26.感傷的な死神のひとりジャム・セッション
猪竜すなわちズーロンは、古来水、降雨、台風、洪水を制御するといわれ、強力で縁起の良い力を象徴している。
中華文明圏において、竜は頻繁に9の数に関連づけられる。ハバネラに封印もしくは討伐を依頼されることになる白いズーロンは、9本の尾があるとのことだった。
「どうも下帯の具合が、悪いな、出来れば新しい買い置きが欲しいところだが……」
古びた下着が緩くなって穿き心地が悪い。私室のチェスト箪笥にも伸び切ってしまった莫大小のズロースが数枚あるきりだ。
如何なギルド協会長の役職とは言え、有能な部下はおれど、身の回りの世話をする小間使いを雇う身分ではない。ギルドのメッセンジャーボーイに下着を買いにやらせるのは、はしたない。
局内の購買部に下着を販売させる案件は、主計部庶務課の決済が関係部署を盥回しにされ未だ可決されていなかった。
ハバネラ・バーンスタインは、行かず後家で生涯を終えることになるだろう。
実家の親戚筋は見合いの話を持ってくるが、どうにも気乗りしないし、立場上、歌姫の血筋を絶やさぬために、ギルド幹部などと姻戚関係に……なんて話もあるにはあるが、男勝りでやってきた身だ。
勝負下着など必要無く、男に魅せる機会を積極的に作る気も無く、倹約家という訳ではないが擦り切れて穴の空いてしまったものでも平気で身に着けている。
できれば一時の種馬さえあてがって貰えれば、後はこちらでやる。
男なぞ、子種だけで充分だった。
ハバネラの家系は、歴代の歌姫を輩出してきた。幾つかの武勇伝を遺し引退した母親も、先代の役に着いていた。
英才教育には、魔族に対する執拗なまでの憎悪と排斥や討伐の使命感が含まれる。
それは純粋培養され、役割以上に刷り込まれた生きることの意味になっていった。
咽喉を鍛え、旋律に魔力を乗せる技術の対価に、普通の娘らしい暮らしの全てを払った。化粧や、茶の道、書や詩歌、香道、とにかく娘らしい習い事や楽しみも何もかも返上して築いた、現役無双と謳われるトップの座だった。
ハバネラは歴代最強を目指していた。早世した兄との約束を果たしたかった。
歳の離れた兄だった。さりげない気遣いの出来る繊細な兄だった。
武の才に恵まれて、バーンスタインの血筋には珍しく魔法剣士になった。小さな頃のハバネラは、ブラコンだった。いやきっと今もそうなのだろう。
兄の面影がちらついて、おそらくそれが枷と思うが何故か勧められる見合いをことごとく断ってこの歳になってしまった。
戦いの中でこそ成長があると、兄は戦場に出ることが多かった。法術を現役だった母親に指南され、武術は城の先達の武官に習い杖術、鉄鎖術を修めたが、特に領内の騎士団長だった男に鍛えられた湾曲刀は、免許皆伝の腕前だった。
バーンスタイン家は歌姫の家系、その血筋を絶やさぬようにするのが勤めだが、家督は兄のものの筈だった。
領地を運営し治めるのが兄の役目の筈だったが、信用できる家令を何人か雇い入れて委託した後、自身は魔族領の奥地へと分け入ることが多くなった。
幼い頃は、よくハバネラの面倒を見てくれることの多かった兄は、茶色の強い髪が尖るような、ちょっと野性味を帯びた蛮風な印象だが、その実大変に純粋でナイーブな好男子だった。
端的に言って、ハバネラにはこれ以上に好ましい想い人は考えられなかった。
よく絵本を読んで聴かせてくれたり、季節の良い頃には領内の森や草原に遠乗りに連れて行ってくれたり、寝付けぬ嵐の夜は枕元で見守ってくれた。
端的に言って、LOVEである。だが叶わぬ恋だった。
身体の繋がりや子孫繁栄、夫婦生活、夜の営み、そんなもの以上に相手を愛しいと思ったり、生涯を共にと誓う気持ちの方が崇高で、神聖で、何倍も大切なんだと自分に言い聞かせる半生だった。
だから、冒険者がよく起こす痴情の揉め事の多くが腹立たしくて仕方がない。
協会の査問委員会に持ち込まれる、裁定を望む訴えに向き合うのが苦痛だった。やれ寝取られただの、寝とった相手に報復されただの、馬鹿々々しいにも程がある。
危険な職業でいつ死ぬかもしれないと思えば、生きているうちにこの世の快楽を貪りたいというのが一般的な男と女なのかもしれない。
実際に歓楽街には、女性用も含めてあらゆる変態的なニーズに応える用意がある。
だというのに他人のモノを盗ったり、摘み食い気分で浮気に走る冒険者が後を絶たない。
海千山千のAランク以上の冒険者でさえ同じ穴の狢だ。いや、却って経験を経てきた分、貞操観念が薄れてると考える方が常道だった。
慎ましやかな男女の在り方など、鐘と太鼓で探して歩く世の中なのか? そんな好色漢、好色女達が大多数を占める、冒険者と言う職能集団の世の中を斜めに見て、今日まで捻くれてしまった。
色と欲、見栄にまみれた冒険者……何処かに高潔な冒険者という者は居ないのだろうか?
人類の為に、魔族と魔物を狩り続け、そして散った兄の高邁な思想と清廉潔白を少しは見習って欲しいものだった。
兄と言う人は、家訓をよく守った。
遠征隊を編成しては、よく魔族のエリアまで討伐任務に赴いた。人族の勢力は魔王が何処にいるのかさえ知らなかったが、兄はそんな劣勢な戦況の中、良く奮戦した。
人は強くならねばならない、人は強く在らねばならない。だが、三千世界に救世主は現れず、未だ人類は苦戦していた。
まだ母上が生粋の現役の頃、一度だけ兄上の討伐部隊に参加させて貰った、というか随伴して行ったことがある。謎とされた魔王領の場所を探って、何度も先遣隊が行った場所だったが、小銃武装した特戦隊ですら全く中流域の魔族にさえ歯が立たなかったのを覚えている。
兄は深部へのルートを探しあぐねて切歯扼腕していた。綺麗な蓮の咲き乱れる沼に兄の死体が浮かんだそうだ。眠るような綺麗な死顔だったという。
残念ながら兄の死体は魔族領から持ち帰ることは叶わなかったので、兄の亡骸とは対面できていない。
知らせを聞いて、兄との大切な思い出が次々と走馬灯のように浮かんでは消えた。
感謝祭の星祭りに街の広場で踊ったこと、剣戟の手解きと後ろから抱かれるように剣を握った手に添えられる大きく頑丈な手、菓子が食いたいというので増やしていった甘い物レシピ、クグロフの粉砂糖に苦沙味をしていた兄、公爵様のお招きによる舞踏会で組んだ社交ダンス……
兄はハバネラにとっての、全てだったと言える。
いつしか兄の悲願は、ハバネラの悲願になった。敵わずともいつかは魔王を斃す。例え自分の代では駄目ならば、孫子の代まで悲願を伝承する。
そうして国の冒険者ギルドの最高位まで上り詰めた。帝室軍部の特別顧問も兼任している。
持てる力の全てを以って、目的にまっしぐらに邁進する筈だった。
“魔王討ち取られる”の、吉報が(ハバネラにとっては同時に悲報だったかもしれないが)、疾り抜けたのはそんな時だった。
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「勝手ご免の非礼は詫びる……求めに応じて、罷り越した」
“3人の御使い”が部屋の結界を破って、突然押し通って来た。
涙を拭って来客を告げる一階の受付け担当が震えながら退室する前に、局内庁舎のあらゆる所に張り巡らされた迷路の結界に守られている筈のドアが苦もなく、難なく開かれていた。
眩しかった。太陽の光を直視するような眩しさだった。
闘気、オーラ、威圧、妖力、覇気の気配、放射されているものがあまりにも強烈過ぎるためだ。
人ならざる存在の威と覇だった。
歌姫として有能だと自惚れた力と技は、詰まるところ常人の範疇だったと突きつけられる……そんな御業だった。
偶然か必然か、出逢ってしまった臨検の列車は、昨日到着する筈だった。結果、中央駅に自ら張り込んだのにそれらしき姿は捕捉出来なかった。残念ながら約定を違えたかと思ったが、何故かほっとしている自分がいた。
“3人の御使い”の影を追って、西ゴート鉄道の列車内で邂逅した。とても自分などの太刀打ち出来る相手では無いということが、一目見た途端に分かった。
魔王を誅したというのも戯言ではないと、瞬時に納得した。
それ程のものだった。
悔しさも、妬みも、疑ったことも全て吹き飛んでしまう程の、隔絶と言う言葉が相応しいものだった。
とんだ勘違いだった。浮ついた逆恨みや、悪意ある誹謗中傷なぞ入り込む余地も無い程、相手は強大で規格外だった。
正しく神の如き光輪を纏っている。
思わず、崇め奉ってしまう程に……
「大体は把握した、手合わせが所望であろう?」
“戦神のドロシー”様が問われてきた。
執務机の前には煌めく軽具足を白いマントで包んだドロシー様、揃いの装束の、幾多の聖遺物や伝説級スタッフを操ると言われる“無限幻魔のステラ”様、その肌に刻々と変転する紋様を宿した“全能有為転変のエリス”様が、進み出ていた。
後ろに子供を伴っている。列車で一度見ていた子だ。
「いっ、いえっ、それはもうよろしいのです……」
「いや、いや、いや、いや、いやっ、よろしくないだろうっ? ブラザーコンプレックスのハバネラ殿が、亡き兄上の遺志を継いで、打倒魔王を掲げたのに、何処の豚の骨ともしれぬ者が獲物を横取りし、手柄を掻っ攫ったと……そりゃあ憤りがあって当たり前だ」
「まあ、そうプルプル震えずとも良い……涙目も要らぬ、我等の威に気圧されて初志を曲げることなく、一度チャレンジしてみる気にはならんか、どうだ、んん?」
「下からここまで上がってくる間に、ほぼ事情は取得した、老婆心ながら、館内の漏洩防止の術式は時限可変式に換えることをお薦めするが、お手前の立場はしっかりと理解したつもりだ」
「人というのは、たとえ命に代えても譲れぬものがあって然るべきかと思っている」
「で、人生はトライ・アンド・エラー……つまり、“懸かって来いやっ”と言っている」
そう見得を切られると、ドロシー様は眼光鋭く、まるで挑発し、煽動するが如く、蔑むように薄ら笑われるのだった。
「ドロシー、性急なのは貴女の悪い癖よ、一旦座りましょうよ、私達はこちらに招かれたのだから……受付嬢さん、お茶を頂いてもよろしいでしょうか?」
ステラ様は告げると、透き通るような仕草で音もなく振り返られ、踵を返すように先に応接テーブルに着かれた。ドロシー様が荒ぶる忿怒神なら、ステラ様は静かに慈愛の光を無限に降り注がれる地母神のようだ。
「チェッ、畳み掛けて盛り上げれば、このまま勝負に持ち込めると思ったのに、つまらん……お姉さん、お茶請けは栗羊羹ね、ここの購買部で仕入れてるんでしょっ?」
凛とした雰囲気のドロシー様が、途端、一気にボリュームを落とす感じで肩を竦め首を振る仕草は、何か狐に摘まれたような拍子抜けする心持ちだった。
居た堪れない。
応接の長椅子に腰掛けられたステラ様が、語り出す。
「私達は強くなるしか無かった、そうしなければ罪の意識の重さに押し潰されて襤褸雑巾のように死んでいたでしょう」
「現に、ここの冒険者の誰よりも私達の過去の方が断トツに醜く、薄汚い、他の者の追随など考えられないまでに、一度は目も当てられない色欲地獄に堕ちたのです」
「……貴女の純愛を貫こうとする姿を、ドロシーは好ましいと思っています、例え太陽が西から昇ろうとも、自分自身を欺けない私達には到底真似のできないことだから」
「なっ、なんでバラしちゃうかなああああぁ、ステラ姉のバカチンッ! はっ、恥ずいじゃんかあ……」
信じられないものを見た。威風堂々たる闇と死を司どる戦女神のドロシー様が、赤くなってモジモジしていらっしゃる。
「まあ、……正直に言うとそういう訳だよ、赤心一途というか、あんたの生き方には感ずるところがある、例え喪女と謗られようとも純潔を守り通す、その意気や善し」
「受けるよ、勝負の申し出……ただし、そちらの土俵でやると間違いなくステラ姉を名指ししてしまうだろう、悪いがそれでは赤子の手を捻るようなものだ」
「あたしが相手をするよ、あたしは最近楽器をするようになった、まだまだ趣味の域だがそれなりに聴けると自負している」
ドロシー様はそこまで告げられると、これまた信じられぬことに聖母の如き慈愛に満ちた優しげな笑顔で連れの子供に語りかけていた。
「キキ、緑茶も美味しいけれど、栗羊羹頂戴しなさい、ここいらではとっても珍しい甘味だから」
そう促すと、さも愛おしそうに子供の頭を撫でられた。
「いい子だろう? 先程もお茶を出してくれた受付の娘に、親の横柄を代わって謝罪していた……実は、あの娘を泣かせたのはあたしだ」
唖然とする私の視線を感じてか、ドロシー様は僅かにその美しい眉を顰められた。
「誤解があるかもだから一応お断りしておくが、あたしは別に戦闘狂という訳じゃあない、そりゃあ誰にも負けない強さを追い求めて、遥かな高みを目指してはいるが、人並みの情緒が無い訳でも、ましてや他人をないがしろにしたい訳でもない」
「だからかな、気にしていないつもりだが、あたしがごく普通に優し気な素振りをするのに、意外そうな顔をされると、ほんのちょっとだけ、そうちょっとだけ傷付くのさ……」
ドロシー様は、そういって苦笑いをされた。
「もっ、申し訳ありません!」
「いや、謝って欲しい訳じゃない、裏切ってしまった幼馴染にどう謝罪していいのか考えあぐねて、未だ答えの出ぬまま善行を積む旅に出た……」
愚かな、余りにも愚かな自分達の不貞が突き付けられるのにのたうちまわり、血の涙を流す幼馴染の顔が忘れられない。
死んで詫びるには、自分達には意気地が無さ過ぎた。
しかして償いの行脚では東に飢饉に喘ぐ人々が居れば行って食糧支援をし、西に魔物の被害に泣く村々があれば駆け付けてこれを討つ。
例え偽善と誹られようとも、善行は匿名でなければならない。後々神出鬼没、正体不明の世直し人とかお助け人とか呼ばれるようになる由縁だ。知らず知らずに犯すから原罪と言うのだろうか? いつか犯す罪よりも、贖いの方が上回る日は来るのだろうか?
私達の所為で亡くなられた方々のご家族、迷惑を蒙った人々には土下座をして詫びる覚悟だ。
戦闘になれば没頭する。気を散らすほど傲慢にはなれない。
だが、人並みな喜怒哀楽はある。気が晴れなければ、気鬱になる。当たり前のことだ。
普通に笑い、普通に愛しい者を慈しむ。そんな普通の感覚が何物にも代え難い珠玉の宝石に思える。
戦いの中に暮らしがあるのか、暮らしの中に戦いがあるのか分からなくなる時、僅かに残された蜘蛛の糸のような、人としての指標。
幾ら心を刃金のように叩いて鍛えても、石のように動かぬ盤石の不動心を持てても、人の心自体を失っては、それはもう私ではない。
そんな贖罪の道すがら、冒険者の不誠実な道徳観を知り憂慮しないでもないが、自分等はそれを諫める立場にはないし、過去の恥多き間違いから意見する資格すら無いのは百も承知している。彼等にも彼等の言い分があるだろう。
エリス様が嘆き、憤り、男女間の醜い関係を弾劾しようと逸るのを、諭してはみたものの、果たして何が正しいのか心の片隅で思い悩んでいる……そう、ドロシー様は語られた。
「既婚者も未婚も、人妻も処女も童貞も、すべて貞節を守れと強要するほど無粋ではないが、手合わせで、あたしの方に軍配があがったら、ギルドでも何某かの改善を試みて頂けないだろうか?」
「それと、キキが気に入ったようだから、副賞に栗羊羹一年分を付けてくれると有り難い」
私が勝利した場合は、ギルドの停滞している難易度最悪のクエストやミッションを何でもひとつ、無償で引き受ける。
会場や裁定方法は、此方に任せる。日取りは私のコンディションが整うのを待つが、ただし一週間以内、あまり大っぴらにしたくないのでオーディエンスは絞ることを条件とし、約して頂いた。
何故、大陸でも珍しい栗羊羹が入手できるのかとの疑問にお答えして、嘗て甘い物好きの兄のために東西の古文献を漁り復活した製造法を、懇意にしている菓子舗に委託して納めて貰っていること、小豆の栽培に一番苦労したこと、月命日に兄の墓前に供えていることを説明差し上げた。
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何たら神殿と呼ばれる西ゴートの冒険者ギルドの統括協会……そこの付帯施設にナショナル・オペラ歌劇場の分館がある。小ホールといった体で、ハバネラ達の訓練場を兼ねているため観客席は多くない。
現に、平日だというのにギルド会館を臨時休業にして行方を見守ることにした会館職員と、毎日のクエストをこなさなくても干上がらない、多少の余裕がある冒険者達で満席になってしまう程度の規模だ。
立ち見も出ていた。
先行のハバネラ側のターンだった。
彼女の歌姫としての活動を支える5人編成の軍楽隊員、バックバンドはアルトパートの弦楽器が2、携帯用の鍵盤楽器、管楽器に木管楽器の編成だった。
そういえば同じ戦闘装束に身を包んでいるが、遠征にも追従するため、これ以上の人数では構成できないようだった。
揃いも揃って熟練の音楽魔導士として、息も合っているようだ。
果ての無いオクターブとも思えるハバネラの歌声が、独特の旋律で限度無しに高音域に上がっていく。流石に歌姫、人の声域を超えている。ダイナミックレンジとか、最早そう言う域を超えていた。
今日はオーケストラ・ピットも解放しているので、最前列で鑑賞していたが、彼女の術がビリビリ伝わってくるようだった
凄いな、魔力の乗った歌声が天井に空いた大きな開口部に向けて、二重螺旋を描いて立ち上っていく。常人にも認められる可視化された魔力の流れが見えている。
「綺麗な声だねっ……何で、古代ゲール語で唄ってるの?」
目を輝かせてワクワクしているキキが、ステラ姉に初歩的な疑問を投げ掛けた。
「ナンシーお母さんの教科には、魔術の初歩知識が含まれていないようね、いいわ、今度私が集中講義してあげる」
「この世界の魔法詠唱はほぼ古代ゲール語、魔法陣は神聖キリル文字が使われる、それは歌唱魔法の超長韻詠唱も変わらない、キキが聞いたことが無いのは、私達がほとんどと言っていいほど超高速詠唱か無詠唱しか使わないからよ」
「シッ、来るよ」
エリスがステージに何か起こると促す。
ステージには何故か剥き出しの巨大な土壇のような土間が設けられていたが、地鳴りと共に割れて何かが天に向かって伸びて行く。
やがてそれは太い節榑立った幹を持つ大木になった。清涼なる生命力に溢れた枝葉を生やし、天井の開口部を抜けてグングン空を突き抜け、成長していく。天井が抜けていたのはこれのためだった。
あっというまに出現した天を突く大樹は、何百メートルもありそうだった。
「見事なものだな、本物の世界樹だ、まだ幼樹の段階だが、触媒魔術には充分だろう」
「触媒魔術って?」
「うん? 世界樹を現出させるのは、一種の召喚魔法だ、だが相手は世界樹、魔力量さえ充分なら、現界した世界樹を媒介にして更なる奇跡を色々と叶えることができる、攻撃魔法、神聖魔法、あらゆる奇跡が思いのままだ」
キキに、この歌唱魔法が如何に高威力で汎用性が高いか、説明する間にも、会場は割れんばかりの歓声に包まれている。
観客の盛り上がりが引いていくのと同じようにして、世界樹は光の粒へと溶けって行った。どうやらあまり長い間は、出現させておけないようだった。
ステージを降りてくる歌姫ハバネラらを労った。
「良かったよ、貴女の兄上への想いの強さが良く分かった……」
「ところで、あたしの演奏は身体強化や感覚強化の他は魔力を使わない、もし魔法の威力を競うなら、あたしは最初から負けるだろう」
「採点方法に、如何に感動したかの要素を入れて貰える件、考えて貰えたかな?」
「勿論です、どうぞ、ご存分になさってください」
何が吹っ切れたのか、歌姫は清々しい笑顔で快諾するのだった。
「そう言えば、キキはドロシーのアルト・サックスを聴いたことが無かったわね? ドロシーはいつもナンシーの家庭教師の時間や、要塞艦“ニンリルの翼”での訓練の時間を利用して練習していたから」
「うんっ、お母さんが分身して演奏するのも知らなかった……上手なの?」
「珠玉だよ、心して聴くんだよ」、エリスが鼻息荒く答えていた。
ステージ脇で、私の出番を見守る三人を背中に、4人に分身した私はすでに壇上に進み出ていた。
あらかじめ格納空間から取り出して下準備を終えた楽器を、水銀魔術で造り出したスケルトン達に運ばせる。
アルト・サックスが歌うように印象的なメロディを奏でるあのジャズの名曲は、実はリズムパートを地味に刻むカルテットのセッションで成り立っている。
オリジナルの演奏は、洋琴を中心にリズムだけが淡々と流れる間奏が意外なほど長い。
これにより、再び入ってくる主旋律のアルト・サックスが効果的に輝くのだ。
どうしてもソロ演奏では再現し切れないこの曲を極めるために、私は自分を4人に分ける“分化分身の術”を駆使することにした。
最近の手遊びはもっぱら、これだ。
いや、趣味の域は多分とっくのとうに越えた。
ウッドベースもピアノも、ドラムセットもステラ姉のお下がりだ。
最初から師匠の楽器営繕部隊の手が入っている分、コンディション的に言ってもどれも唯一無二のものだった。
全てアコースティック、アンプは使わない。ただしライブステージ用に増感倍音魔術だけは使わせて貰うし、全ての楽器は音色を損なわないよう細心の注意を払って魔術による強化処置を施していた。
ベースはスチール弦が丈夫だが、好みで5本ともガット弦が張ってある。プレーンガットはテンションがすぐ狂うので、劣化停止の術式で抑えている。
胴はブジョン・ストールというところの何とかコンサートモデルだ。この間、自分なりに配合したニスに塗り直した。
ベーゼンドルファーの290インペリアルというモデルは、完全なクラシック用だったが自分でジャズ用に調律した。ジャミアスに調律のスキルを貰った。
私達の世界の鍵盤楽器にはハープシコードに似た物があるが、無論ピアノのようなダイナミックな音は出ない。
強化聴覚を突き詰めた結果、絶対音感を体得した私は、チューニング・ツールを使わない。スネア、フロアのロータム、ハイタム、ハイハット、ライド、シズルのクラッシュ、それぞれの表裏のヘッドの張りのテンションを均一に調整し、ケミカルの代わりに魔術を以ってシンバルを磨く。
私が4人居るのを目の当たりにしたハバネラが口をあんぐり開けるのを、含み笑いで返した。
放たれる気の放射が4倍増しになっている時点で皆固唾を飲んでいるのは了解したが、もうちょっと静かにして貰うのに言霊を使った。
「お集まり頂いた紳士淑女の諸君、これから演奏するのは異世界の楽器に、異世界の楽曲だ、本邦初公開になるだろう」
「あたしは今までも、これからも音に魔力を乗せるつもりは無い、ただ心を籠めて演奏するだけだ、もし感動する部分が有ったら、そして少しでも心を動かされることが有ったら、時々でいいから今日の演奏を思い出して欲しい」
「あたしからの願いはそれだけだ」
ディブブルーベック・バンドのドラマーはジョー・モレロという当時のシティジャズを背負って立つ燻し銀の職人だ。
強化音感だけに頼るのをやめ、ステラ姉が特訓をしていたときのジャズの教則本やスタンダード・バイブル的な楽譜を譲って貰った。
私は何度も完コピのための反復練習をしていた。
デジタルリマスター版はマスター音源から消し去り切れなかった微かな息継ぎの呼吸音、衣摺れの音を残していて、私の強化聴覚はそれを拾うことさえできた。
抑えたバスドラとクラッシュ・シンバルから始まり、ピアノが追従するタイミングは完璧だ。何しろ自分で自分に合わせている。
ピアノを弾く私、ドラムを叩く私、ベースを奏でる私、そしてサックスをクールに吹き上げる私、完璧にリンクし渾然一体となった奇跡のステージを魅せている。
ステラ姉のアドバイスで、曲の解釈を突き詰めた。
アーティストが曲にどんなメッセージを込めたのか、主題は何なのか、考えに考えた。
オリジナルのパートを吹き終えて、再度繋いで繰り返すパートは自分なりのセッションに昇華していく。
僅かだが、自分が思ったタイミングと音の強弱の付け方、好ましいと感じるスイングの付け方に工夫がある。
一番大事なのは、自分の気持ちを籠めることだという。
演奏するのに魂を籠めろと……今の自分という人間の有りのままを表現するのだと。
詰まるところジャズの真骨頂は、表現の自由性、アドリブと即興演奏、テクニックよりもアレンジ力が優先する。いわゆるインプロビゼーションだ。
私、私という人間……
私は、“他人に優しく”という自ら課した戒律をいつも守れているだろうか?
ともすれば尊大になりがちな自らの心の有り様を律することを忘れてはいないだろうか?
鬼畜勇者のハーレムに溺れ、変態女として5年の月日を過ごした。
痴悦の煉獄に浸り、大切な幼馴染みの婚約者、終生を誓い合った者を裏切り続けて思い出すこともなく、殺された外道勇者の言うがまま乱交を繰り返した。
5年もの間だ。
“魅了催淫”に取り憑かれての所業とはいえ、記憶はえげつない迄にはっきりと残っている。
幾ら胆力を練り上げ、動じない心に叩き上げても、決して消せないし、無くならない事実だ。
私は、大切なひとりを想い続け、貞節を守り通す歌姫ハバネラ・バーンスタインが羨ましかった。
他の男に嫁ぐのを吉とせず、跡継ぎを育てるのに才能ある子供を養子縁組するべきか迷っている。
そのことは、彼女の思考を密かに読み取って知っていた。
嘗て、都に連れられるとき、私は大切な筈のソランとの婚約指輪を道端のドブに捨てた。あれは本当に操られて朦朧とした上での行いだったのか自信が無い。自らの心に隙があったから、付け込まれたのでは無いか?
何処か浮ついていたから、クズ勇者の術中に嵌ったのでは無いか?
幾度も煩悶した考えが頭を離れない。
私は、この葛藤を生涯引き摺って生きるのだろう。
魅了されていた間の私は、本当の私じゃないと自信を持って言えるのか?
頽廃への憧れ、背徳的な不道徳セックスをしてみたいという気持ちが一欠片も無かったと、胸を張って言えるのか?
ソランのための初めてを嬉々としてクズ勇者に捧げたのは、本当に頭を犯されていたせいだと言えるのか?
何度も、何度も、何度も、何度も、抱いて抱かれて求められるままに、ときには自分から進んでもっとしてくれと、涙まで流して変態的な性愛を繰り返したのは、本当は自分がそれを好きだったからじゃないのか?
毎日、毎日、毎日、毎日、快楽の坩堝に溺れ続けたのは、本当は自分がそうしたかったからじゃないのか?
いや、違う。
少なくともクズ勇者が気まぐれに立ち寄った私達の故郷で、公衆の面前にもかかわらず、求められるまま服を脱いで勇者と交わったのは私の望みではない。
ソランの目の前で、私は勇者のものと喘いで見せたのは私のしたかったことじゃない。
下腹部に、ここは勇者のものと彫られた消せない刺青を誇らしげにソランに見せ付けたのは、私のしたかったことじゃない。
死んで詫びれば済むような生易しい罪ではない。
取り返しの付かない悍ましさにまみれて、良心の呵責に耐えかね、狂い死にできればどんなにか楽だったろう。
耐え難い悲惨な行いが消えてくれることはない。同様にして、ソランが受けた屈辱は、ソランの脳裏に深く刻まれている筈だ。
堕ちるところまで堕ちた身は、もとよりソランとやり直せるとは思っていない、思ってはいけない。
ただ願うのは、貴方の馬鹿な幼馴染みのことはきれいさっぱり忘れて、嫌な思い出も消し去って、誰か素敵な相手と添い遂げて欲しいということだ。
最早取り戻せない迄に堕落した私の、私達のせいで、何の罪も無いソランの未来が閉ざされるのだけは、あってはならない。
貴方を裏切り足蹴にし、一途な気持ちを踏み躙った、愚かな女の心からの願いだ。
“許して欲しい”と“忘れて欲しい”の気持ちが何回も反復する。
今でも夢想する。最愛の恋人だった筈のソランの家の戸口で只管平伏し、雪の日も雨の日もただただ許しを乞い続ける馬鹿な女の禊ぎの姿だ。罵倒され、蹴られても、地縛霊のように踞り、ただ這い蹲り謝り続ける、道を踏み外した稀代の浮気女の姿だ。
ただ、それは一方的な私の独りよがりで、本当はソランに辛い過去を思い出させる最低な姦通女の私なんかが纏わり付くのは、ソランに取っては苦痛かもしれない。
自分らの罪を悔いて、贖罪の旅に出た。
意気地無しの私達は、肝心なソランには手紙を送り付けるばかりで一言も謝れていない。
ソラン……、
ソラン……、
ソラン……、
ソラン……、
裏切ってしまったソラン、愛しのソラン、もう何年会っていないのだろう?
想いは募り、想いは加速する。
ソラン……、ソラン、ソラン、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソラン、ソラン、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソラン、ソラン、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ、ソランッ! ソランッ! ソランッ!
……あぁ、ソラ
……幼馴染へのくるおしい想いが、私の心を塗り潰していく。ソラン、この強い想いが、貴方に伝わるといいなあ。
貴方の屈託の無い笑顔が好きだった。はにかむ仕草が好きだった。
会いに行くのが怖かった。顔を見るのが怖かった。
無病息災でいてくれれば良いのだが……加護の手紙を身につけていてくれれば、大抵の禍根は打ち消せる筈なのだ。
勇者ハーレムの餌食になった侍女、女官達の顔が浮かんで消えた。
独占欲に狂った寝取られ亭主と一緒に、一枚の絵に永遠に閉じ込められることを選んだグルーム・オブ・ザ・チェンバーズ、イリアさんは私のカーテシィの顎の引き方が綺麗だと褒めてくれた。
そして旅の仲間……色欲道に狂い、それぞれに身篭った胎児を堕胎した惨たらしい過去を共有し、それでも前を向き共に歩まんとする大切な仲間。
私の一番の理解者、ステラ姉。
自分のことより私の気持ちを一番に考える、後ろ向きな自分を変えたかった尊き鉄のパンツ、エリス。
胎を痛めてはいないが、眼の中に入れても痛くない愛し子のキキ。
大切な今の家族を、命に代えても守り通す。
贖罪の旅に、私は何を求めるのか? そこに成長はあるのか? 果たして許しはあるのか?
何のために強くなったのか?
何のために生きていくのか?
目的は何なのか、到達点はあるのか、それは望めば得られるものなのか、今はまだ皆目分からない。
私は死神でいい。吹きたい時にサックスを吹く身勝手な死神、人に懼れられるセンチメンタルな死神になる。
師匠、私は本当に強くなれたでしょうか!!!!!
………………………………万感の想いを胸に、私は吹き終えた。
気が付くと、会場は静まり返り、皆んな啜り泣いているようだ。
涙を流すステラ姉とエリスが目に入った。
走り寄るキキの顔も、涙に濡れていた。
殿水結子様の“あるある川柳”をまた読み返してみました
ブーストや、あゝブーストや、ブーストや
メリヤス=平編み・天竺編みで編んだ生地、またはそれらの生地を使用した製品を指し、伸縮性に優れ靴下類や下着類、手袋や帽子など日常衣類の多くに利用されている
「莫大小」という漢字は、伸縮性があり「大小がない」こととする説がある
クグロフ=クグロフ型〈斜めにうねりのある蛇の目型〉にアーモンドとキルシュヴァッサーで香りをつけた乾し葡萄を入れ、ブリオッシュ風の生地を入れて焼き上げたもので食べる前に粉砂糖を振り掛ける
ベーゼンドルファー=L. ベーゼンドルファー・クラヴィアファブリック〈L. Bösendorfer Klavierfabrik〉GmbHは、オーストリアに所在するピアノ製造会社である
イグナーツ・ベーゼンドルファーにより創業され以来、各国の帝室や王室の御用達として選定されたり、産業博覧会で入賞したりするなど名声を高めていく
ベーゼンドルファーのピアノはフランツ・リストの激しい演奏に耐え抜いたことで多くのピアニストや作曲家の支持を得、数々の歴史あるピアノブランドが衰退していく中、その人気を長らくスタインウェイと二分してきた……ベーゼンドルファーのピアノを特に愛用したピアニストとしてはヴィルヘルム・バックハウスが有名、ジャズ界においてはオスカー・ピーターソンが「ベーゼン弾き」としてよく知られている
「インペリアル」とも呼ばれる最上位機種のフルコンサートグランドピアノ「モデル290」がベーゼンドルファーの代表機種で、標準の88鍵の下にさらに4〜9組の弦が張られ、最低音を通常よりも長6度低いハ音とした完全8オクターブ、97鍵の鍵盤〈エクステンドベース〉を持つピアノとして有名である
音色は至福の音色と呼ばれ、1年以上の月日をかけて全工程を手作業で作られている……代表的なモデルでは井形に組まれた強固な支柱の上にスプルース材のブロックを積み上げてインナーリムを製作し、それに比較的薄いスプルースからなるアウターリムを張り合わせることで、ピアノ全体がスプルース材を介して豊かな中低音を響かせる設計となっている
スネアドラム=名称は英語でsnareと称する細いコイル状の金属線が主に底面の膜に接するように張られ、これが振動する膜に副次的な打撃を与えて独特の音響を発揮することに由来する
この金属線を「スナッピー」「響き線」とも呼び、上部打面のプラスチックフィルムは表面が滑らかでツルツルな「クリアヘッド」と、ざらつきを持たせるために表面を加工した「コーティングヘッド」があるが、ジャズなどでワイヤーブラシを用いて擦って演奏する場合、このコーティングヘッドでないと摺動音が出せない
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私、漢字が苦手なもので誤字脱字報告もありましたらお願いします





