■山椒魚から逃げよう!
「いつっつつつ、つめたっ。たはー、ちょっと調子に乗りすぎちゃったな」
なんとか初野外自力焼肉を成し終えたハルトは、キャンプからすこし下った場所にある清流に両手を浸していた。
両手が真っ赤に腫れ上がっている。
火傷だ。
肉を焼くときに負ったものだった。
本当は楽しく騒いでいる間もけっこう痛んではいたのだが……オルデヒアの笑顔が嬉しくて、すっかり忘れていたのだ。
あのあと残った肋肉は、残念ながら片っ端から丸鍋に放り込み塩ゆでにするほかなかった。
鍋は枝にハンモックの要領で吊るされ、エルフの隠れ蓑の技で野生動物の耳目、嗅覚から完全に隠されている。
充分に火を通したし、明日の朝ご飯は豪勢だ。
そのぶん、いま空腹を覚えているハルトなのだが。
「でも……うまかったし、オルデヒアも楽しんでくれてたみたいだから、いっか」
傷の痛みにときおり顔をしかめながらではあったが、晴れやかにハルトは笑った。
端から見たら、バカにしかにしか見えなかっただろう。
だが、それはハルト自身の生まれ持った性格では、じつはない。
勇者の血筋に生まれつき、《ちから》の覚醒を見た者としてハルトは成人までの15年間を過ごしてきた。
徹底的に叩き込まれる戦技、異能の基礎理論、魔力のコントロール法、そして、勇者としての心構え。
聖剣の真の《ちから》は“自己犠牲”によってしか発動しない。
だからオマエは、我が身をだれかのために使うことを「喜び」としなければならない。
ハルトは徹底的にそう教育されてきた。
笑顔を絶やすな、という教え。
オマエは人々の希望でなければならないんだぞ、という脅迫じみた。
その教育が、いまのハルトを形成したのだ。
たとえ、勇者としての《ちから》のすべてを失っても、それは変わらない。
「それにしても……こんなに心細いもんなんだな……ふつうのヒトたちはこういう気持ちで、ずっと生きてきたし、これからも生きていくんだな……つよいんだな」
両手を清水に浸したまま頭上を仰げば、降ってきそうな満天の星空。
満月はずいぶん西の空に傾いた。
虫の声が、耳に痛い。
「こんな火傷くらい、初歩の治癒魔法や薬師の薬草なら秒で治っちゃうのになあ……。どっちもふつうのヒトには手が出ないほど高額だもんなあ。理不尽、だよなあ」
初夏といっても高原の夜は冷え込む。
吐いた息が、白い。
「ふつうのヒトとして生きていくのって、たいへんなんだな。オレなんか、肉を焼くだけでこのありさまだもんな。みんなすごいよ。ちゃんと自分の技術で生きているんだもんな。魔法無し、異能無し、なんだぜ? どうよ、聖剣:アルテマグナス、そう思わないか。……オマエもそんなにちびちまって、無口になっちまって」
ひとりがたりでハルトは腰の短剣に語りかけた。
無職が帯びるにはいささか作りの立派すぎるその剣は、まるで場違いな宝飾品のように見えたが、そうではなかった。
これが世界を救った二振りの剣。
聖剣:アルテマグナスと魔剣:ラグナクロス。
その聖なる側の、成れの果てだった。
かつては知性ある剣として個性的な投影体を備えてもいたのだが。
いまやもうその《ちから》は失われてしまいってる。
聖剣は眠りについたのだ。
だから、その鞘と柄に警告じみて光が走るのを見たとき、ハルトがすっとんきょうな声をあげたのも無理はない。
キーン、と頭に響く音まで発して。
「ふえ?! え、なにこれ?!」
いや、ハルトはこの現象を知っていた。
ただ、いま、まさかこんな場所でそれが起るとは……思わなかっただけなのだ。
そして、ハルトがこの現象の正体を理解するよりもはやく、現実のほうが先に迫ってきた。
川面が、まごつくハルトめがけてせり上がってきた!──ように見えた。
ざばり、がぼり、と牙を剥いて。
「うわっと、ちょっちょっ、ちょいまち、なになになに、なにこれッ!!」
ハルトはとっさに後ろ向きに転がって逃げた。
そのあとを数センチの際どさで牙が、追う。
星空を写し取ったような黒色の肉体に真っ赤な口腔。
その内側にはびっしりと鋭い牙が生えそろっている。
目はどこにあるのかわからず、全身が粘液でぬらぬらと光っている。
「うわわわわっっ!!!」
ハルトは叫びながら体勢を……建て直すヒマもなく飛び退いて転がって距離を取ろうとする。
そのたびに、がちん、がちん、と顎の噛み合わされる音がする。
こけつまろびつ、ハルトはいま自分がまともに使える唯一の武器(のはず)、ちびた聖剣:アルテマグナスを引き抜こうとした。
するとどうだろう。
鞘ごと抜けたではないか。
ベルトから。
「ちょっ、おまっ、刃が……鞘ごとって……鈍器なのかよッ!!」
ぶんぶん、とあてずっぽうに振り回したそれが、迫り来る脅威の鼻面をぺちん、と殴るが……たぶんダメージにすらなってない。
「や、やくたたずううううう!!!」
おそらくいまの自分に対する世間の評価と同じそれを聖剣相手にぶつけ、ハルトは転げ回った。
そのあとを、真っ赤な口が追いかけてくるッ!!
「なななあ、なんだこいつッ!! 敵?! 魔族なのか?!」
タンマタンマタンマタンマッ!! 叫びながらハルトは必死で逃げ回るしかない。
敵のサイズは優に6メートル。
怪物でしかありえない。
そのときだ。
「慌てるなッ、それは魔界の生き物──デプス・サラマンダーだッ!!」
カッ、と放たれた閃光とともに飛び込んできた人影が、ハルトを庇って敵の前に立ちふさがってくれた。




