117:優しさはもういらない
明けましておめでとうございます!
雲一つ無い青空を見上げながら、ナハスは訓練場を少し早足で歩いていた。
王宮内でも一、二を争う広さを持つ訓練場は障害物も何も無く、ただただ動きまわるのに最適な場所だ。本来ならば敷かれていた筈の芝生は魔鳥の爪によって捲られ均され、今や周囲に点々とその名残を残すだけの地面が露わになっている。
魔鳥の爪跡が目立つ地面を慣れたように踏みしめ、彼は自らのパートナーの姿を探した。息抜きに王宮の空を一匹で自由に飛んで貰おうかと思って厩舎から連れて来たは良いものの、いざ送り出そうとした時に他の団員に呼ばれてしまったからだ。
訓練場には常に他の団員達もいるし、一匹で散歩ぐらいさせていても何も問題は無い。しかし飛行に関しては必ず監督がいる為、先に遊んでおいでともいかない。
「ん?」
魔鳥ごとに色合いの違いはあるものの、他者から見れば似た色合いの魔鳥は区別が付かない。しかし騎兵団らが自らのパートナーを違える筈が無く、ナハスも例に漏れず他にも似た魔鳥が訓練場にいるというのに遠目で自らの愛する魔鳥を見つけた。
「腹でも減ってるのか……」
ナハスの魔鳥は、ガリガリと地面を引っ掻いていた。
訓練場が芝生であった頃などナハスも生まれていない時の話だ。今更未練がある筈も無く、ミミズでも探しているのだろうか可愛らしい奴だと笑みを浮かべながら近付いて行く。
魔鳥は鋭く頑強な爪で同じ所を引っ掻き続け、土の爪跡の深さが大人の手を容易に呑み込む程になったころにその動きを止めた。そして一歩後ろへ下がり、ずぼりと嘴をそこへと差し込む。
そして直ぐに抜き、地面を覗きながら首を傾げ、そして再び嘴を突っ込んで数度突き、抜いては首を傾げを繰り返していた。そんな魔鳥に笑いながら、ナハスは声をかける。
「どうした、獲物はいなかったか?」
「ギュア」
「種喰いワームでも今度買って来てやろう。好きだろ」
そう言いながら、魔鳥の首元を羽毛に沿う様に手を滑らせた。
手綱が苦しくないよう位置を微調整してやり、唯一ふわふわしている胸毛をわしわしと撫でる。気持ち良いのかお返しのように耳元の髪を食まれ、痛いなと言いながらもやりたいままにさせておく。
自らのパートナーにしか見せない、じゃれるような姿を拒む人間は此処にはいない。人間に決して懐かない筈の魔物が見せるそれが魔法によるものだとしても、向けられる好意に偽りは無いのだから。
「良し、待たせてすまないな。この後は巡回があるが、それまで自由に飛んで来い」
ナハスがぽんぽんと嘴を撫でると魔鳥は小さく首を傾げ、ぐっと頭を下げた。大きく翼を広げ、ぐっと落とした体を急激に持ち上げ空へと飛び立っていく。
何度見ようと飽きる事はない美しい姿を見上げながら、ナハスはさてと訓練場を走る騎兵団員達を見た。監督と言ってもずっと見ていなければいけない訳ではない、自らの訓練も怠る訳にはいかないのだし他の奴らに混ぜて貰おうと思ったからだ。
高く何処までも響くように鳴くパートナーの声に聞き惚れながら、ナハスは足を踏み出した。
今日の朝は慌ただしかったな、と奴隷の男は檻に背を預けながらぼんやりと考える。
準備が終わったとか、配置につけとか、魔力がどうとか騎兵団がどうとか言いながら他の人間は何処かへ行ってしまった。ただ何人かは残って何やら作業をしているようで、何をしているのかは聞いていないが見る限り荷物を纏めているようだった。
何故この国まで来たのかも良く分からないが、恐らくそろそろ此処を離れるのだろう。男は胡坐をかいた足を組み変えながらふいっと檻の中を振り返った。
視線の先にはベッドに腰かけ本を読むリゼルがいる。手錠に慣れて来た手元で器用に肩にかけた毛布を手繰り寄せているのを、男はじっと見た。
『粛清が終わり次第、貴様をサルスに招待しよう』
以前、誰かがそんな事を言っていた。
ならば此処を離れてもお別れではない。もしかしたらサルスに帰ってからも一緒に行動するかもしれない。それは嬉しい、と彼は一つ頷く。
まだ出会ってから丸二日と少し。しかし朝昼晩さらに寝ている間さえ同じ空間で過ごし、起きている時間の大半は話して過ごしているのだから相手がどんな人間かは分かる。
『そういえば、君は名前で呼ばれませんね』
『奴隷』
『成程。他に同じような人がいないなら不便は無さそうです』
『?』
例えば、色々な質問をしてくれるところ。
『信者さん達って魔法使いなんですよね。研究分野に偏ってるみたいですけど』
『魔法使い?』
『俺ですか? そうですよ』
『研究、する』
『いえ、魔法関係の研究は専門的すぎて無理です。聞けば理解は出来るので、使い方を多少応用するぐらいですね』
例えば、色々な質問を許してくれるところ。
『パン、どうぞ』
『?』
『食欲が無いので貰って下さい。果物はちゃんと食べますけど』
『食べる』
今朝もパンを全部くれた。優しい。
男にとってはそれで充分だった。今までにずっと罵倒され殴られ蹴られ魔法の的にされ雑事を押し付けられ魔物の囮にされ色々と扱き使われてはいたが、彼にとっては悲観する事でもなかったからだ。
何故なら殴られ蹴られ魔法の的にされようと大抵は全く効かず痛くないし、凄い剣幕で怒鳴られれば流石に委縮するが罵倒の内容は当たり前のように受け入れるので傷つきもしない。それらの時の男は大抵突っ立っているだけと変わらないし、命令が無い時も邪魔にならない所でぼうっとしているしで、雑事を押し付けられたら体を動かせて嬉しいし魔物の囮にされれば不思議と少し気分が高揚する。
つまり他者から見れば哀れな奴隷の境遇も、彼にとっては言われたことに従っていれば特に苦痛なく三食の食事に有り付けるという特に不満はない環境だった。勿論望んでの事では無いが、リゼル曰く“洗脳”の結果により見下される日々を疑問も覚えず当然のものと受け入れていた。
だからと言えば良いか、男はもし可哀そうだと思われる事があれば失礼なと眉を寄せるだろうし、自由にしてあげると言われれば理由も分からぬままに嫌悪するだろう。
よって、リゼルは優しい。ぼうっとただ時間が過ぎ去るのを待つ時間を一緒に話して居心地良くしてくれる。ご飯も分けてくれる。たくさん食べられると嬉しい。
「(サルス、一緒……良い)」
こくり、と一度頷く。
すると、それに気付いたのか本へと視線を落としていたリゼルがふっと此方を向いた。どうしたのかと問いかけるように微笑まれ、その手がパタリと開いていた本を閉じたのを見る。
「考える、終わり?」
「そうですね、大体は」
「考える、何?」
「信者さん達が使う魔法の事です」
魔法と言われても、男にはいまいちピンと来ない。
それは魔力を一切持たないからなのか、魔力の影響を一切受けないからなのか。魔法の的にされる時も特に意識などしたこと無いので、彼の魔法のイメージなど“火とかが出る”程度だ。
「目的は分かってますし、取ろうとする方法も予想は付きます。だから支配者さんの研究書の中から彼らが使いそうな魔法のあたりを付けて、見回りに来た人達へ質問してみたりしてたんです」
あの鬱々と恨み事を零していくタイプの信者たちを相手に最終的に本談義に持ち込んでいた時だ。奴隷の男には何を話しているかほぼ意味が分からなかったが。
「言い方とか理解の深さとかで何となくこれかなって絞れたんですけど、どんな組み合わせでどう使うかはやっぱり予想の範疇からは出なくて……これ以上は正解を見てみないと何とも言えませんね」
「?」
「ただの、暇つぶしですよ」
目を細めて微笑まれ、やはり良く分からないが考え事は一段落ついたのだろうと頷く。
ならば一人読書は終了だろう。昨日の夜、最後に笑いながら話していた“坂道ばかりの迷宮で通路を塞ぐような巨大な岩が転がり落ちて来た時、仲間の一人が難なくそれを止めた隙に後ろ側へ抜けだしたは良いものの、止めている一人が手も離せないし岩も壊せない仕様だったしどうしようも無くなった話”の続きが気になっている。
その続きが聞けるだろうかと、あちらとこちらを隔てる檻を避けるように微かに体を傾けて覗き込むようにリゼルを見た。自らの鈍色の髪が目にかかり、鬱陶しく思いながら首を振る。
「君の髪は固そうですね」
目に入ると痛そうだと、可笑しそうに笑われて頷いた。実際にチクチクする。
「貴方、柔らかい」
「俺ですか? 普通ですよ」
話に聞く冒険者のイメージと全く結びつかない整った指先が、首筋をなぞる様に髪を梳く動きを目で追う。指先を滑る髪はどう見ても柔らかそうで、触ってみたいなと何となく思った。
そして唐突に気付く。リゼルが檻へと近付き座る時には、いつだって手を伸ばしてもぎりぎり届かない距離があった事を。
「…………」
片手で檻を掴み、ぐいぐいと前後に押したり引いたりしてみる。
どれだけ力を込めようと微動だにしないそれを、男はじっと見た。
「どうしました? 信者さん達に怒られますよ」
「!」
怒られるのは普通に嫌だ。言われる事に傷つきはしないが、それとこれとは別だろう。
何故なら、男は信者たちに従わなければいけない。そう思う必要も無い程に当たり前のことなのだから、怒りを買うことは命令を守れない事と同義で最も避けねばならない事だ。
納得したように腕を離し、ふとリゼルを見る。全てを見通すような澄んだ瞳が真っ直ぐに此方を見ていて、ふいに何故だか何か罪悪感のようなものを感じて窺う様に俯いた。
しかし直ぐににこりと微笑まれ、パッと顔を上げる。
「怒る、無い?」
「どうして俺が怒るんですか」
優しい声に、ならば良かったと胡坐のまま姿勢を正す。
何はともあれ、怒っていないのならば気になる話の続きが聞けるだろう。聞きたいと言って拒否された事など本を読んでいる最中を除いて一度も無いのだから。
そして口を開きかけた彼が、ピタリと動きを止める。薄ら開いた唇は閉じられ、視線は牢から伸びる薄暗い通路の奥へと向けられた。
「巡回の時間には早いですね」
その動作で信者の訪れを察したらしいリゼルに、男はこくりと頷いた。
そのまま話の続きは聞け無そうだと檻に背を向ける。常人ならば触れるだけで激痛が走る檻に褐色の肌が露わになる背を平然と預け、誰にも見られることなくその眉が微かに寄せられたのは無意識の事だったのだろう。
居心地の良い時間を邪魔された事に対して初めて自らを従える者達へと抱いた、まるで綻びのような、しかし本人も気付かぬ小さな不満だった。
牢屋の前で傲慢そうな立ち姿を晒すのは、信者らのトップだろう男だった。
「お前の目論見では助けが来るのは明日……いや、今日の晩か? 残念な事だな、我らの使命はその前に完遂されるのだから」
やはり伝わっているのか、とリゼルは微笑みながらも思う。
リゼルと奴隷の男が和気藹藹と話しているのは以前からバレているし、信者らも当然会話の内容を聞き出すだろう。奴隷がわざわざ隠す理由も無く、素直に答えるのは分かりきっている。
捜索の規模が大きくなる前にと思ってくれて、彼らの計画実行を少しでも早める事が出来たのならば上出来だ。それがリゼルが助かる為に一番早くて確実な方法なのだから。
「そもそも来られる筈も無い。我々が幾重にも重ねた隠蔽魔法を見破れる者がいるとは思えないからな」
男は自信に溢れた笑みを浮かべ、ベッドに座るリゼルを見下ろした。
彼は確かに魔法使いとして優秀だ。それは他の信者も変わらない。
そんな彼らが本気で隠蔽魔法でこの場所を隠しているからこそ、今まで精鋭すらも此処を見つけられずにいるのだろう。自信に溢れるのも納得だ、と感心すらしてみせているリゼルに危機感は一切無い。
こんな厳重な隠蔽魔法を移動中も保つ事は不可能だ、それならば多少魔法で隠そうが何をしようがイレヴン達が見つけるだろう。人の粗を探すのが得意な子たちだし、と思いながらリゼルは手首を覆う手錠を撫でた。
「檻の仕掛けは消してしまうんでしょう?」
「無理矢理引き摺り出して激痛に泣くお前を眺めるのも一興だがな……」
男は一瞬だけ奴隷を見て、不快そうに顔を顰めながらリゼルへと視線を戻す。
その場合やらせるのは奴隷の男に、という意味だろう。彼以外は檻を通れない。
男の言葉に一切微笑みを変えないリゼルに、彼はだからこそ献上品に相応しいのだと唇を引き上げた。そのまま、わざとらしいまでに残念そうに肩をすくめてみせる。
「私は使命の執行でこの場を離れなければならない。つまらない事だ」
自身で目の当たりにしなければ意味が無いという事なのだろう、随分と嗜虐的な事だとリゼルは苦笑した。完全に自らのパーティメンバーの事は棚に上げている。
「それで、檻から出された俺は素直に貴方達について行けば良いんですね」
「物分かりが良いな」
何処に行くのか、など聞いても教えては貰えないだろう。
言う通りにする、と平然と告げると信者の男は探るような目を向けてくる。別に従うことに他意などない、それが一番保身になると思っているからに過ぎない。
裏が欲しいなら、それは敬愛する師の妨害を果たした人間がその程度であってはならないという思いからなのだろう。期待に応えてみせようか、とリゼルはにこりと微笑んだ。
「此処から出さえすれば、俺を探してくれてる人達が絶対見つけてくれるので」
「他力本願か……あまり興醒めさせないで欲しいものだ」
「貴方達の独断とはいえ自身の魔法の威信を守らせる支配者さんも他力本願になっちゃいますよ」
信者はぴくりと片眉を上げる。
肩にかかる毛布を引き上げながら、リゼルは目を細め笑みを深めた。
「貴方達なら、こう言いますよね。“自らが望んでやっている事だ”」
「……ならばどうした」
「いいえ。それと同じ事、ってだけです」
信者が顔を険しくさせる。
「師と己を同列に語るか! 師と、我らのようなものだと……!」
「まさか。全然違いますよ」
激昂しかける信者を宥めるよう、優しく言う。
確かに傲慢な物言いだっただろう。支配者がそれを言えばそれは正しく“自らが望んだ訳でも無いのに信者が勝手に自分の為だと動いているだけだ”という意味で、そして信者からしてみればその言葉すら歓喜するべきものなのだから。
リゼルは違う。ジルやイレヴンが自分を助け出したいと思っていることを当然のように知っている。それが、リゼルの為でも何でも無く、彼ら自身の望みである事も。
「俺達は全員が、やるべき事をやりたいようにやってるだけですよ」
他者に願いを依存させない。誰かの為になど動かない。
ジル達に言わせてみれば、いつでも自分の意思で動いている。自身の意思で互いに利益があるよう考えている。自らの意思でリゼルを選んでいる。
そこにあるのは信者たちのような妄信による奉仕では無く、ただただ強烈な自己に過ぎない。それでも、その行動はいつでも自分に優しいのだからリゼルは感謝を忘れない。
ジル達の中で自己完結している時に礼を言うと嫌がるので言わないが。
「もちろん助けようとしてくれる事には感謝してますし、とても助かります。その上で言うと、正直ジル達に俺の意思ってあんまり関係ないんですよね」
「どういうことだ……」
「俺がサルスに行った方が良い状況でも、サルスに行かないと危険な状況だって、きっと彼らは俺を取り戻すって事です」
状況が反対なら俺も似たようなものでしょうけど、と当然のように告げるリゼルに信者は歪な笑みを浮かべた。何と自己中心的で醜悪な関係か、それと比べて己と師の何と尊い関係か。
自身を他者に捧げる幸福を知らない者達なのだ。我欲を無くし、ただ師の願いこそが自らの願いとなり、その願いを叶える欲こそが最も必要なものであるというのに。
「お前が師の真の威光を目の当たりにし、平伏する姿が早く見たいものだ」
「多分見られないと思いますけど」
「何、心配は無い……サルスへの道中、時間はある。俺が師に仕える喜びを教え込んでやろう」
誰かに仕える喜びならば知っているのだけど、と口には出さずリゼルは微笑んだ。それを了承と取ったのか反抗と取ったのか、満足げな笑みを深める男がふと手元へと視線を落とすのを眺める。
その手元にあったのは腕時計で、流石は魔法大国でそれなりに成績を残しているだろう人間だと頷いた。それなりの資金は持っているらしい、敬愛する師の為に使われるのだろうが。
「じき時刻か。師の魔法が他の使役魔法を蹂躙する光景を見せられないのは遺憾だが……」
彼らの使命が執行される時が近付いているのだろう。
笑みを消した男が文字盤を見る為に上げていた腕を下ろし、リゼルは自分もそろそろ移動なのだろうかと毛布を肩から滑らせた。流石にこれを巻き付けて移動はさせて貰えないだろう。
せめて上着ぐらい返して貰えないだろうか。そう思いながら顔を上げると、ふいに信者の男が怪訝そうに眉を寄せる。
「それは……魔石か」
リゼルは微笑みを一切崩さない。
「ピアスですか? そうですね、二つとも」
「一応それも預からせて貰う。こいつの手に乗せろ」
「別に今でも全然反応しないんですけど」
「一応、だ」
本当に、ふと気付いただけなのだろう。
手錠のお陰で全く魔石としての機能が無くなっている事も男は知っている。一応、と言う声は業務的で何の他意も含まず何てこと無い事のように言っていた。
リゼルは微笑んだまま、毛布を握る手を微かに強めた。これ以上反論は出来ない、渡したくないと告げれば余計に何かあるのかと勘繰られて力づくで奪われるだろう。
正解は恐らく、一度渡してしまう事だ。捨てられるという事はまず無いだろう、後で救出される時にでも回収すれば良い。
奴隷の男が立ち上がって此方を振り返った。入れ墨がなぞるように入れられている褐色の腕が、此方に差し込まれる。
「それって檻を通り抜ける時に壊れたりしないんでしょうか」
「これは絶縁体のようなものだ、握ってしまえば問題は無い。早くしろ、手錠が邪魔か?」
恐らく、ピアスをくれた自らの王は渡してしまえと言うだろう。
壊されるというなら何があろうと拒否するが、そうでは無いのだから。渡すか渡すまいか悩んでいる事すら一笑で済まされる。
リゼルは手錠に繋がれた手を持ち上げ、ゆっくりと髪を耳に掛ける。露わになったピアスの裏側にある、キャッチをなぞる様に指を這わせ手を止めた。
「嫌、です」
困ったような笑みは何処までも清廉で何処か儚く、誰もが手を伸ばしにくいそれに信者は目を見開き満面の嗜虐的な笑みを浮かべた。
「奪え!!」
彼が持つ唯一の鍵により牢の扉が大きく開かれる。
叫ぶように下された命令に、咄嗟に反応したのは奴隷の男だった。初めて見たリゼルの顔に驚愕し自らも驚くほどに狼狽しながらも、獣が檻を食らい襲いかかる様にベッドの上に座るリゼルへと飛びかかる。
「ッ」
両手で肩を押さえつけられ、ベッドへと縫いとめられる。
覆いかぶさるように此方を見下ろす奴隷の男を見上げながら、咄嗟に引き剥がそうと手錠に拘束された両手で彼の胸を押すも体勢は元より力自体が違う。チャリ、と鎖が鳴る音がリゼルと男の間で小さく響いた。
爪を立てても傷一つ付かず、恐らく目の前にあるその首を締めようと意味は無いのだろう。抜け出そうと動かした足は容易にシーツへ縫い止められてしまった。
「それ、貰うッ」
「、いけません」
「貰う……ッ早く、寄越せ!!」
抵抗するようなら多少痛めつけても良いと、誘拐される時に言われたと奴隷の男は言っていた。その命令は今も継続しているのだろう、真下から見える顔は焦燥に染まっていた。
両手が押す胸からは激しい鼓動が伝わり、小刻みな呼吸はいっそ哀れな程に苦しそうに喘いでいる。傷つけたくないと、そう思ってくれる程度には懐いてくれたのだろう。問答無用で奪おうとすれば既に耳を傷つけながら奪われている。
「(時間が、足りない)」
理想は完全に引き込んで脱出の手助けをして貰う事だったが、二日三日ではやはり不可能だ。命令を下すのは何年か十何年か、あるいはそれ以上に従う事を義務付けられた男達なのだから。
今、彼を説得し引かせるのは不可能だ。ぎりぎりと、握られ押さえつけられた肩が痛む。
「、……ッ」
肩が痛い。力を込めた体中が痛い。奴隷の男に釣られるように息が上がる。
押しのけようと押し付けている手が震える。愉悦に染まる信者の笑い声が牢に響く。思考が纏まらない。頭が痛い。こんな時にと、もどかしさに手に力が籠る。
耳へと伸ばされた手に微かに顔を背ける事しか出来ず、その顔も口元を覆う様に掌で固定されてしまった。ずるりと、力の入らなくなった手が男の胸元から崩れ落ちる。
「ん、ぅ……」
その手の指が、力など入らない癖に拒むように男の手へと触れた。それは、何かを願うようだった。
大切なものなのに、と奴隷の男は奥歯を噛みしめる。何も無く、それが自然で、しかし入れ墨だけは不思議と貶されると嫌な気持ちになって、恐らく大切なのだろう自らを証明する唯一を微笑んで肯定してくれた人の大切な物を、奪おうとしている。
でも、他の方法なんて知らない。だって命令されたらやらなければいけない。これが、彼に与えられた世界の全て。
「ごめん、なさい」
ぽつりと呟き、耳へと触れる。
男は覚えの無い感情に頭の中をぐちゃぐちゃに掻きまわされながら、ピアスに指をかけた。そして押さえつけた掌へと酷く熱く感じる指が爪を立て、覆った唇が何かを呟いたように動いたのに気付いた瞬間。
『誰のモンに手ぇ出してやがる』
抑えきれぬ怒りを孕んだ獰猛な笑みを、見た。
ドンッ、と国を揺るがす程の魔力の奔流にジルとイレヴンは別の場所に居ながら同時に弾かれるように顔を上げ駆け出した。
実際に揺れたのか、揺れたように感じたのかなど分からない。分かるのは衝撃波のように空気を震わせた圧倒的なまでの魔力、純粋な恐怖を通り越し畏敬の念を抱かせるそれは常人のものではなく、エルフのような異質なものでもない。
人のもので在りながら容易に人を平伏させるそれを感じた事など無いが、二人は気付いていた。彼らが求める唯一である存在が、忠誠を誓う王のものに間違いは無いと確信していた。
何があったのかと思考を働かせる隅で連れて行くなと懇願する思考を無理矢理抑え込み、二人は今はただ早く会わなければと地を蹴った。
全てを薙ぎ払うような魔力の衝撃に、何の影響もない筈の奴隷の男は跳ねるように起こした体を震わせる事しか出来なかった。一瞬見えた気がした心臓を鷲掴みにされるような笑みは、何処にも無い。
当たり前だ。三人しか居ない筈だ。しかし脳裏に刻まれた笑みを浮かべる口元が、気の所為だと思わせる事を良しとしない。
「な、何……何だ今の魔力は!! 有り得ない、あんな、あんな魔力が……!」
牢の向こう側では信者の男が叫んでいる。
全てを力尽くで薙ぎ払う。それが許されるような威圧的で膨大な魔力に、彼は吹き飛ばされて叩きつけられた壁に背を押しながら何とか立ち上がった。
彼には分かった。目の前の檻に張り巡らせた不可侵の魔法も、この場の入口を隠していた隠蔽魔法も、その他の魔法も全てが圧倒的魔力に弾かれ消失した。
人間業では無い。普段ならば師の方が素晴らしいと傲慢に笑う彼が、敬愛する師の存在を忘れる程に狼狽していた。
「あ……」
発狂するように叫び呟く信者の声が何処か遠く響く中、奴隷の男は組み敷いていたリゼルを見下ろした。
ベッドに膝をつき、上体を起こした男は動く事が出来ない。恐怖に震える体で浅い息を繰り返しベッドに横たわるリゼルを見下ろしていた。
その瞳はまるで縋るようで、うろうろと彷徨わせる視界が露わになった喉からシーツに散らばる髪を、そして触れた瞬間に一瞬光ったように見えたピアスを経由し閉じられた瞳へと行きつく。
「う、ぅ……」
喉の奥でうめくような声を洩らし、覆いかぶさるようにリゼルの顔の隣へと手を付いた。
ぐっとシーツを握ると閉じられていた筈の瞳がゆっくりと開いて行く。真っ直ぐに向けられた視線に、男はまるで泣きだしそうな顔をして顔を伏せた。
手錠に結ばれた両手が小さく鎖を鳴らしながら伸ばされ、両頬へと触れた。びくりと揺れる肩を慰めるように、掌は優しく頬を包み込む。
「他に方法を知らなくても、貴方のした事を私は許しません」
微笑んだ唇から零された言葉に、男は痛みを耐えるようにぐっと目を閉じた。
許さない。当たり前だ。あんなに嫌がってたのに。無理矢理奪おうとした。やらなきゃいけなかった。何で。ぐちゃぐちゃになった感情を纏めて有無を言わさず薙ぎ払われて、彼にはもう何も分からなかった。
でも、ただ一つ思う事がある。男の頭がゆっくりと降りて行き、額がリゼルの胸元へと触れた。請う様に、祈る様に、願う様に額を擦りつけ想いを口にした。
「許す、止めて」
許さないでと、ただそれだけが彼の本心だった。
許さないと言われたのだし、わざわざ言う必要は無い。しかし、言いたかった。それは、男が奴隷と呼ばれるようになってから初めて自身で選んだ意思だったのだから。
そしてそれを吐きだした今、本当に彼には何も残らない。今まで通りにも戻れず、何も分からないままに朽ちて行くだけだろう。
言葉とは裏腹に優しい掌が頬から頭に移り、慈しむように撫でるのに甘え体の力をゆっくりと抜いて行く。余分なものが全て取り除かれていく感覚は何処か目の覚めぬ安眠に落ちるようだった。
「おい、何をしている! そいつを連れて来い、今の魔力は何だ!!」
彼にはもう、命令など聞こえない。
膨大な魔力から溢れる圧倒的な存在感は、彼の中の長年に渡る刷り込みすらも消し飛ばした。支配者や信者らに従う事が、あの存在を知った今となっては意味をなさなかった。
「どこまでも使えない戦奴隷めが……!」
ガチャガチャと、奴隷の男が入った後に再び閉められていた扉が開かれようとしている音がする。混乱と焦燥と苛立ちで焦る信者の手元は、数ある鍵の中から正しいものを選ぶ事も出来ず、叩きつけられた魔力の影響で震えていた。その指先を酷使し、一つ一つ鍵を鍵穴へと叩きつけるように差し込む。
鉄と鉄がガチガチとぶつかり合う不快な音がする。
「貴方のその従順さは、奴隷というより生来の気質が強いんでしょうね」
そんな中で零された穏やかな声に、男は閉じていた瞳を薄らと開いた。
何故か、リゼルの声だけは届く。触れた額を通して流し込まれる声は心地良く、もう少し聞いていたい。
「本当は選んで此方側になって貰おうと思ってたけど、時間が無いから」
髪を撫でていた手が、促すように頭の両側に添えられた。
その手に導かれるままに、永遠にまどろんでいられそうな感覚を惜しみながら体を持ち上げる。再び見下ろした顔は、変わらず微笑みを湛えていた。
ガチャガチャと、背後からけたたましい音が聞こえる。
「何も無くなったなら、今だけ私の奴隷になって」
許されたくないなら、そう囁かれ自ら願うように頷いた。
奴隷は主人に疎まれるものだと、男は今までの経験から知っている。それはつまり、許される事が無いという事だ。
望んだ願いが叶えられた喜びに背筋が震え、シーツを掻きむしるように掌に力を込める。恍惚と浮かぶ笑みが止められず、見下ろした穏やかな顔が目を細め微笑んだ。
「でも、支配者さんと同じは嫌だし」
伸ばされた手が男の目元をなぞる。
まるで刃物のような、髪と同じ鈍色をした瞳にリゼルが映り込んだ。そして目に映るその唇が薄らと開く。
「“彼の一族は戦で真価を発揮する。万の軍より十人のその者らが欲しいと言われた”」
優しい声で語られた一節は、男にも聞き覚えがあった。
それは記憶の始まりにある。誰かが何かの本を持って此方を見下ろし、それを読み上げていた。戦になる度に支配され使われる奴隷の一族だと、嘲笑されながら。
聞いた事があると首を振るが、しかしリゼルの声は止まない。これだ、これだ、と背後から傲慢な歓喜の声が聞こえた。
「“襲い来る魔法を喰らうように走り抜け、舞う様に己の刃を振るい敵を斬り捨て、戦場ごと全てを隷属させる最強の名を欲しい儘にする一族はいつしかこう称される”」
目を見開いた男へと、リゼルは優しく命令を下す。
「私の為に舞いなさい、戦奴隷」
鍵が開き扉が押し開かれる音がした。
直後、コーンッと何処までも澄んだ音が響く。それは断ち切られた鉄の檻が石畳を跳ねる音で、幾重にも重なり音色を奏でている。
険しい形相で檻へと足を踏み入れようとした信者を、奴隷だった男がゆっくりと振り返る。その両脚からは脹脛から踵にかけて、美しく鋭い鎌のような刃が伸びて鈍色に光っていた。




