6)青を映す背中
鮮やかな海をまとった男が一人、二階のバルコニーに立っていた。男の視線の先には、静かに泡立ちながら刻々と色を変えうねる瑠璃が横たわっていた。あの碧はけっして止まることはない。停止は即ち死を意味するのだから。
目の前には入り江となった小さな湾が広がっていた。空の蒼を浴びてもなお、滔々とした水面は深い藍で満ちている。境界を縁取る黒々とした岩場を太古の昔より打ち寄せる波が削り取る。こうして少しずつ削り取られた岩の一部は粉々になって海の底に積り、気紛れな波に攫われながら長い年月をかけて堆積してゆく。人の営みからは想像のつかない、気の遠くなるほどの年月を経て。小さな取るに足らない砂の粒が陸になる。やがてその小さな土地は、緑とまぐわい、小動物たちを育み、獲物を狙う大きな獣を引き寄せ、濃い森を茂らせる。そうして海底の面影がすっかりなくなった頃には、人が住み着くのだろう。
遥か昔、先祖がこの土地を発見し、この場所を安寧の地と定め、終の住処としてから、更に長い月日が流れた。交易によって栄え、様々な地域と繋がりを持つことで、小さな―人にとっての―未開の地は、今では押しも押されぬ繁栄の象徴となった。こうして築かれたホールムスクの長い歴史の中で、唯一の拭いがたき、そして忘れがたき汚点は、約300年前、この地に勢力拡大を目論み、謀略を仕掛けただスタルゴラドの支配に下ったことだろう。
大国の許しがたき計略により多くの誇り高き海の男【マリャーク】の血が流れた。この紺碧が赤く染まった景色を忘れてはならない。あの時から自由を謳歌していたこの街に暗雲が垂れこめた。圧倒的な武力差があるにも関わらず、徹底抗戦を選び壊滅も辞さないという覚悟を決めていたこの街が、その後の休戦調停で自治権を確保できたことに満足をし、以後、現状に胡坐をかいている輩が多いが、それは堕落に過ぎない。鎖に繋がれた仮初めの自由など無きも同じ。マリャークの末裔ならば、完全独立を勝ち取ってこそ、父祖伝来の土地に、彼らの貴い犠牲に報いることができるのだ。
―なぜ、それが分からぬのだ。
男らしい眉の合間に深い皺が寄った。日に焼けて染みの浮き出た頬から下を覆う柔らかな髭は、この日、綺麗に整えられていた。
男の装いは、実に鮮やかな青だった。そう、男が眺めている海と同じ色だ。淀みを清涼に変える色。その深部に底知れぬ澱を抱える色。
男は独り、腕組みをしてテラスへと繋がる開け放たれた窓辺に寄り掛かり眼下を見渡した。そこには、この日の為に集まった大勢の客人たちが盃を片手ににこやかに談笑していた。知った顔が殆どだ。この会場で開かれているのは立食形式の宴だが、もちろん座って食事をしたい人向けの椅子とテーブルも用意してある。庭先に置かれたテーブルには既に着飾った女たちや杖を手にした御老体が寛いだ顔をして束の間の語らいを楽しんでいた。
ざっと見渡してみてもそこに揃う顔触れは―民俗学的な意味合いで―多岐に渡っていた。それこそこの街の本質を体現するかのようだ。この街には【国】という柵に囚われない自由人が集まる。かといって彼らは故郷を捨てたわけではない。いや、寧ろ自らの所属する民の伝統を愛し、誇りに思っている。その証拠に、会場には様々な土地、部族に由来する衣装に身を包んだ男女が集まっていた。飛び交う言語も様々で、それこそこの大陸周辺の近隣諸国の民が一堂に会したように賑やかだ。
両端の布を角のように外に突き出した大きな頭飾りを被る女。大きな帽子型の布の天辺から地面に付きそうな程の柔らかな布を被く 女。この辺りで【ココーシュニク】と呼ばれる女性特有の被り装飾もその部族によって細部の意匠や色使いが異なる。肌を見せることを恥じる長い袖は、地面に着いて引き摺りそうなほどにたっぷりとして優雅に涼風をまとう。男の被り物も様々で四角い帽子、丸い帽子、ぐるりと布で捲いたり、中には長く伸ばした髪を色とりどりの革紐などと一緒に編み込んだりする者も見受けられた。長い衣を羽織る者、太いベルトを腰に回す男や鮮やかな鳥の羽のついた大きながまぐちを腰からぶら下げる物。女たちは総じてまとめた髪を贅沢な刺繍が施された上等な衣で覆う。耳飾りも大きく様々な貴石を埋め込んだ豪華なものだ。
衣装は、其々が所属する集団を実に的確に表わしていた。そして服装は、当然のことながらそれを身に着ける各人の社会的立場や職業と密接に結びついていた。
紺碧の上下に身を包んだ男の眼は、バルコニーの向こう、淡い灰色の衣服を身につけた男たちの一団を捉えていた。光沢のある上等な生地が陽光に鈍く反射する。喉元を覆い隠す堅苦しい詰襟に片章の房飾りが輪郭を尖らせる。腰には長剣が下がっている。
その男たちは、会場の中では少々浮いていた。明らかに帯剣しているということもあるが、やはり厳格で堅苦しい中にも澄ました空気感が、この場の気だるげな雰囲気に混ざり合うことを拒んでいるように思えた。それが男には気に入らなかった。
―今度のはそこそこ評判がいい。見込みがあるかもしれぬ。
男の脳裏に満更でもない顔をした父親の声が響いた。
「ふん、言ってろ」
期待をするのは馬鹿げている。
男は顔を口の端を下げた。酷く気に食わなかった。父親の態度も。今日の宴の趣旨も。そして招待された主賓となるあの男たちも。何もかもが。
「いい加減、切り替えろ」
硝子窓に反射する男の傍に音もなく影が並んだ。同じ鮮やかな青い上着に下はくすんだ生成り色のズボンを身に付けた男だった。この男もこの日の為にかいつもより清潔感がある装いをしていた。
男はやってきた仲間を一瞥しただけだった。不愉快さを憚らずにその鳶色の瞳に乗せている。
「私情は挟まないんじゃなかったのか?」
黙りこくった男の隣で前を向いた男が言った。その声には窘めるような響きがあった。
「ただでさえ悪人面してるってのに」
「私情などない」
男は宴に集う客人たちを眺めながら静かに反論した。
「方針の違い。意見の相違だ」
もう一人の男は青を身にまとう男の横顔を目の端で捉えたが、敢えて反駁はせずに話を変えた。
「それよりも、そろそろあっちに移った方がいいぞ」
髭の剃り痕が濃い顎をしゃくる。
仲間は男を呼びに来たのだろう。今回の主催者側の一員として挨拶をしろと。
「構うものか」
自分など及びではない。
「逃げるのか?」
「馬鹿を言え」
その時、視線の先にいた一団の中で男がずっと意識を向けていた相手がこちらを見た気がした。だが、一瞬のことでその男はすっと視線を横に流し、何事もなかったかのように新しく声をかけられた客に顔を向けた。
しかしながら、男は気がついた。そこにも同じ瑠璃があることに。あの男も気付いているに違いない。バルコニーからの射るような強い視線に。これだけの敵意を浴びて気がつかぬ訳はない。
あのとり澄ました態度が気に食わない。権力を象徴するあの房飾りが憎い。男は無意識に奥歯を噛み締めた。
隣に並んだ男は仲間の変化を横目に感じながらも沈黙を守ったまま視線を前に向けていた。その眼差しが同じ一団を捉えた。
「聞いたか?」
「何を?」
「今度のやつは、これまでとは少し違うらしい」
ここ数日、何度も耳にしてきた台詞を跳ねのけるように男は渋面を作った。苛立ちが小さな砂粒となって薄らと積るようだ。
「どうだかな」
どうせ今回も同じだ。変わることのない繰り返し。永劫回帰の法則だ。化けの皮などすぐにでも剥がしてやる。
無言を貫き通す男を仲間は軽くいなした。
「ま、それも含めて、見てみれば良いじゃないか」
「ふん」
男は不満げに鼻を鳴らした。
あの男たちは上からの命令で入れ替わり立ち変わりこの地を踏んで行く。ここは出世の為の日常の通過点にしか過ぎない。自分たちを監督する為に。法、制度、約定という名の鎖で手足を縛るために。あの男たちが優先するのは、あの山を越えた遥か向こうにあるお貴族さまとそれを束ねる王の意向だ。自分たちの利益にならないと判断したら、この街など躊躇いもなく切って捨てることが出来る。尊大で冷血なやつらだ。
余所者は大人しくしていればいい。そして思い知らせてやる。この街にあの男たちなど必要ないことを。
痺れを切らした仲間が男の肩を叩いた。
「ほら、エンベル。ぐずぐずするな。お前が駄々をこねているせいで俺たちまでもがしまりのない集団だと思われるのは莫迦らしい」
この男もまた、自分と同じく自らが属する場所を第一にして護っているのだ。仲間を想っての言葉ではない。上に立つ者として、私情を挟むことなく役割を果たせと苦言を呈しているのだ。何事も初手が肝心だと。
第一印象はその後の立場と関係を左右する。相手に良い顔をするような積りはさらさらなかったが、侮られたくはない。
「なめられるわけにはいかない」
男はぼそりと吐き捨てると踵を返す。その後をもう一人の男はゆっくりとした足取りで追った。
初夏の日差しをたっぷりと浴びた海の色をまとった二つの背中は、バルコニーのある二階から消えていた。
***
エンベルは迎えに来た同僚のハロムと共に階下にある宴会場の方へ足を向けた。ミール関係の出席者からちらほら声をかけられたが、儀礼的な会釈でかわし、父親の姿を探した。
同じ青い上着を着た自警団の仲間が点在していた。隊服の着用規定は緩く、いつもはぞんざいに肩にひっかけるだけの者が多いのだが、この日ばかりは釦が全部留められ、上着は上着らしい着用をされていた。この自警団の男たちは会場の警備にも駆り出されていた。
テーブルを挟んだ向こう側、大きな樫の木の枝が伸びた所に着飾った妻と母親の姿が見えた。普段、ミールでの会合に女たちが出席することはないが、親睦会を兼ねたこのような宴では妻同伴が推奨されるので、女たちは水を得た魚のように社交的になり、情報網を広げて行く。そこかしこで男たちとは違った奥方たちならではの交流が進み、話が弾んでいるようだ。
エンベルの妻は夫と目が合うとそっと微笑んだ。捲きの強い赤毛を結いあげ、いつもより念入りに化粧をしている。年月を重ねても尚、エンベルにとって妻は美しく、よき理解者であり伴侶であった。
軽い飲み物を手にしていた妻は、その手でとある方向を小さく指示していた。その先を辿ると人垣に埋もれるようにして威風堂々たるミールの長の姿があった。隣にいるハロムも同じ方角を見ていて、目が合えばあちらに顔を出した方がいいと頷かれた。
ミールの長イステンはマリャークの伝統的な衣装に身を包んでいた。それだけで気合の程が知れるというものである。なめした革の袖なしの長衣をゆったりとしたシャツの上に重ね、腰にはびっしりと刺繍が施された太い帯を締めていた。腰より上の丈の短い上着は縁飾りの多い一張羅だ。頭には鷹の羽飾りがついたつばのない平らな帽子を被っていて、腰には商人であることを示す毛皮で覆われたがま口型の財布がぶら下がっていた。
父親の傍には、明るい灰色の軍服を身に付けた男たちが立っていた。その装いもエンベルには見慣れたものだ。あれはスタルゴラド騎士団の正装だ。父親は、今回の宴の主賓でもある新しく赴任してきた連中と挨拶を交わしているのだろう。
騎士団の男たちはいかにも王都からやって来た上級武官の匂いがした。育ちの良し悪しはその佇まいに表れるものだが、そこにいる三人の男たちは気取った都会風の空気を身に纏っていた。王都からこの地に派遣されてくる輩は大抵居丈高で横柄さを会話の端々に覗かせる者が多い。気取った伊達者が多く、無骨なエンベルとはまったく反りが合わない。これまでの経験からエンベルは無意識に顔を顰めそうになったが、脇からハロムに小突かれて、表情を取り繕うと静かに父親の下に歩み寄った。
「お呼びでしたか」
息子の姿を目に留めた父は体を開き、盃を持っていない方の手でエンベルの背中を軽く押した。会話が弾んでいるのか、父は珍しく機嫌が良かった。
「ご紹介いたしましょう。これが不肖の息子、エンベルです。自警団の長をやっておりましてな。今後もなにかとお世話になることが多いと思いますので、どうぞお見知りおきを」
―お手柔らかに願いますよ。
軽口を叩いた父の横で、エンベルは形ばかりの挨拶をした。
「エンベル、こちらが今回我が街に赴任された騎士団の方々だ」
ミールの長が引き合わせると騎士団の男たちが順番に名乗り出た。
「ユルスナール・F・シビリークスだ」
「これはご丁寧に」
エンベルは差し出された右手を軽く握り返した。男の瞳は深い海の底を模したような青だった。エンベルも体格が良いが、この男も中々に上背がある。目線は大体同じくらいの高さだ。大人の嗜みとしてあからさまな敵意は隠したが、相手のことをあまり歓迎していない空気は握り込んだ指先から伝わったようだった。一瞬、視線が交差したが、男は何も言わずに手を放した。
「いかがですか、この街の暮らしには慣れましたか?」
赴任してから約一カ月。この男はこの街をどのように捉えたであろうか。当たり障りのない話題からエンベルは虎視眈々と口火を切った。
「活気に満ちた明るい街ですね。どこに行っても賑やかだ」
騎士団の長であるという銀色の髪をした男はその印象を語った。
「ここの風は塩気を含んでいますから随分と違うでしょう?」
照り返す日差しは肌を焼き、塩分を含んだ大気は金物などの金属類を早く腐食させるのみならず、ここに暮らす民を早く老けさせもする。ホールムスクでは、恐らく人体に作用する時の流れが他の地域に比べて格段に早く、人はすぐに老けこむと思われるかもしれない。王都の貴族たちを始めとする高飛車な連中は、やれ肌がしみるだの、髪がぱさつくだの言ってこの風を嫌う。海を知らぬ場所で育った者には、この土地は評判が良くないことを知っていた。
この男とて内心ではそう思っているに違いない。
「ええ。ですが、この街には似つかわしい」
その台詞に主観を挟むことなく上手く逃げたとエンベルは思った。
「ここ数年は特に治安も良くなっていると聞きました」
騎士団長は淡々と言葉を継いだ。
「これもミールを始めとする自警団の皆さんの努力の賜物でしょう」
20年前の隣国ノヴグラードとの戦は、山を隔てたこの地にもその爪痕を残していた。王都からの勅令でキルメクやノヴグラードを経由した直貿易や仲介貿易はことごとく禁止され、武器そのものや武器転用が考えられる原材料などは取引制限がかけられたのだ。それだけでなく、スタルゴラド軍部によるホールムスクの監視体制も強まった。当時、王都が一番危惧したのは、ホールムスクとノヴグラードの政治的癒着であり、ノヴグラード側に触発、もしくは扇動された武装蜂起が起きることだった。300年前スタルゴラドに武力を持って組み込まれて以来、大国主義の下、権力を振りかざす王都への不満と反発への火種は、自治を担う穏健派の協調路線の下では時に深く埋もれ、また急進派が主導権を握った場合は顔を出し、長い歴史の中で脈々と消えることなく受け継がれて来たのだ。
戦争は見方を変えれば商機でもある。20年前の戦の時には、きな臭い匂いを嗅ぎつけた傭兵稼業の男たちが、活躍の場を求めて各地からホールムスクに流れて来た。街がスタルゴラドからの独立を宣言し、内から揺さぶりをかけた場合、ミールが相応の値で挙兵の為の人員を募ると思われたからだ。この不穏な動きをいち早く察知した軍部はすぐに首脳部に掛けあい、兵士の増員と更なる引き締めを行ったのだ。当時は、300年前の対立を彷彿とさせるような緊迫した空気が漂っていたという。あの時の異様な緊張感はエンベルも子供ながらに覚えていた。そして戦争が終結した後、ホールムスクは少しずつこれまでと同じ日常を取り戻していった。
儀礼的ではあるのかもしれないが、騎士団からの評価にエンベルは満更でもない顔をした。この男はやたらと王都風を吹かせることはしなさそうだと感じた。
だが、少し揺さぶりをかけたらどうだろう。
「いえいえ。そちらのご助力もあってのことでしょう。最近は犯罪も軽微なものになっています。遥々遠い所からお越しいただいて難儀なことですが、そちらのお手を煩わせることは少ないかと思いますよ」
暗にこの場所では騎士団が必要とされる事態は起こらないと仄めかしたエンベルの牽制に傍らにいた父親のイステンは苦い顔をしたのだが、騎士団長は気に留めた素振りを見せなかった。
「ええ。我々としてもこの街が平和で、商いに従事する人々が自由に、そして気兼ねなく其々の仕事に専念できるに越したことはありません」
瑠璃色の瞳が力強くエンベルを捕らえた。
「ですが、こちらに派遣された以上、我々は我々の仕事をするまでのこと。もちろん、現地の皆さんたちとは互いを認め合い、良好な関係を築いていけたらと思います。お互いの利益の為に」
王都仕込みの洗練された空気を放ちながら騎士団長は薄らと微笑んだ。
「どうです? 我々の今後の為に乾杯をしませんか」
騎士団長が手にしたグラスを小さく揺らせば、エンベルの代わりにミールの長であるイステンが割って入った。
「それは実に素晴らしい提案ですね。ですが、もうすぐ改めて乾杯の音頭をとることになりますのでそちらにとっておきましょうか。こう盃を重ねては後々大変になりますから」
この国の男たちは皆大酒飲みだ。しかもきつい酒を好んで飲む。軽く重ねた程度では水を浴びるようなものだが、ある程度のところで切り上げないとエンベルが今日の主賓と衝突するのは時間の問題だろうと考えたイステンの配慮でもあった。
だが、長の心配を余所に見えない緊張感は華やかな女たちの登場により緩むことになった。
挨拶に訪れたのは、エンベルの母と妻だった。この街の女たちは、教養があり、王都仕込みの洗練さを知る騎士団の男たちを称賛し、持て囃すきらいがあった。がさつで荒っぽい海の男たちばかり見ている女たちにとって、派遣されてやってくる兵士たちは、女性に優しくその応対も紳士然りとして魅力的に映るのかも知れない。まるで少女が雲の上の存在に憧れを抱くような感じだ。特に母親世代の年配の女性―各組合長の奥方たち―は、美丈夫揃いと噂された騎士団の兵士たちと言葉を交わすことを楽しみにしていたようだった。
―軽薄で都会ぶった優男のどこが良いんだ。
そういう地元の女たちの反応もエンベルは内心面白くなかった。
母と妻は、王都貴族のしきたりだという手の甲に触れるか触れないかの口づけを落とされる軟派な挨拶を受けて、生娘のように舞い上がった。エンベルは自然と眉間に皺が寄りそうになった。
「そう言えば奥方はいかがされましたかな? たいそうお綺麗な方だとお聞きしていますが」
息子が妙な口を挟む前にとイステンが話を振れば、
「まぁそうですわ。奥さまもご一緒にいらしてくださいましたのでしょう? 是非、ご紹介下さいましな」
その妻でありエンベルの母でもあるファリャが瞳を輝かせた。
「そうですね」
騎士団長は切れ長の涼やかな目元を細めて会場を見渡した。
エンベルもこの男の奥方だという女性に興味が沸いた。それは女たちとは異なりひねくれた見方もあっただろう。夫と共に王都から遥々この僻地にやってきたという奥方はどのような女なのか。貴族であることを鼻にかけた気位の高い者であれば、夫となった男の価値も自ずと決まってくる。
「ああ、あそこに」
騎士団長はこの時、硬質な表情を初めて崩して柔らかく微笑んだ。こちらの様子を興味津々で遠巻きに見守っていた女たちが色めき立ったのが分かり、エンベルは内心呆れた。
隣にいたハロムも同じことを考えたようだ。
「おうおう、これで暫くはこの話で持ち切りだろうな」
やっかみ半分、既婚者であるハロムもどこか面白くない顔をした。あとで噂を聞いた妻や近所の女たちに騎士団の男たちはどうだったかと根掘り葉掘り訊かれる羽目になるのだ。
妻だと紹介された女性をエンベルは意外に思った。隣のハロムも同じ反応だったろう。一体どんな高慢ちきな貴族の女が薄笑いを浮かべて顔を出すかと思えば、その女性は、スタルゴラドの民ではなかった。
線が細く小柄で、ヴァーングリアの衣装を身に纏っていたのだが、髪や瞳の色、そして顔立ちを見ればヴァーングリアとは異なる民だと分かった。同じ山岳地方の民でも、サリダルムンドのそれに近いだろうか。ホールムスクからみてもサリダルムンドは辺境のそのまた先にあるような秘境に近い「遥か向こうの遠き国」だったが、仕事上取引があるので、サリドの民を街中で見かけることは滅多にないが知識としては知っていた。
その女は、同じくヴァーングリアの正装に身を固めた術師組合の男と共にやってきた。男と言ってもヴァーングリアの民は女よりめかしこむ慣習があるので、頭に被った薄い布の合間から垣間見える風情は、知らない者がみたら少し体格の良い女に見えるのだが、その男はエンベルも知る相手だったので、間違えて見惚れる…なんてことにはならなかった。まぁ、ヴァーングリアの民に性別を問うのは馬鹿げた話だ。あの民に性差など意味がないのだから。それを知るエンベルにはとやかく言う言葉はない。
ヴァーングリアの衣装というのは、ゆったりとしたズボンだが、足首に括り紐があり先を絞る形になっている。袖もたっぷりと生地をふんだんに使い手足の線を隠すようになっている。その逆に体の方はぴったりとさせるのだ。腰回りには刺繍がふんだんに使われた大判の布を腰骨の辺りに捲く。腰の細さを強調させる為だと聞いた。上半身は白いシャツの上に赤を基調とした丈の短いヴェストを重ね、頭には小さな帽子を乗せ、そこから紗や羅のように薄く織られたヴェールが膝下くらいまで垂れ下がるのだ。髪は男女ともに長く伸ばし、結いあげたり、おさげ髪にする。耳には大ぶりの耳飾りが下がり、胸元や腕にも様々な飾りを幾重にも巻きつけるというのが一般的なことらしい。
何よりもエンベルの目を引いたのは、その女性の胸元と右の手に収まる大きな青々としたキコウ石の存在だった。しかも見る者が見れば分かる純度の高い石だ。海を閉じ込めたような青。
「はじめまして」
薄い白っぽい衣の間からエンベルを見上げた瞳は澄んでいて穏やかな光りを湛えていた。真っ直ぐに相手を見つめる物怖じしない視線は、夫である騎士団長と同じ。そこに蔑みや尊大さは欠片もなかった。
貴族の淑女がやるように小さく礼をして、その女は父親のイステンと話し始めた。
「ようやくお会いすることができましたな」
「御挨拶が遅れまして申し訳ございませんでした」
「お噂はかねがね伺っておりましたよ」
「まぁ、術師組合の方からですか?」
「ええ。早速ご登録いただけましたようで、ありがたいことです」
「いいえ。こちらこそ。新参者でございますが、よろしくお願い致します」
会話の合間に挟まれた「リサルメフ」「術師」という単語にエンベルは思わず口を挟んでいた。
「ミールに登録をされたのですか?」
「はい。術師組合の方に」
小柄な女は振り返ると鷹揚に微笑んだ。
「術師の方でしたか」
「まだまだ駆け出しですが」
「いえ、大したものです」
その女は擽ったそうに肩を竦めた。
そこでエンベルはいつぞや自警団内で耳にした噂話を思い出していた。自警団の連中は任務中の荒事や喧嘩などで怪我をしたり、体調を崩したりした時には、港に程近いところにあるミール運営の診療所に世話になることが多いのだが、ここ半月ほど前からそこに新しい助手が入ったと小耳に挟んでいた。港の診療所には、酒に目がない、いや、酒さえあれば生きて行けると豪語する大酒飲みが専任術師として詰めていて、昔からマリャークたちは何かと世話になっていた。腕はいいのだが、一癖も二癖もあるひねくれ男で、ぶっきら棒な所がある。おまけに無類の酒好きとくればおおよその輪郭は掴めるだろう。まぁ、大概が荒くれ者相手であるから、術師の方もそのくらいでちょうどいいのかも知れないが、一人で回すには何かと忙しいということで、以前から雑用などをする助手をミールの口利きで雇ってみるのだが、中々長続きしないことで有名だった。見習いといっても胆の小さいものばかりで、今度のやつもすぐに辞めちまうんじゃねぇかと自警団内部ではどこまで続くかなんて賭けのネタになっていた程だった。
そんなことを聞いてから暫く、自警団の宿舎から日頃の不摂生が元で急病人が出て、団員が診療所の方に担ぎ込まれたという報告を受けた。怪我して宿舎で療養していたエスフェルという男だ。いつもよくつるんでいた仲間の腕っ節だけは自慢のヴァトスが、血相変えて抱えて行ったとか。血の気の多い噂好きのやつらが頼みもしないのにエンベルの所に逐一報告に来たのだ。その時に妙に度胸のあるちんまいのがいたとヴァトスが話していたとかなんとか。
「すると、もしや、港の診療所に手伝いで入ったというのは貴女でしたか」
「はい」
半信半疑であったエンベルの問いかけに女は真っ直ぐに返事をした。
あれから命拾いした―正確に言えば足を繋いだ―エスフェルとその一部始終を見ていたヴァトスは診療所に突如として現れたその助手を命の恩人とばかりに崇め奉ったとか。往々にしてマリャークたちは話を大きくするきらいがあるから、エンベルはその噂を話半分に聞いていたのだが。
それを裏付けるように青い上着を珍しくまともに着込んだ二人組の男―エスフェルとヴァトスである―が警備の合間にこちらに挨拶に来ようとしたのが見えたが、傍らにいたミールの大御所に遠慮をしたようだ。
女は二人に気がつくと笑顔で目礼をした。それにあの二人組は手を上げて合図をした。ふやけた笑みを見せたものの側にいたエンベルに気がつき、慌てて表情を取り繕う始末。
エンベルはてっきり年若い男が入ったものと思っていた。
「うちの者が随分と世話になったようですね。なんとお礼を申し上げたらいいか」
後で診療所のトレヴァルの所に迷惑料として上等な酒でも持参しようかと思っていたのだが、忙しさにかまけて延び延びになっていたのを思い出した。
「いいえ。お礼ならばどうぞトレヴァルさんに。ワタシはほんの少しお手伝いをしただけですから」
社交辞令なのかもしれないが、少なくとも奥ゆかしさを感じさせる発言だった。
「奥方はすっかりこちらに馴染んでおられるようですね」
話の接ぎ穂を受け取ったイステンに夫のシビリークスが苦笑を返した。
「ええ。お陰さまで。あのように跳ねっ返りで少しも落ち着いてはいませんが、ミールを始めとするこちらの皆さまには本当によくしてもらっているようで。助かっています」
母親のファリャや組合の女たちと会話を始めた妻を見守る夫の眼差しは、とても優しいものだった。
この男は貴族ではなかったか。エンベルはふと疑問に思った。ミール内でも騎士団の人事異動を受けて新しく赴任する者の調査と情報収集を事前に行っていたのだが、次にこの地に派遣される騎士団の長も中央と太い繋がりを持つ名家の出身であるという申し送りを前任者より得ていた。
貴族の奥方というのは家で内向きのことを取り仕切るものだ。場合によっては住み慣れた王都から離れないことも多い。そのような慣例から見ると今回の奥方は貴族としてはかなり型破りな部類に入るのではないだろうか。
家にじっとしておらず、手に職を持ち、外で働く女性を妻に迎えたこの男も貴族の慣習からすれば風変わりな所があるのかもしれない。ここ商人の街ホールムスクでは女が働くのは珍しいことではないが、王都の貴族階級は違う。働くことへの意識そのものが。上つ方の中には労働や商売を下々が行うはしたない恥ずべき行為だと眉を顰める者も中にはいると聞く。
そのようなことを考えていたら、じっと騎士団長の方を見過ぎていたようだ。表情を失くした酷薄そうな面がエンベルの方を向き、「何か?」と問うたが、エンベルは何でもないというように相手に注目し過ぎていたことを恥じた。
エンベルの視線は再び奥方の方を捕らえた。あの女性がミールに所属したというのは正直驚きだった。
この街で術師として活動をするにはミールへの登録が必須条件だが、そこまでする必要があったのだろうかと思った。王都から来た連中はこの街に深入りすることを良しとしない。これまでの経験上ミールの中に飛び込もうとした者は皆無だった。
まさか、この男はミールの内情を妻に探らせようとでも考えているのだろうか。イステンと和やかに言葉を交わす夫婦の姿を目にしながら、エンベルの喉元に苦いものがこみ上げて来た。
ミールと王都から派遣される騎士団の関係は、どう見ても対立的で、お互いに独立した一組織、一団体として内部から譲歩し、混ざり合おうとすることはなかった。他所から来た術師一人がミール相手に何ができるのだというのはあるが、これまでとは違った形で、殆ど知られてこなかったはずの内情が向こう側に流れる可能性は十分にあるだろう。そこまで考えた上で、あの女を妻にしたと言うのならば、この男はとんだ食わせ者になるだろう。
エンベルは自警団の男たちと親しげに言葉を交わす女の横顔を見た。その表情は賢しさや理知的というよりもどこにでもいるような能天気なものだった。警戒心の欠片も見当たらない。エンベルは益々分からなくなった。
だが、こんな所で結論を出すのは早急過ぎる。もう少し様子を見るほかないだろう。エンベルは息を一つ吐き出すとそう思うに至った。どの道、ミール内にあちらの手駒が入っていることを忘れてはならない。たとえそれが取るに足らない捨て駒か、撹乱のための捨石であったとしても。現時点ではそこまでだろう。
ふいに強い視線を感じて顔を上げれば、海のように深い青さを宿した瞳が静かにエンベルを見ていた。あの女の水鳥のように細い首と小さな手にはあの男との繋がりを示す青い石が飾られていた。それは所有を表わすスタルゴラドのしきたりだ。この街のマリャークにはない風習。
あの男は何を考えているのだろうか。紺碧に囲まれたこの港町をこの男も飲み込もうというのか。あの澄ました仮面の下に隠されている男の本心を暴いてやりたい。どす黒い対抗心がエンベルの腹の中に湧き上がってきた。
「エンベル」
だが、そのような黒い意識は隣にいたハロムの声に掻き消えた。
「始まるぞ」
エンベルはゆっくり視線を外した。周囲のざわめきが一つの点に集約されようとしていた。その中心に父であり、ミールの長でもあるイステンの堂々とした姿があった。
ミールの幹部たちに囲まれた長は、その手に大きな銀の盃を持っていた。正式に宴の開始を告げる為の挨拶が行われる。
直ぐ傍に柔らかな赤毛が目に入って妻が立つ気配がした。
エンベルは父が高らかに捧げる盃の軌道を見ながら、挑戦的に口元を吊り上げた。その心の内は、エンベルにしか分からない。




