114:この後すぐ寝た
例えばあの時、あの人の前に飛び出したとしてどうなったのだろう。
それは考えるまでも無いことだった。何も変わらない、結局奪われていた。
逃がそうとしても一人では恐らく数秒程度しか足止めが出来ない。その程度の足止めで逃げられるような相手でも無い。自分がどれ程血を流そうと地面に這い蹲ろうと、穏やかで清廉なあの人は一切こちらを心配する事なく同じ台詞を口にしていた。
別にそれは良い。心配されたとなれば誰の所為だと興醒めで、気に病むようならハイハイすみません余計なことしましたと不愉快で、二度と関わらないだけなのだから。
ならば傍観して必要な情報を集めて、さっさとあの人の事を大事に大事にしている二人に伝えた方が余程有意義だろう。対抗どころか圧倒出来る人間に丸投げするのが一番だ。
「(あぁ、でも)」
前髪で両目を覆った男は露わになった口元が笑みに歪んでいくのを、手で覆い隠す。
血を流そうと地面に這い蹲ろうと意味など無いが、あの甘く穏やかな目が褒めるように向けられる機会を逃した事だけが惜しかった。
「……って訳で途中で撒かれて、貴族さんが何処連れてかれたかは不明ですね」
なんていうのが唯一の未練だなんて笑えないと、精鋭と呼ばれる男は笑みの浮かぶ口元を引き攣らせた。
場所はジルの部屋。その部屋の主はベッドの上に座り、つい先程までやっていた剣の手入れの手を完全に止めている。元よりガラの悪い顔は何かを考えるようにガラの悪さを増し、手に握る研ぎ石は力を込められパキリと欠けた破片が床に落ちた。
それダマスカスじゃ、と精鋭はいつでも逃げられるよう窓にかけた足に力を入れる。初めから何かあれば直ぐ撤退出来るようにと一切その身を部屋の中に入れてはいないが、ジルが本気で彼を殺そうとすれば何をしようと意味など無いのだから精鋭にとっても気休めにしかならない。
『殺さないようにって、伝えて』
しかしそうはならないだろう。連れ去られる直前にリゼルが零した言葉を、情報の前提として既にジルへは伝えてある。
誘拐した男にはどう伝わったのだろうか。此方の存在に気付いていないのならばただの命乞いで、気付いていたとしてもどうせ意味など分からないだろう。
それはジルとイレヴンへと向けられた伝言の一つ、そして精鋭達の命を保証する何より確かな一言。気が利く人だとリゼルへ心からの感謝を向けながら、精鋭は二つ隣の部屋から聞こえる人を壊すような音と途切れ途切れの悲鳴に聞こえないふりをした。ジャンケンで勝って良かった。
「何処だ」
「国出たトコです」
何処で撒かれた、という意味で間違っていないのだろうと精鋭は答える。
「や、罠張られたんすよ。うちの自称“呪術師”曰く、『褒め称えたいほど陰湿で、罵倒したいほど整然で、見たくもないほど神経質な魔法』みたいで」
アスタルニアの国から出て目の前のジャングルへと飛び込んだ追跡対象は、まるで霧のように姿を消した。あらかじめ仕組まれた魔法だったのだろう、続けて追おうとも濃霧に阻まれ先も見えず、何かが狂わされたように方向感覚も失った。
その時点で完全に見失ったが、直ぐさま知らせるよりは情報が多い方がマシだろうと精鋭の中でも魔法に長けている男を呼んで調べさせた。その魔法使いの癖に魔法使いと呼ばれるのを嫌がる男が出した結論が、この褒めているのか貶しているのか分からない一言だ。
「(なら拠点も魔法で隠蔽してありそうだし、見つけんのムズそ。貴族さんなんか目印とか……ねぇな。あの人保身第一だから)」
そう考えながら、精鋭は首筋の冷や汗を乾かすように首を反らして暗い空を見上げる。
殺気や怒気が向けられている訳でも、威圧を感じる訳でも無い。むしろ想像より冷静に何かを思考しているジルを前に、しかし精鋭は今すぐにでもこの場を離れたくて仕方が無かった。
リゼルにより与えられた命の保証が破られる事は決して無いと理解しているが、それはもはや本能的なものなのだろう。必要なことは伝えたしさっさと行こうと、窓の上で腰を浮かす。
「じゃあ、そういう事なんで。貴族さんの手掛かり見つかったらまた来ます」
リゼルが攫われたと告げた時の第一声以外こちらに一瞥も寄越さない相手に、特に何も思わず精鋭はそのまま屋根の上へと上がる。この国では空を魔鳥が巡回するので酷くやりにくいが、暗くなってしまえば夜目の利かない魔鳥を振りきるのは難しくない。
先程から聞こえていた悲鳴はもはや消えている。生きてはいるだろうと気にせず屋根を蹴って移動を始めたが、しかしここまでの間イレヴンの声が一切聞こえないのが恐ろしい。
「どっから当たっかな……貴族さんがいりゃピンポイントで指示くれんだけど」
そんな本末転倒だが心からの本心を呟きながら、彼は月も見えない夜のアスタルニアへと溶けるように消えて行った。
『事態は進行していますが、焦っても良いことは無いでしょう。情報が無ければ対策も打てません』
いつか聞いたリゼルの言葉を思い出し、ジルはその通りだと眉を寄せて髪を掻き上げた。しかし実際に当事者になれば納得し実践するのは困難だと、ざわつく心を落ち着かせるように深く息を吐く。
自らの感情すら容易く制御するリゼルにとっては、例え敬愛する国王が誘拐されようと容易なのだろう。勿論それは気持ちを切り替えているというだけであり、何も感じていないのとは全くの別物なのだが。
「使えねぇ雑魚ばっかかよ、うっぜぇな……」
ふいに、舌打ちをしながらイレヴンがジルの部屋へと入って来た。
こちらは取り繕おうともしていない。誰が見ても不愉快そうな空気を醸しながら目を細め、ベッドの上に腰かけるジルを見据える。
「余裕こいてんね」
「そう見えんなら目が悪ィな」
端が欠けたダマスカス鉱の砥石を指で遊びながら視線を寄越したジルに、イレヴンは分かっていると言わんばかりに唇を歪めて閉じた扉へと凭れた。
腰につけた剣の柄をなぞりながら、何処へでも無く視線を投げる。飛び出す程に短慮ではないが、漠然と待つには奪われたものは大き過ぎた。
ジルが煙草を取り出し、咥える。そして火をつける姿をイレヴンはおもむろに見やり、口を開いた。
「リーダー何か言ってたりしねぇの」
「ねぇよ、あいつにとっても想定外だろ。完全に、かは知らねぇが」
こういう時に先だって対策をしておくのがリゼルなのだから、連れ去られたのなら彼にとっても予期していた事では無いのだろう。連れ去られた方が都合が良い場合があったとして、リゼルはジル達がそれを許さないと知っているのだから基本的に勝手な真似はしない。
精鋭から聞く限りの情報では一切の抵抗なく連れて行かれたというのだから、少なくともすぐに殺されるような危険は無いと判断したという事だ。例え決して戦力で敵わない相手だったとしても、命の危険があるならばリゼルは多少の危険を顧みずに打てる手を打つ。
「森ん中とか厄介だよなァ……あいつら全員に探させても三日四日かかりそ」
「森ん中に逃げたからって森ん中にいるとは限らねぇだろ」
「中は俺が回る。つってもワルイ奴らが潜れそうなトコなんざほとんど知ってっけど」
ガリ、とイレヴンの爪が背後の扉の表面を削る。抉られ零れた小さな木片がパラパラと床に落ちた。
同時に爪の間にもそれが入り込み皮膚へと刺さるが、もはや痛みなどは感じない。冷静を装ってはいるが冷静でいられる訳が無く、皮肉気な笑みを浮かべる瞳は何も映さず深い闇を孕んでいた。
ジルがそれに不快そうに視線を向ける。しかし目が合えばにこりとわざとらしく笑って見せるのだから、呆れるほどに本心を隠したがる男なのだろう。
「母さんに言えば森族の協力もあんスけど」
「止めとけ。でかく動いて向こうに勘付かれちゃ面倒だ」
そうだよな、とイレヴンは投げやりに頷いた。そもそも大々的にリゼルを捜索させようと思うとリゼルにより築かれた人脈により手は幾らでもあるのだが、とはいえ相手の正体も意図も分からなければ下手に動く事も出来ない。
こういうのはリゼルが得意なのだがと、どこぞの精鋭と似たような事を思いながら二人は同じ結論に達する。拠点を見つけ出すか向こうから何かがあるまでは、此方からは決定打を打てない。
「三日たっても動きが無けりゃ手ぇ変える。良いな」
「…………まぁ、そんなもんスね」
動きといってもリゼルが捕らえられている相手側の拠点を見つけるだけではない。
リゼルが何らかの手を打って、相手を動かすかジル達を呼ぶのも含まれる。ジル達も互いに何も出来ないような相手について行った覚えは無い、ある程度動ける環境にいるのならば自力で脱出の手筈を整えるだろう期間が三日だ。
流石に誰もおらず何も無い空間に閉じ込められでもすれば無理だろうが、それは無いだろう。リゼル相手にそんな勿体ない使い方はしないというのがジルとイレヴンの考えだった。
「だいじょぶかなァ」
気だるげにも見えるように細めた目を、何処へでもなく流しながらイレヴンがぽつりと呟いた。
「腹減ってねぇかなァ、寒くねぇかなァ、変な場所に閉じ込められてねぇかなァ」
その表情からは一切の感情が抜けおちていた。
しかし指は深く扉を抉り続けている。より深く抉られた爪跡が唯一彼の感情を表しているようだった。
そして、空気が張り詰める。
「痛いコト、されてねぇかなァ」
途端、イレヴンを中心にゾワリと肌を這うような殺気が広がった。
爪で抉られる扉がぎしぎしと軋む音を立てる。限界まで握りこまれた扉は、硬く繋ぎとめられていた板がバキンと酷く大きな音を立ててへし折られた。
その音にパッとイレヴンが手を離す。無意識だったのかどうなのか、こびりつく木の破片を払う様に手を振った彼は既に普段の姿へと戻っていた。
「あーあ、リーダーに怒られそ」
そして自らが傷つけた扉を一瞥し、そのまま部屋を出て行く。
音を立てて閉じられた扉へとジルは煙を吐き出しながら視線を向けた。ジルもイレヴンも互いにどう動くのかなど興味が無く、犯人の正体なんて話し合う必要も無い。
それはリゼルを危険に晒すような真似をするような馬鹿ではないと互いに知っている為で、誰が犯人だろうと許しもしなければやる事にも変わりがない為だ。
「(キレてんじゃねぇよ)」
そう内心で呟いて、咥えていた煙草に指を添えながら立ち上がる。
そして少し離れた机の元まで歩み寄り、上に乗っている灰皿へとそれを押し付けた。完全には消えず細い煙を上げるそれを見下ろすと、噛みつぶされたフィルターが目について舌打ちを零す。
自分も人の事など言えやしないと苛立った仕草で髪を掻き上げ、ジルはそのまま部屋を出て行った。
リゼルは真っ黒な視界の中で考える。
目隠しをされ、抱えられながら移動したので何処に到着したのかは分からない。しかし移動時間的にそれ程遠くまで来たと言う訳では無いのだろう。
最後に恐らく急な階段を下りたので場所は地下だろうか。お腹に食い込む腕が苦しいと思いながら特に抵抗もせず身を任せていた。
裸足の足が床を踏む音がする。自らを抱える男の足音だ、靴が嫌いなのかなと思っているとふいに歩みが止まった。男とリゼルの進行方向から複数人の足音が近付いてくる。
「連れて来たみたいだな」
聞き覚えの無い男の声がした。酷く傲慢な声だ。
自らを連れて来た男には此方に対する敵意も殺意もなかったので、この傲慢らしい男が主犯なのだろうか。腹に回された腕が緩められたので、落とされないよう地面に足を付けながら真っ直ぐに立つ。
目隠しをされたまま、この辺りだろうかと声の聞こえる方向に顔を向けると一人分の足音が近付いて来た。そして目の前で止まる。
「こうも簡単に攫われるような男に……」
その言葉は憎悪を含んでいて、リゼルは果たしてそれ程に恨みを買う真似をしただろうかと記憶を遡ってみた。ちょいちょいしていたような気もする。
「目隠しをとってやれ」
ふいに出された指示に、隣かやや後ろに立っているだろうリゼルを此処まで連れて来た男が動いた。別に手は拘束されていないし自分で解いても良いけどと思っていると、頭の後ろできつく結ばれた結び目が引きちぎられる音がして一気に目隠しが緩む。
鼻先を滑り落ちて行く感触を感じながら、リゼルは入り込んで来た光にゆっくりと目を開いた。
「……成程、冒険者を探しても見つからない訳だ」
そこは、まるで洞窟を綺麗に整備したような場所だった。
上下左右にしっかりと石が敷き詰められ、平らに整えられている。窓は一切無いのでやはり地下なのかもしれない、等間隔で備え付けられているランプの灯りのお陰で余り眩しさを感じずに済んだようだ。
それを確認し、リゼルはようやく目の前の男に視線を向けた。声同様に瞳でも傲慢を湛えた男はまるで実験体を観察するように此方を見ている。
「愚かな復讐者を誑かした甲斐があったというものだ」
リゼルは一瞬パチリと目を瞬かせ、しかし直ぐににこりと微笑んでみせた。
「彼にフォーキ団の頭領の居場所を流したのは貴方方だったんですね」
「多少頭は回るらしいな」
男は鼻で笑う。それはまるで自分の目論見通りというような、何処か満足げな笑みだった。
機嫌を損ねず良かった良かったと、リゼルは微笑んだまま男を見る。何はともあれ誘拐された人間が最優先すべきは自己の安全だ、とれる機嫌はとっておくに限る。
しかしイレヴンの盗賊時代の情報がそれ程漏れているとは思えない。もちろん実際に対峙したかの復讐者ならば別だが、と極々自然にリゼルは口を開いた。
「うちのイレヴンが盗賊だなんて、あの人も良く信じましたね」
「馬鹿な男だ。赤毛だ赤毛だと言っていたから丁度良いと利用させて貰っただけだというのに」
成程、と内心で頷く。つまり復讐者が本物を引けたのは奇跡的な偶然だったらしい。
そもそもリゼル達に関して探れば精鋭達が気付く。それを気付かせず誘拐まで漕ぎつけようとするのに復讐者は良いスケープゴートだったのだろう。
この場所といい復讐者を使った情報収集といい、綿密な準備が行われた上での行動のようだ。それだけで相手の正体が大分搾れそうだと思っていると、ふいに男の手が伸ばされた。
「ふん、余裕そうだな」
その手が、リゼルの前髪を掴み上げる。少しの痛みを伴うそれに少しも顔を歪めることなく、リゼルは微笑みを絶やさない。
「まさか、一杯一杯ですよ」
「面白い事を言う」
怯えろというなら彼の征服心を満すように怯えて満足させてみせる。
許しを乞えというなら彼を主と扱うように乞うて満足させてみせる。
ただ男は違うのだろう。余裕を崩さず知性を醸す姿、それを望んでいるというのはその歯を剥くような笑みを見れば明らかだった。
「我が師を陥れた男が、この程度の事でうろたえて貰っては困る」
そして、リゼルは男達の正体に辿りついた。
笑みを深めてみせると髪を握る手が離される。痛む生え際をゆっくりとした仕草で撫でながら、さてどうしようかと思考した。
復讐という割には憎悪は向けられるが殺意は向けられない、ならばまだ何か利用価値があるのだろう。それが知識かジル達もおびき寄せる為の餌かは分からないが、取り敢えず拘束されるのでは無いだろうか。
「おい、アレを寄越せ」
男が後ろに立つ仲間から何かを受け取る。それは見るからに手錠の形をしていて、髪を耳にかけながら微笑み「当たり」と小さく呟いた。
ただ普通の手錠とは違うようで、手首を拘束する部分の内側には魔石が埋め込まれ魔法式が刻まれている。二つのそれを繋ぐ部分は短い鎖で、それには特に仕掛けは無いようだった。
細かい魔法式は見えないが、状況的に恐らく魔力を封じる仕掛けでもされているのだろう。そういうのを用意出来る所は流石だ、と内心で頷く。
「拘束する前に上着を脱がせ」
「服ぐらい自分で脱げますよ」
「何かを仕込む機会を与えるような愚か者に私が見えるか?」
嘲笑と共に告げられた言葉に、大人しく従った方が良さそうだとリゼルは素直に脱ごうとした手を下ろした。確かにイレヴンは装備の下に色々仕込んでいるし、実際ジルやイレヴンにより“冒険者なんだからナイフの一本ぐらいは身に付けておけ”というアドバイスを貰ってからベルトに一本差している。
指示され動いたのはやはり誘拐した男だった。先程から一言も話さない彼に視線を向けると、鈍色の瞳がゆっくりとリゼルの服へと視線を落とす。
脱がしやすいだろうと其方へ体を向けると一瞬だけ視線が合った。しかし直ぐに視線は服へと戻され、伸ばされた両手がリゼルの襟元を握る。
「これ、最上級の装備なので破れないと思います」
「…………」
「でしょう?」
グッと力が込められた手元に服がぎしりと音を立てる。
しかし最上級の素材を使い特殊な方法で仕立てられた装備はちぎれもしなければ伸びもしない。ここを外して、こう、とリゼルが説明していた時だった。
「さっさとしろ! 言われた事もまともに出来んとは、これだから“スレイヴ”は……!」
怒声にピクリと跳ねた手が、ぎこちなくリゼルの服を脱がしていく。
リゼルは一切の反論無く服を脱がしていく男を見ながら微かに首を傾けた。
「(スレイヴ……奴隷?)」
確かに見た目はそれっぽいかもしれない。
鈍色の髪に鈍色の目、アスタルニアでは溶け込む褐色の肌を持ち、まるで獣を彷彿とさせるしなやかで鍛えられた体を包むのは白いボロボロの服だけ。露わになった肌には髪や瞳と同じ鈍色の入れ墨が刻み込まれているのが、少しだけイメージと離れるだろうか。
そう、イメージだ。実際に目にするようなものではない。
「(向こうでも極一部で奴隷文化が残ってる所もあったし、こっちでもそうなのかな。でもこの人達は絶対にそんな文化には居ない筈だし、なら奴隷を所持するなんて発想は無いはず……)」
ほとんどの人々にとっては物語の事で、歴史に詳しい人々にとっては遠い過去に存在したのが奴隷という制度だ。
それはリゼルの元の世界でも変わらないし、こちらでも今までに一度たりとも聞いた事は無い。本を読む限り向こうとほぼ同様と思って間違いは無いだろうが、ならば目の前の存在は何故奴隷と呼ばれこき使われているのだろうか。
「そう、後は腕を抜くだけです」
気になる、と思いながら袖を引き抜くのを助けるように腕を抜いた。
上着を脱いでも普通にまだ着ているので肌は出ないが、流石に薄着となるので少し肌寒い。薄着とはいえ最上級素材で作ってあるので多少はマシな筈なのだが、さすが地下だと苦笑した。
「腰につけてあるポーチもナイフも全て取れ」
当然の警戒か、とリゼルは没収されたポーチを見つめた。
果たしてこれからどう拘束されるのかは分からないが、状況によっては本だけは欲しい。流石に言える訳が無いので口には出さないが。
そしてようやく男により手錠が嵌められる。前に手を揃えて拘束され、魔石などの仕掛けのお陰で痛くは無いが少しだけ重かった。
「これでお前は魔法が使えない、無様だな」
「貴方方らしいお言葉ですね」
「事実だろう?」
男は当然のように笑った。見開かれたその瞳には一点の曇りも無い。
男は知っている。信じている。自らの敬愛する師の言葉こそ真実で、思想こそ世の真理で、存在は指針となり、常識は師から学び、彼の人へと向けられる感情は尊敬しか許されないと、一切揺らぐこと無く信じている。
「我が師、我が父、我が神。名前を呼ぶ事さえ憚られる偉大なる存在へと与えられた異名こそが“異形の支配者(Variant=Ruler)”」
誇るように、祈りを捧げるように、男はその異名を口にした。
そしてその目がリゼルを見る。見開かれた目で此方を映さず唯一人敬愛する師のみを映している彼には、まさに狂信者の名が相応しい。
「魔法が使えぬなど彼の人の真逆とも言える、許されざる存在へとお前は落とされたのだ。無様と言わず、何と言う……」
存分に哀れみを含んだ声に、リゼルはチャラリと鎖が小さく音を立てる手元の手錠へと目を伏せた。
「(牢屋って意外と綺麗)」
そして今、リゼルは牢屋の中で物珍しげに周囲を眺めていた。
意外にも土ぼこりすらない石畳の牢屋は、やはり窓が無くベッドだけが置かれている。地下なのだから何処かに通風孔がある筈なのだが、当然の如く牢屋からは見えない場所にあるのだろう。
しっかりした造りは一朝一夕で出来るものではなく、狂信者たちが作ったものとは到底思えない。ここが森ならば放棄された森族の住処なのかもしれないし、そうじゃないなら商業国にあった地下通路のようなものなのかもしれない。
今の所は分からないなと、ポスリとベッドに横たわってみる。硬い。
「(手錠……自力じゃどうにもならないし、転移魔術も使えない)」
横になったまま、視界に入る手錠をじっと見る。
色々と手の角度を変えながら内側を覗き見たが、恐らく魔力を体外に出せないようにしているのだろう。言うならばジル状態になった。諦めるしかない。
体を起こそうとして、片手を動かしかけ手錠に引っ張られる。慣れるまでにもう少しかかりそうだと、両手をつくようにして改めて体を起こした。
「(心配してるだろうなぁ)」
しかし魔力も使えないし周りを石に囲まれているしで、脱出は難しい。
それに、更に厄介な事もある。
『私達はまだやる事があるのでな、牢屋に突っ込んでおけ』
リゼルが牢屋に入れられる時に狂信者たちが言っていた事だ。
自らを捕らえて何がやりたいかなど知らないが、早速放置するならばそれなりの理由があるのだろう。此処まで連れてこられる間も何となく感じていたが、恐らくこの拠点を隠蔽する為に何らかの魔法的措置を行うのだと考えて間違いはない。
ならば捜索はかなり困難になるだろう。ジルもイレヴンも気が長いとは言えないし大丈夫かなと思いながらベッドから立ち上がる。
「(こうなると自力での脱出なんて内通者でもいないと難しい)」
なら、作れば良い。他にも手は考えるが有効な手札は多ければ多いほど良い。
それに気になっていたしと、リゼルは牢屋の向こう側で檻の直ぐ横に胡坐をかいて座っている人物へと近付いた。奴隷と呼ばれた男は見張りを言いつけられていたが、向こう側を向いてぼうっと視線を投げている。
出来るだけ近付いて、しかし少しの距離を開けてリゼルもすとんと石畳へと腰を下ろした。男の鈍色の瞳が此方を向く。
「つまらなくないですか?」
「……」
少しの間の後、ふるりと首が振られた。
じっと此方を見る視線をしばらく窺う。特に不快では無いようだと判断して、リゼルは穏やかに微笑んだ。
「俺は少しつまらないです。お話、してくれませんか?」
ゆっくりと話しかけると、男は再び数秒の間が空きながらも一度立ち上がり背中を向けていた体勢を直す。
完全に此方を向きはしなかったが、話し合いに問題は無い程度にはなった。それを了承と受け取り、リゼルも少しだけ距離を詰める。
「此処、ちょっと寒いですよね。君は大丈夫ですか」
小さく頷かれ、羨ましいことだと露わになった体を見る。
しなやかな体に刻まれた入れ墨は、適当に彫られたとは思えないほどに美しい文様を描いていた。芸術的というよりは野性的な美しさ、彼には良く似合っている。
こういったものは大体何処かの民族の証だったりするのだが、彼もそうだったりするのだろうか。民族内で古くからの奴隷制度が儀礼的な意味を持ち残っている、というなら理解が出来なくも無い。
「その入れ墨、とても綺麗ですね」
パチリ、と男の目が瞬かれた。
その口がはくりと開き、閉じる。数度繰り返したそれを、話せない訳ではないようだとリゼルはゆっくりと待った。
そしてついにその唇から声が零れる。見かけに反して堂々と話しはせず、声量を抑えたように静かな声だった。
「野蛮、似合う」
その声は微かに不思議な音を孕んでいた。静かな牢屋だからこそ気付ける程度の小さな違和感だ。
まるで金属と金属を擦り合わせたような、鈴の中で音も無く玉が転がるような、不快では無く研ぎ澄まされるような音が、ぽつりぽつりと零される声に紛れている。
リゼルがゆるりと首を傾げ優しく促すと、男はようやく感情を示すように少しだけ眉を下げながら再び口を開いた。
「入れ墨、野蛮、言われる。奴隷、だから」
野蛮な入れ墨は奴隷にお似合いだと言われた、で良いのだろうか。
しかし野蛮という人間がわざわざ他者に入れ墨を彫ろうとはしないだろう。そもそもこの辺り、勿論サルスにも入れ墨と言う風習はほとんど無い。
ならば狂信者たちにより彫られた訳では無く、それ以前の事なのだろう。彼がいつから奴隷と呼ばれているのかは分からないが。
「君にとって大切なら良いと思いますよ」
「?」
「俺が視線を向けても、少しも隠そうとしなかったでしょう?」
普段から野蛮だ野蛮だと言われていても、決して他者の視線に恥じたり隠したりしない。
ならば彼にとっては大切なもので、あるいは誇るべきものなのだろう。全てを受け入れるような穏やかな瞳に男は目を見開き、そして恐る恐る、しかし力強く頷いた。
彼が狂信者に進んで従っている訳ではないのだろう。しかし命令を受け罵倒され、それを当然の事だと思っている程度には受け入れている。
誇れるものがあるのは良いことだとリゼルは微笑んだ。引き込もうと敢えて機嫌をとるような真似はしない、これはリゼルの本心だ。
「その入れ墨は、君が生まれた所では全員いれるんでしょうか」
「……生まれ」
男の声が途切れた。そしてふるりと首を振られる。
今尚古い習慣が残る故郷が興味深いと問いかけてみたのだが、どうやら覚えていないらしい。ならば相当小さな頃に家族の元から離されたのだろうか。
奴隷と言えば家族が子供を売る、という事も有り得ない事では無いのだろうか。しかし家族にとは言わないが仮に売られたとして、物心もつかない子供など買い手がつかないだろうにと実感が湧かない。
よほど特殊な存在ならば別かもしれないが、どうなのだろうか。
「君は、奴隷と呼ばれていましたね」
先程の物言いからして特に触ってはいけない所では無い筈だ。リゼルは距離を図りながら問いかける。
想像通り、男は気負いすることなくこくりと頷いた。彼にとって奴隷と呼ばれる事も手荒く扱われるのも当然のことなのだろう、物心ついた頃からそういう扱いをされているならば理解できる。
奴隷というものに全くの馴染みが無い狂信者たちが、彼を奴隷と言う理由がある筈だ。男がゆっくりと口を開く。
「いつも、言う。俺、奴隷。戦しか、役立たない、戦奴隷」
リゼルは微かに目を見開き、そして何かを考えるように口元に手を当てる。
じっと此方を見る男の前で、ふいに可笑しそうに笑った。小さく零れた笑い声に不思議そうな顔をする男へと視線を向け、何かを納得したようにじっとその姿を見つめる。
「成程……君の御主人様は、随分と言葉遊びが嫌いな人みたいですね」
笑みを含んで零された声は目の前の見張りへとしっかり届いたが、男は訳が分からないというようにパチパチと目を瞬かせているだけだった。




