7)悋気の萌芽
大変ご無沙汰いたしております。前回に引き続きミール主催の親睦会の場面です。
「ねぇ、見て。ほらあそこ」
「あ、本当。いいわねぇ」
「今度の人たちはこの間よりずっと素敵じゃない?」
「そう?」
「ああ、サーティナにはお気に入りがいたものね」
「でも、もう行ってしまったわ」
「あ、あの人、すごく好み」
「え、どれどれ?」
「あの…背の高い…髪がとても明るい色の人」
「ああ、ちょっと冷たい感じの?」
「そう」
「ええ~、私はあの隣の方がいいわねぇ。優しそうで」
溜息混じり、若い女たちの内緒話が、独特な高低を持って肌を舐めるように背骨を這い上がって来た。ざわざわとむず痒くなるようでくすぐったいけれど耳障りでもある苦手な声音。傍観を貫く手前、感情を面に出してはいけないが、視界を薄く覆う布が上手い具合に仮面の役割を担ってくれた。
女たちが話を弾ませている方角へ顔を向ければ、ゆっくりとこちらを振り向く濃紺の瞳と視線が絡んだ。胸元に下がる首飾りと同じ色が陽光に戸惑う。小さく唾を飲み込んだ口元は、気が付けば弧を描いていた。
「キャー、今、こっちを見たわ!」
「私に微笑んだのよ!」
「違うわ、私よ」
「まぁ、どうしましょう」
幾重にも重なる人垣のどこかに、埋もれるようにとっておきの花が隠れて咲いている。青々とした葉影の下に休む可憐な一輪。それを知るのは当人たちだけでよい。
「ねぇ、こっちが気になるのかしら? どうする? 挨拶に行ってみる?」
開いた扇を口元に当てて小刻みに揺らしながら、着飾った女たちが幸運を捕まえる為の相談を始める。
「お近づきになる絶好の機会ね」
「これを逃す手はないわ」
静かな興奮に沸き立つ女たちの脇で、右手の薬指に光る青い石へ軽く口づけを落とせば、遠く、灰色の軍服に身を包んだ男が笑みを深くした。それからゆっくり一つ確認するように頷きを返して、男は再び背を向けた。
その立ち姿に心奪われていたからだろうか。見慣れているはずなのに。
「ねぇ、あなた、ヴァーングリアの方?」
近くにいた女たちの一人が声をかけてきた。頭に乗せた小さな帽子から垂れ下がる薄布を左右にそっと避ける。そこに露わになった顔立ちを見て、声をかけた女が不思議そうに首を傾げた。
「あら、違う…ようね」
「ああ。これは借り物なんです」
突然話しかけられらことへの困惑を隠しつつ微笑み返せば、挨拶もそこそこに女は意味深な流し目をくれた。
「ねぇ、あなたもあちらが気になるんでしょう」
ひらひらと羽の付いた扇が悪戯に風を運ぶ。女の目線は、ある男たちの集団を捕らえていた。厚みのある唇がからからかい混じりに弧を描いたことに戸惑いを誤魔化しつつ否定をする。
「いえ」
「ふふ、別に隠さなくてもいいわよ。ちゃんと分かっているもの。だってここにいる女たちは皆同じことを考えているはずだから。ねぇ、違わなくって?」
少し得意げで自信満々、勝気な態度に面食らう。
「どうでしょう」
「ねぇ、あちらへの挨拶は済ませた?」
これからあの男たちの所へ行くから、良かったら一緒に来ないかという誘いは、困惑でしかない。
「いえ、ワタクシのことはどうぞお構いなく」
「あら、恥ずかしがることはないわ」
「いえ、そういうわけでは」
「そうなの? じゃぁ行きましょう」
「いえ、ワタクシは結構です」
その後も辞退を繰り返せば、
「まぁ、せっかく声をかけたのに。張り合いがないわねぇ」
気分を害してしまったのか、ふいと背を向けて立ち去った。先程の仲間に合流した娘が、こちらに一瞥を寄越す。続いて漏れ聞こえてきた会話は、思ってもみないものだった。
「まぁ、これだから田舎者は嫌だわ。強情で」
「ヴァーングリアの?」
「どうも違うみたいだけれど、きっと大して変わりはないわね」
「あなたの親切を無碍にするなんて酷いわね。でも気にすることないでしょう。放っておけばいいのよ」
「そうそう。どうせ山から出て来たばかりなのよ」
「あなたが気を使う必要はないわ」
開いた口が塞がらないとはこのことか。声をかけ親切の押し売りをしてきたのは向こうの方なのに、断られることは予想していなかったのか、辞退した途端、掌を返したような辛辣な言い分に最早呆れを通り越して驚くしかなかった。理不尽な言い掛かりを受ける謂われはないのだが。突然豹変した態度の理由が皆目見当が付かず、不躾すらある女に面食らうしかない。
そうこうするうちに女たちの集団は、騎士団の男たちを囲む輪の中に入って行った。代わる代わる挨拶に訪れる女たちを良く知った男たちは丁重にもてなしていた。
先程声をかけて来た娘が得意げにこちらを見た。その瞳が何を告げようとしているのかは、分かりたくもない。
いずれにせよ、大人しくして面倒なことに巻き込まれないようにするほかないだろう。
―やれやれ、長い一日になりそうだ。
一人、溜息を噛み殺して知り合いの姿を探した。
***
掲げられた盃を手にミールの長が高らかに宴の開催を宣言すれば、唱和される乾杯の音頭が、生温かく解れつつある気だるげな空気を震わせた。
第七師団長の奥方という肩書でこの宴に招待されていたリョウは、この街を実質的に支配する男たちの顔触れを遠巻きに眺めていた。この宴は、ミールの長主催の下、各組合の長たちが妻や家族同伴で出席する非公式な会合で、この地に新しく赴任した第七師団を歓迎する親睦会を兼ねていた。
正装に身を包んだ貫禄ある男たちの集まる中心から外れた場所にリョウは立っていた。
「ほんっと、いい男を捕まえたんじゃないの!」
代々、ミールの長に引き継がれてきたという別邸の二階建ての屋敷を正面にして、背後には高台から望む海が静かな波音を立て煌めいていた。街中の喧騒から隔てられた隠れ家のような入り江。遠く、波間を行き来する白い帆船に点々と漁船がもやっているのが見える。絶え間なく吹き込む海からの風が心地よい風光明媚な場所であった。
軽やかな話し声が淀んでは弛み潮風に掻き消える中、リョウの隣からは溌剌とした声が上がっていた。まるで凪いだ水面に勢いよく礫を投げつけて水柱を上げるかのようだ。
「ピッカピカに研いだ剣の切っ先みたいねぇ。触ったらざっくりと抉られそうだわ」
先程、簡単な挨拶に夫を引き合わせてから、ミリュイの興奮は不規則に波打つ振動のようにリョウの周りで歪な曲線を描いていた。その振り幅は予測不可能で、思いがけず高い飛沫を上げたかと思うとゆったりとうねるような引きに変わる。
「やっぱり、あの隊服はいいわねぇ、いつ見ても。色は控え目だけれど、それがまた慎ましやかで。しかもあの詰襟。喉元まであるからいっそ禁欲的ですらあるし。あの直線的な硬さがぐっと来るのよねぇ」
制服寸評を繰り広げていた、どこかうっとりとした声音は、次に飛び跳ねる毬のように軽やかに地面を打った。
「さてと、今年の顔触れはどんな感じかしらねぇ」
ミリュイの視線の先には、よく風をはらむゆったりとした正装を着た男たちや色とりどりの繊細な刺繍飾りや揺れる房が異国情緒を引き立てる頭飾りを付けた女たち。そして、その人垣に囲まれるようにして騎士団の兵士たちがいた。リョウにとってはお馴染みの顔触れであるので別段目新しさはないのだが、この宴の出席者たち―特に女性陣―には新鮮に映るようで、ここに来てから思春期の少女のように―しかも野太い声で―はしゃぐミリュイに、リョウはなんともいえない気分で適当な合槌を打っていた。一緒にいたはずのフェルケルは、こうなることを予想していたのか、盃を手に早々とこちらに背を向けて、他の客人たちと歓談している。
この日の宴の話がユルスナール経由でもたらされた時、リョウは仕事の合間に立ち寄った術師組合の執務室で、ミリュイとフェルケルに相談を持ちかけた。出席者たちの顔触れや、服装の規定など、細々としたことを把握しておきたかったからだ。第七師団長の妻として夫に恥をかかせるわけにはいかないという思いがあった。
このような非公式な会合―宴―の場合、術師組合からはミリュイとフェルケルが出席するのだという。本来は長が出席を求められるのだが、シェフのリサルメフは、「面倒だ」との一言でこういった場には見向きもしないらしく、また、その我儘が許されているらしい。
リョウが宴に招待されていることを告げた時、ミリュイとフェルケルは一様に驚いた顔をした。これまで意図的に私生活に関しては具体的な明言は避けてきたということもあるが、夫が騎士団所属の兵士だというのはどうも薄々分かっていたようだが、正式に出席を打診されるような高位にあるとは思っていなかったようだ。
高位も何も、部下を束ねる騎士団長その人であるのだが。喉元までせり上がってきた言葉をリョウは寸での所で飲み込んだ。
その時、ミリュイが何故か妙に張りきって、「あたしに任せて!」と上擦った声音で―と言ってもくどいようだがその声は非常に低い―片目をつぶった。そうして気が付けば、あれよあれよという間に怪しげな界隈にある馴染みの生地屋兼仕立屋にひっ立てられ、ミリュイの故郷、ヴァーングリアの衣装だというものを誂えることになっていた。しかもお揃いで。スタリーツァの某将軍の趣味に付き合う機会がめっきり減って着せ替え人形のお役目はすっかり返上したものと思っていたのだが、ここにもいたのだ。お洒落に余念のない男が。
宴は毎年この時期に開かれているもので、その趣旨は組合員同士の交流を図る親睦会のようなものであるから、あまり堅苦しく考えなくてもよい。ミリュイの言葉だけならば不安を感じたリョウであったが、冗談を嫌うフェルケルも真面目な顔で尤もらしく、気負うことはないと言ってくれたので、それに従うことにしたというわけだ。しかもここでは時に組合関係の若い未婚の男女も参加を許され、未来の伴侶探しの出会いの場としても機能しているらしい。
当日、リョウは、衣装の着方が少々心もとなかったので、ミリュイと共に術師組合の事務所で仕度をすることになった。その後、最初の予定を変更して、ユルスナールたちとは別行動となり、ミールが手配した乗合馬車でミリュイたちと共に会場入りした。
たっぷりと布を使いながらも白と赤を基調にしたメリハリのある装いで、頭に乗せた小さな帽子から垂れ下がる薄布と首回りや腕回りに重ねた装飾品が、あでやかな異国らしさを醸し出す。装飾品の殆どはミリュイの手持ちを拝借したものである。女性的な淑やかさと男性的な軽快さを合わせた中性的な雰囲気で性差を意識させない所は、曰く、ヴァーングリアのお国柄であるらしい。
お揃いの衣装を身に着けたミリュイとリョウの傍ら、お隣の国、セルツェーリの出身だというフェルケルは、事務方的な装飾を控えた地味な形の服装であったが、よく見れば使われている生地は織り柄が入っていたり、光沢があったりと凝っていて、晴れの日仕様であることが分かった。ミリュイに比べれば華美さはないが、何よりもフェルケルの几帳面で落ち着きある雰囲気に似つかわしかった。
「それにしても旦那が騎士団長殿とはねぇ」
ひとしきりしゃべり倒した後、話題が再び始点に舞い戻り、いまだに信じられないという風に制服の男たちを透かし見たミリュイに、リョウは何とも言えない顔をして口の端を下げた。少し前を水色の長い裳裾を優雅に引きながらご婦人方が横切り、市場の屋台に並ぶ熟れた果実に似た甘い香りが、リョウの顔に垂れ下がる薄布を震わせた。小さな扇子を手にした二人のご婦人は、灰色の隊服の男たちの元に向かい、晴れやかな笑みを浮かべて挨拶の為に手を差し出した。その手に自分が良く知る男が掠めるだけの儀礼的な口付けを落とす。そこに二人の知り合いらしい若い娘が引き合わされ、二言三言、和やかな雰囲気で言葉を交わす。先程からひっきりなしに繰り返されている光景だ。
「だってねぇ、見るからにお貴族さまのボンボンってとこでしょう? 義務だとか階級意識ってやつにがんじがらめになっている……」
ミリュイは、隣をちらと見て意味あり気に言葉を区切ったが、リョウには相手の言いたいことが分かった。貴族の縁組は、通常、家格の釣り合いを重視して貴族同士の中で行われるからだ。スタリーツァに戻り、似たような宴や晩餐会に招待されたりすると今でも自分がその慣例からいかに外れているかを思い出すことがままある。もやもやとしたものがリョウの胃の腑に薄く膜を張るように積っていった。
「まぁ、人の趣味をとやかく言うのはなんだが…」
それまで沈黙を保っていたフェルケルも会話に入ってきた。
「確かに選択としては意外性に溢れているな」
それはどう捉えればいいのだろう。肯定的にも否定的にも、どちらにも取れる。
思いがけず、重ねた薄い膜の上にもう一つ重しが乗った気分だった。歯に衣着せぬ言い方を好むこの二人にかかれば、リョウのちっぽけな自尊心などずたずたに引き裂かれてしまう。相手に他意はないと分かっていても、やはりそれは客観的で率直な意見でもあるのだろう。
ひとしきり少し離れた所に立つ主賓たちを品定めした後、
「ああ、でもあの瞳は確かにそうね。その石と同じ色だわ」
リョウの耳や胸元、指に煌めく青い光を指しながら、ミリュイは意味あり気に目配せした。
「かくも雄弁なりってね。うん、というよりも大胆でもあるわよね。所有の証なんだから。愛されてるじゃない?」
「どうせ…ワタシには勿体ないですよ」
貴族の深窓の令嬢には寸分も掠る所がない。ユルスナールを見て周囲が想像するような奥方像からは程遠い。それは自分でも分かっている積りだ。
拗ねたリョウに言葉が過ぎたと思ったのか、フェルケルがとりなした。
「そう卑屈になることはない。お陰で前評判は随分と聞こえが良いからな。胸を張ればいいと思うが」
「そうよぉ、あっちではともかく、こっちでは得点高いわよ?」
「どういう意味ですか?」
首を傾げたリョウに、ミリュイはいつもの相手を煙に撒くような笑みを浮かべて目の前でぴんと立てた指を横に振った。
「ここは王都とは違うってことよ」
「ああ、ここにはここのやり方がある」
訳が分からない。
目を瞬かせたリョウの隣で、フェルケルも同意して手にしていた盃を品よく傾けた。
リョウは二人の言葉の真意を上手く読み取れなかったのだが、彼らなりに気を使ってくれたのだろうと考えて口を噤んだ。
リョウは改めて会場をぐるりと見渡した。この隠れ家的な邸宅の庭先は、様々な種類の【音】で溢れていた。リョウにとって馴染みのない言葉も多いし、お国柄によって訛りの度合いが違うからだ。
ユルスナールからこの日のことを聞かされた時、リョウの心にはごく微量の不安が萌芽のように顔を覗かせた。この街が長きに渡って熟成させてきたという王都の権力に対する反感と負の感情。それはともすればスタリーツァとスタルゴラドを象徴する騎士団の兵士たちに向けられ易い。そのような背景から、会場の雰囲気は、もっと冷淡でぎすぎすした居心地の悪いものになるのではと危惧していたのだが、今のところはそのような空気は感じられず、表面上は和やかに進行しているように見えた。
ミールの長主催の非公式な園遊会は、この街を実質的に差配する組合関係者に新しくこの地に赴任した王都からの客人を紹介し、引き合わせる親睦会でもあった。
騎士団からは、団長のユルスナールとシーリス、そしてアスレイ の三人が出席した。警護要員として他にも兵士がいるはずなのだが、控えに回っているのか会場にはその姿は見えない。いつも夫の隣にいるはずのブコバルは、どうやら別の任務で忙しいらしく、ここしばらくリョウはその姿を見ていなかった。
ユルスナールたちは、いまだ着飾ったご婦人方に囲まれていた。騎士団の男たちの存在は概ね好評のようだが、リョウの心の内はやや複雑だ。灰色の周りに入れ替わり立ち替わり翻る色とりどりのスカート。大輪の花を支える幹のようだ。
王都からやってくる都会の男たちは、もの珍しく映るのだろうか。ここでは日常に変化をもたらす小さな刺激でもあるのだろう。
そのようなことを思いながらリョウがぼんやりと意識を向けている方角を見て。
「ふーん、モッテもてねぇ」
華奢なグラスをくいと一息に呷ってミリュイが機嫌よく口角を上げた。その周辺でちらちらと様子を窺う、高らかな声を上げて華やいだ表情を見せる女たちを眺める男たちの顔色は少々複雑だ。リョウは密かに奥方を待つ男たちに同情した。
「ねぇ、ああいう男を旦那に持つってのは、結構大変でしょ」
隣から発せられる無邪気な問いは、思いがけずリョウの心を抉った。視界を塞ぐ薄い布を避けて小さな痛みに気が付かないフリをする。晴れやかな社交場でどうしてこのような気分にならなくてはいけないのか。
「心配じゃないの? 浮気とか?」
「浮気?」
小さく口にしたリョウの背中にひやりとしたものが走った。どこからともなく現れた冷たい一滴が、前触れもなく凪いだ水面に波紋を広げるように。
「ああ、ええと。つまり一般的な話よ?」
微妙な沈黙を不味いと思ったのか、ミリュイは跳ね上げた指を所在なげにくるくると回す。
ミリュイの一言は思いがけない鋭さでリョウの心に突き刺さった。ユルスナールの浮気などこれまで考えたこともなかった。様々な障害を乗り越えて名実ともに結ばれてから約一年。最初の出会いに遡れば、今年は三年目にあたる。昨年は新婚であったこともあるが、辺境の北の砦暮らしであったので、そもそも浮気をするような心配などする必要がなかった。
だが、ここは違う。この場所には王都とは違った種類の誘惑が多々あるだろう。ホールムスクへの異動を告げられた時、第七の兵士たちの沸き立ちようが、否が応にも思い出される。
でもそれは別の話だ―と思いたい。
リョウの沈黙を余所にミリュイは軽やかに続けた。
「ほら、よく言うじゃない? 男ってのは大概、飽きっぽい所があるから。三年目は気をつけなくちゃってね。しっかり手綱を引き締めなさいって」
生来、男は自分の子孫をいかに多く残せるかが、人生の最重要案件として無意識(もしくは遺伝子)の中に擦り込まれているので、燃え上がるような恋の期間の持続はよくもっても三年である…というのが定説としてある。【三年目の浮気】というやつだ。
出会ってから三年目。辺鄙な砦から開放感溢れる港町にやってきた。ここの女たちは陽気で快活、日焼けした肌を誇らしげに晒すものも多い。異国の血が入り混じり、独特な美しさを融合させた妖艶な女たちが、それこそ各部族の見本のように沢山いた。ここの女たちは情熱的で恋にも積極的だと聞いている。気に入った男を自ら口説くことも珍しくないとか。そういった奔放さと寛容さと港町特有の明るさ、気安さは王都にはなかったものだ。
男は常に変化を求めるものだ。そこまで考えて不意にリョウは震えた。大きな真っ白な布にポタリと黒い染みが滴り落ちて、じわじわと滲んで広がるみたいだ。
「……そんな」
ユルスナールに限って。度重なる困難を乗り越えた二人の間に育まれた信頼は、そう簡単に揺らぎはしないはずだ。
だが同時に、人の心に永遠や絶対という言葉はないのも確かだ。盃を持つ指先に力が入った。
会場にはこの日の為に呼ばれた楽師の奏でる旋律が流れ始めていた。王都で人気のセェルツェーリの音楽のような澄ました上品さはないが、秘めやかに情熱を煽るような情緒的な曲だった。リョウにとっては異国風に聞こえる旋律に合わせて、どこからともなく現れたの踊り子たちが妖艶な身のこなしで足を踏み鳴らし、腕をしならせて踊る。人垣の合間を蝶の羽ばたく虚ろな軌跡のように薄布が舞った。誘われるように軽やかな旋律に身を任せて踊りを楽しむ人々。それを端から眺める人々。
明るければ明るい程、影は濃さを増す。
ふと視線を戻せば、飴色の滑らかな肌をしたしなやかな手が、遠く、灰色の腕に添えられていた。その幾重にも腕輪が回る華奢な手が、そっと男の腕を撫で、意味あり気な流し目をくれてから女が小さく笑った。踊りにでも誘ったのだろうか。その時、一瞬だけ女がこちらを見たような気がしたのは単なる気の所為か。
横を向くユルスナールの表情は分からなかった。ただ、この場は滅多にない社交の機会で、騎士団側としてはミールと良好な関係を築き、それとなく有意義な情報を仕入れたいはずだ。
話が弾んでいるのか、口元に手を当てて上品に笑った別の女性に対し、体の向きを変えたユルスナールも穏やかな表情で小さく合槌を打っていた。
ふとその濃紺の瞳が会場内を彷徨う。何かを探して。
もしかしたらずっと注視していたことがばれたのかもしれない。
リョウは湧きあがった気まずさに咄嗟に目を逸らしてしまった。邪魔にならないようにと顔の脇に避けていた薄布を元に戻し、自分の視界を強制遮断する。こんな所で嫉妬に似た感情を抱いてしまった自分に嫌気が差した。夫のことを信じ切れていないようでぞっとした。でもどうしてこんなに胸騒ぎがするのだろう。
リョウはくるりと方向転換をし、ちょうど盆の上に盃を乗せてこちらへと歩いて来る給士に合図をして、新しいグラスを取った。そして、もやもやと一緒に飲み干すように一息に呷った。
一息吐いた所で、こちらを見下ろしたフェルケルと目が合った。
「まぁ、精々売り込んでおけばいい」
淡々としたフェルケルの声は打算だと告げる。
「あの奥方連中を味方につけられれば、これ以上心強いことはない」
自分の気持ちが知り合いに筒抜けていたことが居た堪れない。
「もう、リョウったら、本気にしないでよ」
顔を曇らせたリョウをミリュイが軽く笑い飛ばした。散々不安の種を不用意に植え付けておいた癖に、からりと笑って冗談だと言うのだから、ミリュイも人が悪い。いちいち発言を真に受けていては心が持たない。からかいを本気にするのも馬鹿げているのだろう。そう思ってみても、一度芽生えてしまった種は、見えない所で少しずつ根を張る。
「ほら、そんな辛気臭い顔しないの。せっかくの宴なんだから楽しみなさいよ。大丈夫に決まってるでしょう? だってねぇ。さっき御大層な挨拶を返されたじゃない?」
―妻が【いつも】世話になっている。
口元は辛うじて笑みの形を象ってはいたが、男の瞳は、眼光鋭く威圧的で脅迫めいていた。その意味をフェルケルも理解したはずだ。ミリュイとしては妻に妙な虫が付いていないかと値踏みされたことが、正直言えば気に食わなかったが、それはお互いさまというところだろう。ここでの軽口はささやかな意趣返しと言ったら、単純で人の良いリョウは怒るだろうか。
そんなミリュイの考えを余所に、リョウの手は胸元にあるペンダントを握り締めていた。
「あ、やっぱり、ここからが本番みたいね」
他愛のない数多もの雑談が不協和音のように耳を通り過ぎる中、ミリュイの声が色を変えた。
その視線の先には、ミールの長と数人の風格ある男たちに先導されて館の方へと向かうユルスナールたちの背が見えた。
「本番?」
リョウはミリュイをもの問いたげに見上げた。同じく薄い布の向こうで赤みを帯びた瞳が光る。
「そ、仕事の話でもするんじゃない?」
「まぁ、宴はあくまでも口実だからな」
「ほら、リョウ、あそこ。ミールの長はさっき挨拶したから分かるでしょう?」
目線で示されて、リョウは静かに頷いた。
「で、その後ろにずらーっているのが、執行役員たち」
「執行役員?」
「ミールの幹部と言えば通じるか?」
ミールの組織は巨大だ。その舵取りをする為に各組合の代表者を集めた定例会議があり、更にその上に意見を集約し具体的な方針をまとめる執行委員と呼ばれる幹部たちがいるという。
「少なくともあの顔触れは覚えておいた方がいいだろう」
フェルケルの言葉にリョウは目を凝らした。




