86:つまり全員自己中である
つい昨日書庫に用意された椅子と机の横、相変わらず床の上にその布の塊はあった。
国一番の学者であり王族である彼は布の中で日記と称された一冊の本を見下ろしながら考える。相変わらず自らには楽譜にしか見えず、しかしそれを楽譜だと解明した事ですら快挙だというのだから言語として修めることがどれほどに困難かは考えるまでもない。
それを凄いとは思うものの、顔を合わせた穏やかな男に対して期待外れだと思った事も確かだ。
冒険者と事前に聞いていなければ決して分からない程の品の良さは自らの兄弟たちと比べても劣らないどころか明らかに優っているし、穏やかな物腰は他人に不快感を与える事などまず無いだろう。ギルドと国の両方を立てながら自らの意見を通した手腕は見事で、誘い出そうとした此方の出鼻を挫くようにあっさりと接触を果たした。
その為にわざと分かりやすく動いたらしい事も気付いている。それは恐らく冒険者として王族と接触すると主張する事でサルスへ配慮しているだろう事も、ナハスからの報告を思い出せば理解出来た。
「でも、それじゃあ……つまらない、よ」
思うに、競う事を好まないのだ。
王族である前にアスタルニア国民、アスタルニアに住む者は誰しもただ頭が回るだけの人物について行こうなどと思わない。例えどれほど先を読もうと、それが面倒を回避する為だというのならば決して魅力は感じない。
自分に接触したいのならば何か意図でもあるのかと思ったが、先日の姿を見る限り意図はあっても決して好ましさを感じさせる野心などでは無いだろう。真剣な顔で本を吟味する様子はもはや王族など二の次で本が目的であると明らかに語っていた。
「でも、楽しみ」
競り合う事をかわした事に対する不満はあるものの、古代言語に対する興味は何年経とうと薄れる事は無い。
唯一手に入れた“雨”の単語を何度か口ずさむ。もうすぐ件の男がこの薄暗い書庫を訪れる筈だ、何を教えてくれるのか楽しみだと笑みを浮かべて木製の扉が開くのを待った。
『アリムダード。兄弟からは、アリムって呼ばれてる、よ』
先日、顔を合わせた際にそう名乗ったアリムの姿を歩きながらリゼルは思い出していた。
姿といってもその容姿は確認出来てはいないが。あの後ナハスに第一印象はどうだったと聞かれて三人で声を揃えて“布の塊”と答え彼を悩ませた通り、あの外見インパクトはなかなかに強かった。
とはいえ恐らく此方の動きの意図は言わずとも察しているだろうし意欲もあるしで、教える側からしてみれば随分と教えやすい相手かもしれない。
「誰かにきちんと何か教えるのは久々ですね」
「ガキ共に教えてただろ」
「あれはきちんとっていう程でも無いじゃないですか」
勿論適当に教えていた訳ではないが、時間がある時に聞かれたら答えていただけだ。わざわざ時間をとって、誰かに何かを身につけさせる為の教育となるとリゼルは元教え子以外にその経験は無い。
ちゃんと出来るだろうかと常の通りほのほの微笑んでいるリゼルに、王族に教育するという立場になっておきながら何故それ程に緊張感が無いのかと先導しているナハスは心から不安になっている。当然彼はリゼルがまさに王族の教育係であった事など知らないのだから仕方が無い。
初対面を果たした翌日の今日、何処かへ出かけたイレヴンを除くリゼルとジルは約束通り王宮を訪れていた。
「古代言語と言われても俺には良く分からんし、頼まれたものは準備したが正直ぴんと来なくてな……他に必要なものは無いか?」
「はい」
穏やかに頷いたリゼルは、一風変わった王族相手でも上手くやるだろうと思わせる。
恩を売ろうとがっつくようにも思えず、教える立場だからと高圧的に出るようにも、また変にへりくだるようにも見えないので反感を買う事は無さそうだ。ナハスもそこは心配していないが、それでも頼まれた事といい何か変な事をやらかすのではと思ってしまうのは自分が偏見を持ってしまっているからだろうかと思わず悩む。
どちらにせよ嫌いな相手には関わろうとも思わないリゼル達だ、王族とはいえ顔も見せない相手だったにも拘らず特に不快にはならなかったようで何よりだろう。見る限りアリム本人も喜んでいるようだし問題は無さそうだ。
「うちの王族は気にしない方ばかりとはいえ、くれぐれも度を超えた不敬を働いてくれるなよ」
昨日も散々注意されたが、何故それ程に信用が無いのだろうか。
リゼルは可笑しそうに笑いながらも素直に頷いた。これでもナハスが此方を心配して言ってくれているのは分かっている。
昨日と同じように明るい庭沿いの通路を過ぎ去り、角を曲がって日が入り辛くなっている個所に壁に埋まる様に存在する階段を下りる。木製の大きな扉は相変わらず静寂と共に其処にあった。
そしてナハスを先頭に書庫へと足を踏み入れる。窓一つ無い部屋は相変わらず外から入ると薄暗いものの、慣れてしまえばそれ程でもない。
「殿下、お連れしました」
「あ、来た、ね」
書庫の丁度真ん中、ぽかりと丸く空いた空間には先日まで無かった机と椅子がある。
書庫の雰囲気を壊さぬそれらを好ましげに見て、リゼルは椅子があるにも拘らず床に座るアリムを見下ろす。座っていると中に入っているその姿は少しも見えない。
リゼルは彼に歩み寄るが、ジルは近くの本棚に背を凭れて腕を組み目を閉じてしまった。元々何をしに来た訳でも無い。
「今日から宜しくお願いします」
「う、ふふ。よろしく、ね」
微笑むリゼルに、布の塊の頭だろう部分がもぞりと動いた。恐らく机を向いたのだろう。
「椅子、座ったほうが良いの、かな」
「出来ましたら。二人床に座って顔を合わせているのでは勉強らしくないでしょう?」
「アナタは、座ってて良い、のに」
「王族の方より高い位置に座るなんて畏れ多いですよ」
それもそうかと机へと向かうアリムを見ながら、もはや古代言語にしか意識が向いていない事を除いても素直なことだとリゼルは笑みを浮かべる。
なにせ元教え子は大人しく机に座って勉強するまで一月かかった。逃げるなら仕方無いと放置していたらその内ふてくされたような顔で机から逃げなくなったのだが、一歩間違えれば正直リゼルが教育係としての義務を果たさず怠慢していると言われても仕方が無かったかもしれない。
最終的にきちんと教育を受けて貰えたんだから結果オーライ、と内心で頷きながらリゼルも許可を貰い向かい合う位置に着席する。
「建国祭のパレードの時も思いましたけど、アスタルニアは音楽に馴染みの深い国ですね。とても助かります」
エキゾチックな衣装と踊り、そして軽快かつ重厚な太鼓の音を思い出しながらリゼルはそう告げた。元々賑やかなことが好きな面々ばかりという事もあり、実際に国を歩いていると軽快な音楽が聞こえてくる事も多い。
アリムはその言葉にこくりと頷いた。とにかく古代言語は音楽との関わりが深いばかりかそのものと言って良く、もし音楽になど一片の興味もない学者ならば古代言語の本を手に入れようと言語どころか楽譜だとも気付けない筈だ。
「式典の度に、聞いてる、よ」
「それ以外では?」
「それ、以外」
ぽつりぽつりと低く甘い声を疑問に染めたアリムにリゼルは微笑みながら問いかけた。
しかし布の塊を目の前に話すというのは奇妙な感じがする。まるで置物と話しているようだ、と特にやりにくさを感じてもいない癖に思いながら先日借りたばかりの本をとんとんと机の上に並べ始めた。
並べられた本はどれを見ても古代言語には全く関係の無い普通の音楽に関連する本ばかりだ。数十冊にも及ぶそのほとんどが楽譜であり、宮廷音楽家達も利用する王宮内唯一の書庫なだけあって様々な種類の楽譜がある。
「昨日ざっと目を通して来たんですが、やっぱりこの国らしい賑やかな曲が多いですね」
もちろんそれだけじゃ無いですけど、と告げるリゼルをアリムは不思議そうに見た。
古代言語に音楽が関係があるのは分かっている。しかし自分は既に楽譜だけで言えば完全に把握しているし、後必要なのは意味や文法だけであって今更音楽が必要だということは無い筈だ。
リゼルが本を並べ終え、そして最後に一枚のメモを取り出す。良く見ると用紙に少し斜めだが美しい字が綴られていて、恐らく読んだ本の中から抜粋しただろう何十曲かの曲名が書かれていた。
「分かりやすい曲を選んできたので、しばらくはこれをひたすら聞いて貰おうと思います」
「え」
「でもやっぱり賑やかな曲が多くて……なので、今度アスタルニアに来ている劇団の演奏者を借りられるか交渉してきます。公演が終わって夕食の後、いつも二時間練習しているって言ってたのでその時間に王宮まで来て貰って雰囲気のある曲を」
「待って、聞けるようになる前に、言葉として知りたい、のに」
流れるように話を進めていくリゼルを思わず止める。
多種多様な曲を聞かせようというからには実際に音楽を耳にする事が大切なのだろうが、その意図がまるで分からない。実際に古代言語を聞けて話せるようになれ、というには随分と色々な工程を抜かしている。
それが分からないような人物には見えないし、わざわざ事前に準備までしてくれたのならば己に必要な過程だというのも理解しているが、早く本題に入りたいというのも本心で。
「どうして」
それが出来ないというなら、理由が知りたい。
実直に聞いてみたアリムを見て、リゼルはさてどうしようかと苦笑した。年上の王族相手に物を教えるのは何分初めての経験なので、気にするような相手には思えないもののどこまで口に出して良いものか迷ってしまう。
ただ礼儀作法についてはそこまで徹底していない。冒険者として王族に接するならば余り丁寧過ぎると逆に浮くかもしれないと思っての事だが、元々その雰囲気と言動からどうしても冒険者には見えないのだから意味を成しているかは不明だ。
こいつこういうのに関しては空回るなぁ、とはジルの談。
「貴方がこれを楽譜と称す所まで来たのなら、音楽についての教養があるのは俺も理解しています」
「ん、それで」
「でもそれだけじゃ、楽譜が読めて時々耳にするだけじゃ古代言語を読み解くのは難しいと判断しました。殿下の場合、演奏の経験も無いようですし」
理由を聞いてもそれが古代言語の理解に関わるとは思わない。
古代言語で書かれた楽譜を歌ってみることも出来るし、それで充分では無いのだろうか。
それは反感でも抗議でもない、ただの純粋な興味だ。何故それだけでは足りないのかという純粋な疑問に過ぎない。
「じゃあ少しだけ、古代言語をお教えしてみましょうか」
「うん、そうして、みて」
自ら準備した指導方法に横槍を入れられたようなものだが、苛立ちも戸惑いもせず穏やかな声で告げたリゼルに頷きながらも酷く冷静な男だと納得する。予想をしていたのか、していなくともこうなのか。
最初から教える側の優越も傲慢も少しも感じなかったのだから教える立場としては優秀すぎる程に優秀だろう。冒険者なのに、と全く忘れていた事実を思い出しながらアリムはいそいそと昨日からずっと手元に置いている本を机の上に置いた。
古代言語で記された女性の日記だ、向かい側から伸ばされたリゼルの指がアリム側に向けられた本の適当なページを優しく開く。
「この日、彼女は山菜摘みに森へと行ったようですね」
本を開いた指が、そのままページの上を滑った。
アリムには紋様を楽譜に直す事しか出来ないが、確かに数節をなぞっているのでその部分が山菜摘みか森かなのだろう。望んでいたものを与えられた喜びにゆるりと目を細め、紙の上を滑る指先を布越しに目で追う。
「これが、“森”です」
とん、と幾つかの音を指差した指先が同じページの違う個所へと向かう。
「そして、これも“森”」
「…………ん、でも、これ、最初の音が」
「違うでしょう?」
言い聞かせるように微笑んだ相手に頷いてみせた。
同じ単語だというのに音が違う。いや、そもそもそれだけ単純ならば自分はすでに解読出来ていた筈なのだ。
「前の音と綺麗に繋がらないから変えているんです。次に、これも“森”です」
「全然、違う、ね」
「最初の“森”は気分良く出かけたのもあって抑揚ある音色でしたけど、これは目当ての山菜が獲れなくて落ち込んだ状況での“森”なので平坦な音色になっています」
テンションが高い時に声が弾んでしまうように、落ち込んでいる時に声から力が抜けるように、古代言語は音色にそれが現れる。状況により音は変わり、音の流れで音色は変わり、時には決まった法則など無く何より音色を重視する為に会話を交わす時には相手の返答によっても美しい曲となるよう変化していく。
相手の気持ちを汲み、状況に合わせて曲調を変化させ、今人々が自然と言葉を交わすように過去古代言語はあまりにも自然に交わされていた。
実は聞いていたジルは思う。
「(心底面倒臭ぇ)」
後ろで待機していたナハスは思う。
「(全く理解できん)」
じっと本を見下ろしていたアリムは言う。
「だから……うん、分かった、よ」
とにかく様々な曲を聞けというのは、完成された音色の形に慣れろという事だ。
美しく音色を奏でるにはどう繋げば良いか、どの感情を持ってその音色は紡がれたのか、だからこそ陽気な曲だけでなく人々の感情を反映するような様々な曲が必要だという事なのだろう。
「その劇団員、良いよ、連れて来て、ね」
「団長さんから了承を頂いてからですけどまず大丈夫だと思います。劇団だけあって状況別や感情別の曲を多く扱っていますし、とても良い参考になりそうですよ」
にこりと笑いながら告げるリゼルに、ジルはほぼ記憶に残っていないヴァイオリン演奏者へと微かに同情した。恐らくあの団長は宣伝になるし度胸も付くし王族に顔も売れるしで行って来いと無慈悲に彼を追い出すだろう。
「演奏の準備は副隊長さんに頼んで済ませて貰いましたし、今日から早速始めましょう」
「楽師達は東の間で準備を終えている筈です、殿下」
「そうだ、ね。此処を出るの嫌だけど、仕方無い、か」
アリムの言葉通り、彼がこの書庫から外に出る事は滅多に無い。余りにも出たくない為に隣に部屋を作らせて生活スペースを整えた程だ。
そんな彼が出歩けば多くの兄弟姉妹達が大騒ぎする事を思うとナハスも正直出て欲しく無いが、まさかこんな書庫に楽師達を詰め込む訳にもいかないだろう。後から王宮に入れるよう手配しなければいけない劇団の演奏家とやら一人ならば可能だろうが。
そうかその手配もしなければいけないか、としばらく触れ合えない相棒に思いを馳せる。何と言うか、いつの間にか自分がこの件の担当になっているのは何故なのかが割と真剣に知りたい。
「楽譜はあった方が分かりやすいでしょうか」
「そう、だね。貰う、よ」
「紙が挟んである所が選んだ曲です。曲の解釈やイメージを意識して聞いて下さいね」
「ん、有難う。ナハス、運んで」
遠い目をするナハスを見もせず、ゆるりと布の塊が立ち上がる。
リゼルも送り出すように腰を上げ、やはり背が高いと思いながら横を通り過ぎて行こうとするアリムをふいに呼び止めた。
布の塊はリゼルの前でぴたりと止まる。どちらを向いているか分からないが恐らく此方を見下ろしているのだろう、何故布越しに見えるのかと考えながら微笑んで問いかける。
「終わるまで、ここで本を読んでいても?」
「ごゆっくり、どうぞ」
うふふ、と棒読みすぎて笑い声には聞こえない笑い声を零したアリムは、礼と共に微かに頭を下げたリゼルを見て笑みを深めた。布を割って褐色の肌を持つ腕が現れ、その指先がトンッと下げられたリゼルの肩を押す。
幾重にも重ねられた布の一枚がするりと横にずれて、中は見えないままだが彼が小さく首を傾げたのが分かった。
「あなたが望んで、おれが与えた報酬に、今更礼は必要無い、よ」
何が望みかと問われ書庫の利用を望み、それを了承したのはアリム自身だ。読書の権利は目の前の穏やかな男のものになっているのだから礼の必要は無い。
とは思いつつも、それで当然のように自ら揃えた蔵書の数々に無遠慮に手を伸ばされてはやはり不快かもしれない。そんな勝手な事を思いながら再び笑い声を零し、ゆるりと肩を押して相手の姿勢を正した指を離した。
「好みが合えば、良いん、だけど」
布の中に腕が完全に隠れると同時にアリムはゆるりと歩みを再開した。
そのまま書庫を出ていく姿を見送り扉が閉まるのを確認したリゼルは、じゃあ早速とばかりに近くの本棚へと歩み寄った。雑多に並べられた本棚の海は適当なように見えて書庫の主が読みやすいよう配置されていて、この中心付近にあるものが好んで読むか良く参考にする資料なのだろう。
ざっと本棚を眺めて興味を引く本が何冊もあるのを確認する。好みが大きく外れていないようで何よりだと微笑み、何冊かを手に取って机へと向かう。
「……お前が言うからには一番有効な手段だとは分かっているが、読書の為に殿下を他に任せっきりにした思惑が少しでも無いと俺の目を見て言えるか?」
「否定は出来ません」
「真っ直ぐな目でこちらを見るな!」
何だか理不尽なことを言われた気がする、と思いながら席に座ったリゼルの前でナハスがひたすら楽譜関係の本を重ねて持ち上げた。視界を覆う程に積み上がる本を持ち上げておきながら余裕のある姿に、流石アスタルニアが誇る魔鳥騎兵団だと頷く。
「まぁ良い、この部屋から出るなよ。俺が戻ってくるまで本を読んで大人しくしてろ」
「はい」
「お前らは本当に返事だけは良いからな……」
心配しているのか警戒しているのか。役職的には後者であるべきだが前者の雰囲気を漂わせながらナハスも書庫を出て行った。
書庫に残されたのはリゼルとジルの二人のみ。部外者を二人にして良いのかと思うが、警戒が必要な相手ならばそもそも王宮に入れていないという判断なのだろう。
アスタルニアの王族は自衛ぐらい出来るというし、そこら辺が関係しているのかもしれない。そもそも一刀相手に見張りがついていようがいまいが同じ事か、とリゼルは本棚に凭れて扉へと視線を向けているジルを手招いた。
「ジルも座りましょう。はい、君の分です」
「ん」
先程までアリムが座っていた席の隣、リゼルの斜向かいに腰かけてジルは差し出された本を受け取った。
相変わらず読書に然して興味が無いジルでも決して退屈せず、暇つぶしには充分になる本を選んでくる。好みらしい好みを口に出した事は無いが良く分かるものだと肘をつき、背もたれを使用しない手本のような姿勢で本を手に取るリゼルを見た。
「お前、自分の国王以外の王族にもちゃんとすんだな」
「当たり前じゃないですか」
本へと落とされかけた視線が此方を向き可笑しそうに笑うのを見て、それもそうかとジルは内心で頷いた。公爵で宰相という国の頂点に一番近い地位に居たのならば外交で余所にも向かうしその度に他国の王族と顔を合わせる事もあるだろう。
盲目的にならず、それでも唯一人を頂点に置きながら他者にも敬意を払える。その何者にも囚われない思考がリゼルの強みでもあるだろう、だからこそ広い視野と深い思慮を持って行動できる。
「今回、分かりやすく接触したのはサルスの事もあんだろ」
「イレヴンも言ってましたけど、俺っていつもそんなに分かりにくいですか?」
微笑むリゼルに目を伏せながら溜息をつく。
分かりにくいも何も、全て終わってから彼の意図を汲む事が出来ることも少なくない。わざわざ隠そうとしている訳では無く、余りにも自然に行うからこそ気付けないのだとは分かっている。
気付こうが気付くまいが、恐らく自分のやる事に違いは無いのだろうから気にはしないが。
「そこまでサルスがこっちを気にかけんのか」
「どうでしょう、取り敢えずヒスイさんには接触したみたいなんですけど」
嫌そうに微かに眉を寄せたジルの視線の先では、髪を耳にかけながら既に本へと視線を落としているリゼルがいる。しかし本を読もうと会話に興じる事など余裕だと知っている為に何も気にせずジルは話を促した。
「どっから」
「精鋭さんが手土産にって持って来てくれました」
ヒスイらのパーティは予定通りサルスへと向かい、どうやら今も滞在を続けているようだ。元気そうで何より、と言いながらリゼルは先日の夜に聞いた話を思い返す。
接触したのは国の上層部。それもそうだろう、あの大侵攻にサルスの要人が関わっていたなどという話を知っている者など極一部しか無い。許されない。
Sランクパーティに、というよりはリゼル達に唯一接点があったヒスイが目的だったのか。Sランクともなればお偉方と付き合う機会も多い事もあり、ヒスイ達に特に動揺は無かったようだ。
接触を予想出来ていた、というのもあるだろうが。
「サルスに行って変なこと聞かれたら何でも話して良いですよって言ってありますし、上手く流したみたいですね」
「お前あいつに得物割れてんだろうが」
「ヒスイさんは言わないですよ」
リゼルの言葉は事実だ。精鋭が詳細に知りえない会話の中で、ヒスイはリゼルの事を魔法使いだと告げている。
それは彼の中でサルスとリゼルを天秤にかけた結果であり、どちらを敵に回したくないかという結論であった。純粋に冒険者としてパーティの利益を考えた末の答えだ。
そもそもサルス側は王都側と同じく、リゼル達が元凶の正体を知っているかも定かではない。下手に突っ込んだ質問をして墓穴を掘る訳にもいかなかったのだろう。
そのため接触は何の問題も無く、ヒスイは噂の一刀に対する好奇心を装った質問に対していつものやや不機嫌そうな表情を隠しながら答えていただけに終わった。
「敵意は無かったみたいですし、一応警戒しておくってだけだと思います」
「その警戒にわざわざ手ぇ振り返してやんだから親切だな」
「そうでしょう?」
サルスに行っても問題なさそうだったかな、と何か考えているリゼルへとジルは呆れの混じった視線を向ける。その親切も、書庫を利用したい片手間だというのだから彼の優先順位は相変わらずはっきりとしている。
結局のところ、楽しそうなら何よりだと肘をついたまま本を眺め始めるジルも優先順位のはっきりした人間なのだから人の事は言えないだろう。
そんな日々が数日続いた。
アリムは布の塊のまま書庫を出て奏でられる音色に耳を澄ませ、リゼルは一人黙々と本を読み、ジルとイレヴンは大抵入れ替わるようにどちらかが付いて来て暇そうに過ごす。案の定話を持ちかけたら大喜びで自らの団員を売り渡した団長により、劇団員であるヴァイオリン奏者は夜になったら緊張に震えながら王族へと自らの腕を披露していた。
ちなみに彼は毎回書庫で弾いている。せめてリゼル達見知った顔が見える所にいないと緊張しすぎて死ぬと真顔で告げた為に許可されたが、団長にはチキン野郎という罵声と共に盛大な舌打ちを喰らっていた。
「んー……」
そんなやや遠くからヴァイオリンの音色が響く中で読んでいた本をつまらなそうに閉じ、イレヴンは凝った首を解すように首に手を当てて背を反らした。然程高く無い背もたれからはみ出た背中がぐっと後ろに倒れる。
よく椅子ごと後ろに倒れないものだとリゼルは苦笑し、今日になって暇すぎたのかようやく一冊の本に手を伸ばしていたがやはり暇は潰せなかったようだと開かれたままの本を隣の席から手を伸ばして引き寄せる。
表紙には“罠読本”と簡潔な文字で綴られていた。中にはイラスト付きで分かりやすく様々な罠が解説されており、簡潔なものからえげつないものまで多種多様な罠が掲載されている。
「つまらないですか? ほら、この罠なんてイレヴン好きそうですよ」
「良いけどさァ。載ってるって事は一回誰かが考えてるっつうか、予想出来ねぇから罠なんじゃん」
成程、言いたい事は良く分かるとリゼルは頷いた。
退屈ならば一人で来るから良いのに、とイレヴン達の気遣いを無駄にするような事は思わないものの何か上手く暇を潰してあげられればとは思う。
リゼルにとっては至福である本の山も、人々の心を惹きつけるヴァイオリンの音色もイレヴンにとっては何も意味が無い。それでも付いて来てくれた事を褒めるように、体勢を戻した事で少し顔を覆ってしまった鮮やかな色の髪を撫でるように避けてやる。
そして流し見ていた一冊の本を閉じた。最後まで簡単に目を通したものの、特に興味を引く内容では無かったので読み込もうとは思えない。
「次の本、探して来ますね」
「んー」
今まで読んでいた何冊かの本を抱え、微笑んだリゼルにイレヴンはひらりと手を振った。
そしてつまらなそうに背もたれに背を預ける。少し仰け反る様に覗きこんだ本棚と本棚の間では、リゼルが持っている本を全て片付ける前に気になる本を見つけてしまったのか器用に片手で本棚から抜いて読み始めていた。
「聞いて、良い?」
ヴァイオリンの音しかしない空間に、ふいに甘い響きを持った声が落ちた。
常人ならば聞き間違いかと思ってしまうような音量だがイレヴンにははっきりと届く。先程までリゼルが座っていた席の向かい側で置物の如く鎮座していた布の塊に一瞬だけ視線を向け、しかしそのまま返事をせずに外した。
二人の間に沈黙が落ちる。通常ならば居心地が悪いはずの沈黙は、しかし両者が欠片も気にしていない事も相まって先程と変わらない空気が続くだけだった。
「何で、彼に、ついて行ってる、の」
アリムは気にせず言葉を続けた。
相手が此方を見てもいない事など知っているし、聞く気が無いどころか全くの無関心である事も知っている。しかし聞こえている事も知っていた。
「彼は凄い、ね。知識が広い、だから教え方も上手い、でも、冒険者のあなたがついていく理由には、ならない」
学者から見てみれば知識人でありそれでも尚学ぶ事を止めない優れた人物だ。
しかし冒険者から見れば違うだろう、冒険者が付いて行こうと思えるような人物像とは真逆と言っても良い。普通ならば長所に上げられる穏やかさも、知性も、気品でさえ人としての格は上げるものの冒険者が自らの頭に据えようと思えるとは思えない。
それがずっと不思議だった。確かに彼が戦っている所など見た事は無いが一刀や目の前の獣人より強いという事は無いだろうし、良く回る頭が必要だとしてもリーダーじゃなくて普通のメンバーで良い筈だ。
「彼には、あなたたちが必要かもしれないけど、あなたたちに必要とは、思えない、よ」
競う事を避け、安穏を望むならば尚のこと。
「ね、聞いて、良」
「……ッぜぇな」
言葉を遮る様に零されたのは酷く退屈そうな声だった。
相変わらず此方へと向けられない視線は本棚へと向けられている。どうやら話の中心人物は未だに手に取った本から視線を外せないようだ。
しかしイレヴンの視線がふっと本棚から外れる。それで容易くリゼルが本棚の森の奥地へと姿を消してしまったのだと分かり、アリムはヴァイオリンの音色から意識を外さないようにしながら答えを貰えるのだろうかと布の中で開いていた楽譜をパタンと閉じた。
だがイレヴンの言葉はそれ以上続かなかった。再び退屈そうにパラパラと本をめくる作業へと戻ってしまう。
「どうして?」
パタン、と表紙が紙面に落ちる音がした。
見るとイレヴンがやはり退屈そうに本の表紙を見下ろしている。その視線が此方を向いたのは、ただ偏に暇つぶしにはなるだろうという意図だとアリムにははっきり分かった。
それで構わない、疑問が解けるのならば。
「逆だろ」
「逆」
「俺らにはリーダーが必要で」
肘をつき、頬杖を付きながら余った片手がとある方向を指差した。
アリムには本棚しか見えないが何個か本棚を隔てた先にはリゼルがいるのだろう。その差し出した指が動かない所を見る限り再び本棚の前で立ち止まっているようだ。
「リーダーには、俺らが必要無ぇだけ」
その指がイレヴン自身へと向けられ、トンッと喉元を叩く。
アリムがイレヴンの言葉を理解するには数秒が必要だった。国一番の学者と称される彼が他者に言われた言葉で理解が出来ぬものなど今まで一度たりとも無かった筈が、しかしイレヴンの言葉の真意はどれ程頭を回転させようと掴む事が出来ない。
少しも見えない表情にも拘らず、しかしアリムが何を思っているのか分かっているかのようにイレヴンは嘲りを隠さず笑みを浮かべた。
「分かんねぇなら語ってんじゃねぇよ雑ァ魚」
受けた事のない罵倒を、しかし気にする暇などなく言葉の意味を追う。
少し調べれば簡単に名前が出てくる程の知名度を誇る一刀や、いかにも癖が強くそれが許される実力を持つ獣人が必要無いなどと。まさか必要無いことは無い、筈だ。
「彼は、あなた達がいないと、絶対、困るんじゃ」
「困んねぇよ」
しかしイレヴンは断言する。
「大侵攻を止めんのも鎧鮫食うのも、アノ人は俺らがいなくてもコナす」
「そんなに、強くは見えない、けど」
「そこそこだけど強くはねぇんじゃねぇの」
けれどリゼルは目的を達成する。
ジルやイレヴンがおらずとも大侵攻は止められる。周囲を動かし、元凶を誘導し、ジル達がいる時よりは犠牲も出るし方法も変わるだろうが彼自身には余裕があるままに。
鎧鮫も同様に、手段を変えて彼は誰も思い浮かべぬ一手を打って達成して見せるだろう。ジルもイレヴンもそう思っているし、恐らくそうなのだろうと確信している。
「だからリーダーに俺らは絶対必要って事は無ぇ」
「じゃあ、何で彼はあなた達を……違う、あなた達は何で、彼を」
まだ分からないのかとイレヴンの瞳孔が獰猛に細まった。
ヴァイオリンは未だ響き続けている。その音色はまるで静かに煮え立つ歓喜のようだった。
「必要無ぇのに欲しいとか、最ッ高だろ」
頬杖をついた手で、笑みに歪みきった唇を隠すように告げられた言葉にアリムは目を見開いた。大きな隙間を開ける指と指の間からは隠しようも無く歓喜を浮かべる口元が見え、イレヴンの言葉が真実だと告げる。
必要が無いのに欲しい、つまりそれはそれ程に存在を求められているという事だろう。何の役にも立たない物を欲しがる理由など一つしかなく、その存在に焦がれる程に心惹かれているからに他ならないのだから。
実際そこまでとはイレヴン自身も思っていないが、欲しがられたのは確かなのだから何の問題も無い。
「必要無ぇけど俺らがいりゃリーダー楽だし、俺らも欲しがって貰えるしで利害は一致してんだよ」
それは今までの張りつめた空気に似つかわしくない緩い利害の一致だった。
もっと明確なメリットがあるのかと思った。しかし彼らにとってはそれだけが重要で、それだけが絶対なのだろう。
緩いからこそそれ以外に関しては酷く自由。例え慕っている相手だろうと、何かしらの些細な制限さえ厭うある意味誰より自己中心的な二人にとっては何より居心地の良い空間なのかもしれない。
「そもそも必要だとか言われてもうぜぇだけだろ。正面から利用しますって言えねぇからキレーな言葉に変えてるだけだし殺したくなる」
「あなたが、とてもひねくれているのは、分かった、よ」
そして縛られるのが嫌いな事も、と付け足したアリムを既にイレヴンは見ていなかった。
どうやら気紛れは終わったようだ。もう少し話を聞けないかと呼びかけても鬱陶しげに机を蹴られるだけに終わった。
その数分後、片手に抱えられるだけの本を抱えて戻ってきたリゼルが椅子へと座るのを眺める。イレヴンの話はつまり、彼に求められる事がそれ程に価値のある事だと言っていた。
恐らくそれは求められなければ分からない感覚。頭が回るだけの人、という評価は取り消さなければいけないかもしれない。
「うふ、ふ」
小さく零した笑い声は、リゼルに終了の時間が来た事を告げられ盛大に安堵の息を吐いたヴァイオリン奏者に掻き消された。




