44:部屋を出ると笑みは消える
『もし危なくなったら、“--√・-・・”って叫ぶと綺麗なお姉さん達が助けてくれるかもしれません L 』
気付いたのは怒涛の大侵攻初日から一夜明けた昼過ぎのことだった。
いつの間にか服の中に入っていた紙切れに、少年はうーんと唸りながら首を傾げた。
紙切れと言ってもカードに近い。綺麗な模様の入ったそれは幼い少年にも余程良いものだと理解出来たが、思ったことは高そうだなぁとかでも綺麗だなぁでもなく“L”の書き方がおしゃれで格好良いだけだ。
避難民が集められた中央広場では毛布が配られたり食料が配られたりと今の所不満は無いが、人だらけで満足に歩きまわれもしない為に暇そうな妹が少年が持つカードを覗き込む。
「おにいちゃん、それなぁに」
「ニナ」
貸して貸してと手を伸ばす妹に、汚さないようにと言い含めて手渡した。
利発な少年はそれが誰が自分へと渡したのか理解している。だからこそ持つ手は慎重でまるで宝物を前にしたかのように目を輝かせていた代物だ。
それなのに妹に渡さない選択肢が無い当たり、よほど心優しい兄なのだろう。
ニナと呼ばれた幼い少女は渡されたカードを嬉しそうに眺めた。文字が読める年齢でも無いのに嬉しそうなのは見たこともない綺麗なデザインだからだろう。
「なんてかいてあるの?」
「危なくなったら何か言えって。ここ、何て書いてあるんだろ」
指差したが少年より幼い妹に分かるはずが無い。
何かの暗号かななんて言いながら二人でカードを覗き込んでいると、領主様が現れたと騒ぎだした避難民を押さえる為に遅れていた住民確認へと向かっていた母親が帰って来た。
ちなみに少年が勝手に妹の為に走り出した事件以来、彼女は片時も少年の手を離そうとしない。今だって隣にいた家族に少年たちをしっかりと見張ってくれるよう頼み込んで歩いて行った。少年にとっては少々窮屈だが自業自得だと思って諦めるしかないだろう。
「全く、領主様が見たい気持ちも分かるけど、現状を理解してるのかしら……」
「母さん、おかえり」
「ただいま」
ぷりぷりと文句を言いながら帰って来た母親は、すぐに笑みを浮かべて少年の頭を撫でた。
預かってくれた隣人に丁寧に礼を言い、此方を見もせずひたすら手に持ったカードを見ている妹を不思議そうに覗き込む。
「あら、なぁにこれ。綺麗なお姉さん……まさか、何かいかがわしい……」
「ち、違うよ!」
あらぬ疑いをかけられそうになった少年は即座に否定した。
“いかがわしい”が何かは知らないが、何やらとんでも無く悪い事だという事は母親から伝わって来たからだ。恩人に対して変なことを思われたくない。
正直リゼルの言葉のチョイスが微妙だった所為なのだが、決して少年はリゼルに非を感じたりはしなかった。必死に事情を話す少年に、母親はあらそうなのと頷く。
本来ならばそれでも疑うべきだろう。自分の息子が恩人とはいえ初対面で得体の知れない冒険者に意味深なアドバイスを受けたなど、母親として充分に警戒に値する出来ごとだ。
しかしそんな感情は少しも浮かんでは来なかった。
穏やかな顔に、優しい声に、何より誠実で高貴な瞳を疑う方がまるで罪なのだと言うように。
あの人が助けが来るというのなら来るのだろう、素直にそう受け止めた母親に少年はほっと安堵した。もしカードを取り上げられたなら必死で抵抗し取り返しただろう。
「母さん、これって何て書いてあるの? 文字? 絵?」
「んー?」
妹にカードを返して貰い、少年は一部分からなかった部分を母親に見せてみた。
暗号だったら母親も分からないかもしれない、そう思っていた少年の前で母はあっさりと頷いている。
「これは楽譜よ、一小節しかない短い楽譜」
「楽譜?」
「そう、音楽を記号にしたもの。歌詞も無いし、本当に音だけね」
手紙の途中に楽譜、叫べということは歌えということだろうか。
何故それで助けがくるのだろうと少年は疑問符を飛ばしながら首をひねった。
母親の細い指が、数センチしかない五線譜と記号をなぞるのを少年は目で追う。
「これがZio、Fiu、これが…」
母親の唇から伝えられる音はおおよそ少年が耳にする言葉とは違い、まさしく歌の極一部を抜き出したかのような音だった。
たった数音の音はすぐに楽譜も音も知らない少年でも覚えられ、ふうんと頷く。
恩人に対する疑いは無いが、これが何を意味するのかは全然分からなかった。だが危なくなったら言えと書いてあるしその時が来たら大声で言ってやろうと決意する。
恥や外聞など命の前では塵芥のようなものだ。
そしてその決意は、すぐに果たされることとなる。
西から響いた爆発音と、徐々に近付く地鳴りのような音。母親が妹と自分の手を痛いほど握った。
少年たちがいたのは避難民が集まる中央広場でも比較的外の方だった。
彼らは後続で入国したから当然だろう。だからこそ背の低い少年でも人々の間から此方に駆けて来るその姿を見る事が出来た。
「魔物だ!」
「女子供を官邸の中に! 早く!」
昨日目にしたばかりの魔物の群れ、牙を剥き地面を砕きながらやってくる絶望。
道を埋め尽くすように此方に向かう様子は波のようで、ああ逃げられる訳が無いと足を止めただ母親の手を強く握ることしか出来なかった。
魔物から離すように手を引く母親の顔に涙が浮かんでいるのを、周囲の怒号に妹が訳も分からず泣いているのを、まるでスローモーションのように見ていた。恐怖はあるが不思議と涙は出ない。
見覚えのある光景に、少年の脳裏に温かな手に抱きあげられた記憶がよぎる。
『ただ、本当に守るということは守り抜くこと』
守り抜かねば。強くならなければ。
まだ自分は生きているのだから。守りたい人も生きているのだから。
その手段も、与えられているのだから。
「つ、ぅ……」
満足に声が出ない。掠れた声はわずかに震えている。
震えを忘れたように固まった体でも恐怖はひしひしと感じていた。
それを抑えこむように母親が握る手に力を込め、握り返してくれる温度に勇気を貰う。
魔物はもう家数軒分の距離まで近づいていた。少年はただ必死にカードに書かれた文章を信じ、それを与えてくれた穏やかな人を信じ、それが裏切られるなど考えもせずただ一途に大きな口を開けて叫んだ。
「“--√・-・・(たすけて)”!!!」
次の瞬間、ぶわりと下からせり上がる感覚に目を見開く。
まるで黄金色のような光が地面から湧き上がり、そのあまりの美しさに見惚れる瞬間に現れた五人の後ろ姿に口は開きっぱなしになった。
まるで瞬きの瞬間に突如姿を現したのは女性だった。絹糸のような金の髪を金の風に揺らし、こちらに背を向けて立つその後ろ姿を見て少年が思ったのはただ“綺麗だ”の一言のみ。
状況すら忘れ、命の危機に瀕しているにも拘らず、それ以外の言葉が浮かばない程に美しい。
それは誰しも同じで、悲鳴を上げて少しでも魔物から離れようとしていた者たちが言葉も忘れて彼女達へと見入っていた。
女性たちは避難民と魔物との間、広い道をたった五人で封鎖するかのようにゆっくりと両手を広げた。
直後、響いたのは轟音ともいえる程の音量。彼女たちの口から放たれたそれは壮大な音量、しかし人の声でオーケストラを奏でているような美しい音色だった。
その音色に聞き惚れていた全ての避難民を囲う様に、金の風はその姿を雪のような結晶へと変えて彼らを守る壁となる。聴覚からも、視覚からも、ただひたすらに美しさを感じながら人々は立ち尽くした。
響き続ける歌声は決して一人のものではない。複数の声が絡み合う音色に聞き惚れていた少年はまさに襲いかかろうとしている魔物を見てハッと正気に返った。
しかし、魔物は透き通って輝く壁にはじかれる。
それを見て周囲も徐々に正気を取り戻していき、そしてそれが自分達を守る為のものだと気付いた。
安堵に涙する人々の中、どうすれば良いのかと魔物に対して抜刀したまま彼女たちを窺う憲兵がいる。避難民すべて覆うほどの魔法を行使する彼女達に対して下手に話しかけて集中を乱す訳にもいかないし、何者なのかと問うて機嫌を損ねる訳にもいかないのだろう。
そして何より、ただただ近寄りがたかった。
人が触れるのを躊躇う程の、人知を超えた美しい風貌はその瞳が布でぐるりと隠されていようと美しさを損なう事が無い。むしろ秘めたことで一層その存在を神懸らせている。
現れた女性たちは全てそうだ。瞳を隠し、ただ凛と両手を開き音色を奏でている。
絶世の美女、完成された美しさを持つ女性、矛盾を孕んだ表現だが現れた女性は皆そう言うべき存在だった。欲を抱かせない程の美しさは彫刻に似ていて、関わることすら畏れ多いと人に思わせる。
「も、もしかして、さっき叫んだそれって……」
「オレちょっともう怖い母さんどうしよう」
自分の言葉が切っ掛けで彼女達が現れたなど、そんな有り得ない。
母親の震える声に少年が精神的に限界を感じて告げた言葉は、まさしく彼の本心だった。
何かもういっそ恐ろしい。血の気が引く感覚に意識が飛びそうになる。
光の壁に攻撃を仕掛け続ける魔物たちに対する恐怖心など吹きとんだ。少年は震えながら、とりあえず今の内にと開け放たれた領主官邸に避難させられる事となる。
「そういやリーダーその銃って一個じゃないんスね」
「正直見せたくなかったんですけど、使っちゃいましたね。あれ結構疲れるんです」
「お前のことだからアレより厄介な奥の手がまだあっても驚かねぇがな」
まさか、と微笑むリゼルに疑いの眼差しを隠そうともせずに向けられた。
ジルやイレヴンのように誰に対しても正面切って勝てる実力者ではないリゼルにとって、知られていない戦力というのは重要だろう。隠されていた事に対して不満を感じることはない。
しかし結構疲れるという言葉は恐らくまごう事無き本音だ。それだけの理由で隠していたのだと思うと、呆れてしまうのは仕方が無いだろう。
「でも軽々と避けられると、それはそれでちょっとショックです」
「や、俺すっげぇびびったんスけど。あーでもまた見たいかも」
「機会があればという事で。それよりもうすぐ中央広場ですよ、綺麗な歌声が終わってしまうと思うと少し寂しいですね」
城門から中央広場までの道を三人は然程急がず歩いていた。
時折支配の対象を外れたハグレ魔物たちを討伐している憲兵を見かけたが、手を貸さずとも問題はないと素通りする。もれなく二度見されている。
機会ねぇ、と呟きながらイレヴンは変わらず聞こえて来る荘厳な歌に好みじゃ無いなと内心呟いた。
「しっかし城門まで聞こえたし、あんなおっとりした女達がすげぇ声出してんなァ」
「単純に声量では無いですよ。魔力を通して声を流してるので、近くでも煩い事はないし遠くでも聞こえるんです」
「ふぅん。で、まだ歌ってんのは何でッスか」
「何ででしょう。まだ近くに魔物がいるのかもしれません」
リゼルが侵入した魔物を誘導して国外まで出したとはいえ、完全ではない。
先程見かけた光景のように横から攻撃されてしまえば魔物の本能が勝ってそちらに攻撃意識が向くし、エルフ達の魔法結界に対しても同様のことが起こった可能性がある。
変わらず視界に入る美しい円蓋を見上げながら、やはり本職のようにはいかないかとリゼルは納得して頷いた。元凶が健在ならば恐らく一匹も逃さず支配してみせただろう。
「あ、見えました」
「しかしこんだけでかい結界が必要か? 別に上まで覆わなくても良いだろうが」
「ちなみに強度も性能も明らかに過剰です。彼女達にとっては普通にやってるだけでしょうし、これ以上弱くするのも逆に手間なのかもしれません」
道の先に見えた、此方を向いて佇む五人の姿。
両手を広げて金の魔力を纏う様子は神に祈りを捧げ、そして神の意思を受けていると言われても不思議ではないだろう。結界の向こう側には無数の避難民の姿も見えた。
平然と歩み寄ってくるリゼル達にその避難民たちの視線が集まるが、気にせず中心に立つ女性の前に立つ。
歌い続ける彼女の布に覆われた視線が此方を向いた気がして、リゼルは小さく首を傾げた。
「ーーー……-、…(御協力、ありがとうございます)」
数多の歌声にかき消される程の穏やかな声、しかし女性たちは皆ふっと口を噤んだ。
突如訪れた静寂は耳に痛い程で、耳鳴り止まぬ感覚に避難民や憲兵達はざわめく事も無くリゼル達を見ていた。
「ーー…---(魔物がおらずとも歌われていたようですが)」
「…ー(あらぁ?)」
歌声では無いが、それは歌に違いが無かった。
二人会話を交わしているだけにも拘らずそれは優美な音を紡ぎ、示し合わせてもいないのに一つの曲のように音色が流れる。
それが古代言語であり、それ単体が力を持つ言葉なのだ。
今では膨大な魔力を持つエルフ達だけが言葉に力を孕ませる事が出来、リゼルの使うものは本当にただ会話の為の音でしか無い。古代言語に力を孕ませようなどと、挨拶の言葉だけでリゼルの人並みよりは優れた魔力でさえ一瞬で枯渇してしまう程の力ある言語なのだから。
「ーーー…√ーー…(魔物がいるから助けが必要だったのねぇ)」
それは花か宝石か、何に例えても言葉足りない美しさを持つ相貌がゆるりと笑みを浮かべる。
リゼルから翻訳を受けて会話の内容を把握しているジル達はこれだからと顔を引き攣らせて、普通の男ならば触れるだけで折れてしまいそうだと錯覚してしまうようなたおやかな女性らを見た。
「相ッ変わらず危機感ってもんがねぇなァ」
「いらねぇんだろ」
侵入者を許さない魔力溜まりに住み、潤沢な資源を必要な分だけ採取して穏やかに暮らし、清らかな種族性が負の感情を嫌う為に内々でのささいな諍いも無い。
そんな暮らしを何百年何千年としていれば危機感も無くなるだろう、生物としての劣化だろうと不要な部分は自然と退化していくものだ。
ただスポットには通常より余程強化された魔物が存在する。完全に危機感を失う事は自殺行為だと思われがちだが、しかしそんな事は全くないのだ。
「ー…ーー…ーー(どうして倒してしまわないのかって、不思議だったの)」
「ー…--√・(唯人にとって魔物は恐ろしい存在ですよ)」
人が石ころに対して命の危険を感じるか、つまりそういう事だ。
リゼルは少年にメモを渡しておいた甲斐があったと苦笑した。そもそも自分でお願いすれば良いのだが、その瞬間に自分が自由に動ける保証は無かったので保険として渡しておいたのだ。実際あの後操られているし。
「ー…----…(可愛らしい子の悲しい声が助けを呼んだから、思わず守ってしまったわぁ)」
「ー…-、--√-(元々貴女達に頼みたい事でした、感謝致します)」
細く白い手が頬を押さえ、ふぅと悲しげに吐息を漏らす。
その仕草でさえ人の目を釘づけにする彼女達エルフは、何より子供を大切にする種族だ。
エルフには女性しか居ない。何処かにいるらしい王と呼ばれる存在は唯一の男らしいのだが、彼女達もその母も何千年も見た事がないそうだ。
だからこそ女性だけで子を残すのが普通で、その方法も偶発的に過ぎない。ある日突然集落の祭壇に赤子のエルフが光と共に生誕する。
千年生きることも珍しくないエルフ達なのでその頻度も数百年に一度、だからこそ授かった子は集落全員の愛し子として愛し慈しみ大切に育てられる。
成長速度は成人を迎えるまで唯人と変わらないとくれば、この場に居る五人の女性達もリゼルと話している者以外は幼い子供など見た事が無い。
彼女達がリゼルの声に応えてこの国に来たのも、恐らく大部分の理由が幼子を見てみたいという思いでしかない。むしろ「幼い子も恐怖に怯えているでしょう」とリゼルがはっきりと告げている。
エルフ達も瞳を隠しながらも、時折避難民の中から聞こえる高く可愛らしい声に耳を澄ましているだろう。リゼルは微笑んで一声かけると、ジルを振り返った。
「憲兵の方に以降の警戒は任せますって伝えておいて下さい。彼女達があまり此処にいても落ち着かないでしょう」
「……俺がか」
「代わりに彼女達のお相手してくれるなら、俺が行きますけど」
助けで呼んでおいて放置するのは礼儀に反する。
そして貴族社会を生きてきたリゼルに女性を道のど真ん中で放置するという発想は無い。
意思疎通も図れない上に独特のテンポを持つエルフ達とこの場に残される(しかも注目を浴びている)などとジルが受け入れられる筈が無く、一度舌打ちをしてやや離れた所からこちらを窺っている憲兵長らしき人物の方へと歩き出した。
ちなみにイレヴンはすぐに憲兵に喧嘩を売るので候補に挙がらない。
「ーー…--…-(お疲れでしょう、休める場を用意します)」
「―――…√ー(そうねぇ、立ちっぱなしだし少し疲れたわぁ)」
そう言った後、薄桃色の唇がゆるりと笑みを浮かべた。
艶やかさはなく、ただ美しい笑みだ。
「ーーー√…--(貴方の事、私達は本当に大好きよぉ、リゼル)」
「――――・-(光栄です)」
それは、危機感はないかもしれないが誰にでもついて行く訳ではないと静かに告げる言葉だった。
甘い紅茶(高級品)、甘いお菓子(高級品)、三段トレー(高級品)や磨かれたシルバー(高級品)、全て乙女心を揺らす代物だろう。それはエルフとて例外ではない。
うふふ、と優雅に微笑み目が覆われているにも拘らず優雅な手付きでアフタヌーンティーを楽しんでいる。
そして彼女達にとって何より至高なのが、同じテーブルにちょこんと座っている礼服を着た幼い子供の姿。
無邪気で元気な子供も良いが、礼儀正しくすましている子供も彼女達にとっては何より可愛らしいことに変わりは無い。愛らしい愛らしいと愛でられて、イレヴン曰く万能店員の息子である幼子は可愛らしく笑って完璧なる接待を遂行していた。確実に親の血を濃く継いでいる。
そんな背景に様々な可憐な花が浮かびそうな空間を用意させたリゼルは、目の前で忌々しげに此方を見るシャドウを相手に何故こうも苛立っているのかと思案した。
確かに魔物が侵入するとは言っていないが、城壁が破壊されるかもしれないとは言ってある。
確かに自分が操られるとは言っていないが、人を支配する術を持っているかもとは言ってある。
確かにエルフの存在を言ってはいないが、避難民を助ける用意は一応あるとは言ってある。
「それら全てを防ぐ事が出来る癖にしなかったのは何故かと、私は尋ねたいのだが」
「貴方たちは本当に俺を買いかぶりますね」
「却下だ。出来ないとは言わないのだろう」
怜悧な瞳をすっと細めるシャドウに、美形も多いと有難味が無いなと身も蓋も無いことを思いながらリゼルは出されたコーヒーに口を付けた。喉が渇いていたのでとても美味しい。
イレヴンは甘くないコーヒーなど飲めない為に炭酸水が用意されていた。
エルフを接待するのが息子ならこの場で給仕するのは本家店員、一泊世話をしただけで個人の好みを覚えるなど余程優秀な人物だろう。店員として必要な能力かは別として。
「私とて貴様に頼り切るつもりはない、無能を棚に上げて何故もっと上手くやらなかったと責めるのは馬鹿のやる事だ。充分以上の働きを受けておいて文句を言うつもりも無い」
「ええ」
「純粋に、何故かと聞いている」
リゼルがやると決めたことに手を抜くような男には見えない。
例え手を抜いたであろうと充分すぎる働きを見せた男に文句を言える程シャドウも恥知らずではないが、知っておかねばならない。リゼルがあえて避けた事柄があるのなら、それはこの街にとって不都合なことなのだろう。
例えば最初から魔力装置を全て破壊してしまえば解決したのではないか、元凶が特定出来た時点で仕留めてしまえば問題なかったのではないか。異物を取り除いたからと言ってまだ大侵攻が終わったわけではない、とれる対策があるならばとらなければならない。
リゼルは言いたい事は分かっていると微笑んで頷き、カップを机へと置いた。
「大侵攻の方は?」
「指揮は憲兵総長に一任してある、通常の大侵攻へと戻った今問題はない」
「良かった、じゃあゆっくり話しても良さそうですね。聞きたい事、何でも聞いて下さい」
「じゃー最初っから元凶ぶっ殺さなかったのは何でッスか」
シャドウより先にイレヴンがゴクゴクと炭酸水を飲みながら尋ねた。
肘を付きながら此方を覗き込む姿にリゼルは平然とそれですか、と頷いた。いつもならば口を開こうとした途端に空気を読めと頭をブッ叩くジルがリゼルを挟んで反対側に座っている為に彼の自由奔放を止める者はいない。
シャドウの眉間に皺が寄ったが、聞いておいて損は無いと自らを無理矢理落ち着けた。
「避難民に紛れこんでる支配者さんに手を出して、被害が出たら嫌じゃないですか」
「一瞬で殺せばいいじゃん。暗殺でもして」
「下調べもなく一番重要なとこに手を出すと、怖いですよ」
確かにイレヴンならば闇夜に紛れて相手を殺す事など簡単だろう。
元凶の特定に力を注げばその存在も知れただろうし、その方法もとれた。
しかしリゼルは怖いと言う。何故だとイレヴンは唇を尖らせた。
「昨日魔力装置をいじった時、色々調べたんです。もし支配者さんが死ぬことがあれば、魔力装置で集められた魔力は全て魔物の強化に使われるように魔法式が組まれていました」
「それ何かやべぇの?」
「魔物の強化は魔物遣いの真骨頂。しかも支配しているのが奇代の天才で、集まってる魔物達には上位の魔物も多くいます。それらの魔物を莫大な魔力で強化したら、一匹で城壁を破壊出来るぐらいには強くなるでしょう」
最悪な事態だとシャドウは舌打ちした。
西門一か所が破壊されただけで被害は計り知れないというのに、それが全方位で行われるなど対応が追いつかないどころでは無い。街は破壊された上に、唯一止められるはずの元凶が死んでいてはどうにもならないだろう。
元凶を見つけたさっさと終わらそう、などという軽率な行いで事態を悪化させるなどそれは元凶だけでなく此方にも責任がある。
それを考慮したからこそ、リゼルは早々に元凶に手を出す事無く下調べに精を出した。魔力装置に介入し情報を手に入れ、相手を試すような真似をして出方を窺い、被害が大きく出ない範囲で相手に好きにさせてその支配範囲を計ったのだ。
「じゃあ先に魔力装置ぶっ壊せば良かったんじゃねぇスか。そしたら何も出来ねぇっしょ」
「残念ながら魔力装置にも仕掛けありです。それに元凶に知られて激昂されたら何をするか分からないでしょう?」
「でもリーダー壊したじゃん。あ、だからバレないようにって言ってたんスか」
「いじったのはバレましたけどね。魔力装置全体で一つ二つ欠けても問題無く動くようになってるのは分かってたので、大事なとこだけ壊しました」
それでもバレない為には二個が限界だと判断し、西と東の二つだけを更に相手の意識の隙をついて破壊した。ちなみに魔力装置は東西南北その間と全部で八個存在していた為に今は六個だ。
「それに残しておいたら役に立つかなと思ったのもあります。なので支配者さんの意識が完全に無い今は壊す絶好の機会ですが、保留中です」
「何故だ」
「少なからず城壁に被害は出ると思ってましたし、魔力装置を利用した結界を少しの間でもマルケイドに張れれば安心かなと」
初めから大侵攻後のことを考えていた人間がどれ程いるのか。
もう驚かないと明言しているシャドウは、ようやくジルが時々リゼルに対して溜息をついている理由が理解出来た。驚かなくなると、呆れるしかないのだ。
感嘆を通り過ぎるといっそ呆れになるらしい、初めて知った。
「おびき出すのは事態を進めて早く決着をつける為、では城壁を壊して魔物を招き入れたのは何故だ」
「領主様、失礼ですけど俺が何でも出来ると思っていませんか? 少しぐらい、こう……止められなかったとか思って欲しいんですけど」
「却下だ」
鼻で笑われた。
常々思っているが、シャドウは貴族だし仕草も整っているものの全体的に荒い。
品が無いとかではなく、荒い。貴族社会に関わらない貴族特有のものだろう。
礼儀の知識もあり実践も出来るが、他人の目に晒されず値踏みされない為に細かいところまで洗練されていない。恐らく本人も文句を付けられない程度で充分だと考えていそうだ。
外見に反して中々に大雑把な人物だ。商売に関しては神経質な程にマメそうだが。
「ーーー…、-…」
ふいに透き通った音色が柔らかく部屋に反響した。
エルフ達がアフタヌーンティーを嗜んでいるのが隣の部屋、壁など無いかのような音色はこの部屋に向けて発せられたものだろう。
全員が一瞬耳を澄まし、どうしたとリゼルを見る。
リゼルは苦笑して机の脇に待機し、飲み物が減ったり温くなったりする度に甲斐甲斐しく入れ直していた店員へと視線を向けた。
「お子さんが可愛らしいと、幼いのに完璧に紅茶を入れてみせたと喜んでます」
「そのくらいならば出来て当然です。しかしお褒めの言葉感謝致します」
つまり余りの可愛らしさに耐えきれずに思わず此方に発散したらしい。まだ一応大侵攻の最中なのだが、ゆったりとした女性たちには関係がないようだ。
しかしティーセットを持てば重さでぐらつきそうな年齢だったはずだが、当然だと言い切るとは。
厳しい教育の賜物か溢れる血筋の才能か。リゼルは感心して店員の感謝の言葉を伝えようと唇を開き、そして閉じた。
「静まりかえられると恥ずかしいんですが」
「別に視線集まるのなんて慣れてんだろうが」
「全くの別物じゃないですか。古代言語なんて、人前で歌ってるのと同じ事ですよ」
「リーダーの羞恥心の基準が分かんねぇんスけど。いっつも変なことしてもケローっとしてるじゃないッスか」
「別に変なことをした覚えなんてないんですが……え、何かしてました?」
成程、自覚の問題らしい。
最近でも魔鉱国で頭にタオルを乗っけて全裸で風呂に突撃しようとしたり、暗黙の了解で子供達に向けられているはずの魔道具質問コーナーで専門的なことを質問しまくっていたが、どれもリゼルにとっては普通のことだったようだ。
ちなみにそういう時、ジルは大抵呆れているしイレヴンは大抵大爆笑している。
仕方が無いとリゼルは僅かに隣の部屋に魔力を向けながら返事を返していた。開き直ってしまえば平気のようだ。
「それで、魔物をわざわざ侵入させた事についてですが」
「リーダーのあれってほんとに恥ずかしがってんの? 俺分かんねぇんスけど」
「半々だろ」
ぐいっと後ろからジルの方へと身を乗り出したイレヴンに、適当に返す声。
リゼルは丸聞こえだろうに平然と流している。その様子に羞恥などまるで感じず、イレヴンが疑問に思ってしまうのも無理は無いだろう。
シャドウは逸れ始める意識を無理矢理引き戻した。今はそんな事を気にしている場合ではない。
一番の難関を越えて気持ちが緩んでいるようだ、と気を引き締め直す。
「確かに彼が動く前にジルやイレヴンなら止められました。でもその場合も集めた魔力が暴発して、結局城壁は壊れていたでしょう。城壁だけじゃなく城壁の上にいた俺達も道連れになっていたと思います」
「どうせ魔物に侵入されるなら一度相手の支配下に入り乗っ取った方が魔物を確実に城壁外に出せるという事か」
「っていう理由があるんですけど、ジル?」
「で?」
駄目っぽい、リゼルはさり気なく隣を窺い苦笑した。
リゼル自らが支配されに行ったことについて、“後で覚えておけ”と言われたからにはそれまでに何とか回避策を練っておきたい。正当な理由がありました、では許して貰えないようだ。
そもそも前夜にも理由があっても駄目だと言われているのだから当然か。
「確実に乗っ取れる保証は無かっただろうが」
「だから三分たったら魔力装置全部壊して強制的に止めてって言っておいたじゃないですか。人の支配なんて限界まで強化された魔力がなきゃ不可能なんですし、装置を壊せば支配も止まります」
「あと三秒だったしギリギリじゃねッスか」
「短時間で乗っ取れた俺は褒められて良いと思います」
べしん、とジルの手の甲がリゼルの額を打った。
相変わらず音の割に痛くない、リゼルは張り付いた前髪を避けて耳へとかける。
「……魔力装置を破壊すれば支障があるのでは無かったか」
「魔物達の支配も同時進行できるほど、人の支配は簡単では無いですよ。魔物の支配が行われていなければ大丈夫なはずです」
全ての備えをした上で支配されに行ったなど、用意周到すぎるだろう。
ただ、それでも確実に支配されずに済む方法はあったはずなのだ。ジルとイレヴンはそう確信している。
それなのに人の支配をわざわざ実現させたのはリゼル自身が見てみたかったから、そして実際支配されることでその魔法の仕組みを少しでも知りたかったから。大義名分をしっかり用意するあたりリゼルらしいと云える。
しかしだからこそ、二人はいつもの様に仕方が無いな全く流石だで済ませないのだ。
「私も貴様がわざと支配された事について言いたい事はあるが、両隣に任せるのが良さそうだ」
「誰も庇ってくれないなんて、人徳が無いみたいで悲しいですね」
「却下だ」
逆だろうと、シャドウが伝えたい事を勿論リゼルは理解している。
だからこそ開き直ることなくジルのご機嫌伺いをしているのだ、パーティというものを組んでいながら勝手な事をしたのは此方の非に違いない。
リゼル以外が同じことをしたのなら間違いなく放置して去って行く二人がこうして怒りを抱いている理由が分からない程鈍感では無いし、人の感情に疎くもないのだから。
でもやっぱり怒られたくは無いので、要所要所でその怒りを減らすよう手を回しはするが。
「聞きたいことは以上ですか?」
「そうだな……細かいところは重要ではない、大まかなものだけ分かれば充分だ」
頷いたシャドウに、それは良かったとリゼルは微笑んだ。
「なら、約束を果たしましょう。“今日中に終わらせる”と、そういう約束でしたね」
「却下だ、約束ならば既に果たされている。イレギュラーに対する全ては終わったはずだろう」
「言ったでしょう、忙しいって」
くすりと笑ったリゼルに、どういう事だとシャドウは眉を寄せた。
そんなもの言われずとも現在既に死ぬほど忙しい。先程まで怒涛のように指示を出し、指示を出し、そして隙を見つけてシャドウの中では何よりも重要度が高いリゼルとの対話を実現させたのだ。
正直任せてきた憲兵総長だけでは指示が追い付かないだろう。補給や避難民に対する全ての指示を任せてきたのだから。
机の上に組んだ手を乗せて、リゼルはゆるりと瞳を細めて向かい合う紅い瞳を見詰めた。
「今夜は寝かせませんよ」
やけにゆっくりと聞こえた声、動いた唇、そして続いた穏やかな声で紡がれた小さな音色。
次の瞬間溢れかえった音の奔流と、リゼルが背にする窓の向こう側に見えた奇跡のような光景にシャドウは目を見開いた。感じた予感は、悪寒に近い。
美しい重厚な音色は不思議と遠く聞こえる、それはその音色が操る魔力が国の外で渦巻いているからだろう。
城壁の向こう側、空に浮かぶ無数の輝く剣は陽炎のように尾を引いてその身を煌めかせている。
『ーー√ー・-… Sia!!』
まるでオーケストラが終焉するような強い声色と共に、輝く剣が降り注ぐ。
その先に何があるのかは言わずとも察せられるだろう。
流星の如く美しい光景を人々はただ見上げ、戦士達は戦慄し、そして誰もが動けなかった。
国中を静寂が彩る中、美しい音色の余韻に浸る様にリゼルは瞳を閉じる。本当に、掛け値なく美しい存在を彼は心から慈しんでいた。
「(私の我儘に付き合ってくれた貴女達エルフに、心からの感謝と敬意を)」
瞳を閉じたまま、吐息のように呟いた言葉は伝わったのだろう。
隣室から送られる温かい音色、美しく優しい音色は、彼女達の尊さをそのままに波紋の様に部屋へと落ちる。恐らく、すぐにでも元のティータイムを再開するだろう。
瞳を開き、数度瞬き、笑みを浮かべる。
「……」
目の前には、肘をついた片手で顔面を覆った無言のシャドウがいた。
「お前、早く終わらせて温泉入りたくなったんだろ」
「分かります?」
「リーダー、用事が終わったこの街から早く出たいんスよね」
「観光も出来ないですしね」
平然と会話を交わす三人に、シャドウの顔がゆるゆると上がった。
艶やかな黒髪が顔を覆い尽くす様子は子供が見たら泣くほど恐ろしい。例え美形だろうと恐ろしいものは恐ろしい。
店員は街中で起こった奇跡の様な光景から早くも立ち直り、シャドウを元気づけるようにそっとカモミールティーを差し出した。心安らかに、と伝えたいのだろう。
リゼルはわざとらしく笑みを浮かべ、うーんと悩んでいる風に見せる。
「そういえば一個だけどうしても聞きたい事があるけど、聞けるぐらいには貸しを作れたかな」
「貴様、まさか……」
「あ、口に出ちゃいました?」
このタイミングでえげつない、とジルは溜息をついた。
そもそもマルケイドにわざわざ来たのも、肩入れし過ぎだと思っていたのも奇妙だと気付き、その過程で在る程度予想はついていた。
利益が無ければ動かない男とまでは言わないが、貰える利益は貰っておく男なのだ。
忌々しげなシャドウが鬱陶しそうに髪を払いリゼルを睨みつけるのを、御愁傷様と内心呟きながら眺める。
「……何が目的だ」
「一つだけですよ」
告げられた内容は、国家機密に相応するものだった。
出来る筈が無いと以前のシャドウならば言っていただろう。しかし目の前の男が今回それ程の働きをしたのは確かで、何より敵に回すと恐ろしいと思い知ったばかりの人物だ。
いや、そうではない。敵に回したくないのではなく、そちら側でありたいと。そう思っている。思ってしまっている。
レイの気持ちが分かる日が来ようとは、と鋭く舌打ちした。
「……特級機密だ、少し足りんな」
しかし素直に受け入れられるはずがない。
本心とは裏腹の言葉を吐いた事に再び舌打ちしたシャドウに、しかしリゼルはそうですかと微笑んだ。
それ程の情報だと思っているし、シャドウの本心が何処にあるか分からないなどとは彼にとって有り得ない。
「じゃあ後少しに、これを差し上げます」
「何だ」
「認識阻害の眼鏡です。掛ければ、周囲から自分が認識出来なくなります。知り合いにも気付いて貰えないぐらい強力ですが、存在が消える訳では無いので今まで通り街中を視察出来ると思いますよ」
「リーダー発見の微妙な迷宮品がまさかの役に立ったッスね」
「微妙って言わないように、これでも深層から出た良い迷宮品ですよ」
「今以外の役に立たねぇけどな」
会話する彼らを、リゼルを見てシャドウは慣れない為に歪になった笑みを浮かべた。
完全な敗北だ。恐らく自分は一生目の前の彼に敵わないのだろうと、いっそ軽くなった心でシャドウは腕を伸ばした。乗せられた眼鏡に、レイの奴に自慢でもしてみようかとあり得ない考えが浮かぶほどに自分は浮かれているらしい。
大切なものを扱う様に丁寧に眺め、胸元に仕舞う。夕日色が外からの光を反射して柔らかく光った。
「足りました?」
向けられた笑みを真っ直ぐに見つめ返す。
「同意しよう。取引成立だ」
却下など到底出来る筈が無い。しようとも思わない。
けたたましく響く足音と自らを呼ぶ無数の声が徐々に近付いて来るのに現状を思い出したがシャドウの気分は少しも落ちなかった。彼の言う通り、今夜は寝れないだろうがそれで良い。
どうせ、何もなくとも寝られはしないのだから。
「大侵攻お疲れ様でした、領主様」
「却下だ。出会った時に言っただろう」
言ってから数秒、返って来た穏やかな声にシャドウは笑みを浮かべ部屋を出た。
「良い夜を。 シャドウ伯爵」




