協力だ。
サラトフとセルゲイは節度ある態度をとりながらも、この件に関わる気満々で、押さえる所は引かなかった。サラトフはやかましい外野の挑発には乗る積りはない。喧嘩っ早いグントやオレグの頭をセルゲイが小突いて窘める。
サラトフは、この場での交渉の相手、セヴァートと呼ばれた男を見た。この男も統率力はあるようだ。すぐ脇にいるやたらと吠えたがる大男とは違う。双方の納得する着地点を探る為に冷静な判断が出来ることを願った。
「何か出てくればすぐに知らせる。約束しよう。そちらはそちらの仕事をすればいい」
「ああ、ちょっとばかし気になっただけだから。叩いても何も出てこないかも知れないぜ?」
サラトフの言に続いてセルゲイも拘束された男たちを横目に見ながら言った。
確認するようにサラトフはセヴァートの目を見た。日に焼けた男らしい荒削りの顔が微かに歪む。両者の視線が交差した。
「先にそっちに渡す。だが、用事が済んだら、その男たちをこっちの詰所に寄越せ」
譲歩したセヴァートにセルゲイが眉を顰めた。
「それって二度手間じゃねぇ?」
「あんたらが見逃すことだってあるだろう?」
ギロリと鋭い視線が突き刺さるが、セルゲイは気にせずにつるりと自分の顔を撫でた。
「あー、まぁそうかもしんねぇけど。じゃぁさ、こっちの尋問にそっちから立会人をつけるってのは」
いいことを思い付いたとばかりにセルゲイがニヤリと笑う。
「ああ、それがいい。時間の節約になるだろ」
一人話を進めるセルゲイの傍らで、サラトフは異議を唱える積りはないようで自警団の出方を静かに待っていた。
暫し逡巡するような素振りを見せたセヴァートだったが、やがて了承するように頷いた。
「いいだろう」
それからすぐに仲間を振り返った。
「ヴォーサ」
立会人はすぐに指名された。呼ばれた男が前に出る。セヴァートは仲間の耳元で小さく何事かを囁いた。
「では決まりだな」
決定が下されれば男たちの動きは早い。兵士たちはすぐさま移動を開始し、拘束された二人組を引っ立てて行く。そのしんがりに青い上着の男が付いた。オレグはディーシャと最後まで睨み合っていたが、グントに小突かれて大人しく従った。
騎士団が去った後、埠頭に残ったセヴァートは、ぐるりと居並ぶ仲間の顔を見渡した。
「引き続きこの周辺地域の警戒は怠るな。妙な動きをする奴がいたら連れて来い」
「アイアイサー」
頷いた仲間を見てセヴァートも表情を引き締めた。
その時、港湾事務所の先にある方角から同じ青い上着が駆け足でやって来た。
「セヴァート!」
診療所に運び込まれた負傷者の状態を見に行ったアルマトゥイだった。
「意識が戻ったってよ!」
事故の被害にあった船の乗組員と港湾の作業員に話を聞く予定だった。軽傷者からは既に話を聴取していたが、重傷者の方はまだだった。特に港の診療所に運ばれた者は、事故当時現場にいて、出火原因について何らかの事情を知っているのではないかと思われた。
「口はきけるのか?」
「一応な。まだ薬が抜けてなくてぼやっとしてる風ではあるが」
「分かった」
セヴァートはアルマトゥイと共に診療所に向かうことにした。残りの仲間には、周囲を巡回した後、港湾組合の事務所に向かい事件についての情報収集をするように命じた。
***
「チクショウ! なんでだよ。おい、アンタ。なんで俺を助けた! こんなカタワになるくれぇなら死んだ方がましだ。これからどうやってやってきゃいいんだ。チキショウ!」
セヴァートとアルマトゥイの二人が診療所の古ぼけた木戸を叩いた時、中から男の叫び声が聞こえてきた。涙交じりなのか気が高ぶっているのか、強弱の強いぶれた言葉は不明瞭だ。
ついでガシャン、ガタンと何かが激しくぶつかる音もした。二人は素早く視線を合わせると、腰にある得物がいつでも抜ける具合にあることを確認しつつ扉に手をかけた。
「なぁ、俺の脚はどこ行っちまったんだよ! なんで無くなっちまってんだ? アンタ、見つけてくれるって言っただろ。なんでねぇんだよ!」
診療所の中は、昨晩の惨事を物語るように雑然としていた。テーブルの上には薬の瓶が立ち並び、大小様々な布や油紙が散らばる。血のりのべったりとついた衣服や処置に使われた布は洗濯用の籠の中に乱雑に放られていた。壁に垂直な形で並んだ簡易診療台には、手当を受けた負傷者が数名ぐったりと横たわっていた。よく見れば床の上にも包帯を巻いた者の姿がある。
窓から遠い一番端の壁際に置かれた寝台で上半身を起こした男が、盆を手にした術師に掴みかかっていた。壁には先程男が投げつけたのだろう。へどろのような緑色の染みが斜めに広がり、辺りには薬草特有のむんとした青い匂いが立ち込めていた。男は、相手の胸倉を掴んだ手を怒りにまかせて揺さぶった。
「なぁ、頼むよ。俺はぁもう駄目だ。こんな不具者になっちゃぁ生きていけねぇ。おまんまだって食いっぱぐれちまう。殺してくれ! えぇ、俺を殺せ!」
最後の方は涙交じりの懇願から啜り泣きに変わった。
術師は苦しそうに顔を歪めたが、男の怒りをただただ黙って聞いていた。やがて反応を返さない相手に気が削がれたのか、ぱっと手を放すとふてくされたようにそっぽを向いた。
重苦しい沈黙が落ちた。
「脚のことは……申し訳ありませんでした」
しんとした室内に術師の平坦な声が響いた。
「ハッ、よせよ。見つかったら繋がったのかよ」
もちろん、そんな魔法のようなことが出来るわけはない。そのくらいのことは男も理解していた。だが、それと自分が片脚を失った事実を受け入れることは違う。
残された片脚だけで何ができるというのだ。力仕事の多い港湾関係にはつぶしが利かなくなる。職を失ったらどうやって食べていけばいい。どうやって家族を養っていけばいい。突然目の前が真っ暗になったような絶望を男は味わっていた。この怒りをどこにぶつけていいのかも分からない。
投げつけられた薬湯の椀を拾い、黙々と片付けを始めた術師を横目にセヴァートは男の側へと行き、そこにあった椅子に腰を下ろした。
「よぉ、ゼバシャ。気分はどうだ?」
ちらりと青い上着の男を横目に見てから、患者は苛立ったように顔を顰めた。
「見ての通り、サ、イ、ア、クさ。んだよ、あんたらまで俺を笑いに来たのかよ」
語気が制御できない苛立ちに硬くなる。
「飯は食ったか?」
「はぁ? まだに決まってんだろ。この状況でんなこと聞くか?」
「なにか食えそうか?」
怪我のことには一切触れず、腹が減っているかを尋ねられて、ゼバシャと呼ばれたマリャークは毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。ぐったりと壁に体をもたせかけて天を仰ぐ。
「ここで用意できるのは蕎麦粥くらいですが、他に食べたいものがあれば出来る限りのことはしますよ」
再び煎じた薬湯を手に術師が傍らに立った。口元に薄らと笑みを刷いている。よく見れば術師もざんばら髪で疲労の色をその目元に色濃く滲ませていた。セヴァートに薬湯の入った椀が手渡された。患者に飲ませてくれということなのかもしれない。
「カーシャが食いてぇ、わっとこのかかあがこしらえたがんが」
ぽつりと吐き出された男の小さな声に術師は笑みを深めた。食欲があるということは生きることを諦めていないということだから。
「では、お住まいを教えてください。お願いしてきますから」
ゼバシャは虚を突かれた顔をした。まさか自分とはなんの縁もない術師がそのような我儘を受け入れるとは思わなかった。
ゼバシャの住まいは橋を渡ってすぐ、マリャークが多く暮らす集合住宅にあった。
「ええと、川を越えて…山の手の方にちょっと行った所ですね?」
建物の入り口には、海の神ペレプルートの意匠が大きく彫られているので目印となる。一つ一つ確認するように場所を尋ねた術師に入り口付近の壁際に立っていたアルマトゥイが案内しようと申し出た。
「でも、お手を煩わせるわけには」
昨晩のことで自警団は目が回るほどの忙しさではないか。
「いや、向こうの家族に報告も必要だからな。ついでだ」
「ではお願いします」
そこで術師は診療所の主を振り返った。
「トレヴァルさんは、なにか食べたいものがありますか? ついでに調達してきますよ。他の皆さんは?」
やれロキ通りのパンが食べたいだの、熱々のウハーが飲みたいだの、次々と上がる患者たちの欲求に術師は目を丸くしたのだが、どこか安堵したように微笑んだ。全て賄えるかは分からないが、善処しようと懐具合を確かめる為に財布を取り出す。別の小袋を取り出した所で、
「そちらを用立てて構わない」
もう一人、術師によく似た雰囲気の若者が言い放った。
「あーうん。もし足りなくなったらね。でも多分、大丈夫かな」
中を見ながら確認した術師に腕に包帯を巻いた男がからかうように言った。
「おいリョウ、まさかおめぇ、全部自分で持つ気かよ?」
「え? 他にどうするんです?」
「おやっさんに頼めばいいだろ」
「そうそう。な、おやっさん」
「ああ? ミールにつけとけ」
突然、話を振られたトレヴァルは自分ではびた一文出す気がないのか―そんな金があれば酒を買うと言いたいのだろう―ぞんざいに片手を振った。
「ひでぇおやじだな」
「ケチくせぇ」
患者たちから抗議が上がるが、
「あ? 文句があんならおまんらで出せや。俺の銭をつこう義理はねぇ」
吝いのか、トレヴァルは素っ気ない。
最初の軋むような雰囲気は、僅かなぎこちなさを含みつつもいつしか緩んでいた。
「リョウ、俺も行くか?」
荷物持ちを志願した黒髪の若者を自警団のアルマトゥイが遮った。
「いや、その役目は俺がもらおう」
若者は突然口を挟まれて面白くない顔をした。二人の間に生じた妙な空気に術師が代わりの提案をする。
「ああ、じゃぁユリムはミールの薬師組合に行って、足りなくなった薬草をもらってきてもらえるかな。一覧はトレヴァルさんが作ってくれるから。ね? 師匠?」
「なんだ、今度は俺までこき使う気かよ」
トレヴァル流の厭味に術師は苦笑いをした。
「アハハ、そうですねぇ。ではワタシが戻ってからにしましょうか。それでも構いませんよね?」
「ふん、馬鹿言え。んなことしたら日が暮れるこってね」
文句を口にしつつもトレヴァルは机の引き出しから赤茶けた紙を引っ張り出すとペンを手に必要分を書き出し始めたではないか。口は滅法悪いが、仕事に関しては妥協をしない。飲んだくれに目を瞑れば、意外に真面目でいいところはあるのだ。トレヴァルも昨晩から働き通しなのに愚痴一つ零さないのだから。
「ありがとうございます。ではちょっと行ってきますね」
手早く身支度を整えて戸口に立った術師には目もくれず、トレヴァルは自警団のアルマトゥイを見た。浅く頷きを交わす。助手をよろしく頼む。そんな意味合いが込められていたかどうかは、本人たちにしか分からない。
***
「出てお行き! この薄汚い女狐が! あんたの顔なんてあたしゃ見たくないんだよ。どの面下げてここまで来たんだい!」
手にした木製の長い匙を脅すように振り上げて、ものすごい剣幕で捲し立てる女にリョウは早々面食らった。ただ、ゼバシャの家かと尋ねただけなのに。
「早くうちの亭主を返しておくれ。あんたらみたいな性悪女に稼ぎをみんな使っちまう前にさ。ああ、なんて忌々しい。うちは今、そんな余裕なんてこれぽっちもないんだよ。あんたらはさぞかしいい気なもんだろうねぇ。甘い言葉にしなをつくって酌をして男から金をふんだくるんだから」
「あの、いや、いえ、そうではなくて…ですね」
戸惑いが大きすぎてしどろもどろになったリョウに尚も女は畳みかけるように喚いた。
「ほら、とっとと帰りな。その懐のもんは受け取んないよ。恋文なんて聞いてあきれる。借金の取り立て状みたようなもんじゃないかい。それとも今、ここでズッタズタに引き裂いてやろうか。え?」
中々立ち去らない侵入者に業を煮やしたのか、前掛けをした豊かな腰に手をあててふんぞり返った体の大きな女は、奥に引っ込むとその手に水のようなものが入った手桶を持ってきた。そして前触れもなく中身を目の前に立つリョウにぶちまけた。滴る水が、地面に小さな鏡を出現させる。映り込んだまやかしの空は瞬く間に壊れた。
今日は厄日かなにかだろうか。諦めにも似た溜息が思わず漏れた。
「おいおい、一体どうしちまったんだ。リョウ? びしょ濡れじゃねぇか」
そこへやっと野暮用を済ませたアルマトゥイが合流した。途中、知り合いから声をかけられて話し込んでしまった自警団の男を待たずに先を急いだ罰だろうか。
ゼバシャの女房と思しき女は、勝ち誇ったように鼻を膨らませた。悪者を成敗した正義の味方しかり。女房の中でリョウは排除すべき敵に分類されてしまったようだ。まるで意味が分からない。
「ふん、あの女狐の使いに決まってんだろう。同じ黒髪じゃないかい。それにその異国の顔。あの女たちと同類さ。だからこれまでの礼を少しばかし返してやっただけさ」
心なしか眉根を寄せたアルマトゥイの視線に、リョウは不当な仕打ちに怒るどころか苦笑いをした。
「あー、いや、何だか誤解をされてしまったようで……といっても、正直なところ何がなんだかよく分からないんですが……」
被ったのが泥水だったのか、顔が茶色の土まだらになっている。アルマトゥイは恐らく自分と同じように昨晩から働き詰めの術師を不憫に思い、仁王立ちしたままの女房に厳しい目を向けた。
「アレーテイア 、こちらは港の診療所で働く術師殿だ」
妙に改まって紹介をされた。
「リョウです。はじめまして」
額際から滴り落ちる明らかにきれいとは言い難い水をどうにか拭いながら、リョウは反射的にとって付けたような笑みを浮かべた。
木の匙を今にも放り投げようとしていた女房は、ぽかんと口を開けて暫く、やっと自分がしでかした間違いに気が付いたのか、ぎゃっと声を上げて奥の方へ走り去ってしまった。そしてまた同じようにそろりと戸口に顔を出すと、
「あたしゃてっきり………ああ、なんてことしちまったんだい」
ばつが悪そうに目を伏せたのだった。
懐から取り出した布巾でリョウが顔の汚れを拭う傍ら、ゼバシャの女房にはアルマトゥイから来訪の目的を告げてもらった。外で立ち話をするような内容ではないので部屋の中に入れてもらう。リョウは泥水まみれになった上着を脱いで裏返しにした。女房は今度は澄んだ水の入った小桶を使ってくれと差し出した。
台所で煮炊きをしていたのか、続きにとりかかった女房にアルマトゥイは夫のゼバシャの身に起きた不幸を手短に語った。
「ゼバシャが昨晩、埠頭の事故に巻き込まれて怪我をしてな。今は港の診療所にいる」
「なんだって!」
女房はぎょっとしたように振り返った。
「命に別条はないんだが、その……脚に大怪我を負った」
それ以上詳しい状況を伝えてしまってよいものか、逡巡したアルマトゥイに女房は不安そうな目を向けた。
「脚に怪我をしたって……どうしたんだい? ちゃんと養生すりゃぁ治るんだろう? また元通りになるんだろう?」
「…それが…だな」
ふいに目を伏せたアルマトゥイに代わり、リョウが静かに告げた。
「大変お気の毒ですが、御主人は左足を膝から下、失いました」
「ああ、神さま!」
木の匙を両手に抱えて震えた女房をリョウは台所の椅子に座らせた。
「一体どうしてそんなことに」
この場所は港で働くマリャークたちが多く暮らす場所なので、昨晩の騒ぎの件はこちらにも届いていたが、まさか自分の夫が事故に巻き込まれていたとはつゆも思わなかったようだ。
顔を青くした女房にリョウは水を手渡した。ごくりと一口飲んで、少しは落ち着いただろうか。
「それでうちの人は…その…どんな塩梅なんだい?」
「先程目を覚ましまして、奥さまの作るカーシャを食べたいと仰ったんです。食欲があるのはいいことです。回復が早くなりますから。それで作って頂けないかと思いまして」
ここを訪ねた本当の訳を話す。
「もう全く、なにやってんだか、あの宿六は」
目尻に浮かぶ涙を指先で拭いながら、女房は気丈にも笑顔を見せてお粥作りを快諾してくれた。
粥の鍋をかき混ぜながら、女房は頻りに先程の非礼を詫びた。
「それにしても悪かったねぇ。よりによって術師の先生を花街の使いと勘違いしちまうなんて」
思いもよらない家庭内事情の暴露にリョウは曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。気まずい空気を出すが、女房は気にせずおしゃべりを続けた。
「いやね、恥を承知でお話しするんですが、うちのもあっちに馴染みの女がいるんですよ。しかもあのいけ好かない阿漕な店にね。もう、いっぺん鏡でちゃんと自分の顔を見てみろって言うんですがね。向こうは金蔓欲しさの客商売、そりゃぁ上手いことおべっか並べて、男を持ち上げるんでしょうがねぇ、そんなんでせっかくの稼ぎを注ぎこまれたこっちは敵いませんて。早くうちの宿六なんぞ見限っちまえばいいのに、少し足が遠のくと、ああやって文を寄越すんですて。寂しいから会いに来て欲しいってね」
「手紙をご覧になったことがあるんですね?」
「ええ。うちのは馬鹿な男ですからね。あんな薄っぺらい紙一枚に舞い上がっちまって、ほんとにしょうもないったらありゃしない。『どうだ俺ももてるんだぜ』―なんて言った日にゃぁひっぱたいてやろうかと思いましたよ。ええ、ほんとにひっぱたいてやりましたがね。だからあたしは言ってやったんです。うちのどこにそんなお足があるのかってね」
愚痴を零すのにちょうどよい相手を見つけたのか女房の話は終わりそうにない。自警団のアルマトゥイはそそくさと逃げて隣の部屋でまだ幼い子供たちの相手をしているようだ。
「それは…大変ですねぇ」
何ともいえない合槌を打ったリョウの手元を見た女房は意味あり気に目を細めた。丸顔に悪戯っぽい笑みが乗る。
「おや、せんせぇも隅に置けないね。ちゃんといい人がいるんじゃないかい」
こちらでは婚姻の証、愛の証を指輪などの装飾品にするというスタルゴラドの風習はほとんど見られなかったが、話だけは知っていたようだ。
「ええまぁ」
「海の色だね」
「そうですね」
青という色は、見る人の心を映す。ここではやはり豊穣な【海】と結び付くのだろう。
ふとリョウは先程の話で気になった事を訊いた。
「あの…花街の黒髪云々…というのは、どういうことなんですか?」
スタルゴラドでもキルメクとの国境に近い南西部では黒髪に対する偏見があった。そして王都の神官たちが持つ固執も。ここでもそのようなことがあるのだろうか。
「ああ、それはね」
ぐつぐつと音を立て始めた鍋を掻きまわしながら、女房は気まずそうに微笑んだ。粥の煮える甘い香りが漂ってきた。
「うちの宿六が馬鹿みたいに熱を上げてる店はね、異国の華を集めてるってぇことを売りにしてるんだよ。で、そこはみんな黒髪の女ばかりなのさ。サリダルムンドの宝石を集めた―なんて吹聴してるけど、どうだかねぇ。わざっとに黒く染めたりしてるのもいるだろうし」
そこで女房は慌てて付け加えた。
「あ、いや、気を悪くしないでおくれね。先生はひょっとしてサリダルムンドのお人かい?」
「いえ、違います」
リョウの否定に女房は少し安堵した風に見えた。
「で、あそこは使い走りの子もみんな黒い髪をしてるんだよ。だから、あたしはてっきりね。まぁそういうことで。勘弁して下さいよ」
こちらの顔を窺うように見た女房にリョウも気にすることはないと笑った。
その後、拵えてもらった特製カーシャを持ってきた鍋に移し替えて、リョウは再びアルマトゥイと共に診療所へと戻ることにした。女房に一緒に来るかと問えば、今は幼い子供の面倒があるので具合が悪いから明日にすると言った。友人か近くに暮らす母親に子供を預かってもらえるよう頼まなくてはならないと。
「何か…言伝はありますか?」
最後に問えば、否定の意味を込めて静かに首を横に振る。
「では明日以降、奥さんがお見舞いに来るとお伝えしても?」
「ええ。頼みます」
本当は今すぐにでも夫の元に飛んでいきたいのかもしれない。でもそれは叶わない。膝の辺りでスカートを不安げに握る子供たちを優しく促して女房は家の中に入った。
そしてリョウとアルマトゥイも診療所を目指した。
ルサールカとは、スラヴ世界ではポピュラーな水の精(というよりも妖怪に近いかもしれません)沼地など水場に生息し、迷い込んだ旅人を美貌(幻影)で誘惑して水の中に引きずりこんで殺してしまう…という少し怖い存在です。




