1)水底の回流
大変ご無沙汰いたしております。ここより第四章に入ります。
―ズシャリ。
重さのある金属片の鈍い音が、厚みある木の板に沈むようにしては跳ね返った。濃い体毛で覆われた太い指がタン、タタンと鍵盤打楽器の品よく並んだ細い板を弾くように器用に踊る。その脂ぎった手がテーブルの上にひしゃげた小袋を無造作に掴んだかと思うとそれをそのまま前方に放り投げた。
「とりあえず、手付だ」
―取っておけ。
酒焼けしただみ声が、緩くたなびく紫煙を掻き分ける。細い管に吸いついていた男の口からは吐き出された息が煙に変わった。ポコポコと首の細長い容器の中を駆け巡る水煙草特有の音がくぐもって聞こえる。
柿渋色に染められた粗末な小袋は、見かけよりもずっしりとそれを放られた、目の前に立つ男の手の中に収まった。男は、目方を計るように暫し手の内で弄んでから懐に入れた。中身の確認は不要だ。それだけの関係を男たちは築いていた。
「たったこれっぱかか」
「残りは、仕事を終えてからだ」
髭に埋もれた合間から見えた男の口元が僅かに上がった。
「問題なく済んだ場合には、この三倍は払う」
感嘆と敬意にピュウと調子外れの口笛が鳴った。
「マジか。えらく気前がいいじゃねぇか」
男が懐に入れた小袋の中には、感触として、三月は余裕で暮らせるほどの金が入っていると思われた。それを報酬としては少ないと言い切るこの男の感覚は、別段、ここではおかしくはない。この街ではある所にはうなるように金が集まり、一瞬のうちにその大金が別の場所に動く。この男たちが属するのは、そういった世界の辺縁だ。
似たような小袋が隣に立つもう一人の男にも放られた。金に対する扱いにしてはかなりぞんざいだが、それがここの流儀でもあった。小袋を渡した男にしてみれば、この程度の金額は取るに足らない端金なのだろう。
最初は不服そうな口振りであったものの相場よりもずっと高い金額を成功報酬として仄めかされたことに意外そうな顔をした二人組の男を前に、椅子ではなく、大きく張り出した机の角に腰をかけた男は、思わせぶりな笑みを髭の合間に浮かべた。
「仕事が上手く行ったら、な」
「上等じゃねぇか」
職務完遂の確率は低い。つまり、それだけ危険な仕事だ。成功報酬をはずむ裏にはそれなりの意味がある。それを受けるか断るかも男たち次第。この二人が駄目ならば代わりの候補者は幾らでもいる。そういう世界だ。
二人の男たちは無言のまま、手にした小袋を懐にしまうとそそくさと踵を返した。契約成立だ。床板に薄らと積る砂埃が、男たちの歩みに合わせ、ザリザリと耳障りな擦過音を立てる。
「頼んだぜ」
帰り際、戸口でかけられた声に後ろの一人が首だけ振り返って軽く手を一振りした。両者の間にはそれなりの理解があるようだ。
一人室内に残された男は、張り出すように間横に伸びた口髭を脂ぎった指先で摘み、そのままピンと毛先まで指で梳いた。バネのように弾力をもって縮れた房が伸びる。男は、その指先を一舐めしてから、机の上に広げた帳面を繰り、さらさらと先程の交渉の成果を書きつけた。この台帳には、仕事の発注者、内容、請負人、報酬として提示された金額、支払い方法、うち前金幾らといった細かな情報が記入され、案件として管理される。
男は一つ鼻先でせせら笑うように息を吐き出すと帳面を閉じた。どうやらそこそこ納得のゆく采配が出来たようだ。それから隣に設えられた板が斜めになった大きな台の方に向き直ると、中途半端になっていた両替硬貨の勘定を再開した。
***
懐の温かくなった二人組の男たちは、寂れた裏通りを歩いていた。くたびれた服は埃まみれで顔にはほったらかしのまま伸びた髭がうねらんばかり。手櫛で適当に括られた髪からは先程の部屋の残り香が移ったのだろうか、水煙草の匂いがした。最後に体を清めたのはいつかと訊いてみたくなるほどのむさ苦しさだが、見かけほど臭いはきつくなかった。
だが、その基準もこのしみったれた裏通りではあてにならないだろう。この辺りに屯する男たちは、大抵、染み付いた汗のにおいと酒の匂い、そして雄のにおいを寧ろ当然のように振りまいているからだ。
途中、道端に出ていた露店で焼いた骨付き肉を買い、道々齧りながらこれまた別の通りで買った安い酒瓶を傾けていた。
日没まではまだ間がある時分。どこかで舶来物の時を刻むと言うからくり時計がボーンと不気味な音を立てて鳴る。それに合わせて別の小路では威嚇するように犬が吠え、また別の角では鮮やかな羽をまとった異国の鳥が籠の中で喉を震わせ始める。その向こうに透かし見える表通りでは荷馬車の車輪がガタガタと合いの手を入れ、勇ましき益荒男人 の勲章の如く頬に泥跳ねを付けた子供が汽笛のように甲高い声を上げて駆けて行く。
いつもと変わらない気だるい昼下がりの光景だ。
「てか、うめぇなおい」
酒瓶を軽く呷るように天高く逆立てて、太い喉がごくりと嚥下する。小腹が減っていたのか、しゃぶりついていた肉の塊が瞬く間に骨だけになると、男はその食べかすをひょいと後方へ放り投げた。先程からあわよくばおこぼれに与ろうとする野良犬がうろうろとして、男たちの様子を窺っていたのだ。この界隈を縄張りとする犬どもとも顔馴染みになった頃合いだ。
「ラス」
男が付かず離れず傍らを歩いていた連れを呼んだ。男はちょうど肉の塊に齧りつき形よく生えそろった歯で力強く噛み切った所だった。滴る肉汁が男の薄い唇にてかりを生む。
「今度のはぁちょっとヤバそうだよな」
「だな」
「ま、それだけ近づいたってことなんだろうがよ」
脂でべとべとになった指をぺろりと舐めた男の脇で、ラスと呼ばれたもう一人の男も食べ終えた骨を待ち構えていた別の犬に放った。そして同じように汚れた指を舐めると相方とは違い腰のベルトから下げていた布で拭いた。意外にも衛生観念はあるようだ。
「怖気づいたか?」
真顔でからかいの言葉を低く吐いたラスに、
「っは、ばっか言え」
相棒のザップは目を細めた。
「まーためんどくせぇ臭いがぷんぷんすると思っただけさ、チクショウ、クソッタレが」
損な役回りを得たことに対してお決まりの悪態が漏れる。
「確かにな、胡散臭くはあるか」
「ああ。だが、おもしれぇじゃねぇか」
無精髭が疎らに生えたザップの口元が兇状持ちのように吊りあがる。
「遊びじゃないぞ」
ラスは咎めるように連れを見た。
「わーてるって」
今度ばかりは気を引き締め慎重にならなくてはいけない。
「つーかさ、俺らもようやっとやっこさんのお眼鏡にかなってきたってぇとこなんじゃね?」
「どうだかな。まだ様子見だと思ったほうがいいと思うが」
水代わりの発泡酒をグビリと呷って軽く言い放ったザップにラスは素っ気なかった。
「んー、まぁな」
ザップは緩慢な仕草で顎の辺りをボリボリと掻いた。中途半端に伸びた髭が肌に刺さると痒いのだ。
二月の間にここまで辿りつけたことを自分でも評価してもいいのではとザップは思った。なんだかんだと向こうの要求を大人しく飲んできた努力がようやく実を結び始めた。
この街に着いてもうすぐ二月。旅人、流れ者が集まっては通り過ぎて行く。この場所は絶えず流転し、流動しつづける。人も物も。停滞、休止を知らぬ街だ。
ここに入るまでにも手に入れることのできる情報は様々な伝手を頼って集めてはいた。公的なものから私的なちょっとした繋がりまで使えるものは全て利用した。神経質になっていた友人に影響されたのかもしれない。実際に着任してからは引き継ぎで残っていた前任者たちの意見を聞いて回った。それでも最終的に頼るのは、あくまでも己が経験を元にした勘だ。この目で確かめ。この鼻で匂いを嗅ぎ、この耳で声と音を拾い、この舌で味わう。こうして得られる生の情報に勝るものはない。そして、この情報を活かす為には、公正で偏見のない知識が必要だ。
今回、勤める場所は異なれども、男たちに課された特別任務は、この男の本質を活かしたものである。
ザップ―もといブコバル―は甘えるように近寄って来た野良犬の頭を撫でるラス―ロッソ―の姿を横目に見た。今回、二人はそれぞれザップ、ラスと仮名を使い組んで任務に就いていた。粗野ではあるが、陽気で相手の懐に入るのが上手いブコバルと物静かで無駄口は叩かないが、生真面目で面白味のない唐変木でもなく、洒落の分かるロッソ。この二人は巴、もしくは硬貨の裏表のように静と動、陰と陽、背中合わせになって互いを補完し合う。ブコバルはともすれば単独行動を好む一匹狼の気質を備えてはいるが、軍人という職業に付きものの幼い頃からの訓練により今では誰よりも集団の輪と規律―独自の解釈でという注が付くが―を守ることに拘る男である。そして、そのような限定的な枠組みの中で先程の個への渇望を発散させることが自己内の精神調和を保つことに繋がっているのだろう。
二人は偽名を使い、この街に流れて来た旅人として傭兵崩れの荒くれ者を多く抱える口入屋に出入りしていた。騎士団の兵士という肩書はこの任務中には不要だ。臨時の短期労働を求める流浪の旅人というところだろうか。当然、身なりもそれらしく薄汚れていて、髭も伸び放題。綺麗好きなシーリスが見たら凍えるような笑顔で説教を垂れること必至だが、ここにはそのような咎めだてする者もいない。
当て所ないさすらい旅。その途中知り合い、気が合ったので共に直近の目的地ということでこの街にやってきた。暫く滞在してある程度の金が出来たら船に乗って海を渡る―そんな心積りを話していた。何ものにも縛られない自由な生き方。男に生まれたならば一度は憧れるものだろう。
ブコバルとロッソは水を得た魚のようにこのホールムスクの大海を抜け目なく泳ぎ回った。特にブコバルは、自堕落で稼いだ金はみんな酒や女、博打に使ってしまうような、どうしようもない男がよく似合った。それは演技というよりも、この男に備わる生来の一面でもあるのだろう。一方のロッソも、荒波を果敢に漕ぎ行く冒険家の如く、その寡黙さが謎に包まれた過去を対峙する相手に都合の良いように想像、解釈させるのだ。
二人はこの仕事を楽しんでいた。危険と隣り合わせだが、生粋の軍人である二人にはその性質は違えども【危険】に大差はない。
約二か月前、ここに流れ着く束の間の旅人たちと同じく身なりをそれらしく整えると古くから繁栄をほしいままにしてきた街中の喧騒に紛れ込んだ。彼らの任務は情報収集である。匂い、音、視線など五感を最大限に研ぎ澄ませ肌で感じたものをこれまでに蓄えてきた情報と突き合わせ、擦り合わせや変更追加の上書きをすることでこの街の実体を描き出そうとするものである。
スタルゴラドの中でも特殊な位置づけをされているホールムスク。王都にとっては富をもたらす蜜壷で犠牲を払いつつも念願かなってようやく手に入れた貴重な土地だ。ここから流れ出る権益と税収は国の発展に欠かせない。
また、軍事的な拠点としても、この土地は特別な意味を持っていた。四方の殆どを他国に囲まれたこの国が、唯一得た海への突破口。この要所を押さえておくことは、自国の安全保障上、最終的な切り札にもなる。
だが、それは王都にとってのホールムスクの利用価値で、ここに暮らす民の心は全く異なる。遥か昔、この地に流れ着いてより独自の暮らしを育んできた交易の民、海の民マリャークにとって、スタルゴラドは強大な侵略者であり侵入者だ。武力をもってこの土地を無理やり奪取した時の禍根は、300年という時が流れた今でも大きな爪痕を残す。
王都で得られる情報には限りがある。そこには王都ならではの権益と思惑が絡み合い真実を歪ませる。王都から遥か東、なだらかな山々を越えた先にあるという実際の距離以上に、両者の間には計り知れない心理的隔たりが、大きく口を開けていた。
我流だが腕はそこそこという触れ込みで体力もある。この街に溶け込む為に単調な力仕事も護衛や用心棒のような少々危険を伴う仕事も選り好みすることなく行った。まずはこの界隈に慣れる為。この空気感に溶け込み、周囲の人々と同じ集団に属する人間だと受け入れてもらうように。そのことが、ひいてはここに赴任する第七の仲間を守ることにもなる。ここは完全な敵地だ。王都を代表する第七の兵士たちは、積年の憎しみや不安をぶつける的になりやすい。諍いの火種は見つけ次第鎮火し、騎士団の業務が円滑に進むよう努めなければならない。
二人に課せられた任務はこの街の暗部を探り、王都の影響力が届かない場所での輪郭を描き出すことである。この街を取り仕切るのはミールと呼ばれる商業組合であるが、彼らとの直接交渉だけでは知り得ない情報が必要だった。裏の勢力を探ること。どんな街にも施政者の力が及ばない暗部―第三勢力―がある。ミールの恩恵から外れてしまった者たち。いや、影ながらこの街を本当の意味で支えている勢力だ。この土地の地底深くに流れる地下水脈のように、普段意識することはないがなくてはならない、そんな命の緒にも通じる部分。溢れだす水を保つための受け皿のごときもの。
どんな些細なことでもいい、多くの手札を持つことは交渉を優位に進めるきっかけになる。望む望まないとに関わらず、王都の代理である騎士団とこの街の住人たちの構図は対立的だ。スタルゴラドの一都市として、住民との間に友好関係、協力関係を平和的に築くことがここでの命題だ。20年前のような武力衝突は繰り返したくはない。【大国の威信】という誇りの影で、どんなに人心が疲弊し、多くの損害を出したことか。国内はようやく大きな戦から復興を果たし、安定を取り戻したところだ。王都は今、諍いを欲してはいなかった。
このホールムスクは、ツァーリの威光が隅々まで行き渡るスタルゴラド国内で唯一、燻り続ける火種を抱えていた。この火種は、深く深く灰の中に沈んでいる。埋み火 のように。そしてこの周囲には、いつでもくべられるのを待つ薪と注がれるのを待つ油が控えているのだ。ひっそりと宵闇に紛れるように。
この情報収集に二人が選んだ先が、この街で手広く人材派遣や職業斡旋を行っている口入屋だった。ここには職を求めて様々な人間が流入する。幅を利かせるのは、やはり金だ。何をするにも金が物を言う。金があれば何でも手に入る。それを手っ取り早く稼げるのが口入屋を介しての労働だった。
この場所には日がな様々な仕事が集まって来た。過酷な労働も敬遠されがちな汚れ仕事も、もちろん訳ありな仕事も。ここの戸口を叩くのは金を対価に多少危険な橋を渡ることも厭わない男たち。戦地以外では生きる導を見出すことのできない傭兵崩れや荒くれ者、冒険者たちだ。彼らが作り出す独自の繋がり、人脈、そして世情や金の動きなど、騎士団にとってもどう転ぶか分からない相手だからこそ、知っておく必要がある部分。
二人はここに出入りするようになってから実に様々な仕事をこなしていた。港湾での荷役作業を手伝う人足の仕事や土木作業、花街で酔客相手の用心棒のような仕事、積荷輸送時の商隊の護衛…などなど。まずは新入りらしく、口入屋の主に顔を覚えてもらい、自分たちを売り込んでおかなければならない。そこそこ使い勝手のいい信用に値する男だと。
この店の主は、柔和な顔立ちに鋭い目を持つ抜け目のない男だった。この業界の隅々まで知り尽くしているズメイのような男。職業柄人当たりは滅法良いのだが、それだけでは済まないのがこの業界の掟。いざとなれば非情なまでの冷酷さを発揮する。
単純な力仕事だけでなく、子守りのようなこともやらされた。子供の遊び相手になりながら目的地まで送り届けたり。それから溝浚いのような清掃作業に庭の剪定や草むしりのような庭師の仕事まで。ああ、それから、木の上に登って下りられなくなったコーシュカを救出するという拍子抜けするようなことも。こうなると万屋という方が近いかもしれない。「あなたのお悩み、よろず解決いたします」という看板を掲げていそうなアレである。口入屋の方も信用商売であるからして、ぽっと出の新参者の適性を観察しているのかもしれない。だが、このような雑多な仕事のお陰で近所のおかみさん連中と言葉を交わす機会も増えたし、似たような傭兵崩れの労働者たちが屯する食堂や飲み屋、花街の辺りにも足を運んでも知った顔が見つかる程になった。軍人であるという身元がばれないようにするには神経を使うが、この街の持つ自由闊達、開放的な雰囲気をそれなりに楽しんでいると言えるかもしれない。
とりわけ、ブコバルなんぞは。
***
小腹を満たした後、ブコバルとロッソ、二人の足は自然と川沿いの道から対岸へと渡る橋へと向かった。少し先にはこの辺りではキレンチと呼ばれる川が大きく蛇行しながら流れている。古いマリャークの言葉で【キレンチ】は数字の9を表し、源流から河口まで九つの大曲があるからというのが定説らしい。流れは緩やかだが川幅は広く、この街の交通・物流の要でもあった。
二人が懇意にしている口入屋は、ミールの商業地域の外れ、河口近くの川端にあった。店の入り口は川側に面した小道の中ほどで等間隔に植えられた街路樹の柳の影に寄り添うようにひっそりと隠れていた。このようなうら淋しい場所ではなく、人通りの多い市場周辺や街の中心部に店を構えた方がいいようにも思われるのだが、どうも勝手が違うらしい。
あの橋を渡ると周囲の景色は一変する。重厚感のある石作りの橋の向こうは、一言で表わせば、どんよりとくすんでいた。そこは専ら庶民が暮らす界隈で、その日暮らしの労働者たちが疲れ切った肉体を横たえる安宿や貧しさから逃れるように流入した移民が成功を夢見て雨露をしのぐ為に身を寄せる場所だった。表通りの繁栄や富からは零れ落ちてしまった、行き場を失くした人々が淀む地区。また、様々な理由を抱えた滞在者が一時的に集まり、幾ばくかの金を落としてゆく場所。上辺は常に流動的だが、沈んだ底辺部分は澱のように溜まりやがて腐敗する。一方、ミール所属の商人や金持ちの邸宅、騎士団などの王都から派遣される役人など裕福な階層が暮らす立派な建物群は、橋の手前、川の南側から山の手の方にかけての地区に集まっていた。
「このまま戻るのか?」
二人は短期滞在者が集まる安宿を定宿にしていた。小さな硬い木の板に辛うじて敷布がかかっているような粗末な寝台が一つきりの部屋だ。くたくたになった体を休めるには適していないが贅沢は言えない。野宿よりはましだと思うほかない。だが、あの丘の上の仲間たちが使っている寝台に大の字になって酔っ払いの怒鳴り声や荒っぽい連中の喧嘩腰の声に邪魔されることなく朝を迎えたいという欲求が時折、頭を掠めるのは仕方がなかろう。
粗末な硬い木の感触を思い出して無意識に口を歪めたロッソに、
「ん~、どーすっかなぁ」
ブコバルは髪を結んでいた紐を解くとわしゃわしゃと頭を掻いた。どうも中が蒸れて痒くなったようだ。伸びた柔らかな癖毛がゆうらゆらと風に靡く。男らしい青臭さが風に紛れては消える。
「それとも……見ておくか? 一応」
ロッソは親指を突き出して顎をしゃくった。
南北にかかる橋を越えるとすぐに道が悪くなる。剥き出しになった土がでこぼことなり、やせ細った馬の繋がれた荷馬車が雨の降る度に形を変える溝にはまるまいと四苦八苦しているのに出くわした。
「エーイ、ダヴァーイ! パジィー!」
御者の枯れた声に木の車輪がキリキリと悲鳴を上げ、馬がいなないて息を荒くするが、にっちもさっちもいかなくなったのか、ひとしきり耳を塞ぎたくなるような悪態を垂れ流した後、御者台にいた男は荷を後ろから押しにかかった。
「まぁーたかよ」
この道を通るようになってから毎日のように目にする光景だった。大きく開いた穴を埋めるなり木の板を敷くなりすればいいのにと思うものの、自ら経費を負担してどうこうしようという余裕のあるものはなく、ほったらかしの状態が続いていた。この道の管理は橋の管理を取り仕切る土木組合の管轄で、住民から修繕依頼の申請は行われているらしいのだが、橋向こうの事務所から一度役人が様子を見に来ただけで一向に改善される様子はないという。川を一本越えただけで、ミールの管理と対応は随分と異なるようだ。
「おっさん、手ぇ貸すぜ。あんたは前に回んな」
ブコバルはロッソに目配せして、立ち往生している荷台の後ろに付いた。
「こいつぁ、ありがてぇ」
そのまま素通りすることも出来たのだが、困っている民を放っておけないのは、二人に染み付いた騎士団精神の賜物でもあるのだろう。
荷は、見た目よりもずっと重量があった。これではただでさえ痩せた馬がひぃひぃ言うわけだ。荷台の下に手をかけ肩を入れて窪みから押し出そうとすると積荷が木枠の中でガシャンと音を立てた。
「ああ、旦那方! 頼みますから、もそっとやさしゅうしてくんなせぇや、でねぇと割れちまうすけ」
懇願するように叫んだ皺だらけの翁にブコバルとロッソは目を見交わせ、溜息を吐きたいのを我慢して、今一度力を入れた。
「あ? なんだ女でも積んでんのか?」
「ィへへ、まぁ、そんなもんでして」
軽口言ったブコバルに男が大きな鼻を膨らませて下卑た目配せをした。
「残念だったな、おやじ、俺りゃぁ、あんまし優しくねぇぜ?」
そう言ってからかうように反対側で荷台を押すロッソを見た。
「こいつは違うけどよ」
ロッソはブコバルの下品な発言を全く取り合わなかった。
鞭を振り下ろす御者台の男の号令に呼吸を合わせるように押し出す。三度目でやっと荷馬車の車輪が窪みから出たのだが、その頃にはもう二人の額には薄らと汗が滲んでいた。
「いや、こいつはありがてぇ、ありがてぇ。なんとお礼を申してよいやら」
被っていた帽子を脱いで拝むばかりに手を合わせ始めた男にブコバルは薄らと笑みを浮かべた。
「なに、いいってこった」
さり気なく道の状態を透かし見る。少し前の雨で出来たぬかるみがそのまま固まった所為か、あちらこちらに大小の窪みがまるで罠のように張り巡らされていた。この感じはずっと道の向こうまで続いているはずだ。それを証明するようにやや傾斜した上り坂のずっと向こうで荷を担いだ男が足を取られて転びそうになっている。
忘れないうちにこの辺りの作事の件をちょっと突いてみようか。ブコバルはその思い付きを頭の隅に留め置いた。
そうこうするうちに再び、先程よりはゆっくりと馬車が動き始めた。
「おやっさん、気ぃ付けろや!」
背後からかけた声に男が首だけ振り返って手を上げる。その瞬間、足場が悪かったのか荷台ががくんと大きく揺れたが、馬車は慎重に歩みを進めて最初の難所を乗り切ったようだ。
「やれやれ」
微妙な顔をしたブコバルの隣にロッソが並んだ。先程のからかいの仕返しか、無言のまま肘を相手の横っ腹に突き入れる。
「それにしても、いつにもまして酷いものだな」
「ああ」
大きく窪んだ凹みの数々を一睨みしてから顔を上げ、二人は再び出発した。
とんだ寄り道をしたと思いつつも、それほど気にした風ではなかったのだが、でこぼこの緩やかな坂道を上り切った所で、視界の隅に先程にはなかった影がチラチラと映り込んだ。
二人の顔に一気に緊張が走った。
「つけられてんな」
「…だな」
視線は前を向いたまま、何食わぬ顔をして歩きながら、低く囁きを交わす。共に訓練された兵士だからこそ分かる違和感。この感覚はこの二月余りの内に研ぎ澄まされて行った。
これで今後の予定として丘の上との接触という選択肢は無くなった。
「まいてみるか?」
「このまま?」
「ああ。で、ついでに今度の仕事場でも見てくっか。このまま行けば近いだろ」
「了解」
苦み走った笑みを浮かべたブコバルにロッソも同意するように目尻に皺を寄せた。
二人の男たちはすぐ道を左に折れ、呑気な風を装って川べりまで戻り、上流の方へ向かって歩いた。次の仕事の集合場所は、湾曲に大きくうねったやや川上に位置する桟橋付近だ。この辺りの川の流れは、街の中心部を深く抉るように蛇行していた。
仕事の内容は、口入屋の主の口振りでは見張りのようなものだと聞いていた。詳しいことは当日にならないと分からないが、当たらずとも遠からずであることを願いたい。だが、それが建前の最初の薄っぺらい皮のようなものだということは十分承知していた。
約束の刻限は日没後。荷をここから運ぶのか、それともここに着けるのか。桟橋は大人が二人も並べば窮屈な程、狭くて小さなものだった。輸送用というよりも、毎朝おかみさん連中が大きな尻を揺らして洗濯をするような場所に似ている。
具体的な積み荷は分からない。まぁ、訳ありの場合が多いので、通常、何を運んでいるかは男たちの関知しない所だ。ここを使うのならばたいしたものは運べないだろう。この辺りに中継地点となるような、もしくは発着地点か終着地点となる倉庫代わりの館があるはずだ。それが一時的なものか、恒常的なものかも分からないが。
そのようなことを考えながら周辺の地形を頭の中に入れようとした時だった。
「ザップ」
ロッソが低くブコバルを仮の名で呼んだ。
「ああ」
二人は気が付けば街の中でも治安が悪いとされる少々厄介な界隈に足を踏み入れていた。ここには古くからミールの影響力から外れた勢力が複数、重なるように境界を接していた。【ピュタク】 と呼ばれる集団と【ヘェジィ 】と呼ばれる集団が大きく勢力を二分しているらしいが、その他にも血縁を重視した複数の集団があるという。まるで狼の群れのようだ。
ミールの支配力が届かない場所にも秩序はある。たとえそれが、血族、力、掟や恐怖による支配であったとしても。
二人はそのまま川べりをもう少し上ってから堤を下り、煌々と明かりの灯り始めた川向うの【眠らない街】を背に闇が色濃く広がり始めた小路の影に体を滑り込ませた。追手の姿は目視では分からない。だが、首の後ろに注がれるピリピリとした感覚は裏切らない。向こうもここで諦めはしないだろう。
増築に増築を重ねるようにして少しずつ街を切り開いて行ったのか、旧市街特有の入り組んだ細い路地を幾つも折れた。お情けのように注ぐ人家の窓明かり。豆粒ほどの街灯が照らす道の端から、この辺りを縄張りにする男たちがふらりふらりと顔を覗かせる。闖入者を咎めるような鋭い視線、もしくは獲物を品定めするようなねばついた眼差しが、二人を追った。そこに背後からひたと注がれる張り付くような視線が付いて回る。
長居は無用だ。二人の決断は早かった。
道が斜めに二股に分かれる手前で小さく指文字で合図を出し、ロッソは左に、そしてブコバルは右に折れた。壁際に身を潜め、獲物を待つ。黴っぽい石壁がひんやりと背中を湿らせた頃、揺らいだ薄暗がりの中で小さなくぐもった声とズサと重い擦過音が鈍く聞こえた。ロッソがこちらにやってくる。浅黒いブコバルの手は、ひょろりとした小柄な塊を壁に縫い留めていた。
「何の用だ?」
地を這う囁きに乗せてすごんだブコバルに捕らえられた男は苦しげな息をしながらもいやらしく笑った。
「いやですねぇ、旦那。あっしはこっちに用があっただけでぇがんす」
そんな見え透いた誤魔化しが通用すると思っているのだろうか。
ブコバルは、喉元を塞ぐように真横に差しいれた腕を更に食いこませ、気道を圧迫した。無言の尋問に男は影の中で苦悶の表情を浮かべた。そのままもう一押し。やがて枷のようにはまる太い腕を叩き落とそうとするが、無論びくともしない。
最後にもう一押ししてからブコバルは腕を退けた。こちらにやってきたロッソはその様子を静かに眺めていたが、その瞳がとても冷たい色をしていることを知るのはブコバルだけだ。
男は軽く咳き込みつつ壁に背を預けるようにその場に崩れ落ちた。そこからゆっくりと顔だけ上げた男の瞳に剣呑な光りが宿った。この界隈に同化する残忍な笑み。男が尖った八重歯を見せて笑う。その一つ隣の歯が欠けていて不自然に開いた隙間が黒く沈んでいた。
黙したまま、ブコバルは男と対峙した。どう見ても向こうの分が悪いが、男は動じた様子を見せない。薄気味悪い奴だ。生温い風が、複雑に折れた小路を走り抜け、この淀みにも流れ込む。回流のように不穏さえある空気を攫う。
「約束は守る。そう、あのおやじに伝えろ」
ブコバルはややぶっきら棒に吐き捨てた。
「こんな見え透いたことをしなくてもな」
―あんの古狸め。気に入らねぇな。
ブコバルはこの男の雇い主に心当たりがあったようだ。
「それとも、このまま一生口がきけねぇようにしてやろうか? あ?」
ブコバルの口元は緩んでいたが、その青灰色の瞳は笑ってはいなかった。
高圧的な申し出に男は動じることなく小首を傾げた。
「そいつはさすがにぞっとしませんなぁ」
薄く笑い、何事もなかったかのように立ち上がった。
「よござんしょう」
男はひょいと壁の隙間から踊り出ると軽やかに一礼して細い体を闇の向こうに滑らせ消えて行った。
残された二人は、互いに顔を見交わせた後、ブコバルは面倒くさそうに髪を掻き毟り、ロッソは肩を竦めた。
それから、二人は再び川べりへと戻って来た。遠く山の端に沈んだ太陽が空を紅に染める。赤黒く反射する川面に夜空の星が誘うように瞬くのもすぐだろう。
「腹がへったな」
大きな手を腹部にあてがった途端、ぎゅるるると腹の虫が盛大に主張した。少し前にしゃぶったはずの肉はとうに消えている。ロッソは何も言わないが、空腹を感じているだろうことに変わりはあるまい。
「イルムークの所か?」
「おう。そろそろペリメニが食ぃてぇとこだな」
ロッソは連れを横目に見た。その視線にはどこか呆れのようなものが含まれていた。
「ついこの間も食べたばかりだろう?」
少なくとも二日前の晩に。
ここに来てからずっと気が付けば夜はあの店に顔を出していた。体に染み付いたヒルデの味を恋しく思わないとは言わないが、今はまだ物珍しさの方が勝る。
「俺は毎日でもいいぜ?」
「好きにしろ」
ロッソは適当に手を一振りした。話は決まったようだ。
このまま川べりを下り、先程の石橋を渡ってから左方面、河口へと向かう途中にロッソとブコバルの言う馴染みのバールがあった。あそこに集まるのは専ら港湾関係の労働者が多いが、自警団の男たちもやって来る。つい3週間ほど程前にあの店で性質の悪い酔客と喧嘩沙汰になったことは記憶に新しいが、あれ以来、店の常連たちはブコバルとその相棒を余所者扱いしなくなった。まぁ、その代わり、あの青い上っ張り連中―自警団―に睨まれることにはなったが。
今宵も楽の音が鳴り響く中で、美味い飯と旨い酒にありつけるだろうか。
こうして少しずつ踏み固められた己が足元を満更でもなく思いながら歩いていた時だった。
遠く、肌を震わす轟音が川面から這い上がって来たかと思うと港の方で大きな火柱が上がった。パァと空が一瞬明るくなる。
再び、予定変更だ。
初めて目にした異様な光景をただ事でないと感じ取った二人は、一つ頷きを交わすと現場に向かって駆け出した。
やっとプロローグの場面から繋がる所に辿り着けました。久々のブコバル&ロッソです。
第二部に入り、舞台、登場人物が一新ということで自分の処理能力以上に風呂敷を広げ過ぎていることもありますが、中身がほぼ液体。せめてゼリーぐらいに固まってから…包もうと思ってみたり。相変わらずのスランプで更新は月一ぐらいになりそうですが、その間もわたくしの脳内にはスタルゴラドの世界がどーんと鎮座しておりますので、途中棄権は致しません。試行錯誤が続きますが、気長にお待ち頂ければありがたく。




