65:早く帰れと言いに来る
ひどい頭痛がする。気持ち悪い。外を見ようと首を捻っただけでめまいがする。
全身にダルさが伸しかかり、ベッドの上で肘をついて体を起こすことも満足に出来そうにない。
全く記憶は無いものの、覚えのある症状にリゼルは“ああ、やってしまった”と静かに吐息を零した。
記憶は酒場でイレヴンと合流してから途切れている。何かを企むイレヴンに気付かない筈が無く、ならばマスターが共犯だったのだろう。これでイレヴンが飲ませようとしていたならば気付くがそんな素振りは無かった。
「(マスターもこれ以降は承諾しないだろうし、安心して良いかな)」
しかしイレヴンには少々お灸を据えた方が良いだろうか。
リゼルは寝転がったままでぐだぐだと色々考えていたが、ふいに喉の渇きを覚えて思考を止める。
今は何時だろうか。遅くまで寝ていると声をかけに来る女将が来ないのならそれ程遅くは無いのだろう。
特に何の予定も無いし、もう少しゆっくりしていようかなと思いながらサイドボードを見た。
「ん……」
ごろりと寝返りをうつだけで襲うめまいに頭をクラクラさせながら、リゼルはサイドボードの上に載っているガラスの水差しとグラスを見つめる。水差しの中には氷と水が入っており、一目で冷えているのだと分かった。
欲しい。でも動きたく無い。でも欲しい。じっと見つめてみるものの動いてくれる筈は無く、諦めてなるべく頭を揺らさないようにゆっくりと起き上がった。
「痛……」
波打つように痛む頭を押さえる。
何だか過去二回の経験より痛みが酷い気がするが気の所為だろうか。もしかしたら酔ってからも飲み続けていたのかもしれない。
こればかりは慣れないし、これもあるから飲まない様にしようと思っていたのにと一人苦笑しながら少しだけ落ち着いた痛みに押さえていた手を離す。とにかく水が飲みたい。
ベッドに腰かけながらグラスに手を伸ばしかけたリゼルをノックの音が遮る。現れたのはジルだった。
「おはようございます」
「ああ。お前顔色が病人だぞ」
「すごく頭痛いです」
「下戸の癖にあんな飲み方するからだアホ」
「あれ、ジルも酒場に来てたんですか?」
そう言われる程に飲んでいたのかと思いながらリゼルは冷水の注がれたグラスを受け取った。喉を通る冷たい水が心地良い。
平然とそう言ってほうっと息を吐いたリゼルを見下ろしながらジルは訝しげに微かに眉を寄せる。
「……本当に何も覚えてねぇの」
「すみません、何か迷惑かけました?」
「迷惑じゃねぇけどひたすら厄介だった」
じっとリゼルを見下ろし、とぼけている訳では無さそうだと溜息をついた。
良くもあれ程にインパクトのある事を忘れられるものだ。インパクトがあったのはリゼル自身なので本人は覚えていなくても無理は無いかもしれないが、何か釈然としない。
血の気の引いた白い顔を一瞥し、窓辺へと歩み寄り窓を開ける。リゼルは遅く無いと判断したが、外から届く太陽の光とざわめきの声が人々が活動を始める時間をとっくに過ぎていた事を知らせていた。
恐らく女将に起こさないよう言ってくれたのも寝ている間に水を持って来たのもジルなのだろう。昨晩からどうやら世話をかけているようだ。
「何だかすみません」
「別に。お前が悪い訳じゃねぇし」
苦笑しながら言うと当然のようにそう返される。
厄介などと言いながら何だかんだ優しい。そう思いながらまだ少し水の残るグラスをサイドボードへと置いた。
「ちなみにその厄介ってどんな感じでした?」
「聞くな」
「少しだけ。何処が厄介だったかだけでも」
「……真逆なとこじゃねぇの」
投げやりな返答に目を瞬かせる。
元の世界では、父は“別に変な事は無かった”と笑っていた。元教え子はニヤニヤしながら“真逆だ”と言った。そして今ジルは色々含んだ苦々しい顔で同じく“真逆だ”と告げた。
一体酔っている間の自分はどうなっているのか。気になるが体調が絶不調な今、再びこんな思いをしたいとは思わない。
ゆらゆらと揺れている感覚にこれは駄目だと再び痛みだした頭を押さえる。
「食欲は」
「いえ、全く」
「なら寝とけ」
低く少し掠れた声に押される様にリゼルは体を横たえた。
深く息を吐き目を閉じる。眠気など少しも無かったが途端に薄れる意識が少しだけ心地良い。
眠りに落ちる寸前、毛布が肩まで引き上げられるような感覚がしたが口にした礼の言葉は果たして声になったのだろうか。そう疑問に思うよりも少しだけ早く思考は失われてしまった。
顔色は良く無いものの表情だけ穏やかな寝顔を見下ろしジルは溜息をついた。
自らは二日酔いとは無縁だが、多少の不調は流して隠し通すリゼルが表に出すのだから相当辛いのだろう。本気で隠そうと思えば隠せるのだろうが、そうする意味のある場面でも無ければそこまでしない。
自業自得と切って捨てるのは酷だ、ある意味リゼルも被害者なのだから。
「(誰が悪いかっつうなら敢えて考えるまでも無くイレヴンだしな)」
物音ひとつ立てずに部屋を出る。
女将にリゼルの朝食はいらない事を伝えておかなければ。果物ぐらいは食べた方が良いと先程用意していたが、どうやらそれすら食べられそうには無い。
恐らく昼頃までは寝続けるだろうと思考しながら階段を降りると、丁度女将が玄関カウンターの掃除をしていた。
「ああジル、リゼルさんはどうだい?」
「駄目だ、寝かせてる」
「飲めもしないのに無理をするからだよ、全く。食べられるようになったら声を掛けてくれれば何でも出すからね」
全くもうと言いながら良い年した男の二日酔いを心底心配する女将はリゼルを何だと思っているのか。
ジルは相変わらずガラが悪いまま頷いておいた。此処で放っておけと言ったら恐らく面倒な小言でも貰うだろう。
干渉するなと気取る程に子供では無い、頼んだと一声かけて宿を出る。
どうせリゼルは今日一日中ベッドの上から動かないだろうしやる事が無い。しかし宿に閉じこもっていても暇だし迷宮にでも潜ろうかと賑わう街中を歩き出した。
「(煙草がもう無ぇ。依頼も見といた方が良いか……あいつがやりてぇのあったら受けておけば良い)」
今日の予定を頭の中で考えながら足を進める。
意識するとリゼルと共に居る時に向けられる視線が散っているのが分かった。とはいえ存在でいえばジルも十分視線を集めるに足るので無くなりはしないが、普段と比べると随分と少ないようだ。
別に視線を向けられようと気にはしないが無いなら無いに越した事は無い。ジルは歩きながら煙草を取り出して口に咥える。
「あ、みっけ」
ふいに掛けられた声に少し俯いて火を付けながら視線だけを上げ、やや眉を寄せる。
派手派手しい赤色を蛇のようにしならせたイレヴンが常の何か企んでいるような笑みを浮かべて向こうから近付いてきた。軽快ながらも斜に構えたような足取りが良く似合っている。
声を掛けられたにも拘らず我関せずと足を緩めないジルの隣へと、イレヴンは何も気にせずに並んで歩き出した。向けられる視線が増える。
「俺ん時は煙草消してくんねぇの?」
「必要ねぇだろ」
「匂い付くから嫌なんスけど」
知るかとばかりに煙草を挟んでいた指を離すジルは消す気配を欠片も見せない。
別にイレヴンも本当に消して欲しくて言った訳では無く、ただの挨拶代わりの軽口に過ぎないので問題は無い。女子のような事を言いながらもその実態は“潜めなくなるから”という危険思考から来ているのだと分かっているジルは、どうしてコイツが親しみやすいと思われているのか分からんと煙を吐き出す。
ニヤニヤ笑う姿を呆れて見ていると、ひらひらと煙をはらったイレヴンが何かを探る様に此方を見た。
「リーダーは?」
「寝てる」
予想するまでも無く探りたいのはリゼルの事だろう。
簡潔に答えるとイレヴンは不満を露わに顔を顰めた。もう少し詳しく、と言いたいのだろう。
「さっき一度起きてまた寝た。相当しんどいんじゃねぇの」
「やっぱ二日酔い?」
「ああ」
一本を吸いきり、新しい煙草に火を付けながらジルは適当に頷いた。
あーあ、とイレヴンはぐしゃりと前髪を掻きまわす。ただでさえ酒を飲ませた事で怒られる原因を作ってしまったと言うのに、二日酔いで苦しめてしまったとなればその御叱りはどれ程のものになるだろうか。
怒る怒ると言いながらリゼルが本当に怒りを覚える事は無いと知っているが、しかし怒りはしないもののケジメはしっかりと付けさせる事もイレヴンは良く知っていた。
二日酔いは心底心配だし、今すぐにも見舞いに行きたいが、それとは別に次に会うのが恐ろしい。
「賄賂用意しても逃げられそうにねぇなァ」
「本絡みでも同じ手使われんの好きじゃねぇからな、アイツ」
「そんだけ単純なら楽なんスけど」
楽に行かないからリゼルなのだとイレヴンは揺れる赤髪を指先で弾いた。
こうなったら素直に怒られるしかないか。いや全力で回避したい。悪あがきでも何でも良いから避けたい。そうで無くとも出来るだけ先延ばしにしたい。何というクソガキ理論。
ひたすら何かを考えた後、露骨に媚びる様ににっこりと笑って見せたイレヴンにジルは嫌そうに眉間の皺を深める。最高にガラが悪い。
見慣れたそれにイレヴンが怯む筈が無く、わざとらしく首を傾げて口を開く。
「ニィサンさぁ、リーダーからぜってぇ詫びの言葉もらってるっしょ」
「……それが?」
「口利いてくんねぇ?」
恐らく一番効果的だろう手段に人を巻き込もうとする分そこらの子供より余程たちが悪い。
ジルは煙草を支える様に顎に手を当て、反対の手でイレヴンの頭を引っ叩いた。無言の拒否にしては手痛い仕打ちにイレヴンは数歩たたらを踏んで恨めしげな視線を向ける。
「ニィサンも楽しんだじゃん!」
「あれの何処をどう見れば俺が楽しんでたように見えんだよ」
「酔ったリーダー気になってた癖に。見れたんだしちょっとぐらい助けようとは思わねんスか」
「思わねぇ」
見てみたいと一切思っていなかったかと言われれば嘘になるが、それはそれだ。
これでどうでも良い人間が悪意を持って酒を盛ったのならリゼルは容赦しないだろうが、イレヴン相手ならばお咎め無しとはいかないものの仕置きも多少トラウマを作るぐらいで収まるだろう。
それが分かっているからこそギャーギャーと騒ぐイレヴンに喧しいと顔を顰めながら、ジルは大通りから路地裏へと方向を変えた。唇から半分ほどに短くなった煙草を指で挟み、地面へと落として踏みつけながら朝だというのに少し湿っぽい路地を歩いていく。
「こっち裏商店じゃん、ニィサン何か欲しいモンあんの?」
「煙草。表じゃねぇんだよ」
裏商店はイレヴンが勝手に呼んでいる名前に過ぎない。
他にもブラックマーケット、闇商人、色々な呼び名があるが共通するのは扱っている品のほとんどが非合法だという事。品の真偽を見極めなければ碌に買い物も出来ない店や露店が連なる場所だ。
中には品自体は問題ないが入手経路に問題があったり、普通の店で売買するより此方や裏オークションで値を吊り上げた方が高く売れるという理由で高級品希少品が扱われていたりもする。
金の行き来は中心街にある店を凌ぐという店舗も存在するのだから、裏商店の存在を知るものは多いのだろう。訪れる者の中には冒険者も少なくない。
「何吸ってんスか」
「ん」
「あーこれ? 貴族とかがふんぞり返って吸ってるイメージすっげぇある」
掲げられた煙草のケースに書かれている“BLEU・DE”の文字を見てイレヴンはケラケラと笑った。
慣れない者が吸えば舌が痺れる程に強いものの、シトラスが香り立つ中にムスクを使用したような大人の男らしい煙草らしくない独特な香りをしている。常用するだけで己の権威を誇示出来る程に希少なものなので、イレヴンの言う通り上流階級が好んで吸っている銘柄でもあった。
例え上位だろうとただの冒険者が常用出来るようなものではないのだが、此処で手に入れていたらしい。
「ただ強けりゃ良いなら表でも売ってるっしょ。匂いに拘るようには見えねぇけど」
「値段分の味はする」
確かに不味いよりは美味い方が良いだろうと納得したように目を細めたイレヴンは、それにと言葉を続けるジルへと視線を向けた。
ジルとて一々買いに行くにも面倒な煙草をこだわりがあって吸っている訳ではない。しかし以前は手に入らなければ別のものも平気で代用していたが、最近はこれしか吸っていなかった。
吸う本数が激減した事もあるだろうが、それだけでは無い。
「特に嫌がりはしねぇけど、どうせなら気に入ったもんのが良いだろ」
リゼルが煙草に不快感を示した事は一度も無く、ジルの喫煙について一度も意見を言った事は無い。リゼルの前で煙草を咥えたのは出会った時ぐらいだというのもあるだろうが。
しかし吸わない人間にとって煙草と云うものは不快でしかないだろうという一般論は理解しているので、目の前では吸わないようにしている。何よりリゼルに煙草の香りは似合わないと思っているし。
しかしそんな彼が一度だけジルの煙草に反応した事があった。
『それ、何ですっけ』
『あ?』
『その香り、向こうでも覚えがあるんですけど』
宿の廊下で顔を合わせた時だった。すれ違い様に香ったのだろう、足を止めてそう言ったリゼルは記憶を辿る様に顎に手を当て視線を流す。
もしや不快だったかとジルは眉を寄せながら振り返った。「煙草」と一言返したジルに、リゼルは予想外に微笑みながら納得したように頷いていた。
『結構好きかも、と思って気になってたんです』
成程煙草か、とそのまま歩き去ったリゼルの一言の影響が無いとはとても言い切れない。
他の種類の煙草の香りをリゼルが少しも不満を持たず受け入れている保証は無く、唯一好印象な意見を与えられたものならば不快にはならないだろうという考えに至ったのだ。
イレヴンもジルの言葉に察したのだろう。確かに煙草のイメージは全く無いが香りだけならアリかもしれないと頷いていた。本人が醸すには合わないだろうが好みとしては好きそうだ。
「リーダーが纏うならもっとこう……清廉だけどちょっと辛口っぽいのがギャップあって良くねッスか。アノ人には甘いとしつけぇし」
「さぁな。つうか何処までついてくんだ」
「リーダーの見舞いに行く決心がつくまで」
真顔で即答された。
ジルは呆れかえった表情でひらりと手を振り歩を速める。さっさと謝って来いと示す仕草にイレヴンは本気で口を利いてくれるつもりは無いのだと悟る。
足を止め、去って行くジルの背中を見ながら不満たらたらな声で呟いた。
「ニィサンのケチー」
「アイツお前が来ると煩ぇから来んなっつってたぞ」
「ちょ、それマジで!? マジでリーダー言ってんの!?」
少しばかりの戯れで告げられた言葉に大いに翻弄されるイレヴンへ何も返さず、ジルは路地を進んで行った。
夜になれば花売りの女性が並ぶ通りを抜けていく。クスクスと艶やかな笑い声が消えた通りは閑散として華やかさなど無く、通いなれた者にとって寂しさを感じる場所となっている。
元々朝にこの道を通るものは少ない、裏商店や裏通りが最も賑わうのは夜だ。
それに合わせて裏商店の店々も夜に開く所が多いが、ジルが向かう店は朝でも開いている。もう少し詳しく言うのなら不定期に開いているので朝でも開いている可能性がある。
路地を遮断するように何枚も吊り下げられた色とりどりの布を鬱陶しそうに掻き分けると、ふいに広がるのは涸れた噴水を中心とした狭い広場。其処から四方に伸びるやや幅のある路地へ、ポツリポツリと露店が並んでいる。
夜になれば異様な賑わいを見せる場所だがやはり昼前の今は露店の数も少ない。
『各国ヘノ通行証アリ(偽造デハ無イ)』
『遺品買イ取リマス』
いかにも胡散臭い看板を素通りして違う路地へと入る。幅が有るとはいえ人が余裕を持ってすれ違える程度しかない道にも地面に座り込んで露店を広げる商人がいるので、邪魔だと思いながら跨いでいく。
リゼルが知れば来たがるだろうと何となく思いながら進んでいた時だった。
ふいに冷気を孕んだ風が頬を撫でたかと思いきや、前方から急激に路地が凍り付いていく。全てを威圧するようにバキバキと霜を伸ばしながら襲い掛かってくる氷に露天商達は逃げ惑い、そしてジルは眉を寄せて剣を抜いた。
氷が足先へと辿り着くや否や全てを両断するような見えぬ速さで振り下ろされた剣が、バキィンッと音を立てて襲い来る氷を散らす。一斉に破片が舞う路地はまるで此処だけ雪が降っているようだ。
「……こんな場所で何やってんだか」
溜息を吐き、目的地の存在する先へと向かう。恐らく氷の発生源と鉢合わせるだろう。
パキリパキリと氷を踏みしめながら歩くこと少し、予想違わぬ人物が路地の真ん中で淡々と立っていた。
その目の前には氷によって下半身と片腕を壁に埋められた男がいる。溶ける様子など欠片も見えない絶対零度の氷に埋められた男は痛みすら感じているだろうが、自分には関係無いと一瞥するだけで終わった。
「てめぇは魔力の制御も出来ねぇのか」
「こんな場所に巻き込んで問題のある善良な人々がいるとでも?」
スタッドは何も映さぬ瞳でジルを見た。抑揚の無い声と無表情は常と変わりが無い。
ちらりとその視線がジルの隣へ移り、後ろを確認し、そして動かぬ感情のまま離れていく。
この無表情を前に考えが読み取れるのはリゼルぐらいだろうと常々思っているが、ジルでも今の視線の意味は理解出来た。リゼルがいないのなら用は無いと言いたいのだろう。
「あいつなら寝込んでんぞ」
「今すぐ詳細を説明しなさい」
「二日酔い」
直後スタッドは体半分を氷に閉じ込められた男の胸倉を掴んだ。
淡々とした絶対零度の眼差しに男は歯を食いしばりながら睨み返し自由な片手を振り上げたが、殺気隠さず首元に押し当てられた氷のナイフにその動きを止める。
今にも首を斬り裂かんばかりに触れる鋭利な感覚にごくりと息を呑んだ。
「私は急用が出来ましたので今すぐギルドの椅子二脚の料金を払えば解放して差し上げます。何の為にその片手を自由にしていると思っているんですか早くしろクズ」
ジルは一瞬で事情を把握した。冒険者である男がギルドの器物を破壊して弁償せず去ったらしい。
スタッドがいればその場で粛清されるので居なかったのだろう、休日だろうと働くスタッドの為にギルド職員らは買い出しを溜めて頼んでいるらしいので今日は休みだったようだ。
買い出しから帰った時に被害を聞いてわざわざ請求に来たという所か、休日なのにご苦労な事だとジルは呆れ半分感心半分で金を脅し取るスタッドを見ていた。荒くれ者たちを纏めるギルドの方針上、勿論規定には則っているがいざと云う時の実力行使は容認される。
震える手で懐から取り出された布袋を受け取り、スタッドは中を確認して請求金額をきっちり回収した。
ちなみに金額丁度は無かったのか自らの財布から釣りを渡している。シュールな光景だ。
弁償分を受け取って布袋を返したスタッドは一度頷き、トンッと靴のつま先を鳴らす。甲高い音を立てて男を捕えていた氷が砕け散った。
「今後は器物を破壊した際に逃げようとは思わないよう肝に銘じて下さい回収が面倒なので。それより一刀あの方は宿にいるんですか」
「ああ」
「椅子の発注が終わり次第見舞いに行きますので何か欲しがっていたものがあれば教えて下さい」
「本人は食欲ねぇっつってるけど食い物でも持ってってやれ。お前から渡せば食べんだろ」
薄暗い路地裏で片や全力でガラの悪い男。片や感情無き無表情。そしてその足元には崩れ落ちて地面へと倒れ込む男がいる中で交わされる何とも平穏な会話は違和感しか無い。
しかし、とジルは内心で呟く。スタッドに余裕が出来たというリゼルの言葉は真実だったのだろう。
以前は刺々しかったスタッドが自らと淡々とした無感情で話している。会話の節々が刺々しいのは彼の性質なので変わらないが、何かが気に入らないと噛みついてきていた以前の態度を思えば小さくは無い変化だ。
当の本人が変化に全く気付いていない事が不思議だが、元々流していただけあって別に何かが変わる訳ではないとジルは特に何も言わずに地面に横たわる男をちらりと見た。
「では私はこれで」
「ああ」
もう用は無いとばかりに淡々と告げる言葉に返事を返し、薄暗い路地裏に似合わないピンとした制服姿の背中を見送る。
ようやく通れるようになった路地に溜息をついて歩を再開した時だった。
「ッあのガキ、許さ……!」
聞こえた怨念と視界の端に映った鈍い光に、這いつくばった男の傍を横切ろうとしたジルが目を細めて踏み出した足を振り下ろした。ボキ、と何かが折れる鈍い音と共に男は呻き声を上げる。
その手から零れたのはある意味見慣れてしまった、しかしそれよりは小さい銃で間違いはない。
この程度の事で自らの腕を代償に復讐に走るなど何とも馬鹿馬鹿しいと、男の腕を踏みつけていた足をどけて何事も無かったかのように歩き出した。銃を撃っていればどちらにせよ砕けていた腕だ、折れようと別に大差は無いだろう。
後ろで男が何か言っているような気がしたが興味は無いと、振り返りもせず歩き続ける。
「(どうせいらねぇ世話だろうけど)」
目の前で誰が撃たれようと気にはしないが、それが“リゼルの身内”なら話は別だ。
スタッドが自分で何とか出来ただろう事を考えるとまさに余計な真似だが、その本人が気付いていながらも我関せずと去って行くのだから不満は無かったのだろう。むしろ一刻も早くリゼルの元へ向かいたい時に余計なタイムロスを潰してやったのだから当然か。
“リゼルの身内”に限定するがこういう事をするようになった分、自分も変わったのだろうとスタッドと違い自覚のあるジルは眉を寄せながら目的地へと向かって行った。
不定期でしか開かない店だが今日は朝から開いているようだ。
薄暗い路地の壁に埋め込まれるようにある分厚い木の扉、その横にある光の灯らない街灯の下にかけられた金属のプレートに見慣れた店名が刻まれているのをちらりと見て店内へと入る。
少しだけ軋んだ音を立てて開かれた扉から、オレンジのランプがいくつも灯る薄暗い店内へと光が入る。
ごちゃごちゃと物の置かれた店内の最も奥まった場所、不思議な形をした木の机の向こう側にその二人は座っていた。二人いるが一人分の顔、全く同じ顔をしたこの店の店主が訪れた客を見据える。
「一刀よ」
「一刀ね」
頬を寄せあい、クスクスと艶やかに笑う二人の頭にはピクリと動く耳があった。
一人は折れ耳、一人は立ち耳、それだけが二人を区別している。引き上げられた蟲惑的な唇、しなやかな体に光を取り入れて細まる瞳孔。何よりその肢体から伸びる細く長い尾が彼女達を猫の獣人だと示していた。
くん、と手招くように折られた尾の動きにジルは店の中の何にも興味を向けないまま彼女達へと歩み寄る。
「最近あまり来てくれないわね」
「来てくれないのは寂しいわね」
「金蔓なら他にもいんだろ」
二人は再び頬を寄せあい、唇が触れあいそうな距離でクスクスと笑った。
内緒話をするように互いの耳に唇を寄せ、細い指先で口元を隠しながら何かを囁く。その度に起こる艶のある笑い声が何処か空気の重い店内へと鈴のように響いた。
ジルは眉を寄せながら二人の話し合いが終わるのを待つ。急かした所で急ぐ相手では無いのだから。
「駄目よ、他のオキャクサマは文句ばかり言うもの」
「やっぱり言い値で買ってくれる貴方が一番良いわ」
机に置いた互いの指を絡ませながら二人は同時に首を傾げた。
こつりと側頭部を合わせながら此方を見上げる大きな瞳に「そうかよ」とどうでも良さそうに呟く。
堂々と金蔓認定されたが別に気にはしない。煙草代だけだがそれなりの金をこの店で落としているのは事実だ。
「いつもの」
「一箱で金貨十枚よ」
「十本で金貨十枚よ」
別に払うのを渋ろうとはしないが相場の十倍というのはどうなのだろうか。
とにかく出回らないので例えどれだけ金を積もうと冒険者では手に入らない事を思えば、この値段も納得出来なくは無い。この店で扱っているのはそんな品々ばかりだ。
どんな手を使って入手しているのかは知らないが、恐らく金額を上乗せしてガッポリ儲けているのだろうと思うと釈然としない客は多い。裏商店でも値切りは常識、加えて脅迫ゆすりも日常茶飯事だ。
しかしジルは当然のように掴んだ金貨を机の上へと積んだ。
「あるだけ貰う」
「今お店にあるのは五箱だけよ」
「合わせて金貨五十枚になるわ」
二人は金貨の山を前に平然と肘をつき、上目で覗き込むようにジルを見上げた。
全てを見透かすような瞳。しかしそんな瞳ならば日々向けられているジルに動揺は無い。
ゆるりと細められた瞳とピクリと此方へ向けられた両耳に顔を顰める。
「花売りの子達が言ってたわ、丸くなったって」
「一体誰にトゲを抜かれちゃったのかしら」
「オキャクサマが言ってたわ、一刀がついに飼い慣らされたって」
「一体誰に飼い慣らされちゃったのかしら」
クスクスと笑い、互いに視線を交わしながら指先で戯れる。
「「でも私達は、前より今の貴方の方が恐ろしいわ」」
トン、と二人で挟み込むように持ちながら机の上に求められた商品を置いた。
へぇ、とだけ返してジルは煙草を受け取り空間魔法へと片付けて踵を返す。用が済んだならば話す必要など無いと言わんばかりの姿を二人は尻尾を絡めながら見送った。
静寂が落ちる店内は変わらずオレンジの光が揺らめき彼女達を照らす。
「だって貴方は激情や衝動なんて覚えなかったもの」
「覚える程に誰かに対して興味を抱かなかったもの」
軋んだ音と共に外界と遮断された空間へと鈴の音のような笑い声が零れる。
「「その枷を外せる存在に出会ってしまったのだから、恐ろしいわ」」
その強大な力を振るう理由など何一つ持たなかった人物が、ただ一人に出会った事で躊躇わず力を振るうようになったのだとジルを丸くなったと称した人々は知っているのだろうか。
怖いわね、怖いわ、と二人は笑みを零しながら積まれた金貨へと手を伸ばした。
「……何やってんだ」
「看病されてます」
色々な用事を済ませて宿に帰ったジルが見たのは朝部屋を出た時とは全く違う光景だった。
ベッドの上で上半身だけを起こしたリゼルがその膝に本を広げながら微笑んでいる。その横ではリゼルへと毛布を被せ、冷た過ぎない適温の水を用意し、更には綺麗に切られ盛りつけられた果物を差し出しながら心配そうに椅子に座っているジャッジ。
ベッドに腰かけながらべったりとリゼルにくっついているスタッドと、そして何故か部屋の隅に向かって正座をしているイレヴン。その背中は哀愁漂っていた。
「リゼルさん、やっぱりもう少し寝てた方が……あ、汗をかいた方が良いし水もどうぞ……! フルーツだって少ししか食べて無いし、絶対何か食べた方が良いのに……も、もしかして、美味しくなかったですか……?」
「いいえ、そんな事ないですよ」
瞳に涙を溜めたジャッジに苦笑し、フォークに刺して差し出された果物を受け取る。
正直未だに食欲は湧かないが断るのも可哀想だ、果物を持って来たスタッドもじっと見ているしと口にする。ほっと笑みを零したジャッジと満足そうにポンッと花を飛ばしたスタッドに美味しいですと告げる。
良く分からないが食べているならスタッドに進言した甲斐があったとジルは部屋に入り扉を閉めた。
「少しはマシだな」
嫌な感じに真っ白だった顔色は徐々に元の色を取り戻している。
額に手を当てて熱が無い事を確認し、これならば明日には回復するかと内心で呟いた。
「で。何でこんな勢ぞろいしてんだ」
「スタッド君がジャッジ君と一緒にお見舞いに来てくれたんです」
「いきなりスタッドが店に来て病人が食べやすいものを教えろって言うから、ビックリしました……」
成程、その時にリゼルの話を聞いて慌ててついて来たらしい。
どうやらスタッドが二日酔いだと伝え忘れた所為で部屋につくや否や白い顔をしたリゼルに泣き出したらしいが、誤解は解けたようだ。ちなみに泣きだそうという瞬間にスタッドが力ずくで黙らせたのでリゼルは見事頭痛を回避した。
「それで次にイレヴンが来て、叱ってる最中です」
「あれ叱ってんのか」
「工夫を凝らしてみました。許可を出すまで壁に向かって無言で正座、イレヴンにとっては結構効くと思います」
じっとしている事を好まず、ただ黙っている事も好まず、そして普段から好き放題のお陰で耐える事と無縁なイレヴンにとっては拷問のようなものだろう。
しかも時間制限も無い。リゼルが許可を出すまで延々とあの体勢なのだから精神的にも辛い。
先程からスタッドがべったりとリゼルにくっついてやけに話しかけているのはイレヴンを煽っているからに他ならない、予想外に忍耐力を試されているイレヴンは一度それに対してキレたがリゼルによって反省へと戻された。ちなみにキレる前までは無言の制約は無かったが、約束を破ったことで容赦なく追加されたようだ。
「自業自得ですザマァ」
「リゼルさんが嫌がる事するから……」
「後先考えねぇからこうなんだよ」
降り注ぐ罵倒にイレヴンの額に青筋が浮かんだ。
「ッうっぜぇな黙…………、あ」
勢いよく振り向いた先にあったリゼルの微笑みにイレヴンはピタリと動きを止めた。
全力で嘲った雰囲気を醸すスタッド、あー……と申し訳無さそうな顔をするジャッジ、そして呆れかえったジルの視線を受けながらイレヴンは口元を引き攣らせた。その視線はぴたりとリゼルに注がれている。
リゼルは何かを考える様に顔を逸らし、視線だけをちらりと向けた。やばいやばいと内心冷や汗を流すイレヴンに気付かない筈が無く、十分反省したようだとにこりと笑う。
「イレヴンにしては頑張りましたし、お仕置き終了しましょうか」
大喜びで立ち上がりスタッドと陰で殺気の応酬を始めるイレヴンを見て、足が痺れていないのは意外だと思いながら本に視線を落とす。同じく殺気って何?な人種であるジャッジも二人の殺伐としたやり取りに気付く事無くせっせとリゼルへと尽くしていた。
相変わらず年下に甘い事だとジルは騒がしい空間からさっさと撤退しようと扉へと足を向けた。元々リゼルの様子を窺いに来ただけだ、大分回復したようだしこれだけ世話をする人間がいれば大丈夫だろう。
「ジル」
「あ?」
「有難うございます」
それは果たして何に対する礼なのか。
全てを見透かすような瞳をしたリゼルに、有り得ないとは思うものの自らの行動すべてを把握されている感覚に陥る。普通ならば嫌悪感を覚えるのだろうが不思議とそれは無い。
だが礼を貰ったなら何れかの期待に応えられたか何かがリゼルにとって良い事となったのか。それなら良いと溜息を吐き、ジルは静かに唇を引き上げながら部屋を出た。
リゼルがいない空間でもそれなりに仲良しだと嬉しい。




