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190.立食パーティーはいろいろ凄かった

 

 老紳士の依頼を完了した翌日、リゼルは宿の食堂で安閑と昼食をとっていた。

 肉、野菜、米がスパイシーに煮込まれた料理は、あまりサルスで馴染みのあるものではない。

 流石は元Sランクというべきか、さまざまな国を渡り歩いてきたからこそのメニューだろう。

 午前中、読書に集中して一歩も動かなかった体が、しゃっきりと目覚めるようだった。


「美味しいです」

「うふふ、嬉しい」


 水のおかわりを持ってきてくれた老婦人に、リゼルは微笑んで礼を告げた。

 グラスに注がれた水は美しく透き通っているが、口に含むとほんのりと柑橘の香りがする。

 そのグラスが二つ。宿の仕事も一段落したようで、彼女も腰を落ち着けるようだ。

 向かい側に座り、のんびりと窓の外を眺める老婦人に、リゼルはちょうどいいとばかりに声をかけた。


「お婆さま、先日襲撃があった時のことを聞いてもいいですか?」

「はい、どうしたの」


 なんでも聞いてね、と優しい笑みが向けられる。

 そんな百合の花のような彼女が、まさかクァトが圧倒されるほどの実力者だと、一見して見抜ける者など存在しないだろう。そう思ってしまうほど、柔らかな雰囲気を纏った相手だ。

 リゼルも老紳士の依頼を終え、宿に帰ってすぐに老夫婦には挨拶に向かっている。

 丁寧に感謝を伝えたリゼルに、二人はカラカラと笑って「何もなかったようなものだ」と言い張った。リゼルの襲撃者との対峙はだいぶ右往左往したので、Sランクの凄さを改めて思い知ったものだ。


「こちらの宿にも襲撃があったんです。それに一人で対応してみたんですけど」

「まぁ、頑張ったのね」

「はい。ただ、我ながら及第点とは行かなくて」


 結果的に襲撃犯は全員捕まえたとはいえ、あまり手際がいいとは言えなかった。

 ジルたちの助力も受けてしまったし、精鋭にも手伝ってもらってしまった。何がなんでも一人で、とは考えていなかったが、もう少し上手くできたはずだと思ってしまう。

 実は一人での迎撃が割と思いつきで、大した準備をしていなかったというのもあるが。


「お二人の立ち回りを勉強させてもらいたいな、と」

「あら、若い子にそう言ってもらえるなんて嬉しいわ」


 それなら、と老婦人が席を立つ。


「折角だし、お茶を淹れてきましょうか」

「有難うございます」


 老婦人は、ついでにリゼルの食べ終えた皿を回収してキッチンへと向かった。

 ちなみに既に食事量については把握されているので、おかわりを確認されることはない。

 リゼルも決して小食ではないが、腹いっぱい食べることもなかった。理由は二つある。

 一つ目は眠くなると困るから。元の世界では書類仕事の多さゆえに、こちらでは読書に集中したいという理由からだ。元々、仕事中も読書中も眠くなることなど滅多にないのだが、やはり発揮できる集中力が違う気がする。

 もう一つは、動けなくなると困るからだ。リゼルはこちらで冒険者活動を始めてから、食後すぐに走り回ると腹が痛くなることを知った。今までは知る余地もなかった。

 それにしても、何故ジルとイレヴンがそうならないのか。リゼルには不思議で仕方ない。


「おう、メシ終わったか」

「お爺さま」


 そんなことを考えていると、濡れた髪を豪快に拭きながら老輩がやってくる。

 どこかで汗をかいてきたのか。いかにもシャワー上がりといった様子だった。


「今、お婆さまがお茶を淹れてくれてるんです」

「そりゃあいい、冷てぇの頼んできていいか」

「勿論」


 おうい、と老輩がキッチンへと声をかけに行く。

 その逞しく広い背中を眺めていれば、彼は濡れたタオルを片方の肩にかけながら戻ってきた。

 そしてリゼルの隣に、椅子を斜めにしながらどすりと腰かける。


「どうだ最近、上手く行ってんのか」

「迷宮だとこの前、“聖なる巨獣たちの国”に行ってきました」

「あん? どこだそこ」


 老輩は髭を親指の腹でなぞりながら思案顔だ。

 例の迷宮は、一回行けばまず忘れないだろう。ならば行ったことがないのかもしれない。


「大きな動物がいて、石の柱が何本も生えてる迷宮です」

「あー……あれか、何年か前に見つかったつう迷宮か」

「割と新しい迷宮なんですね」

「とっくに引退してたし潜ったこたぁねぇが、話には聞いたな」


 老輩が椅子に凭れかかると、椅子は小さく軋む音がした。

 いまだ筋骨隆々な体格を見れば納得だが、時折冒険者ギルドで剣術指南もしているという。

 もしかしたら、そこで冒険者から相談されたりもするのかもしれない。ちなみに剣術指南といってもぶっつけ本番の手合わせらしく、冒険者側も剣術を習いにくるというよりは手っ取り早く剣を振って暴れたい者が大半だそうだ。


「なんていう話ですか?」

「なんてっつうかな。どいつもこいつもはっきりしねぇっつうか」

「ああ、そうですよね」

「目が死んでるっつうか」

「成程」

「なんで納得してんだよ」


 怪訝そうな眼で見られるも、本当に納得しかなかったのだ。

 あの迷宮を言葉で説明するのは難しい。リゼルのように「大きい動物がいた」「長い石柱があった」「蒼い草原だった」という明解な事実を口にすることしかできないだろう。

 どんな動物だったかと聞かれても分からないし、石柱がなんのためにあったかと聞かれても分からない。なぜ草原が蒼いのかと聞かれても分からないし、ならばどんな魔物がいたのかと聞かれれば、やはりそれもよく分からないと答えるしかないのだ。


「そういやお前らもこないだ、フラフラになって帰ってきたな。そん時か」

「そうです、精神汚染について聞いた時の」

「ま、迷宮潜ってりゃそんなこともある!」


 大笑いの老輩に肩を叩かれ、リゼルも嬉しそうに破顔した。

 あれを笑い飛ばせるようになれるのかという感心と、そうなれると信じてもらえている喜び。力強く肩を跳ねる老輩の掌は分厚く、硬く、そして相手をすぐに安心させるような熱がある。

 そんな相手に認められれば、嬉しくなってしまうのも仕方がないだろう。


「お爺さまたちも覚えがあるって言ってましたね」

「おう、頭ぐらっぐらすんのとかな」

「そういう時、どうしてました?」

「そんなもん気合だ、気合」


 老輩にかかれば、ただの冒険者の力押し理論も説得力を増す。


「できれば受ける前に防ぎたくて」

「まぁ難しいだろうよ。できる奴は俺も聞いたことねぇからな」

「そうですか……」

「斬りゃいいんだ、斬りゃ。受ける前に斬んのが一番早ぇ」


 結局のところ、それに尽きるのだろう。

 いつ攻撃を受けたのかも認識できない、そんな相手と対峙する機会などそうそうないのだ。

 実際、リゼルも“聖なる巨獣たちの国”で初めて経験した。あの異様な精神の疲れが攻撃だったのか、迷宮の仕様だったのかはいまだに分かっていないぐらいだ。


「気合っていうのは我慢ってことですか?」

「それはなぁ、やっぱ違ぇんだよ、迎え撃ってやろうっつう気だと」

「え?」

「こりゃ食らうなって時、やってみやがれって思うだろ。そん時に食らうのと、ノーガードん時に食らうのとじゃ、かかり具合が違ぇ。操られんなら、意識残んのと残らねぇのぐらい違ぇ」


 成程、気合だ。

 リゼルは深く納得して、この老輩からのアドバイスをそのままジルに伝えることに決めた。

 最初から意思を強く持とうと意識して潜れば、件の迷宮でも影響を受けにくくなるかもしれない。まだまだ仮定の範疇だが、やって損はないはずだ。


「お婆さまに魔力的な防ぎ方も聞こうと思ってたんですけど」

「止めとけ止めとけ、あいつぁ仲間がその手の攻撃食らうと秒で平手打ちする女だぞ」


 老婦人は攻撃を食らうことを前提に、食らった直後に対処する派らしい。

 攻撃を食らう前に倒せばいい派の老輩とは、いいバランスのパーティを組めていたのだろう。


「あら、昔話なんてしちゃって」

「別にいいだろうが。武勇伝だよ、武勇伝」

「若い子は嫌よ、ねぇ」

「いえ、実はすごく楽しくて。またとない本物の武勇ですし」

「そら見やがれ」


 少年のような顔をして笑う老輩に、老婦人は揶揄われた少女のように彼の肩を叩いた。

 互いにしか見せない顔があり、互いとしか交わさないやり取りがある。目の前の老夫婦は普段はすっかりと円熟した夫婦なのだが、時々こうして、恐らく冒険者時代から変わっていないのだろうと思わせる顔を垣間見せる瞬間があった。


「リゼルさんは、前回の依頼の時のことを聞きたいのよね?」

「お、そうなのか」

「はい、クァトにも聞いたんですけど、あまり分からなくて」


 老婦人は三人分の冷たい紅茶を置いて、静かに腰かける。

 そして老輩はというと、その紅茶を一息で半分以上飲み干していた。


「まぁ張り合いねぇ相手だったぞ」

「クァトさんが起きてきた時には、ほとんど捕まえていたものね。本当はゆっくり寝てもらって、元気に冒険者活動に励んでほしいから、なるべく起こさないようにしたのだけど」

「戦奴隷にしちゃ敏感だよなぁ、こっち育ちだったか?」


 この宿は、一階に老夫婦の生活スペース、二階に宿の玄関と食堂など、三階に客室がある。

 二階の玄関は外階段を使って上がるので、宿と老夫婦の生活スペースは繋がっていない。さらに宿の看板はしっかりと外階段にかけられているので、宿目当ての人間が間違えて一階を訪れることはまずないだろう。

 この宿が観光名所というなら別だが、逆に知る人ぞ知るといった隠れた名宿だ。

 襲撃犯が宿を襲うとなれば、一階を無関係だと断じ、迷いなく外階段から二階に上がるだろう。ならば老夫婦はどのタイミングで襲撃犯に気づき、クァトが下りてくるより先に返り討ちにしたのか。

 リゼルが不思議に思っていたのはそこで、何故気づけたのかと問いかける。


「大したことじゃないのよ」


 老婦人は、可笑しそうに口元に手を止めた。


「この人、随分と楽しみにしていたの。だから夜もなかなか寝つけなかったみたいで」

「そんなではねぇだろ」

「あら、そうかしら。何年かぶりに枕元に剣まで置いちゃって」

「そりゃあ……準備ぐらいしとくだろ、なぁ」

「そうですね」


 ピクニックに行く前日夜のような会話だが、襲撃犯に襲われる当日夜のことだ。

 ややバツの悪そうな老輩に同意を求められ、リゼルは襲撃に備えるのは当然だと同意を返す。なんだか違うような気もしたが気にしない。


「それで夜中になって、いきなり『来たぞ!』って飛び出そうとしたのよ」

「飛び出さなかったんですか?」

「そりゃお前、逃げられちまったら全員捕まえらんねぇじゃねぇか」


 老紳士は、事前に老夫婦に襲撃の可能性を伝えていたという。

 そこで快く同意を得られたため、リゼルへと依頼を持ち込んだようだが、襲撃があった際には全員捕縛という注文でもあったのだろうか。とはいえ、老紳士がそこまで求めるとは思えなかった。


「それは、治安的な問題で?」

「そりゃそうだろ」


 老輩はあっさりと告げ、すぐに付け足すように言葉を続ける。


「あとはまぁ、あの爺から依頼受けると……ああ、現役の時な、護衛でも何でも。襲われた時は、盗賊だろうが敵対商人だろうがとにかく殺すなって注文つけられたもんだ」

「生かすのが一番お金になるからってよく言ってたのよ」

「それが染みついちまってるっつうのもある。癪っちゃあ癪だがな」


 治安がいいのか悪いのか分からないな、とリゼルは苦笑した。

 だが目の前の二人が悪事に加担するとは思えず、恐らく老紳士もこの二人に情報屋として接したことはないだろう。このSランク冒険者に返り討ちにされた人々は、盗賊退治の報奨金に変わったか、もしくは老紳士の下であくせく働いているのかもしれない。

 ただの予想ではあるが、外れてはいないだろうとリゼルはなんとなく思う。


「でまぁ結局、婆さんが魔法でどうにかしたんだよ」

「どうにか、というと」

「ほら、夜にうるさくしちゃ申し訳ないでしょう?」


 老輩は随分と早くに不届き者の気配に気づいたのだという。

 冷えるからと上着を羽織った老婦人が、窓に近づいて外の様子を窺った時には、襲撃犯たちは外階段の下で突入の合図を出すところだった。つまり、ちょうど良く足を止めていたのだ。


「だから、地面を泥みたいにして口まで沈めちゃったのよ」

「手っ取り早く無力化できていいんだけどな、引き揚げる時に俺が汚れんだよ」

「あら、あの時は良くやったって言ってくれたのに」

「文句じゃねぇよ、文句じゃ」


 談笑する二人を眺めながら、リゼルは納得したように頷いた。

 老夫婦の襲撃犯撃退について、クァトは「野菜の収穫みたいだった」と語っていたのだ。

 クァトが襲撃に気づいて下りてきた時、既に襲撃犯は埋まり、老輩の手によってずっぽんずっぽんと引き抜かれていたところだったのだろう。

 聞いた時にはよく分からなかったが、クァトの説明はこの上なく正確だったようだ。


「おう、そういや今夜空いてるか」


 老婦人のような魔法の使い方をするには魔力が足りないなと、リゼルが考えに耽っていた時だ。

 ふと、老輩が思い出したように告げる。


「はい、夜なら」

「坊主と悪ヘビもか?」

「どうでしょう、多分いると思いますけど」


 何かあるのかと不思議そうなリゼルに、彼はニッと笑う。


「なら晩飯行くぞ。あのエセ紳士に誘われてんだ」

「外食ですか?」


 エセ紳士、恐らく老紳士のことか。

 今回、宿を巻き込んでしまったことでの謝礼なのだろう。


「俺たちもいいんですか?」

「ぜひ貴方たちもって言われてるから、安心してちょうだいね。彼、新しく開く予定のレストランで立食パーティーを開くみたい。賑やかなほうがいいから、人数を集めたいんですって」

「元Sランク来店ってのが宣伝になんだと。ついでにお前らでがっつり箔つけてやれ」


 誘い上手だな、とリゼルは微笑む。


「それなら、俺からもぜひ。ただ、これから少し出かける予定があって」

「いい、いい。暗くなるまでに帰ってこい」

「気をつけて、いってらっしゃい」


 さて、ジルとイレヴンは果たして夜までに帰ってくるのだろうか。

 二人がどこに出かけたのか知らないリゼルは、そんなことを考えながら紅茶を口にした。



 午後、リゼルが訪れたのは魔法学院だった。

 先日借りたばかりの本を、そうそうに読み終わって返却に来たのだ。研究書は物語よりも読むのに時間がかかるが、そもそも精神汚染に関する分野はマイナーすぎて冊数自体が少ない。

 すっかりと通い慣れた研究室の、珍しく開けっ放しの扉をノックする。


「おや、冒険者先生」

「こんにちは、教授」


 机に向かっていた教授が、ノックに気づいて振り返った。

 リゼルも微笑んで挨拶を交わす。だが研究室に足を踏み入れようとした途端、ふと嗅ぎ慣れない匂いを感じて足を止めた。仄かに甘い香りは、薬品とも違うような気もするが。

 出所を探すように部屋を見渡すリゼルに、教授は楽しそうに笑い声を上げた。


「わははっ、すまないね、まだ匂うかな? 今、換気中でね」

「何かの実験でもしてたんですか?」

「そう、ハチミツとコーヒーとの親和性を求める実験だ」

「それは、いい結果が予想できますね」


 リゼルは可笑しそうに笑う。

 ただコーヒーにハチミツを混ぜただけでは、換気が必要なほど甘く香るとは思えない。

 何かがあったのだろうと話の続きを待つリゼルに、教授はにやりと笑いながら告げた。


「我が熱心な助手がハチミツを持参したが、瓶の中ですっかりと白く固まっていてね」

「ハチミツって固まるんですね」

「そうだとも、ハチミツに含まれる糖が気温や攪拌で――いや、これはいいか。ともかく、小生の助手はそれを溶かそうとしたらしい。ランプを使って……ああ、あれだ、実験用にいつもここにあるからね。あれで、瓶の底を炙ったそうだ」


 なんとなく展開の予想がついた。


「そうしたら、見事に瓶が破裂してね」

「大変です。怪我はなかったですか?」

「ああ、耐熱の革手袋が守ってくれたようだ」


 ちなみにちょうどその時、教授は部屋を出ていたらしい。コーヒーができあがるまで少しあったので、借りていた文献を隣の研究室に返しに行っていたようだ。

 ガラスが破裂する音に急ぎ戻れば、少年は飛び散ったガラスを搔き集めようとしていた。教授はそれを制し、まぁ気にするなと少年を落ち着かせ、箒を持ってくるよう指示を出した。

 そして片付けが終わると、少年にコーヒーを淹れさせ、実験を再開したという。


「実験は成功しましたか?」

「大成功だとも。まぁ途中失敗もあったが、実験に失敗は付き物だからね」

「彼はそれでも落ち込みそうですね」

「そう、知っていても割り切れないんだろう。暫くしおらしくしていたが、それでもついさっき、張りきって授業に向かったよ。火の扱いについても慎重になるよう伝えたが、伝わっているやらいないやらだ」


 やれやれと首を振る教授に、子供相手は大変だなとリゼルは苦笑する。

 元の世界では、リゼルも物を教えるという経験があった。だが次期国王の教育係に抜擢された時は、リゼルとしても達観しているとは言い難い年頃であり、大人が子供相手にヤキモキするような感覚はほとんどなかったように思う。

 ならば王都の子供たちはというと、やはりそういった感覚はない。そもそも彼女たちとは師弟関係という感じでもないのだ。あちらも暇で、こちらも暇な時だけ遊びにくるという、ある意味で対等な関係であった。

 よって、教授のように振り回されるような経験はないのだが。


「やれやれ、うちの雛たちは知識欲を優先させすぎるきらいがある」

「将来有望ですね」

「まったくもって困ったことにね」


 それでも満更でもなさそうなので、苦労でもなんでもないのだろう。

 むしろ子供の知的好奇心ゆえの無茶には、学院の大人たちもあまり強くは言えないはずだ。尋ねればきっと、彼らが子供の頃にやらかした「気づいたらやってた」系のエピソードが山ほど聞けるに違いない。


「好奇心こそ小生たちの武器だ。それを満たさずにはいられないのもね」

「とはいえ怪我がないように、ですね」

「そのとおり」


 自分も肝に銘じなければと、よれた白衣を弾ませるように教授が笑う。


「そういえば、用件はなんだったかな。資料が足りなかったかい?」

「いえ、読み終わった分の返却に」

「まだ何日も経っていないだろう、急いで返せとは誰も言わなかっただろうに。睡眠はしっかりとらないと頭が鈍る……と、小生が言っても説得力はないかもしれないけれどね」

「大丈夫、きちんと寝ましたよ。読むのが早いほうなんです」


 リゼルは笑みを零しながら、近くのテーブルに何冊かの本を取り出した。

 学院で借りたものだ。目の前の教授に限らず、いろいろな研究者に紹介された本がある。


「ああ、そこに置いていくといい。誰かしらが来た時に持っていくだろうから」

「いいんですか?」

「小生の本だって、今や誰が持っているかも分からないものが何冊もあるさ」


 あっさりと告げる教授に、そういうものかとリゼルは言葉に甘えることにした。

 他の誰かの研究室で気になった本を見つけ、持っていき、さらに他の誰かが気になって持っていきを繰り返しているのだろう。実家に“大図書館”と呼ばれる書物の保管庫があり、それらの管理を丁寧に行っているリゼルには馴染みのない習慣だ。

 蛇足だが、今ここにはいない助手の少年がいれば「適当なだけだ」と呆れるだろう。


「先日は詳しい話を聞けなかったんだが」


 ふいに、教授が目を輝かせながら身を乗り出す。

 彼の白髪に混じる羽毛がやや膨らみ、彼の期待を目に見える形で示していた。


「精神汚染について詳しく聞いても?」

「はい、勿論」


 リゼルは可笑しそうに笑い、近くの椅子に腰かける。

 本を借りにきた時はちょうど集まっていた研究者たちに囲まれ、怒涛の質問攻めと本のプレゼンを受けたので確かにゆっくり話す機会はなかった。

 研究者たちの反応で知ったが、そもそも彼らはその手の事象をまったく知らなかったらしい。

 借りた本にもピンポイントでそれを研究した本はなく、関係しそうだと予想されたものばかりだった。


「迷宮や魔物から、精神的な影響を受けることだと聞いたが」

「そうですね、妨害工作みたいなイメージです」

「例えばどういったものがあるんだい?」

「俺が経験したものだけでも幾つかあって、例えば……魔物の鳴き声で意識が飛んだり」

「ふむ、手ごわそうだ」

「抗えない眠気に襲われたり」

「ああ、そういうのもあるか。なんとなく想像がつくのが面白いね」

「嫌われたり」

「それは……感情操作なんてものもあるんだね、まったく理屈が分からない」

「変わり種では、体型は変わらないまま筋力が入れ替わったりもしたりしました」

「なんだって?」


 本当にいろいろあるな、と教授は眉間を揉んだ。

 まさかこれほど多種多様だとは思わなかったのだろう。現象としての法則も見当たらず、もはや物語の中のフィクションだと言われても十分に納得できてしまうほどだ。

 もちろん、これらが人の手によって行われたという例はない。不可能だからだ。


「冒険者は、それを当たり前だと捉えてると?」

「当たり前というか、疑問を抱いたことがないっていう感じでしょうか」

「成程、研究者向きではなさそうだ」

「そういうものだからと、すぐに呑み込めるのが冒険者なので」


 生存本能が強いのだと、リゼルが可笑しそうに笑う。


「迷宮なんて、進むごとにどんどん新しい難題に直面しますしね。変な仕掛けだったり、奇妙な魔物だったり。一つ一つ丁寧に向き合っていると、とても先には進めませんよ」

「ああ、それは確かにそうだ」


 正確に言えば、迷宮ルールについては向き合っても理解ができないというのが正しい。

 だがリゼルはその事実を隠した。生粋の研究者を相手に「よく分からない場所によく分からないまま潜って魔物とか狩ってる」というのは憚られたからだ。言葉にしてみると、なかなかに無茶をしているなと思わないでもない。

 支配者に言えば、今すぐ二度目の大侵攻を起こすのかと錯覚するほどの忌々しげな顔を見られそうだ。理解できない生態の魔物など好きではないだろうに、なぜ彼は魔物使いなどやっているのだろうか。

 恐らく、もっとも先進的な功績を上げた分野がそれなのだろう。

 そこをピックアップして異名をつけられた時の、支配者の心情はいかに。


「だからこそ精神汚染も、受ける前に相手を倒すか、受ける前提で相手を倒すかで」

「それにしたって何か、こう……いや、まぁ、他に手がないのは分かるが」

「そう、その他の手が欲しくて」

「そういえば、対抗策を探したいと言っていたね」


 本を借りにきたリゼルのその言葉に、教授も一編の論文を薦めている。

 その論文こそ“魔力波長の恣意的変形についての研究②”というタイトルで、ようは放出された魔力を方向づけするよという論文だ。それで魔力的な精神汚染を逸らしたり、跳ね返したりできないかという狙いだった。


「ふむ、しかし話を聞くに、どうにも魔法でどうこうされるという訳でもないのかな」

「魔力を感じることもあるので、そういう時には有効そうです」

「冒険者先生は、確か魔力防壁を張れたはずだね。それで防げたことは?」

「それが一度も。ただ論文にあった、物体を使う方法で防げないかなと」


 教授に借りた論文の中では、さまざまな物体を用いた魔力の反射実験があった。

 また別の研究者に借りた本の中に、有効そうな魔道具についての記載も見つけている。迷宮だから仕方ない案件だと打つ手はないが、それ以外については何とかなりそうな気がしていた。


「物体か、ああ、ちょうどいいかもしれないね、冒険者は盾も持つんだろう?」

「そういう方も多いですね」

「その盾に細工をすれば、防ぎやすくなるんじゃないかい?」


 教授の好意的な笑みに、リゼルはにこりと微笑んだ。

 残念ながら、リゼルたちのパーティが盾を使うことはない。イレヴンは重くて嫌いだと使いたがらないし、リゼルはあまり前衛に出ないので持っても意味がないからだ。

 そして唯一使いこなせるだろうジルは、イレヴンのタレコミにより、宝箱から盾を一度も入手したことがないのを確認済み。更には何やら意地になっているらしく、決して盾を購入しようとしなかった。


「ところで支配者さんの従属魔法を防げれば、精神汚染にも抵抗できると思いませんか?」

「うん? うん、そうだね、いや、……うん、そう思うけれどね」


 リゼルは豪快に話を逸らした。



 結局のところ、これといった有効策を見つけられることはなく。

 あまり教授の手を止める訳にもいかないし、夜の立食パーティーもあるしと、リゼルは思ったよりも長居してしまった研究室を後にした。鳥の獣人である彼は、絶え間なく楽しそうに質問をくれるので、ついつい会話を楽しんでしまいがちだ。

 そして途中で一緒になった顔見知りの研究員と話しつつ、行きとは違うルートで門へと向かっていた時だ。


「ん?」

「どしたの、冒険者先生」


 中庭を通りがかった時、何やら大掛かりな工事が行われていることに気づいた。

 見間違いでなければ、何枚ものガラス板が運び込まれている気がする。心当たりがあった。


「あれ、何作ってるんですか?」

「んー、よく知んないけど温室かなんかじゃない?」


 学院に所属する研究者が知らないということは、つまり国が主導している可能性が高いということで。

 しかしリゼルは何も言わず、成程と朗らかに頷いておいた。


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― 新着の感想 ―
野菜の収穫! これはクァトも、何だかわからない顔にならざるを得ないですねwww 教授の研究室は刺激的だけど朗らかで楽しいです。 サルスは子供の好奇心を潰さずに大人になれる風土があるなぁ。
[気になる点] 立食パーティーは?
[一言] 宿屋のおじいちゃんとおばあちゃんのやりとり、長年連れ添った老夫婦ならではな雰囲気に心がほっこりしました。(●´∀`)ノ♡ 普段おっとりした可愛らしい料理上手なおばあちゃんが歴戦の強者としての…
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