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第十一話 野球場の戦い:数に支配されたスタジアム【28番】

野球場のバックスクリーンに、黒いスーツの男──アレクセイ・ネフロフが静かに立っていた。


彼は銀縁の眼鏡の奥から、俺を真っ直ぐに見つめる。そして、ゆっくりと腕時計を確かめた。


「さて、始めようか」


パチン──。


その指の音が合図だった。


次の瞬間、スタジアムの照明が一斉に明るくなった。数が増え、光が強くなり、まるで舞台の幕が上がったかのように、球場全体が白く照らし出される。


「照明の数を6倍にした。今日の”儀式”に相応しいと思ってね。」


その声は、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。


「君は、“声”に逆らった。神からの命令を拒絶した最初の“ノイズ”……38番」


彼は背筋を伸ばし、俺に語りかけるように言った。


「混乱の芽は、早期に摘むべきだ。だが、私は慈悲深い。チャンスを与えよう」


ネフロフがあごで示した先に、朝比奈と小宮。


「この二人を“排除”すれば、君を仲間と認めよう」


「ふざけるな……!」


怒鳴ったのは、俺だった。朝比奈も小宮も、同時に鋭い視線でネフロフを睨む。


「断るに決まってるだろ」


ネフロフは肩をすくめ、口元に薄い笑みを浮かべた。


「……残念だ」


再び、パチン──。


その瞬間、膝が崩れ落ちた。地面が突然、異常に重く感じる。立っていることすら困難になる。


「君に見下ろされるのは不快だったのでね。君の体重を10倍に再定義したよ」


「ヒロトっ!」


朝比奈の叫びが聞こえた。


その直後、小宮が俺の方へ駆け寄ろうとした──が、足が滑った。


「うわっ!」


バランスを崩した小宮はそのまま地面に転がり、フェンスに顔から衝突した。


「彼と地面との摩擦係数を0.01に再定義した。立つことも走ることもできまい」


ネフロフの言葉には、何の揺らぎもない。冷たい数式を読み上げているようだった。


「この世界のすべては数でできている。君たちはその中に閉じ込められている」


「小宮くん!」朝比奈が小宮に駆け寄る。小宮は大丈夫だと手を上げた。


朝比奈が顔を上げて、俺に叫ぶ。


「ヒロトくん!アイツ許せないわ!特訓の成果よ!」


呼吸を整える。背中の“38”が淡く発光しているのがわかる。

俺は左手で何とか体を支えながら、右手を地面に押し当て、意識を集中する。


(……開け……ヤツの足元に…………)


ズゥゥゥンッ!


ネフロフの足元に、直径3メートルの落とし穴が開いた。できた!

これまで落とし穴は、直接触れた場所にしか作れなかった。


しかし──3日間の特訓で、遠隔操作が可能になっていた。さらに、連続で複数作ることもできるようになっていた。


「やった……!」


朝比奈が息を飲む。


だが──ネフロフは落ちなかった。


彼の体は、落とし穴の淵から微妙にずれた位置に立っていた。


「君の戦闘映像は、すでに確認済みだ。成長は想定の範囲内──進化したとはいえ、単調な能力だ。落ちるはずがない」


彼は淡々と語る。


「私は、私自身の座標をずらした。君の攻撃地点を事前に予測し、座標上で“ずれる”ことで接触を回避しているのさ」


君の落とし穴には決して触れない。


(座標ごと自分を移動させる──能力の応用というわけか。)



「……私たちの心拍数、戻ってるわ。さっきまでは速かったのに……。アイツの能力の条件に制限時間があるのかしら?」


朝比奈が言う。小宮も低く唸るように呟いた。


「時間制限か……いや、そうじゃない」


割れた眼鏡をかけ直し、小宮が立ち上がる。


「ヒロト!落とし穴を連続で作れ!ネフロフの足元に向けて、何個でも!」


「え?」


「やってみろ!」


──小宮を信じるしかない。


(集中だ、俺、集中せよ……!)


ズズン! ズズズン! ズボォ!


ネフロフの足元に、連続して3つの落とし穴が開いた。

だが、ネフロフはそのすべてを寸前でかわし、一歩も動じることなく立っていた。飲み込むものがなかった穴は、静かに閉じていった。


その瞬間──


バチンッ!


スタジアムの照明が一斉に落ちた。

再び、夜の闇が支配する。


「……照明が……?」


だが、さらなる異変に気づいた。小宮は、地面で突っ伏している俺のもとに駆け寄ってきた。滑っていない。摩擦係数が戻っている。


小ちょうど小宮の顔の高さに、巨大化して横たわった俺の耳が近い。宮が言う。


「ヒロト、今ので確信した。ネフロフは同時に維持できる“再定義能力”の数に、上限がある。おそらく“4つか5つ”までだ」


「上限……?」


「考えてみろ。アイツが数字の再定義という能力を発動したのは、俺たちがわかっているだけで、"心拍数の変更”、”瞬間移動”、“スタジアムの高度変更”、“照明強化”、“ヒロトの体重増加”、“俺の摩擦係数変更”、“座標ずらし”。──これで7つ。瞬間移動は一時的なものだったが」


「さっき落とし穴を連発したから、彼は避けるために、“不要な定義”を削った。優先度の低い照明、俺の摩擦係数……」


「それで、俺が新しい落とし穴を連発したから……」


「耐えられなくなった。だから、最も優先度の低い“照明”と俺と地面の摩擦係数の再定義の能力を切ったんだ。」


……そうか。だから。


「おいネフロフ……てめえのルール、見えたぜ」


だが、ネフロフは全く動じていなかった。むしろ、口元に笑みすら浮かべていた。


「……気づいても、遅い。残念だったね。そろそろ、時間切れだ」


彼の足元が──ふわりと浮いた。


「私は、この空間の酸素濃度を、今から1分かけて“5%”まで下げる。人体には耐えがたい濃度だ。君たちは酸素欠乏を起こして、失神し、死ぬ」


「だから私は離脱する」


ネフロフの体が、宙に浮かぶ。


「ふふ……君たちが苦しむ姿を、上空から見させてもらおう」


ネフロフがパチンと指を鳴らすと、ネフロフの体が中に浮かんだ。


「逃すかぁあ!」


急に体が軽くなった。俺は立ち上がることができた。ネフロフが新たな能力を発動したことで、俺への制約が消失したのだ。ネフロフの元へ、走る。だが、間に合わない。ネフロフの身体は俺の手の届かない高さへ──


「ヒロト!下だ!地面だ!」


小宮が叫んだ。


「ネフロフは“浮いてる”ように見えるけど、物理的な浮力じゃない!あいつは、座標そのものを“上にシフト”してるだけだ!つまり、地面とアイツの体との距離を再定義している。」


「今、ネフロフの“直下”の地面を壊せば──あいつは、“支点”を失って座標が崩れる!」


「行けっ、ヒロト!」


「わかったッ!」


俺は全身の力を拳に集めて、ネフロフの真下の地面が、抉れるくらい殴った。凄まじい音がした。


ドガァァァァン!!


(やばい、俺の変身ももうすぐ解けてしまう。理性が保てなくなっている。)


俺の体は、我を忘れたように地面を掘り続けた。


ネフロフの上昇が止まった。崩れた空間に引きずり込まれるように、ネフロフの座標が歪む。


「なっ──!」


彼の体が、静かに落下していった。


ネフロフの背中が見える──そこに、緑色の「28」が点滅していた。

だが、その数字は──ふっと、消えた。


その瞬間、俺の体からも力が抜けていくのが分かった。


(……まずい)


意識が、プツンと途切れた。


--------


次に目を覚ましたとき、野球場は元通りになっていた。


俺は、例によってグラウンドの上に仰向けに倒れていた。

空を見上げると、そこにはちゃんと“夜空”が戻っていた。月も星も、静かに瞬いている。


(……ネフロフは……?)


周囲を見回す。朝比奈と小宮が、グラウンドの端でへたり込んでいた。

ネフロフの姿は、どこにもなかった。


「ヤツは……どこへ?」と俺が尋ねると、肩で息をしながら小宮が答える。


「消えた。たぶん、能力の“時間切れ”だろうな」


その言葉を聞きながら、俺は呟いた。


「……“世界は数字でできている”って、あいつは言ってたよな。でも結局、数字が自分を追い詰めた。皮肉なもんだ」


空が、少しずつ白み始める。


風が吹き抜け、世界が息を吹き返していく。


「ていうか! このグラウンド、どうすんのよ!」


突然、朝比奈が叫んだ。


見ると、グラウンドには俺が巨大化して掘った落とし穴がぽっかりと残っていた。


──これは、マズい。


「うん、さすがに、言い訳できないわね……」


朝比奈が、野球場のど真ん中に空いた巨大な穴を見て言った。小宮が、メガネの位置を直しながら苦笑する。


「言い訳ってレベルじゃないだろ、これ。国家いや世界レベルの事件だぞ……」


「……逃げよう」と俺は言う。


「賛成」


俺たちは顔を見合わせた。3人は自転車に飛び乗り、スタジアムを後にする。走り出してしばらく、誰かがぽつりとつぶやいた。


「俺たち……勝った、んだよな?」


「たぶんね。でも今は、それより……」


「眠たい」


全員、声を揃えて笑った。


──夜明け前の風が、やけに気持ちよかった。



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