45.このまま安穏と生きるより、闇に堕ちるは我が望み……
その泥濘は、憎しみと悔しさで出来ていた。
そして、何処まで続いているのか分からない程、深かった。
永遠に失われた、平凡だけれど何よりも尊いと思われた大切だった幸せは、遥かに、遥かに、遥かに遠のいて行った………
絶望的なまでに遠のいて行った………
真面だと思っていた世の中が、思っていたよりも、狂おしい迄にずっと薄汚れているんだと知った………
切ない迄に薄汚れていると思った………
信じていたものに裏切られると言うことが、これほど心を駄目にするのを、身を以って知った………
自らの身に降り掛かるのに甘んじた………
何処だかも分からず、光も無く、息も出来ない粘液質の泥だかタールの中をずうっと、ずうっと、ずうっと沈んで行った。
何処までも、何処までも、何処までも沈んで行った。
血も凍るような幻視に、実際血液は凍てついているのか煮え滾っているのか、まったく分からなくなった。
(あぁ、昨日までの俺は死ぬんだな……)
***************************
幾ら哭こうが喚こうが、屈強な兵士数名に取り押さえられた身体は固縛されたように身動き出来ない。勇者の親衛隊なのか、皆同じ紋章の鎧だった。
「んっああああぁぁっ、いいのおおっ、勇者様のが硬ぐってえ、太くってぇ、あたしを天国に連れて行ってくれるのおおおっ」
「みっ、見なざいよっ、ソラン、あだしぃ、すっかり勇者様の女になったのよおおっ、ウホホオォォンッ」
「あんたの知らない本当のあだじを見せてあげる、肉便器調教で開発されたドスケベ膣は、いつでも何処でもこの人のを受け入れる、アグッ、アッ、エッ、アッ、あたしはぁ、この人の性処理用エロ豚女なのっ」
「あはぁっ、ふひいいぃっ、もっどっ、もっどお、壊れるまで掻き回じでえっ、トキオ様ぁ、この男の前であだじを逝かぜでええぇっ」
「ビュッて、出じでええぇっ!」
大声で叫ぶ、俺の幼馴染みにそっくりの女は仕舞いには涙さえ流して、もっと深く突き挿せと懇願しさえした。醜く上気した顔は、最も醜悪で下劣な化け物淫魔に似て、見ているだけで吐き気をもよおした。
素っ裸で貫かれているのは、2年振りに見る俺の婚約者だったが、快楽に狂い、醜く歪むヨガリ顔は到底、俺の記憶にあるドロシーとは似ても似つかない、浅ましい最低の牝犬のそれだった。
いや、ケダモノですらねえ。
そのヨガリ顔は、悍しくも非道く人間を莫迦にした何かだ。
俺と同じ黒い髪に黒い瞳の勇者は、最初に見たときの人の良さそうな外見とは打って変わって、無言のまま激しく律動しながらも、今はニタニタと下種な嗤いを浮かべていた。
「んっほおおおおぉぉっ、勇者様の愛じでくれるここが、このお腹の中が痺れるほど気持ぢよぐって、何度も何度も犯して貰って、変態エクスタジーの虜になったのよおおおっ」
「だ、か、らあぁ、ソランンッ、あんたとはぁ一緒になれないのおっ、ざぁんねんっ、あはっはっはっはっはっはっはっはっ……」
ゲタゲタ嗤う幼馴染は、たった2年でこう迄も下劣で心底穢らわしい色気違いに成り果てたのだろうか?
だとするなら、俺の知ってる2年と言う歳月とは、時の流れとは天と地ほども隔たりがあるようだった。
もう、こいつのことは知り合いとも思えないし、思いたくもない。
何の前触れも無くやって来た勇者一行は、付き従うプレート・メイルの兵士に俺を引っ立てさせた。
行き成り洗濯場がある村の噴水広場に引き据えられた俺は、久し振りに見る見知った筈の、しかし見違えるほど冷たく他人を小馬鹿にするような目付きになった将来を誓った筈の幼馴染み……勇者に従って王都に行った恋人に蔑むような眼差しで見下ろされていた。
「ドロシー、ドロシーなのか?」
俺の問い掛けに、しかしその女は応える様子も無く、ただ冷笑を浴びせて居丈高に睨めつけるばかりだった。
信じられないことに、大勢が注視する中でドロシーによく似たその女は自分の防具に手を掛けると、豪華な鎧を外し、鎧下を脱ぎ、如何にも高価そうな下着を躊躇い無く取り去って、一糸纏わぬ全裸を晒してしまった。
衆人監視の中、何故そんなことが出来るのか、俺は許嫁の女の裸に慌てふためいたが、やがてもっと穢らわしい行為が始まると俺の理性は完全に吹き飛んだ。
ドロシーが、俺の婚約者が、
あろうことか、勇者に尻を突き出すと挿入をせがんだ。
頭が真っ白になり、身体中の血液が沸騰した。
俺と将来を誓い合った女だぞっ!
気が付くと俺は、声を限りに叫び続けていた。
泣けども叫べども、二人の行為は延々と続き、遠巻きに見守る村人達が耐えられなくなって騒ぎ出すが、従士の兵隊達に遮られ、刃物を抜いて威嚇するこいつ等に近付けないよう追いやられた。
そんな人々の中には、俺の親父や、ドロシー、エリスの両親達も居た。皆、蒼白な顔を晒して、戦慄いている。
「ぬほっほおおうっ、あだじ達は皆んな勇者様に女のっ、牝の本性を見い出されて、浅ましい痴悦の疼きを躾けられたのおっ、んんっ」
いつのまにか、俺の姉とエリスが鬼畜なセックスに混ざっていた。
それぞれが秘所を曝け出すどころか、勇者と媾って見せた。そして逝き狂い、異常な行為に溺れて、心底楽しんでいた。
「プジィっ、プジィがぎんっもじいいのおおおおっ、もっと奥までじゅっぽ、じゅっぽ突っ込んでえええっ!」
「壊れでもいいがらぁ、気がおかしくなるまでぇ、もっど頭ん中真っ白になるまでプジィ犯し捲っでええええぇぇっ!」
「私だぢの変態プジィは、勇者ざまのものぉ、雌豚お便所の淫乱プジィ、ガチ逝ぎさせでええええ〜〜〜っ!」
3人で吠え続ける嬌声が、村中に響き渡った。
「オスのぉっ、牡としての手加減無しの生怒張が凄過ぎてぇ、淫らな言いなりゼックスでゾクゾクしでぇっ、熱くって特別濃厚な子種でぇっ、媚薬で頭がバカになったままの凶暴交尾が止まらないのおおおおっ、全然あんだなんかと違うのおおおぉ~~~っ!」
「あだじ達みんな、極太肉棒中毒の性奴隷っ、ケモノじみた雄叫びも勇者様がそうしろって言うから覚えたのっ、ンゴッ、フッガアァッ、あだし達の身体は何処から何処までっ、イイ~~ッ、イイ~~ッ」
「勇者ざまのものよおおおおお~~~っ!」
「あたし達みんな、本能の赴くまま、変になったのっ!」
まるで蛇か鰻のように、勇者に絡み付き轉回つ姿は見るに耐えなかった。一度見れば必ず悪夢に出てくるような、衝撃と言うには生易し過ぎる惨憺たる姿だった。喘ぎ声、逝き顔、全てが獣染みていた。
だらしなく蕩けるような痴呆の表情を晒し、はぁ、はぁ、と狂犬病のような上気した貌で舌を突き出している。
見知った筈の村が、最早地獄だった。
「おうっふううぅっ、み、見るのよお、ゾランッ、今は姉さんも、エッ、エリズもぉ、勇者様の忠実な下僕えっ……あっ、逝きそっ」
「魂の結びつきより、身体の快楽を選んだ姉さん達は、今はご主人様のぉ、んっごおおおおぉっ、従順で淫乱なメス豚として生きることにしたの、だから昔と違ってとっても幸せっ、あんたなんか要らないのおおおおぉっ!」
「ご主人様が望むなら、おっ、おぐうううううぅっ、私達はどんな厭らしいことでも平気で出来るのよおおぉっ」
同じように村を出て行ったっきり音沙汰の無かった姉が、幼馴染みのエリスが、素っ裸で勇者に絡み付く様は、淫獣というよりは、まるで養豚場の白ブタを見ているような気分だった。
貪り、喰らい付き、跨っていく姿は、さながら意地汚く慾深い喰い意地の張った豚達にそっくりだ。豚のように鳴き、豚のように盛ってやがる。
豚以下だ……それはさながら、最も醜く、最も恥知らずな、神の園から追放された動物同士の交尾を思わせて、耐え難い悪寒が次から次に湧いてくる。
「あっ、あっ、あっ、ああぁ、ご免ね、ソラン、勇者様のぉ愛のお仕置き交尾がスゴ過ぎて離れられなくなったのおっ、キャハハハハハハッハッ!」
「逞ましいカチカチので激しく突かれるケモノ交尾が、すっ、すっ、すっんごく気っん持ぢいいのおおおっ」
「知り合いやお母さん達に見られながらするのが背徳的で、ものずっっっごぐ豚興奮ずるのおおおおおおおっ!」
「あはんっ、今ではみいんな、勇者様のセックスの虜おぉ……だからね、ソラン、あんたなんかお払い箱なのっ、アッハハハハハ……」
あの無口だったエリスが、なんて変わりようだ。
ここまで馬鹿痴態を晒す女共を、俺は聞いたことも無い!
周りでは親達が娘達の冒涜を非難して叫び立てているが、全く堪えた様子も無く却って昂ってさえいるようだ。馬鹿がっ!
「ほぉら、勇者様に頂いたザーメン、こおんなに溢れてるっ、濃くっていっぱいの雄汁、これこそ勇者様の愛の証し!」
わざわざそれを見せ付けて来る、俺の許婚だった女……
嘗ての幼馴染み達と実の姉は、勇者の精液を塗りたくるように浴びた身体を見せ付けると、寄ってたかって俺に唾を吐きかけた。
何度も、何度も……
何度も、何度も……
そして俺を罵倒する声が、際限なく降り注ぎ続けた。
その声は、如何に俺が身の程知らずの田舎者で、愚鈍に思い上がる礼儀知らずなのか、都合よく勘違いした無分別野郎なのか、繰り返し繰り返し、誹り続けた。
「惨めだな……」
口数の少なかった勇者が、俺を見下ろして嘲笑っていた。
「「「勇者様が望むなら、こおんなこともするような女になったのよ、私達っ」」」
それからは取り巻きの兵士達を襲うように武者振り付いて、裸にひん剥いて阿鼻叫喚の乱交輪姦、複数姦の地獄絵図だった。雌淫魔だとてこれほど下衆じゃない。村の連中には神に祈りながら失神する者が、続出した。
この世の終わりだ、神などいない。
もう限界だった。俺の意識は怒りで暗転していった。
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(あぁ、昨日までの俺は死ぬんだな……)
夢の中で俺は泣き叫び、咽喉が潰れ、己れのわめき声に口からは鮮血が飛び散ったが気にもならなかった……今日の無慚な仕打ちの悪夢に魘されていた。
急激に目覚めた俺は、飛び起きると同時に咽喉に詰まった閉塞感と違和感に、ゴボっと吐いた。凝固した血の塊だ。
裂けた気管の痛みと共に、胸を汚したドロッとした血反吐に悪態をつくことも忘れ、鮮明に覚えている今の俺を衝き動かす想念のまま、乾し藁の寝床を抜け出した。
「痛ウッ!」
痛くないところが無い程、全身打ち身だらけのようだ。
鼻を突く獣脂ランプの臭いを嗅ぐまでもなく、俺の部屋だった。
半分狂人と化した俺を村の皆んなが取り押さえ、家まで運んで来たんだろう。何となく覚えがある。
あちこち、ズキズキと痛む。立ち去る前、奴等は暴れる俺を最後に足腰立たなくなるまで打ち据えた。腫れ上がった目蓋で、目がよく見えねえ。
真っ黒な情念に捕われていた。
絶望は忿怒を生み出し、忿怒はやがて狂気になり、狂気はある覚悟を生み出す……それは、復讐に身を委ねる覚悟だ。
それは真っ黒に塗りたくられ、燃え上がり、噴き上がる太古からの呪詛のように、俺の心と身体を侵食していった。
地獄の釜から噴き上がるグツグツと煮え滾る溶岩流のような不気味な情念に捕われていた。
それは怒りなのか、それとも喚きなのか、今の自分にはよく分からなかった。
謂れのない辱めに晒されてオメオメと泣き寝入りをするのが、自分の人生なのか?
いや、違う……今までの俺は死んだんだ。
人はもともと暴力を好まないものだと思っていた。
だとすれば、今の俺は人をやめてもいいとすら思っていた。
狂ったように女性器の名称を連呼する女の顔を俺は生涯忘れない。
死を以って償わせてやる。
ここまで足蹴にされて、ただ泣き寝入りするなど許されねえ。
人としてとか、仁義とか以前に男としてここで引いたら、もう俺は生きていけない、生きていても意味が無い。
絶対に復讐を成し遂げる。勇者に骨抜きにされ売女と化したドロシー、血の繋がった姉貴のステラ、幼い頃からの女友達だったエリス、この4人を葬るまで、俺は絶対に退かない。
ドロシーを殺し、ステラを殺し、エリスを殺す。
そして勇者を嬲りものにする。
殺すっ!
殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ!
殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ!
殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ!
殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ!
殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ!
殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ! 殺すっ!
全てをブチ殺す! 絶対にブチ殺す、ブチ倒す! 絶対に諦めない!
泣いて許しを乞うあいつらを、これでもかと言うほど残忍に痛め付けて嘲笑い、ズタズタに引き裂いて、生まれてきたことを後悔させてやる、絶対だ!
輝いていた在りし日の幻想が、何ひとつ残さず黒く塗りつぶされた昼間、眼が潰れるかと思われるほど眼球の静脈から滲む血涙を流し続け、咽喉が弾けてしまうと思われるほどの号泣に雄叫び、口からは深紅の血飛沫が飛び散った。
気が狂ったんだと思った。
そうでなければ、何故俺の許婚のドロシーが、姉のステラが、子供の頃から仲良しだったエリスが、ベロを突き出し涎を流す色狂いのスベタの顔を俺に晒しているのか分からなかった。
何故なんだ! 信じたくはなかったが、勇者の悪い噂をもっと真剣に考えるべきだった! だが、どうすりゃあ良かったと言うんだっ!
いや、全てはもう取り返しがつかねえ。
俺の知ってる3人はもう死んだんだ。あれはもう、普通の女じゃない。人間の羞恥心とか、倫理観とかぶっ壊れて腐っちまった。
それでも勇者パーティだ……誰もが下へも置かない歓待で迎える。
残されたのは、何の価値も無い田舎者の端役という訳だ。
だが、その日俺の中に生まれ落ちた明確な殺意は、黒い火種となって、消えることの無い復讐の焔に触れるもの全てを焼き尽くし、惨劇へと駆り立てる、俺を目的のステージに押し上げる原動力となった。
沸々と沸き上がる熱は、冷めることなく腹の中のしこりになる。
夜の底を這いずり回っている気分だった。
いつ迄も、いつ迄も、いつ迄も嘲笑うあいつらの馬鹿嗤いが頭にこびり付いて消えない。
腰が砕けて躄るように這ったが、重い身体に鞭打って俺は立ち上がった。怒りが俺を駆り立てやがる。
呪って、呪って、呪って、呪って、
呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、
呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、
呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、
呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、
呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、呪って!、
狂い死ぬまで呪い殺してやるっ!
ド腐れ外道を、地獄の底の底まで突き落としてやるっ!
部屋の棚から姉に譲り受けた聖歌隊の楽譜や、スモックのような子供の頃の聖歌隊の衣装、竹製の横笛など思い出の品を次から次に床に投げ捨てた。
途中から大き目の空の木箱を据えて、投げ入れた。
小さい頃にエリスに貰った絵本、ドロシーがくれた民芸細工のおもちゃ、幾つも呉れた押し花、ドライフラワーの冠、ドロシーが刺繍したハンカチが何枚か、一緒に河原で拾った綺麗な石を集めた標本箱、一緒に学校で作ったスノーボール、小さい頃にエリスと遣っていた交換日記長、遠足で行った遠くの街の教会で買った安物のメダイ、お絵描き教室で夢中になって作った紙粘土細工、ドロシーからのプレゼントだった揃いのネックレス、ドロシーから貰った肩掛けの皮バッグ、16歳の成人の日に貰ったシースナイフも投げ入れる。
姉が買ってくれた商売道具、シェパードクルークと言う羊飼いの杖や毛刈り用のデカい発条鋏は納屋に置いてある筈だ。
皆、大切な思い出の品だった……昨日までは。
身に着けていた互いの誕生石の婚約指輪を外し、ドロシーに貰った腕輪や、村の風習だった恋人達が互いに贈り合う編み紐の髪留めを、髪裾を纏めた端から引き千切るように取り去って放り込む。
その他、益体も無い子供の頃の遊び道具、輪転がしの輪っかとか、お手製の水鉄砲、祭壇遊びの人形や模造品、叩き独楽、なんだかんだと全てだ……要するにドロシー達が村を出立する以前の物は何らかの思い出に結びつく。
だが、その思い出は今や反吐にまみれていた。
もう俺には必要ねえ。
こうして部屋の中の粗方を幾つかの箱に詰めて外に運び出すと、家の外にある焼却窯に火を入れた。
ドロシーに蹴り上げられた顎がズキズキする。
奴等に痛めつけられた身体は悲鳴を上げていたが、興奮していた俺は気にもならない。
焚き付けが燃え盛り出すのを待って、思い出を火にくべる。
詰め過ぎて濛々と煙を吐く窯の煙突を確認すると、家の中に取って返した。
姉の置いていったものを総て処分するためだ。
起き出してきた親父が居た。
「……ドイテクレ、アネキノモノハスベテ燃ヤス」
破れた咽喉で声を出すのが苦しい。やっとのことで捻り出した声は小さくて、掠れていて、痛々しくて、まるで今の俺のようだった。
黙って俺を見詰める親父は沈痛な表情と言う以前に、疲弊しまるで別人のように憔悴しきっていた。
「ワカッテルダロウ………アノ様子ジャ、モウ家ニモドッテクルコトハネエ」
親に貰った身体にくだらない墨を入れて、乳首やあそこに異物をぶら提げた今のあいつらの姿を見る限り、もう元の生活に戻る気は無いのだと分かる。
その内、勇者の子を孕んでもおかしくない。いや、最悪な想像だがすでに子堕しすらしている可能性だってある。女神教では堕胎は最悪な背神罪だと言うのに………
俺の眼光に気圧されるように脇にどいた親父は、ぽつりとひとこと独り言のように呟いた。
「ドロシーとエリスの家でも、勘当を決めたそうだ」
「ソウカ……」
今の俺には、人を気遣ってる余裕は無い。
姉貴の部屋を漁って、一切合切、家具も何もかも運び出した。
仕舞いには面倒になって、窓から外に放り出した。
遠慮会釈も無く奴等が散々痛めつけてくれたお蔭で身体はギシギシと軋んだが、お構いなしに力任せに投げ出した。
焼却窯で燃やすことを諦めた俺は、積み上げた姉の服や長物箪笥、肌着の詰まったチェスト、ささやかな鏡台や文机なんかに景気良く油を注いで、粗朶火を投げた。
夜空を染め上げる毒々しい煙は、下卑たあいつらの喧しい哄笑のように囂々と染め上げる炎に照らされて、何処までも、何処までも、何処までも昇って行くようだった。
弾けた火の粉を頭に被っても、髪の毛を焦がす嫌な臭いも気にはならなかった。
だが、嬲る様なそれは昼間、あいつらが俺の顔や頭に唾を吐き掛けたのを連想させて疎ましかった。舞い上がる火の粉は煩く、俺の周りに纏い付いた。
それでも……気が付くと俺は笑っていた。
昨日までの俺に別れを告げて、明日からの復讐に生きる覚悟の節目に上がる狼煙を、誇らしげに見詰めている自分が居た。
呪われた門出だ。
こうして俺は、俺の思い出に別れを告げて、全てを葬り去って、全ての明るい感情に蓋をして、勝手に抱いていた独り善がりの、今となっては滑稽なばかりの夢を全て捨て去った。
残ったのは、たったひとつの明確な衝動、赤々と強く、強く、強く輝き、燃えている“復讐”と言う目的だけが渦巻いていた。
深夜、すっかり熾火になった燃え滓を突き崩しながら、煙草を吸った……俺の部屋に、捨てずに取ってあった最後の一缶だ。
あいつに煙草をやめろって言われたから封印していたが、もう約束を守る必要も無いし、遠慮する相手も居なくなった。
随分湿気っちまったが、こんな時でも煙草は旨かった。
口の中が切れて滲む血の味がしていたが、それでも久々の煙草は旨かった。
落ち着いてみると、身体を動かすたびに胸とか腰とかに激痛が走った。煙を吐くのも、そっと吐いた。
葉を巻く手巻き用の薄紙も、昔、姉貴に貰ったんだと気が付いたら、自然と残りは火にくべた。
親父は自分の部屋に引き揚げたようだ。
(……したいか、……くしゅうしたいのか、復讐したいのか?)
何か頭の中でブツブツ呟くものが居た。
今日の昼間っから天地がひっくり返るような凶変続きで、半分気もおかしくなっていたので、そういうこともあるかと思った。
よく精神がやられた奴に、そんな不思議な症状があるって聞いたことがある。
だが、やがて明瞭な意味を持った言葉が響き、誰かが話し掛けているんじゃないかと思えるまでになった。
どうも女の声だ。
(悔しかろうな……)
(憎かろうな……)
(お前の狂おしいまでの憤りが、吾を引き寄せた、期せずして召喚に応えたは100万分の1の偶然かもしれぬし、或いはそうではないかもしれぬ)
(お前の中に燃え盛る、黒く醜い炎が消えぬ限り、吾はお前と共に在り続けるだろう……)
「煩エナ、今スグ消エロッ、俺ガ欲シイノハ確実に奴等を八つ裂きにする刃物で、暇潰しの話し相手なんかじゃねえ」
相変わらず咽喉は痛むし、大きな声は出なくて掠れていたが、俺が何を言いたいのかは相手に伝わったようだ。
(……いいぞ、甘露な復讐の味がする、その血濡れの真っ黒い魂こそ吾に相応しい、さぁ吾と共にめくるめく復讐の旅路にいざ赴かん)
(そのおどろおどろしさを、今すぐ吾に差し出すがいい)
いや、人の話を聞いちゃいねえな。
「いい加減にしてくれっ、誰だか知らねえが、お前が頭の中に巣食うってんなら、俺は石に頭を打ち付けて死ぬことにするっ」
(嘘だな……吾には見えている、復讐の喜悦にのたうつことを選んだお前が、こんなところで何もせずに果てる筈がない)
(悪魔に魂を売っても良いと思った筈だ、吾に委ねよ……力を与えてやる、お前の望む復讐のための力を)
「何が望みだ、今の俺は気が立ってる」
「巫山戯たことをぬかすようなら、ただで済むと思うなよ」
(色めき立つな小僧、復讐の為の力が欲しい筈だ、吾の手を取ればそれを与えてやると言っているのだ……対価が無ければ信用出来ぬと言うなら対価を貰ってやる)
(復讐が成った暁には、お前は総ての喜怒哀楽を失う………それで、どうだ?)
奴等に目にもの見せてやれるなら、俺は命など、これっぱかりも惜しくはなかった。喜怒哀楽を失う?
心が石になれるなら、それは今の俺には却って望ましいし、逆に願ってもない。
失うものなど何も無い。
憎いと思う心も、殺したいと願う心も、なるべくジワジワと切り刻んで苦しみを長引かせてやりたいと想像する心も、復讐を遣り遂げた後には、必要ない。
(……待て、少し考えが変わった、吾が望みしは、人の復讐への渇望、人が復讐に焦がれ、悶え苦しみ抜く姿だ)
「何が言いたい……」
(ぬしの復讐の為には何も要らぬと言う潔さが、吾には気に喰わぬのだ……人とはもっと、欲望にまみれていなければならぬ)
(こうしよう、吾が何かを授けるとき、代わりにお前から何かをひとつ奪う……それで、どうだ?)
「トレードの方が、取引きとしてはまだ信頼がおけるが、俺には差し出す物なぞ何もない」
(お前の持てるものには、例えば父親の魂とか、お前が大切にする村の知己の命とかも含まれる)
「……本気で言ってるんだとしたら、何を措いても俺はまずお前を殺すことにする、余計なお節介だったと後悔させてやるさ」
正体不明の声だけのおかしな女に、俺は初めて沸騰するような怒りを覚えた。
(いいぞ、その憤怒こそ吾の望む糧になる……さてさて、最初に所望するのは、そうだな、おぬしの“眠り”を奪うことにしよう)
(これから先の幾百、幾千の夜、復讐者の悪夢に狂う夜と眠りを、お前の代わりに味わうのが我が願い……お前は、以降眠れぬ身体と共に生きる)
狂ってやがる、他人の苦痛を肩代わりするのが代価などと、どんだけこの女はイカれてるんだ。
(ふっ、吾のことを理解する必要はない)
(最初にお前に授けしは、スキル・バイトと言う、まこと稀有なる能力だ……これには、無限に強くなれる可能性が秘められている、他人のスキルを喰らい、己れのものとせんと簒奪する権能だ)
(可能な限り、幾つでも好きなだけ奪える……どうだ?)
「どうだも何も、俺に選択肢は無い、欲得尽くで俺はお前に身を委ねる……満足か?」
「だがな、人の心までを俺から奪おうとするな、それは不滅の灯火となった俺の復讐心を根こそぎ奪うのと同じことだぞ」
(若造が知ったふうなことを……ともあれ、盟約は成り立った)
(覚えておけ、我が名はネメシス、お前に取り憑く者の名だ………肉体を捨てて幾星霜、100万年を彷徨った古の魑魅魍魎なるぞ)
(復讐するは吾にあり、吾これに報いん)
そうして覚悟を決める決別の夜は明け、女神教の教えに背く、復讐者として生きる苦難の日々が始まった。得体の知れない背後霊みたいのに取り憑かれ、身体はズタボロで、声が出ない最悪のスタートだったが、何がなんでも俺は強くなってみせる。
何がなんでも復讐を果たす。
裏切り者には必ず、惨めな死を与えてやる。これは俺の、正当な報復の物語だ。
待ちに待ったソランが登場しますが、誤解を恐れずに言えば、当作に幼年層のメインキャラクター……つまり、自分のことを“僕”と言うような草食系主人公は登場いたしません
ドロシー達がある意味恵まれた環境でチートになったのに比べて、地べたを這いずり回り、血を吐くような努力で強くなっていくソランが描けたらなと、思っています
こちら視点の主人公“ソラン”の憤りを盛り上げるために暴力を振るわれた設定を追加して仕舞いました
これにより、過去のドロシー達の後悔場面が辻褄が合わなくなって仕舞いますので以下の投稿済み部分に加筆改稿をいたしました
“序章⑤ 超弩級要塞戦艦に家を建てよう(宿命を知り、宿命に抗う)”
……“名無しの弦楽四重奏団さん、韃靼人の踊りを弾いてください”
“12.キャンプの解散と手紙”
“35.薔薇王の種子は水に流れて……”
輪回し=竹・金属などでできた大きな輪を棒をあてがいながら転がしてゆく遊び/単純な遊びであるためヨーロッパから中国、アフリカ、ネイティブアメリカンの文化など、同様の遊びが古くから世界中でひろく行われていた/古代ギリシャの壺絵には輪回しに興じる若者の姿を描いたものもあり、ヒポクラテスは胆汁質の体質改善のための健康療法として輪回しを称揚している
叩き独楽=ぶちゴマとも言い、独楽の胴体の側面を鞭のようなもので叩いて回すもの/回し始めは紐を巻き付けて投げゴマのようにするものもあるが、それ以降に叩いて勢いをつける点で異なる
別名を不精ゴマと言い、叩くと動く、の意味/日本でも古くから知られてはいるようだが、あまり見かけず商品としては皆無と言ってよいが、ヨーロッパでは寧ろこちらの方が馴染まれているようで、古くから絵やマンガなどに独楽が登場する場合、ぶちゴマである場合が多い/胴だけの独楽が多く、軸はないし必要もない、叩く面が広く必要なので縦長の逆円錐形か、それに近いタケノコのような形で、丸太を適当な長さに切って先端を尖らせればそれらしい姿になるが、下の端に短いクギ様の軸を持つものもある/凝ったものでは上面に彫り込まれた模様があったり、側面に溝が掘られているものもあり、鞭で叩いて回すためあまり大きいものはなく、普通はせいぜい一握り程度の大きさである
応援して頂ける、気に入ったという方は是非★とブックマークをお願いします
感想や批判もお待ちしております
私、漢字が苦手なもので誤字脱字報告もありましたらお願いします
別口でエッセイも載せましたので、ご興味のある方は一度ひやかしてみてください
短めですのでスマホで読むには最適かと……是非、通勤・通学のお供にどうぞ、一応R15です
https://book1.adouzi.eu.org/n9580he/





