17.五拍子の剣[レイク・ドノバン編②]
「無住神昇龍拳の発勁は楼門をも穿つ、という……単騎で破城槌を凌ぐことの喩えだが、ちょっとやってごらん」
ドロシー様に、トモダチの怪物のことを話していた流れで、ヨゼフ兄ちゃんも、ローラお姉ちゃんも、もしかしたらお母さんも死んでしまって寂しい、って愚痴を聞いて頂いていたら、急に拳法の稽古の話になってしまった。
「皆んなが居なくなって寂しいのなら、皆んなを守れるように強くなることだ……強くおなり、マクダネル君」
「あたし達が修行しているときに、師匠に一番に教わったのは、何がなんでも生き延びる……見っともなくても何でも、例え卑怯者呼ばわりされても生き残る、この一点に尽きる、今君に教えているのはそういう技だ、まず君が死なないこと、それが一番最初に覚えるべきことだ」
僕は教わった発勁の構えで、気の流れを思い描きやや腰を落とし気味にした弓箭歩で抽絲勁を紡ぐイメージの掌打を放つ。
僅かに目の前の空気が揺らぎ、湖に向けて打ったそれは水面に跡を曳いた。
「古式弓歩では関節の捻りよりも、前に突き出すことを主に大切にする、こんなふうだ」
ドロシー様は、僕の横に並ばれると良く見るようにおっしゃって、さらに腰を沈め、空手の騎馬立ちにも似た構えでおもむろに拳を突きだされた。
ゴッ、という音と共に周りの空気が奔流になり物凄い勢いで引き込まれると、湖が割れた……それはごく短い時間だったが、正しく湖面が割れたとしか言いようの無い有様だった。レイク・ドノバンは決して浅い湖ではないが、それはただの引き波ではなく、湖底が露出するまでに真っ二つに割れた。
それは何処までも何処までも真っ直ぐに伸び、遥か対岸まで届いたのではないかと思われた。
あまりにも、この世の物とも思えない出来事に僕はただ呆然としていた。
「ここまでやっても、人ひとり救えないあたしは、まだまだだなって思える、マグダネル君、心するんだよ、この先幾ら強くなろうとも決して驕ってはいけない、約束できるかい?」
「……はっ、はい!」、女神様の卓絶した奇跡のような達人技を見せられては否やもない。
「うん、だったら明日から身体強化術をやろう」
そう言うとドロシー様は、晴れ渡った夏空のように透き通る素敵な笑顔で微笑まれた。
ドロシー様の乗り物に跨って家路についていた。
周りの景色は流れるというより、歪んで見える程の速さなのだが不思議と風圧は感じなかった。乗り物の周りは何か繭のような空気層に守られている、ということらしい。
「ところで、さっきのトモダチ君の怪物だけど、ここのところさっぱり音沙汰無いっていうのは本当かい?」
ドロシー様は、しがみ付く僕を振り返らずに尋ねられた。
後ろで抱きつきながら、ドロシー様の、女の人の甘い匂いを密かに吸い込んでいた僕は、急に声を掛けられてドギマギしてしまった。
「えっ、ええ、半年前から幾ら話しかけても、声が返ってくることはなくなりました、昔から片時も離れず僕を気遣い、母が僕を放ったらかしにするときも優しく励ましてくれる声だったのに、こんなことは初めてです……」
「ふーん、……実は、この地の最も古い地霊や土地神から得た情報だと、ここは凄く長い周期だけど、定期的に灰燼に帰してきた歴史を繰り返しているらしい」
「最も最近は約1500年前、まだシェスタ王朝が建国する遥か昔だね」
「さっき、ドノバン湖の水面を割ったとき確かに、湖底に横たわるそれを認めた、もしかするとエックスデーは近いのかも知れない」
「トモダチ君は、何らかの理由から何千年単位で、この地の生けとし生けるもの全てを滅ぼしてきたようだ、それ以外の時は君のいうように温厚な性格なんだろうな」
「……ところで今のあたしは汗臭い、あまり匂いを嗅がないでくれるといいな、君にあたしの口がいい匂いって言われて、過剰なデオドラントとクリーンの呪文は使わないようにしているんだから」
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ロック・マックィーンの集落は、シェスタ王朝直轄の天領で、我等が辺境巡視隊が駐屯する国境軍事地区の外れにある。
明確な領邦君主を持たないこの地方においては、上級裁判権、貨幣鋳造権、築城権などは駐屯第一巡視隊に移管されていた。言うなれば我々が為政者の業務の一部を代行しているということだ。
ロック・マックィーンの集落代表からの要請で、レイク・ドノバンという湖の近くに最近住み付いた怪しげな女三人組を捕縛せんと赴いた筈が、狐に化かされたように道を見失い、同じ所を堂々巡りしてしまった。
無理をして藪を突っ切ろうとすると、どういう訳か荊棘の蔦が絡み付いて、騎行用の軽騎兵装備のチェーンメイルを着込んでいる筈の馬も兵士も、浅くない傷を負ってしまい、不思議なほど状況はますます混迷していった。
完全なミスだった。副班長の突撃隊長、アルビオン・サーレスの強行姿勢を抑えきれなかった自分が甘かった。
ここに赴くまでに、巡視の本来の目的を幾つか果たし、もう兵糧他の必需品が底を突いていたにもかかわらず、補給もせずに伝令から届いた然して重要とも思えない案件に向かったのは、どう見てもサーレス一人の勇み足だった。
大体、この中流騎士家系出身の男は地方に左遷されてきた自分の立場が全く分かっていない。
点数稼ぎをして、中央への覚えめでたきを得れば、返り咲きできると考える時点で、世の中の仕組みに疎い騎士の家格の三男坊あたりが如何に甘ちゃんか、分かろうというものだ。
どうやら魔術師がよく使う防御結界に嵌り、疲弊し途方にくれた我等30名からなる第一巡視隊のビターソルト警邏班は、一旦集落の中心に引き返すことにした。
ビバークの用意はあるが、初夏とはいえハイランド地方の夜は冷え込む。できれば村落の家屋に分宿できれば、その方が有り難かった。
「キャプテン、木偶の坊のサーレスの野郎には私からお灸を据えておきますが、このまま尻尾を巻いて逃げ帰るのも我等の矜持が許しません、これから対応策を考えませんか?」
十年来の腹心であるゴメス伍長が進言してくるのに、私は逡巡していた。
班には4人の魔導士も所属していたが、今日、散々翻弄された強力な結界に全く歯が立たず、何とも心許無かったからだ。
すでに班隊は村の中央広場へ帰着していた。村長の居宅はすぐ目の前だ。
ゴメスに返答しようとした時だった。
空から何かがやってきた。
それは最初、空からふってくる怪異な音だった。
ヒュンヒュンと何かの風切り音がしたかと思うと、自由落下では無い何かが、振り仰ぐ我等の上に、日差しの中で影になりながらゆっくりと降りてきた。
天馬か何かと思ったが、妖しげな作り物のような異物体はガッチリとした体躯で金属でできているのだろうか、複雑な形ながら傷付けるのが難しいのではないかという硬さを思わせた。
やがて狼狽る我等を尻目に、広場に浮いた3騎からプラチナ色に輝く鎧を身に帯びる女達と子供が降り立った。
「この子の家のテリトリーに、誰かが敵対的に侵入しようとしてる痕跡があった……」
口を開く女性は、天上の女神かと思われる程に美しく、魅入られるように力強い瑠璃色の瞳、緩く波打つプラチナブロンドに、透き通った肌で、細い顎と整った鼻梁が印象的な乙女だった。
「何者かと思って様子を見にくれば、辺境区巡視隊とはな……その旗印、マントに縫い取られたコート・オブ・アームズ(紋章)は、司法権も持った第一巡視隊か? 第2クォーターに百合の図柄は、もと辺境伯騎士団の末裔だろう」
「こっ、この魔女共め、何しにきたっ!」
弱い犬ほど、よく吠えるサーレスが身の程知らずに喰って掛かる。
こいつは隊の本部に帰ったら降格だ。いっそのこと、どぶ攫いから遣り直させてやる。
「弱い犬ほどよく吠える、お前は降格だそうだ」
言って、類稀なる美貌の持ち主がサーレスを一瞥した途端、厄介者のサーレスが昏倒した。
女神なのか、魔女なのか、あろうことかこの女性の一睨みでサーレスは口から血の泡を吹いてぶっ倒れてしまう。白目を剥いて、瘧のように震えている。
誰も助け起こそうとはしない。
噂にのみ聞くガルがハイムの“魔導の極み”なのか、人の心を読み、視線だけで人間を卒倒させる……いったい何者なのだ!
「殺す程ではなかったが、少々腹に据えかねている、大方村長あたりから何か吹き込まれたのであろう」
言いざま、前に右腕を伸ばすと、まるで人外のように美しいその乙女は、手の平を何かを掴むような形に広げた。
瞬間、誰かが宙を跳び、引き寄せられる。
我等の人垣と馬体の間を縫って引き寄せられたのは、ウエルス・マクホランと名乗った、この村の村長だった。おそらくは、自分の家のドアから外の様子を窺ってでもいたのだろう。
奇跡の乙女は、細腕の何処にそのような膂力があるのか、引き寄せキャッチした村長の首を鷲掴みにするや、吊し上げるように高々と捧げ上げた。
「ローラさんの父親だというから、見逃そうかとも思ったが……保身に走ったか?」
「ぐうっ、ロッ、ローラの遺髪と形見の品を届けに来たのは、もっと見窄らしい巡礼の女達であった筈っ!」
首を締められた村長は、歳の割には壮健なのか、乙女の腕を掴み、まだジタバタと足掻いていたが、ブロンドの乙女は岩の如く微動だにしない。
「あれは、認識阻害で作り出した仮初の姿、私達の正体を隠すための幻影に過ぎない」
小柄だが、これも絶世の美女といって過言ではない別の乙女がおもむろに口を開いた。どうやら森の民、エルフの末裔のようだ。
「マクダネル君よく聴いて、男が何かを乗り越える時には大きな悲しみが伴うことがある、でも悲しみそのものは無い方が絶対いいに決まっている、少なくとも君にとっては……私達はそう思っている」
一人だけ肌の露出の多いアーマーを身に着けた白い髪のエルフの乙女は、その肌のおそらく全身が微細な何かの紋様で覆われている。
しかもその紋様は刻一刻と肌の上を、まるで生き物ように休み無く蠢いている。あの恐ろしげなものは一体何だ……一体何だ?
我等の動揺を他所に、美しく怪しげなるエルフは続ける。
「君のお母さんだった人は、村の男共に身体を売るのをシノギにしていた、畑も一切耕さない母親に、君も薄々感づいていた筈だ、君を育てるためにお母さんはそういう道を選んだ」
「伴侶を早くに亡くしたこの村長も、そんな常連客の一人だった」
「……君のお母さんはもっと君に子供らしい生活をさせたかったのかも知れないし、ひょっとすると君のための学費を捻出するつもりがあったのか、度々小金をせびっていた善人面の村長にオンナを買った秘密をバラすぞと恐喝して、纏まった金をせしめようとした」
「脅され、人徳者の仮面を剥がされることを恐れた村長は、流れ者の男を雇って、お母さんを誘惑させた」
「酷なようだが、子を捨てて出ていく母親に落ち度が無いとは言い難い、だが村を出ていく刹那に騙されたことに気がついたお母さんは抵抗し、流れ者の男と争って殺されてしまった……これが、悲しい真実だ」
虚言に踊らされ馬鹿をみた我等の班員の誰もが、罪深い男を注視していた。
「ちっ、違う、わ、儂はただ、あれを連れ出してくれと頼んだだけで……うぐっぐぅ」
すでに土気色をした顔を歪ませ、最後まで抵抗を試みる村長の目はとうに光を失っていた。
すると、さして力を込めたふうでもなかったが断罪の女神は、女の手の平であっさりと、まだ容疑者でしかなかった村長の首を、まるでマッチ棒か何かのように、へし折った。
ゴキリッという不気味な音と共に頸椎を折られて、ちょっと前まで村長だったそれは、ビクビクと大きく痙攣した。
死相に変わる容貌を射竦めるよう見つめる、美し過ぎる死神の双眸には、酷薄なまでに強く、無節操なまでに情け容赦の無い、確かな意思があった。
野放しの悪意が罷り通る人の世を忿怒に染め上げる、怒髪天を衝く荒ぶる鬼神がそこに居た。
「ごらん、マクダネル君、これが人の死だ……許せる罪はあるかもしれない、それでも女を嬲る者をあたし達は裁かずにはおれない、あたし達が自分の不貞さ加減を恥じているが故に……こんなあたし達を聖女や女神呼ばわりしてはいけない」
死の恐怖からか弛緩のせいか、遺体は失禁と脱糞で汚れた。緩んだ顎からは鬱血した舌が飛び出していて、異臭が漂い始める。
断罪の乙女は、遺体をボロ屑のように投げ捨てた。
傍に屈む子供が、我慢していたにもかかわらず、身体を折って嘔吐していた。
無理もない。
戦場育ちでもない、まだ成人前の男子が初めて目にしたであろう人の死が、尊厳などの欠片も無い、ただ惨たらしいだけの私刑じみたものともなれば、あまりにも酷というものだ。
一番背の高い、これも神話に登場するような幻想的な美貌の持ち主で、長い睫毛が優しげな黒髪の乙女が、子供の背中をさすり、ヒールを掛けていた。
「受け入れ難い現実の落差に呑まれてはダメ、つらくても気をしっかり持ちなさい」
きつい励ましの割に、差し出す口を拭うための布にはまるで子供の母親か姉のような労りが籠められていた。
ことここに至り、私は意を決した。
敵うか敵わぬかではない、このような暴挙を見逃せば我等巡視隊のお役目は果たせず、法の番人としての存在意義は雲散霧消する。
「全員、捕縛陣形!」
サーの復命とともに、一騎当千の隊員達は馬を背後に押しやり、素早く怪しげな乙女達を取り囲む。
「……敵対すると?」
その手で村長を屠り、怒れる瞳にプラチナブロンドの映える娘が静かにこちらを見詰めてきた。
すでに抜剣した隊員達は、十重二十重に彼女らを囲んでいる。
「大人しく縛について欲しい、裁判権は国から委託された我等にある、取り調べもないまま縊り殺すのは許容できない」
「いいのか? 今日のあたし達は虫の居処が悪い、手加減はできないかも知れないから使い手揃いの優秀な隊員に人死が出るよ?」
「死を恐れていては辺境巡視隊は務まらぬ、貴女方の実力は計り知れぬが剣では遅れを取らぬと自負している」
「中華の諺に、“井の中の蛙、大海を知らず”というのがある、見識の狭さを説いたものだが……」
「没落したとはいえビターソルトは剣聖が家系、我が家名に掛けて退く訳にはいかぬ」
「先祖伝来が奥伝、一子相伝門外不出、精霊剣が秘太刀でお相手いたす、本気で参られよ!」
「…………ほ、ん、き、今本気と言うたか?」
「いいのか? それは師匠から譲り受けた髭剃りを、あたしに抜けということだぞ」
言い終わらぬうちに、左脇のホルスターから何か小振りの刃物が滑り出す。
私の動体視力を持ってしても、やっと捕らえることが出来る程の素早さで、まるで生きているかのように、自ら手に吸い付くように握られた得物は、剣戟のためにはあまりにも華奢に過ぎた。
「これを抜いた以上、ただでは済まぬ」
完全に見誤っていた。不思議な力は魔導士系のものと思ったが、この者の本質は我等と同じ剣士だ! それも数段格上の……
煌びやかな軽甲冑も、ただのお飾りなどではない!
構えられた二つ折りの剃刀と見受けられる刃先からは、奔流の如く凄まじいまでの剣気が放たれている。
これが見た目通りの、ただの剃刀である筈がなかった。
筈がなかった。
それが証しに、ただ自然体で立っているだけの女剣鬼の手許から、辺りは耐え難いまでに沈々と冷えていった。
心胆寒からしむるなどといった生易しいものではない、やればこちらが確実に全滅する……そう思わせるだけの、圧倒的で絶望的な力量差があった。
目の前の美姫は、最早戦神だった。
「臆したか? 膝が笑っているぞ」
言われて初めて気が付くが、どうやら我等一同竦んでしまったようだ。斬り結ぶ前に勝負は見えていた。
「待たれよ! 我等一同は退く、一同揃って討ち死にしてはお役目が果たせなくなるばかりか、末代までの恥晒しになる」
「そればかりは、避けねばならぬ」
「ほおぅ、随分と殊勝じゃないか……つまらぬ、敵わぬまでも手向かいしてみたらどうだ?」
そうは言ったが、娘戦神は鬼気迫る業物の刃先を納めてくれた。神域に達した超一流の、真の達人だけが持ち得る無意識の残心も、やがて消え失せる。
「家訓に曰く、勝てぬ戦はするな……と」
私は素直に、負けを認めた。極端な緊張に耐え切れず、配下の者の半数は立ち続けること叶わず、膝を屈して喘いでいた。
戦わずして負ける……そんな生涯初めての屈辱も気にならぬ程、私は恐れ慄いていた。
「……そうだ、卒爾ながら提案がある、あたし達はここにいる村から爪弾きにされている子を、一人でも生きていけるよう色々と育てている最中だ、剣の腕を磨き、相手が魔物なら、掛け値無しにオーガやミノタウロス程度は倒せるまでになった」
「ただ、剣の名人と試合ったことが無い、確かビターソルトはかつてのシェスタ七剣聖がひとつと記憶する、この子と手合わせしては貰えぬか?」
美しい戦神が交渉してきているのは、連れの年端も行かぬ子供と試合えということか?
成人と認められる15にも満たないだろう、この子と?
本当だろうか、こんな子供がオーガを狩ったとは?
「村八分同然のこの子だが、幾ら興味が薄い村人の中にあっても、ここで生きていかねばならない、あたし達が屍山血河を築かぬのもそれがため、残す遺恨は少ない方が良い」
「一手御指南頂きたい、さすれば此度がこと、双方相身互いであったと記録することを許す」
戦女神は、我等に相対するのとは全く別物の優しげな瞳で子供を諭した。
「行けそうだね? 教えを守ってよく立ち直った、君には酷なことは分かっていたが、何があっても生き延びるためにはこんな洗礼も乗り越えねばならない、君はこれから一人で生きていかなくちゃならないんだ、母親の愛情を望んでも、もうそれは手に入らない……強くおなり、マクダネル君」
踵を返してプラチナブロンドの武張る乙女は、透き通る声で凛と高らかに宣言した。
「あたし達の愛弟子、パーラメント・マクダネルがお相手する、そちらは剣聖の固有武技も魔装剣も使ってくれて構わない、存分に参られよ!」
お母さんが死んだ。
分かっていたけど、こうして事実を告げられると忘れていた悲しみが倍増するような気がした。
僕を捨てた母、それでも母親は母親だ。
以前、ステラ様が僕のうちの庭に植えられた西洋紫陽花を見て、丁寧に手入れが行き届いていると評された。
「君への愛情は薄かったけど、この花の手入れの仕方を見ていると悪い人ではなかったと思うの」
ステラ様は、そうおっしゃって下さった。
あんなに親切にしてくれた村長さんも、僕の母に群がっていた男共と同じ穴の狢だったなんて……そういえば、僕の家にジャガイモの他に時折、兎や軍鶏、古着なんかを運んでくるのは、決まってお母さんが居る時だった。
何故か僕は、そんな時は母に用事を言い使って半刻以上外に出されていたっけ。
人の死はこんなにも哀れで惨たらしいものだと初めて知った。お葬式なんかで棺に入れられた死者はエンバーミングを施され、皆んな穏やかな顔だった。
紫色になった村長さんの顔は、苦悶から飛び出た眼球が醜く充血していた。
ドロシー様が残酷に村長さんの遺体を投げ捨てるのに、やっぱり僕は我慢できずに激しく吐いてしまった。
駄目だ、駄目だ。こういう時は心を石にするって、戦場訓心得に教わっていた筈だ。
人は耐え難い動揺やショッキングな場面に自失する。闘う者は、それをコントロール出来なきゃいけないって、女神様達に教わっていた筈だ。
ステラ様に頂いたタオルで口を拭うと、僕は気持ちを切り替えるために教わっていた呼吸法で、今すぐ慟哭したい自分の感情を抑え込んでいた。
僕はもう大丈夫だ。
ドロシー様の提案で、巡視隊の隊長と手合わせをして貰えることになった。
気持ちの切り替えも済んだ。僕は万全だ。
無縁墓地に葬られたお母さんの棺を取り出して、後で僕の家の近くにお墓を作ろうとエリス様がおっしゃってくださった。
「君のお母さんを直接手にかけた男は、私の眷属が探し出してすでに罰した、普通では考えられない長い苦痛を与えて屠った、君は何も気に病まなくていい」
どうやら僕の母の敵討ちで、エリス様の御手を煩わせてしまったようだ。
「うん、そのライト・アーマー良く似合ってるわ、頑張るのよ」
ニッコリ笑うステラ女神様に勇気を頂いた。
新しく家の横に建てて頂いた錬金工房も兼ねた鍛冶小屋で、見取り修行にと打って頂いた両刃細剣と機動性に富んだ軽甲冑は、僕の成長に併せて、鎧自身がその大きさを変えるとのことだった。
また、両刃細剣は豪の剣を好めばそれなりの大剣に、柔の剣を望めば良く撓る薄刃の長剣へとその性格を変えて、僕と共に成長するのだとか……
「気をつけて、キャプテン! この小僧、信じられぬことにすでに隠し武技を纏っていますぞっ」
顎髭の濃い小父さんの騎士が、ハンサムな隊長さんに注意を促していた。
見破られた。僕の穏剣武技はまだまだだな。
「お願いします!」
僕は軽く礼を取って、抜剣するとすぐさま抜き身を後ろに引いて僕の身体で刀身が隠れるような片手脇構えになると、牽制するように左手を前に突き出した。
「異な構えだ、……私は十四代剣聖、シュバルツバルト・ルイ・ビターソルト、零落れたとはいえ武門の家系、技は隈なく引き継いでおる、お手前のような少年が相手となれば我が剣名に懸けて遅れをとる訳にはまいらぬ、お相手いたすゆえ参られよ!」
「僕の剣は女神様達に教わった、奇襲の剣、正攻法は何ひとつありません」
言うが早いか、僕は左手の平から無拍子で発勁を放っていた。
刮目せよ! 赤心大山発勁は岩をも穿つ。
その軌道は自在に曲がり、相手の防御を翻弄する。
同時に僕は一歩目の瞬動、二歩目の宿地で隊長さんに瞬時に肉薄していた。
低い体勢からギリギリまで刃先を相手から隠したままの必殺の摺り上げ、返す切り下げは討ち漏らしたときの二撃目として最後まで手抜きは無い。
隊長さんに、凌がれた。
発勁は剣で打ち落とされ(それなりの爆散で周囲を衝撃波が包んだが)、喉元を狙った切り上げは間一髪の見切りで躱され、打ち降ろしは合わせた鎬で防がれた。
「……正直、肝が冷えた、若いのにこれだけ使えるのは空恐ろしいなっ、こちらも全力で行かさせて貰う、ビターソルトが剣技しかと見よ!」
防がれた隊長さんの剣の鎬が押し返され、打ち合いに縺れ混むのに、僕はあらゆる奇手を繰り出した。
打ち合う中、僕はドロシー様達との修行を思い出していた。
「この大陸の、というかこの世界の剣術や武術は大抵は起承転結の四拍子か、序破急の三拍子から成り立っている、ところが異世界には五拍子の剣法というのが存在する、今から君が身に付けるのはこの世界にあっては初見になるだろう奇天烈な体術だ」
「正攻法糞食らえ、まやかし剣法上等だ、これをものにすれば君の前に多くの者が戸惑い、破れるだろう……無論、相手が魔物や乱戦ともなればその限りでは無いが、相手が達人であればあるほど君は無敵になれる」
「あたしが良く吹いているサックスの曲、あれが五拍子だ、これから修練するときは常にあの音色を思い浮かべるようにしなさい」
振るう両刃細剣を長巻の車輪のように両手で交互に持ち替え、回しながら、僕はドロシー様の演奏されるアルト・サックスの音色を思い浮かべていた。
受ける隊長さんの気配が一気に膨らむ。武技が来る!
鍔迫り合いで剣聖ビターソルトの息が顔に掛かるまでの間合いに踏み込んだときに、それは放たれた。
「武技、“咆哮”!」
どうやら、ハウリングのように相手の動きを一瞬凍り付かせる武技のようだ。
僕は五拍子の独特の浮身で、間合いを外し、放たれた相手の武技を打ち消しの武技、“水面”で迎え撃った。
来ることが分かっていれば、いくらでも躱せる。隊長さんの技の起こりは下策だった。躱された途端、発技に隙を作らざるを得ない。
(武技、“猛虎斬鉄波”!)
ドロシー様に教わったのは、武技を出すタイミングを絶対に相手に悟られてはならない、というものだった。
それはもう徹底している。技の中身を相手に知らせるように、言葉にするなど言語道断。
例え重心を崩し、両足が地に付いていなくとも、例えば瞬歩、瞬動で跳んでいる刹那でも出せるように徹底的に訓練させられた。
見えない斬撃波は剣折りの技……二連撃になっている初撃は気配があるが、続く次撃には気配が無い。
しまった! つい、ドロシー様達との打ち合い稽古のつもりで加減をしていない。このままでは、隊長さんの剣が折れると同時に首が飛んでしまう!
「それまで!」
ドロシー様が割って入られて救われた。僕の斬撃波はドロシー様の力で霧散させられていた。
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固まる意識を無理矢理に引き戻していた。
「……完敗でござる、お手前が打ち消してくれて九死に一生を得もうした」
剣は折られていた。戦女神殿が割って入らなければ、私の首は胴体と泣き別れになっていたであろう。嫌な脂汗が引かなかった。
世襲の家宝だった聖剣は、対魔族連合軍に接収されてしまったが、これも頑丈さでは類を見ない名剣だった。なのに折られた。
目に見えぬ斬撃をかろうじて受けた私は、二撃目に全く気が付いていなかった。続けざま同じ箇所への、間髪無い連撃を重ねて受ければ、如何な業物と言えど一溜まりもなかった。
「その子の剣、不思議なリズムだった、私でなくともその子には苦戦するだろう」
「ふふっ、でかしたよマクダネル君、でも人が相手のときは殺さないで勝ちを得れるようにならないとね」
3人の乙女達は、子供を取り囲んで、余程その子の勝利が嬉しいのか手放しで戯れていた。こちらのことなど歯牙にも掛けていない。
「さてさて、祝勝ついでに商売の時間といこうじゃないか、マクダネル君、与えた収納ポーチに軟膏は持ってきたかい?」
「はい、今朝ほど精製したエリクサー軟膏が30個入っています」
「よしよし……この人達は厄除けの結界で傷ついてしまったようだ、商取引は需要と供給、商いの第一歩だ、一人でやってごらん」
一瞬迷っていたかに見受けられた子供は、再び私の前に立った。
「先程は失礼しました、これから僕は、この村で錬金術と薬師で身を立てていこうと思っています、ここに僕が作った最高品質のエリクサー軟膏があります、深手の傷も見る間に直す効能は、魔道具で鑑定してあります」
「男前の隊長さん、軟膏の品質は保証します、試して頂いても構いません、見れば隊員の皆さんも傷だらけのご様子、僕の家の結界で傷付いたのであれば申し訳ないので本来一個50ルナールのところ、特価一割引で45ルナールでお譲りします、その代わりと言っては何ですが、人数分30個をお買い上げ頂けませんか? 任務の旅には、あれば重宝すると思いますが?」
「締めて1,350ルナールになります」
「驚いた、君は暗算ができるのか? 商人の才があるな……いいだろう、主計官、払ってやれ」
「お買い上げ有難うございます!」
ニッコリ笑って我等一同に軟膏を配って歩くのに再び驚いた。
てっきりピルケース程の入れ物かと思ったら、ポマード缶ほどもあるではないか、胸前に下げた薄いポーチに収まる量ではない。
子供の持つ収納ポーチは、貴重も貴重、国にも幾つも無いマジックバッグだった。
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引き上げる4人を引き留めた。
「もし、お待ちあれ、貴女は王都を放逐されたかつての大剣帝ドロシー・ベンジャミン殿ではあるまいか? 凱旋祝賀祭でお見かけしたことがあるのを、思い出して御座る」
「……確かに、そう呼ばれていた過去もあったが、民の罵声と共に追われた身、今は巡礼の真似事をする単なる流離人に過ぎぬ」
「名を明かしたついでに頼んでもいいか? そこに打ち捨てられた罪人、村長ともなれば村民が葬式を出すやも知れぬ、この子の母親が亡くなった直接の原因を作った下手人だ、死者を偲ぶ者共に送らせるのも業腹……このまま荼毘に付してはくれまいか?」
「うけたまわろう、うちのサーレス副班長と共に人知れず亡骸を燃やし、村人には向後固く口を噤ませる」
「あの男、副長だったのか、あのような成り上がりを役につけるとは王都の人事院の無能振り、世も末だな……、まぁいい、礼に一夜の宿を貸そう」
(ナンシー、“ホテル・ナンシー”開業だ、村はずれのあの森の辺りに再現してやって)
すでに夕暮れ時とはいえ、白金色に輝く鎧が眩しくて思わず目を窄めそうになるのを堪えながら、女神殿の指し示す方を望むと、そこには幻のように不思議な館が出現していた。
篝火だろうか? 建物が灯りに浮き上がっている。
看板のように文字が灯りでできていた。公用語の髭文字で“ホテル・ナンシー”と読める。
「異世界から移築した宿屋だ、本番開業用の優秀なスタッフが待機している、行けば案内してくれる」
そう言い残して、立ち去っていった。
「あぁ、そうだ、今度この子の家を訪ねるときは敵意を持たずに来ることだ、さすれば簡単に辿り着ける」
もう姿も見えなくなる頃、声だけが伝わってきた。
出てきませんね、怪物……結局、「レイク・ドノバン編」は3話になってしまいました
大山鳴動してネズミ一匹にならないよう、頑張ります
誤字訂正:肩身→形見(2020.12.24)
コート・オブ・アームズ=紋章の定義には諸説あるが概ね紋章が持つべき最低限の要件は、個人を識別できるよう全く同じ図案の紋章が2つ以上あってはならないことと、代々継承された実績を持つ世襲的なものであることの2点である/ヨーロッパを発祥とする西洋の紋章には紋様が描かれた盾〈エスカッシャン〉を中心として様々なアクセサリーが加えられているものも多く、これらの外部要素を含めた全体を紋章と呼ぶこともある
しかし、サポーターを始めとするアクセサリーは紋章発祥から相当な期間が経過した後になってから追加されるようになったもので、厳密には紋章〈コート・オブ・アームズ〉とは盾のことだけを指す
紋章を意味するコート・オブ・アームズの語に武器を意味するアームズ〈Arms〉という言葉が含まれていることからも、紋章とは元々戦闘用の盾であったことが窺える
エンバーミング=遺体を消毒や保存処理、また必要に応じて修復することで長期保存を可能にする技法で、土葬が基本の北米等では、遺体から感染症が蔓延することを防止する目的もある
腐敗や変化を薬液の注入により遅延させ、損傷部位を修復することで葬送まで外観や衛生を保つのがエンバーミングの役割
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