勇者の旅立ちと『精霊の里』
崩壊の前兆はあった。
ここ数十年のうちに人間が生来もっているはずの魔力は薄れ、魔法を扱える人口が激減。
力をもつ人間が減ったおかげで魔物たちは討伐から逃れ、じわじわと力をつけていた。
そして今回、強大な魔力をもつ魔女が復活したことで、ついにそのバランスは決壊した。
魔女が世界中に蔓延る魔物たちを従え、人間の国に侵略を始めたのだ。
突然の奇襲に各国はなす術なく、多くの人の命が失われた。
このままでは、魔女によって世界を滅ぼされてしまう。
そう危惧し、各国は力ある人間を探しはじめた。
──即ち、魔物を打ち滅ぼし世界を救う『勇者』となる者を。
『勇者』の募集は、魔法使い育成機関であるロデリア魔法学院でも行われた。
……といっても集めるまでもなく、その役目に相応しいとされたのはたったひとりだった。
「エヴァルト・アディントン!そなたをこの国の『勇者』に任命する!」
学院長がそう宣言すると、エヴァルト・アディントンは膝をつき、無言で首を垂れた。
途端、沸きあがる歓声と拍手。
広い講堂の中にぎゅうぎゅうに詰まった生徒たちは祝福と激励をエヴァルトに送った。
当然だ、エヴァルトはこの学院で最強の魔法使い。
彼のほかに『勇者』となり得る者などいるはずがない。
「そして、『勇者』をサポートするパーティには、この四名を選出した!」
学院長の声とともに、エヴァルトの背後にずらっとローブを着た学生が並んだ。
マティアス・ローゼンダール、キース・グローヴァー、ヘンリック・ドレムラー、それと精霊使いのフェリシア・ウィンザーという、いずれも特級魔法使いである、生徒会メンバーだ。
彼らもまた、無言で膝を折って首を垂れた。
「お前たちのような素晴らしい魔法使いを輩出できたこと、ロデリアは誇りに思う!必ずや魔女を打ち滅ぼし世界を救ってくれ!」
講堂内にさらに歓声があがる。
いつまでも収まらない割れんばかりの拍手をもって、彼らの旅立ちの合図とした。
誉れ高き役目だ、素晴らしい、流石生徒会だ!とはしゃぐ民衆には、俯いた男の顔は見えなかった。
特別な使命を与えられ、身が引き締まった心持ちか。
あるいは、これから待ち受けている試練を思い、緊張の面持ちか。
いやいや、絶対に魔女を倒して見せるという自信に満ち溢れた表情だろう――
そんな風に自分たちの想像を膨らませるばかりで、
誰も本当の『勇者』の顔など、気にすることはなかった。
****
「よっ、と……」
澄んだ大きな川に水桶をくぐらせ、水を汲む。
たっぷり満たされた桶を両手にふたつもち、私はよたよたと歩き出した。
〝ねえねえ〟
すると、頭の中で幼い声が響いた。
〝あそぼうよ セルマ〟
くすくす笑いながら、緑色に透き通った小さな子どもが姿を現す。
〝だめだよ じゃましちゃ〟
と、横からひょこりと現れた別の子が言った。
〝セルマ いそがしい?〟
〝じゃあ 手伝ってあげようか〟
〝ぼくたちに できるかなあ〟
言いながら、幼子がどんどん湧き出てくる。
私は苦笑した。
「ありがとう、でも手伝いはいらないよ。またあとでね」
と言うと、彼らはそっかー、と答えて手を振った。
そして思い思いの場所へふわりと飛んで行った。
以前はほとんど見られなかった緑の精霊たちは、この場所ではこうしてのびのびと過ごしている。
――ここに、彼らを危険にさらす人間はいないから。
精霊たちが消えて行ったのを見つめた後、私は無言で作業に戻った。
「セルマ」
汲んだ水をじょうろに移し、畑に水やりをしていると背後から声がかかった。
振り返ると、腰の曲がった老人が微笑んでいた。
「ちょっと休憩してはどうかね、朝から動きっぱなしじゃろ」
「はい」
特に断る理由はない。
老人の言葉に頷き、じょうろの中身が空っぽになったのを合図に一時農作業を中断することにした。
「ここでの生活には慣れたかの?」
ティーポットから温かいお茶がカップに注がれる。木のプレートに乗ったお茶請けは、干した果物とシンプルな焼き菓子だ。
私はそれらを受け取ると、
「はい、おかげさまで……」
と答えてぺこりと頭を下げた。
嘘ではなかった。近頃は、とても調子がいい。
学院で寝込んでいた時は食欲も睡眠欲もなかったのだが、今では三食きっちり食し、早寝早起きの生活を送れている。
「それはよかった」
庭師の老人は、にこりと笑って私の前の席に腰を下ろした。
数か月前、私は鏡の中を通って、森の中の集落に来た。
庭師曰く、ここは『精霊の里』らしい。
精霊たちが生まれ、過ごす場所。特別な魔法がかかっているこの一帯は、人間や魔物がたどり着くことはできない、精霊たちにとって安心できる住処である。
私を学院から連れ出した老人は、この里の村長だった。
では、どうして学院で庭師をしていたのか、老人が他の精霊と違って人の姿をしているのは何故か、と尋ねたがそのあたりは答えてくれなかった。
私が知る必要はないことらしい――ちょっと納得はいかなかったが、里に住まわせてもらっている身なのであまり追及することはしなかった。
「あの、村長」
「なんじゃ」
村長はお茶をひとくち飲み、ふうと息を吐いた。
聞いても教えてもらえないことはある――だが、どうしても気になっていることがあった。
「私は……一体、何者なんですか。貴方はご存じなのでしょう」
すると老人はふむ、と口を結んで黙り込んだ。
が、やがてゆっくりと口を開き、
「セルマ、お前は精霊であり、人間でもある。非常に珍しい存在じゃ」
と答えた。
「精霊で、人間……?」
「そう、わしの知る限りではお前だけじゃ」
精霊の里の長は、語り出した。
曰く、彼自身も無条件で緑の精霊が懐く人間など見たことがなく、精霊の里にいた精霊たちの記録をすべて洗ってみた。
すると、十七年前にとある田舎町に行った緑の精霊が、それきり戻ってきていないことが分かった。
「その精霊はいっとう優しい心の持ち主でな、人間の役に立ちたいと思い、里を飛び出したんじゃ。そしてある若夫婦の間に出来た赤ん坊が、生まれる前に死にそうであるのを見つけた。どうしても見殺しにはできなかった精霊は、死産となる寸前に赤子に乗り移り、生かしてやることにした。自分のすべてをなげうって――」
「それが、私……?」
はじめて聞く事実に、驚きを隠せなかった。
呆然と口を開けたまま固まる私に、村長はカップを置いて視線を向けた。
「お前は普通の人間として生まれ育ったが、魂は緑の精霊のもの。見た目は人間だが、性質は精霊の方が近しい」
「で、でも、お父さんとお母さんはとても優しい人たちで、私も、自分のことを普通の人間だと思って……」
「そうじゃろうな、お前の両親は精霊が手助けしたいと思えるくらい善い夫婦じゃ。だが、すべての人間がそうではない。お前もうすうす分かっていたはずじゃ、自分と他の人間の違いを」
「…………。」
私は閉口した。
思い当たる節は、確かにあったのだ。
人と接するのがずっと苦手だった。言葉は話せるくせに、誰かと会話をする度にひどく不自由を感じた。
人の心もよく分からず、誰かから誰かへの強い感情にも疎かった。
だから、あんな――
「セルマ」
「!」
突然ぽんと肩を叩かれて体が跳ねる。
反射的に顔を上げると、真剣な表情の村長と目が合った。
「前にも言ったが、あの火事はセルマのせいではない。それに、あそこにいた精霊たちも、みんな元気でこの里にいる。何の問題もない」
「はい……」
考えていたことを老人に見透かされていたようだ。
気にするな、と彼は繰り返し言った。
「じゃが、わしも同胞にあんな恐怖はもう味合わせたくない。元から精霊の性質を持つお前が、人間たちの間にいるべきではなかったのじゃ。学院でのことなど忘れて、ここで静かに暮らすがいいよ」
「そう、ですね……」
私は俯いた。
今でも時々夢に見るのだ――あの真っ赤に燃え上がった炎に、なす術なく焼け落ちる小屋、逃げ惑う精霊たち。
何度自分のせいじゃないと言われても、フェリシアの逆鱗に呼応した精霊がやったことと言われても、自己嫌悪に陥り体が震える。
恐ろしかった。
ただ在るがままの自然界よりも、ずっと複雑で残酷な人間の世界。
その世界に、自分には理解できない人の心にずけずけと踏み入り、安易に触れた罰だと感じていた。
村長の言う通り、私が人間とは別の生物であるのなら、離れて暮らすのがいいのだろう。
でも、
「(……なんだろう)」
それに反論したい自分がいるのも感じていた。
確かに人と接する中でうまく対応できず、苦しい思いや恥ずかしい思いをしたことは多々ある。
しかし、それだけじゃなかったはずだ。
心が温かくなったことも、浮足立つような、ふわふわとした不思議な気分になることもあった。
あの時の感情は――
「村長!大変です!!」
その時、バタバタという足音が聞こえたと思えば、部屋のドアがバタンと大きな音を立てて開かれた。
「なんじゃ、騒々しい」
「す、すみません、ですが、緊急事態で!」
「……どうした」
「に、人間が、こちらに向かってきます!」
息せき切らした見張りのドワーフは、青褪めた顔でそう報告した。




