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番外編 婚約破棄

ちょびっとだけ話が動きます

「ただいま、戻りました」


 夕方。

 日が落ちてから愛理沙は自宅へと帰った。


 返事はない。

 もっとも、誰も家にいないわけではない。


 愛理沙はゆっくりと、少しだけ重い足取りでダイニングキッチンまで赴く。


 養母――天城絵美――は丁度、台所で食器を洗っている最中だった。


「ただいま、戻りました。……絵美さん」


 普段、夕食を作るのは愛理沙の仕事だ。

 特に決められているわけでもないが、愛理沙が作ることが習慣になっている。


 しかし今日は由弦と夕食を共にする都合上、帰りが遅くなった。

 そのため珍しく絵美が夕食を作ったのだ。


 勿論、愛理沙は事前に断りを入れておいたのだが……

 それでも少し気が重い。


 一方、愛理沙に声を掛けられた絵美は皿を洗いながら、振り向かずに答えた。


「あら、お帰りなさい。……随分と遅い御帰宅ですね」


 早速、嫌味が飛んできた。

 面倒くさいなと愛理沙は内心で思いながら答える。


「はい。……ご迷惑をおかけしました」

「いいえ、別に迷惑だなんて思っていませんよ? ……忙しいですものね? いろいろと」

「……はい」


 含みのある言い方だ。

 とはいえ、まともに相手をしたり、反論をすれば数倍になって返って来ることを学習している愛理沙は彼女の言葉を適当に流した。


「では、私はこれで……」


 早く自室に戻って寝てしまおうと、愛理沙はその場から立ち去ろうとする。

 そんな愛理沙に対し、絵美は言葉を投げかけた。


「ああ、そうだ……ちゃんと汚れた体を洗ってから寝てくださいね。それと、汚れた“下着”も……同じ洗濯機に入れたくありませんから」


 汚れた“服”ではなく、“下着”と限定する辺り、その意図は明らかだった。

 絵美は愛理沙が由弦と“寝た”と思っているのだ。


「……はい、分かりました」


 もっとも、あくまで嫌味で言っているわけなので本当に心の底からそう思っているかどうかは分からないし、重要ではない。

 故に訂正したところで無駄だ。


 それに……


(まあ……訂正する意味も薄いですし)


 もし由弦との関係が誤解であれば愛理沙も否定したくなるが……

 それほど間違っているというわけでもない。


 言われるままに愛理沙は浴室へ行き、シャワーを浴びる。


「あの人……大人しくなったなぁ……」


 正直なところ、愛理沙にとって絵美の嫌味は肩透かしだった。

 少し前ならもっと酷いことを言われただろう。

 絵美の“言葉のナイフ”の切れ味は明らかに落ちていた。


 おそらく由弦と愛理沙の関係が上手く行っていることが背景にあるのだろう。

 

 由弦が特別に圧力を掛けているというわけではないだろうが……

 しかし彼の家名が愛理沙を守る盾になっているのは事実だ。


(……助けて貰ってばかりで、申し訳ない)


 思えばクリスマスでは非常に高価なプレゼントを貰ってしまった。

 それに相応しいものを返せているかと言われると、愛理沙は自信を持って肯定できない。


 勿論、由弦はお返しなど不要だと言うかもしれないが……


(人間として……堕落したくはないです……)


 このまま頼り切り、貰いっぱなしだと間違いなく堕落する。 

 “素敵な恋人がいる”ことだけが取り柄の人間にはなりたくなかった。


 

 さて、シャワーから上がった愛理沙は手早く体を拭き、寝間着に着替え、髪を乾かした。


 脱衣室から出て、自室へと向かう。

 愛理沙の自室は元々、物置部屋だった場所を改装したものだ。


 これは愛理沙の待遇が非常に悪い……

 というよりは、天城夫妻にとって“三人目の子供”がイレギュラーだったことが要因である。


 中流以上の家庭ではあるが、しかし高瀬川や橘(どこぞの一族)のように有り余る金があるわけではないため、愛理沙のために子供部屋をもう一つ増築するような余裕はなかった。

 

 もっとも物置部屋と言っても、断熱性等の構造は他の部屋と比較しても変わらず、冷暖房もちゃんとしているので、愛理沙としては特に不満はなかった。


 廊下を歩いていると……


「愛理沙か……帰って来ていたんだね」

「はい。少し前に」


 従兄である天城大翔と出くわした。

 今、彼は大学が春期休暇ということで実家に帰って来ているのだ。


(早く、帰ってくれないかな……)


 元々、愛理沙は大翔に対してあまり良い印象を抱いていなかったが……

 以前、かつてのクラスメイトが絡んできた事件の背景に彼がいることを知って以来、その印象は大暴落していた。


 早く大学のアパートに帰れよ。

 と、常日頃思っている。


 勿論、口に出したりはしないが。


「今日は……マラソン大会だったと聞いたけど、随分と遅かったね」

「そうですね。何か、問題ですか?」


 愛理沙が冷たい声で返した。

 さすがの大翔も愛理沙が不機嫌なことに気付いたようで、たじろいだ。


「い、いや……すまない。無神経なことを聞いたね」

「……」


 思わず愛理沙は眉を顰める。

 彼がたじろいだのは……どうやら変な勘違いをしているからのようだった。


 何となく、愛理沙は不愉快な気持ちになった。


「別に由弦さんとは、何もありませんでしたよ」

「そ、そうか……それなら、良いんだが……」


 どうにも誤解は解けていないようだった。

 面倒に思った愛理沙は早々に会話を切り上げて、自室に戻ろうとするが……


「愛理沙! ……その、僕もできる限り、力になるから!」


 腕を掴まれ、そんなことを言われた。


「……何の話ですか?」 

「だから……その、アレだ」


 大翔は少しだけ言い辛そうに表情を歪めたが……

 愛理沙を真っ直ぐ見つめて答えた。


「婚約に……関してだ。別にアイツ(・・・)の言う通りにする必要なんて……」


 瞬間、愛理沙は頭に血が上るのを感じた。


「由弦さんのことを悪く言うのは、やめて貰えませんか?」


 思わず大きな声が出た。

 呆然とする大翔を見て、愛理沙はハッとなった。


「……すみません」


 軽く頭を下げて、逃げるように自室へと向かう。

 すると……


「喧嘩なんて、珍しいですね」


 自室の前に、一人の女の子が立っていた。

 愛理沙の従妹、義妹に当たる少女。

 天城芽衣だ。


「あぁ……芽衣ちゃん。……勉強の邪魔をしちゃいましたか?」

「いえ、携帯で遊んでいたところなので大丈夫です。あぁ……お母様には内緒でお願いします」


 ゲームは一日一時間。

 というのが天城絵美の作った家庭内ルールだった。


 彼女はゲームが嫌いなのだ。


 愛理沙があまりゲームをしたことがないのは、そういう天城家の家庭方針のためである。

 もっとも……ゲーム機の管理はできても、通信機器である携帯でやるゲームに関しては完全に把握できるわけではない。


 そのため要領の良い芽衣は母親の目を盗んで、携帯ゲームでよく遊んでいた。

 それどころか、父親にこっそりと強請ねだって、少量の課金ならば見逃して貰っている様子だ。


 愛理沙には真似できない器用さを彼女は持っていた。


「それに愛理沙さんに少し、お話が」

「……私に話?」

「はい。まあ、婚約に関してなんですけれど」


 思わず愛理沙は表情を強張らせた。 

 そんな愛理沙を無視して、芽衣は話を一人で勝手に進める。


「実はお父様から……もし愛理沙さんと高瀬川さんの婚約が破談になった場合、代わりを頼めるか、とそんな感じのご相談を受けまして。あぁ……いえ、勿論、もっと配慮のある言い方でしたけれど」


 愛理沙は頭が真っ白になった。

 しかし何とか、言葉を絞り出す。


「そ、それは……え、えっと……どういう意味で?」


「あくまで、もしも、仮に、愛理沙さんか、高瀬川さんのどちらか、または両方が相手のことを嫌いになり、婚約に暗雲が立ち込めた時の……仮の話だそうですよ。つまり第二の案ですね」


 芽衣の言葉に愛理沙はホッと、胸を撫で下ろした。

 どうやら婚約が破談になったというような話ではないらしい。


(あぁ……そう言えば……)


 養父である直樹に「本当は婚約が嫌なんじゃないか?」というようなこと聞かれたことを、愛理沙は思い出した。

 それに対して愛理沙は……明確な返答をすることができなかった。


 どういう意図で聞いているのか、分からなかったからだ。

 

 いいえ、と即答したかったが……

 もしかしたら「はい」と答えることが直樹の望みなのではないかと思うと、少し怖かった。


 だから消極的な、無回答という“逃げ”に走ってしまった。


 直樹は「後で答えてくれればいい」と言ったが、それから話す機会もなく、ずるずると無回答のまま来てしまった。


「……そうですか。えっと、それで芽衣ちゃんは?」

「別に高瀬川さんと結婚したいとは、思いません。直接、顔を合わせたこともありませんし。……それに私、お父様のお仕事を継ぎたいと思っているので」


 大翔は直樹と不仲なこともあり――厳密には大翔の方が一方的に直樹を嫌っているのだが――直樹の会社とはあまり関係のない学部へと、進学してしまった。


 彼に会社を継ぐ意欲は薄く、直樹も無理に継がせようとは思っていない。


 それに対して芽衣はそれなりに継ぐ意志があるようだった。

 もっとも、彼女はまだ小学六年生なので、どう転ぶか分からないのだが。


「そ、そうですか」


 愛理沙は思わず胸を撫で下ろした。

 直樹の意図がどうであれ、芽衣が嫌だと言ううちは愛理沙しか、由弦と結婚できる者はいない。


「まあ、でも……別に高瀬川さんと結婚したからといって、会社が継げなくなるわけではありませんからね」


「……え?」


「直接会ったことはありませんが、しかし写真を見る限りは……とてもカッコイイ方だなと思いました。性格も決して悪い方では――まあお兄様は酷評していますが、それは少数意見ですしね――ないようですし」


 そして芽衣は僅かに笑みを浮かべる。


「何より、お金持ちですからね。まあ、愛理沙さんが嫌というのであれば……吝かではありません。勿論、直接会って話をした上ですけれど」


 そして呆然としている愛理沙に対し、芽衣は問いかけた。


「それで愛理沙さんは高瀬川さんと、結婚することに関して、本心ではどう思っていらっしゃるんですか?」


 芽衣の問いに対して愛理沙は即答できなかった。

 もし芽衣が由弦との婚約に乗り気で、そして直樹の方も愛理沙より芽衣の方が相応しいと思っていたら……


 少なくとも愛理沙には、否と言う勇気はなかった。


「え、えっと……芽衣ちゃんは、どうなんですか?」


 はい、とも、いいえ、とも言えない。

 そのため質問を質問で返すという、“逃げ”を愛理沙は選択した。


「聞いているのは私なんですけれど。というか、私の意志は先ほどお伝えしましたが……」


 芽衣は呆れた表情を浮かべた。

 口を噤んでしまった愛理沙に対して、芽衣はため息をついた。


「まあ、良いです。……結婚なんて遠い先の話ですし、今すぐ答えを出すというのも変だと思いますからね。私も、この年で将来のパートナーを決めるのは尻込みしてしまいますから」


 でも、現状の意志はしっかりと示した方が良いですよ?

 もっとも、“どっちでも良い”程度の気持ちならば話は別ですけれど。


 そんなことを言って芽衣はその場から立ち去った。


 残された愛理沙は無言で自室に入り、扉を閉める。

 そして……


「……由弦さん」


 助けを求めるように扉に背中を預け、最愛の人の名前を呟いた。

 


愛理沙ちゃんは自分よりも強そうな相手には大人しいです。

逆に自分よりも弱そうな相手には強気になります。

由弦君は愛理沙的には自分よりも強い相手ですが日頃の積み重ねや助けてくれたこともあって、優しいから安心判定です。




子犬メンタルな愛理沙ちゃん可愛い……

と思った方はブックマーク登録、評価(目次下の☆☆☆☆☆を★★★★★に)をしていただけると幸いです。





ところで本日発売日です。

まあ、早売りで数日前から売られているようですが。

初動が大事というのは勿論ですが、「発売後即重版出来!!」というのに憧れているので

宜しくお願い致します。



12月01日 19時 追記

担当イラストレーターであるくりあ様が表紙イラストをpixivに公開してくださいました。

紹介させていただきます。

https://www.pixiv.net/artworks/86015838

※もしurlに問題がありましたら教えていただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] ⋯こういう時に弱い人間の気持ちはよくわかる 特に幼少期にいわゆる周りと「ズレてる」感性を持っていて、それが原因で人に好かれず、家に居るのも話が通じてるようで通じない奴らでって子供の気持ちは特…
[良い点] 愛理沙ちゃんの揺れる不安が良く描写されています。 [気になる点] 彼が必ず解決してくれるとはいえ、お互いに言葉で交わしていない”好き”という気持ちは何時買わされるのでしょう。 [一言] 第…
[良い点] 妹さんに凄みを感じました。 今後、二人の物語の切り札にもラスボスにも転びそうな恐ろしさが……。 そして愛理沙もっと頑張れ!と思ったのですが…… きっと最初の頃の何に対しても無頓着な彼女なら…
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