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星を追う者たち  作者: 矢口
第五章 地球の風、カグラの嵐
65/222

64:時のかたみ

 救出から二日後、岩国は中央陣地に来て居た。参謀長に面会を求めたのだ。


 岩国の言う『参謀長』とは、『フェリシア防衛連合軍参謀長及び航空機動歩兵第一小隊指揮官』、柊巧准尉を指す。

 更に彼の肩書きを付け加えるなら『第一実験独立混成団AS第一小隊長』でもある。


 柊巧は尉官としては最低位、若しくは尉官としても認められない立場でありながら、フェリシア・地球連合軍においては重要な地位を占めている。

 官位と命令系統に混乱が有るように思われるが、官と職に多少のズレが生まれる事は時には生じる現象である。


 フェリシア防衛連合軍においては、それがやや大きいと言うだけだ。


 六百五十名という人数は若い尉官、下士官を中心とした集まりであるため官位より実績に重きが置かれる傾向もそれを支えているのであろう。

 何より、連合するフェリシア軍など、地球の軍に該当する官位を考える際に役職で適当に当てはめるしかないのだ。


 地球の制度を押しつける訳にも行かないため、あまり杓子定規には出来ない。

 自然とその曖昧さは、お互いの呼吸で読み取る事が暗黙の了解になっていた。


 そして、岩国も巧が参謀長である事に異論はなかった。

 五十嵐が認め、池間が認め、何よりヴェレーネ・アルメットが認めているのだ。


 面会はすぐに認められる。 

 巧も岩国に対して閉じるドアを持ってはいなかった。


「脱出おめでとう御座います。叙勲があるそうですね。 

 あと、今後の撃破数しだいでは昇進も」

 正式にフェリシアに移動した部隊の規模が連隊になって以来、飛行時間、勤務時間、戦績などは全て地球と同じ基準で評価対象になったのだ、彼らの戦果は正しく評価される事になっている。


 敵地潜入後の脱出は立派な武勲である。岩国の中尉昇進は近いであろう。


「ありがとう。今日はね、ちょっと参謀長殿に見て貰いたいものがあってさ」

 そう言うと岩国は鞄の中を漁りだしたが、布に包まれた有る物を引っ張り出すと、それを開いた。


「何に見える?」


 岩国が包みから持ちだしたもの。

 それはルナールによって岩国が監禁されていた部屋の壁に埋め込まれていた、穴の空いた『何か』である。

 脱出時の壁面爆破の際に持ち出したのだ。

 その物体の後側からは光ファイバーによく似た線が数本繋がっている。


 巧としては見たままに答えるしかない。

「コンセントソケットですか? しかし、欧州基準とも思えませんね? アメリカのものはもう少し大きいかな? 二百ワットですからね」


 岩国は頷いて言葉を継ぐ。

「材質をどう思う?」

「見た事無いですねぇ」

「それ、調べられないかな?」


 此処まで来ると、巧としても(いぶか)しむしかない。

「どうしたんですか? 少尉殿らしくない秘密主義的な物言いですよ」

「秘密主義にもなるよ。これ、この世界のものなんだぜ。 

 この世界の何処(どこ)に電気製品があるって言うんだ。少なくとも俺は見た事はなかった。 

 けどな、閉じ込められた廃屋としか思えない家の内部にはオートセンサーらしきライトまであった。その機構も生きていたんだぞ。

 この世界についてもう少し知っておかないと、いずれ痛い目に合うんじゃないのかな。

 俺の遭難程度なら事故で済むが、戦闘に関わる事になるとやっかいだぞ」


 岩国の目は真剣である。

 巧は、数ヶ月前に議員会館で聴いたヴェレーネの言葉、

『魔法には、科学的根拠がある』という言葉を思い出していた。


 確かに、敵地に科学的民生品やインフラが存在し、其れが兵器に転用されてこちらに向く可能性は皆無とは言えない。

 岩国の懸念はもっともである。


 品を巧に預けて帰る際、岩国はこういった。

「大佐を信用しない訳ではないが、彼女に任せると肝心な部分は教えてもらえない可能性が有る気がするんだが、どうかな?」

「同感ですね」

 巧はヴェレーネに内密で、次の帰還日に其れを直接研究所に持ち込む事にした。


 その前に、最も信用できるフェリシア人にも、この品について問い合わせてみる。


「ああ、見た事はあるぞ」

 マーシアの返事は、素っ気なかったが重要な一言だった。

「どこで?」

「いや、何処でって。 

 古い家の壁を修理していると壁紙やタイルの下からよく現れるんだよ。

 何なのか分からないし、ものによっては家中に線が張り巡らされてるからな。

 誰も手を出さずに、埋めてしまうんだ」

「古い家って?」

「四百年よりは前の家でないと見ないかな?」

「四百年前!?」

 巧の国の建築物の素材であるモルタルやコンクリート等、どう頑張っても百年が良い所である。

 確かに文化財クラスなら一千三百年以上の木造建造物もあるが、其れは例外的な宗教施設だからだ。


「新しい家より古い家の方が素材が良いんだよ。 知らなかったのか?

 議員会館など、シエネで一番古い建物だぞ」

「あれが!」

 議員会館こそが最新の建築だと思っていた巧には信じられない一言であった。

 壁など染みひとつ無いのだ。

 確かに、素材はコンクリートとは思えない何かであったと記憶している。

 室内の床もリノリウムにしては全く破損が見られなかった。

 デフォート城塞も、どの様に作られたのかよく分からないが未だに耐久性に問題があるようには見えない。


 謎を抱えながら、地球へとリハビリに戻る。

 今回はマリアンが杏に合いたいと云う事で、マーシアもついて行く事になった。


     ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 地球に戻ると、マーシア=マリアンは杏や市ノ瀬、玉川と共にドライブに出かけるという。

 馴染んだものであるが、半分は地球人なので当然と云えば当然とも言える。

 杏もマーシアと話すようになってから、薬が不要になった。

 そろそろ外に積極的に出て行く必要があるだろうし、玉川も居るのだ。

 心配せずに、送り出すことにした。

 

 今回のお出かけでは、杏が張り切ってマーシアを飾り付けた。

 自分の服を詰めて着せていたのだが、マーシアとしてはスカートなど滅多に履くものではない上、下着まで地球のものを着せられると、

「スースーするぞ!」と、スカートを持て余し、見た事もない情けない顔で杏に引きずられていく。

 その姿が一瞬マリアンに見えたのは巧の錯覚であろうか。

 そう思うほど彼女の顔は柔和なものであった。



 研究所で懇意にしている坂崎という研究員に例の品の分析を頼む。

 変わった事が好きで、AS31の腕にアンカーウインチを付けたのもこの男だ。

「アニメっぽくて面白そうだから」という理由だけで兵器に悪戯を仕掛けているのだから、使う側としては怒鳴りたくなる時もあるが、それだけに融通が利く便利な男でもある。


「兎も角、頼む!」と品を預けて、オーファンの整備状況を見に行こうとした処でアナウンスが入った。

 付属病院が巧を呼び出しているのだ。

 何事かと足を運ぶ。


 病院内には、一見してフェリシア人と分かる患者がかなり見られた。

 南部の魔獣戦線での負傷兵達である。

 その他、何らかの病気なのだろうか子供の姿も見る事が出来た。

 人類種だけではなく、狼人は元より、ワードッグ、ケット・シー、エルフと多彩であるが、スタッフは既に慣れたようであり、自然に患者に接している。


 受付でアナウンスを聴いたと告げると、受付嬢は一人の看護婦を呼び出した。

「米谷さん。柊准尉がお見えです」

 米谷と呼ばれた女性は狐人の兵士と話をしていたが、軽く会釈をして彼と別れると巧に挨拶をした。

 そこからは秘書室を通さずに院長室まで案内してくれる。

 随分と丁寧に扱ってくれるものだ。何か依頼ごとかな、と巧は怪しんだ。


 途中、少しその女性と話をしたが、彼女を含めスタッフの多くがフェリシアに行きたがっているそうだ。

 平和になったら検討されるでしょうね、と話に一区切り付いた所で院長室に着く。


 彼女が先に入り、巧の来訪を告げると繰根(くるね)が巧を部屋に招き入れる。

 巧にとっては彼女と顔を合わせるのも久々な気がするが、彼女にとってはロークの退院以来、数週間しか経っては居ないだろう。


 そこでの話は、やはり巧に対する依頼ごとであり、しかも余り良い話とは思えなかったのだが、巧としては検討せざるを得ないと同時に注意も必要に思われる内容であった。

 フェリシア人の患者の治療にも係わる問題なのだが、繰根の知的好奇心の優先が有るような気がしたのだ。

「ミズ・ヴェレーネに頼んでは?」

 と言ったのだが、それが出来ればあなたには頼まない、と言われては返す言葉もない。

 巧自身、ヴェレーネに内密で事を進めているのだ、繰根の依頼を無碍(むげ)には断れなかった。

「少し時間が欲しい」と言って院長室を後にする。


 しかし、魔獣はともかく、死亡したフェリシア人の『首の骨』など何に使うのだ?

 巧は繰根の依頼に不穏なものを感じざるを得なかった。



    ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 竜の繁殖要塞を訪れたルナールは、先に『本物の竜』を見ていた事に初めて感謝した。


 数ヶ月前にここを訪れた時、翼飛竜は大きな物でも体長は六メートルを越える事は決してなかった。

 しかし、現在の竜達はそれぞれ八メートルを優に超えている。

 高々二メートルの差というものがこれ程体積に影響を与えるとは思わなかったが、人間とて身長が二十センチ変われば別の生き物のような体格の違いを見せる。


 馬ですら肩までの高さが三センチ違えば、食べる餌の量も三倍に増えると言われるのだ。

 竜の体長が二メートル変われば、全く違う生き物となっていても驚くには当たらないのが当然、とルナールは考えて大きく育った竜達を冷静に観察した。


「ルナール殿は肝が据わっておいでですな」

 彼を案内した要塞の書記官は追従ではなく本気で感心したようだ。

 初めてこの竜を見たものは、大抵が顔色を変え身じろぎしてしまうのだと、書記官は笑った。

 ルナールは、“なに、意地を張っているだけですよ”と軽く返事を返しただけだったが、これが更に印象を良くした。

 その後、要塞指揮官にもこの態度は伝わり『剛胆且つ、礼儀有る若者』として好意的に受け止められる事になった。


「しかし、いきなりこのように育った理由というのに心当たりは有るのでしょうか?

 勿論、軍機であるというのなら無理にお聞きはしませんが」

 ルナールは努めて腰が低い。

 首都の有力議員と彼の繋がりは次第に知れ渡ってきている。

 だからこそ、迂闊に敵を作る言動は避けなければならない。

 今まで以上の謙虚さが要求される様になっていた。


「その件につきましては、私よりも司令官から直接聞かれる事になるでしょうな。

 ルナール殿には、これらの竜の育成に今後関わって頂く事になりましょう。

 また、議会からは、竜部隊をひとつ任される事も決まったとか」


 機嫌良く其処まで喋って書記官は慌てて付け加えた。

 

「おっと、失礼。これは表向き未定の話でした。 

 私から聴いたと言う事は、内密に願えますでしょうか?」

 口が滑った、と必死で取り繕う。


「良い情報を頂いて恩を仇で返す訳にはいきますまい。ご安心下さい」

 そう言ってルナールが微笑むと書記官も安心したように笑った。


 基地司令の下に案内され、今後のルナール軍、及びルーファン軍の活動について中央から派遣された参議官を交えた会議が始まった。


 要塞内の主館とも言える総司令指揮所は三階建ての驕奢な建物であり、外部からの貴賓を招いてパーティーが開かれる事も多い。

 其の様な建物に似合わず、門をくぐる際にルナールは此の館全体に抗魔法が掛けられている事に気付いた。

 かなり強固なものであり、この中へは外部から水晶球(スパエラ)の連絡も不可能である。

 勿論外へもだ。

 要塞司令ならば外部との連絡は不可欠なはずである。

 何故このような軍にあるまじき事が行われているのか不思議に思い、軍議の後に尋ねてみようと思っていたのだが、その疑問は軍議の中で明らかになる。



「問題は碧い竜による魔力の暴走ですな」

 参議官は話を進めていく。

 数週間前、役立たずと思われていた碧い竜の魔力が暴走し、全ての竜が一時的に身動きが取れなくなった。

 その際、飼育係の少女が一人と同じ厩舎の竜二十頭近くが全て碧い竜によって喰われたと思われる。

 また、要塞内の全ての人間に影響があったため、この主館だけでも抗魔法が掛けられている事が説明された。

 その為、外部との連絡は廊下で繋がれた別館で行われるのだという。


 さて、それはともかく、その後、魔力酔いから快復した翼飛竜達は、いきなり食欲が増大すると、その体躯を急激に育て現在のような姿になったのだ、と話は進んで行く。

 ルナールから送られてきた魔獣の首の骨を食べさせた一頭の竜は更に成長し、現在では体長二十メートル、体高十二メートルを越えるという。

 最早、今までの竜の育成方法が間違っていた事は火を見るよりも明らかであり、今後は南部で魔獣を狩る事で、その餌となる首の骨の確保がルーファン軍の重要な任務となることは間違い無い。


 以上が事実確認を済ませた参議官の意見、いや議会からの通達であった。


 この場において参議官の言葉はそのまま議会の言葉になるのである。

 異論のある者など居ようもなかった。


 会議に参加したのは十二名。

 育成要塞司令官、参議官二名、ルーファンからの代表としてピナーとルナール。

 その他、要塞大隊長三名及び地区の将軍二名とそれぞれの書記官達である。


『碧い竜』と聴いた時、ルナールは南部で遭遇したあの竜を思い出したが、今は話すべき時ではないと判断した。

 あの攻撃力は、ルナール達の計画を水泡に帰す事になりかねない。

 何より、信用すらしてもらえないであろう。


「能力は如何ほどに増大したのでしょうか?」

 ルナールとしては、あの竜に対抗できればと一縷の望みを託したが、彼にとって其の内容は笑えるとしか言いようが無いものであった。


 反面、基地司令に促されて書記官が発表した内容は、ルナール以外のその場に居た者、全てに満足げな表情生み出させた。


 高度は二千メートル迄は飛び上がり、時速は不正確ながら毎時二百キロは出るであろう。

 又、飛距離は三倍近い百五十キロ迄に伸びたと、書記官は自慢げである。


 最後に司令官は、火炎もその威力は倍に近い、と胸を張って竜の育成の成功を誇った。

 誰もが感嘆の声を上げ、これならばフェリシア恐るるに足らず、とまで言い切るものまで現れたが、ルナールとしては『頭が痛い』としか言いようが無い。


 冷静に反論を返したのは、東部方面隊ナルシス・ピナー軍団長である。

「素晴らしい育成の努力、感服いたしました」

 まずは素直に成果を褒め称える。

 しかし、その後の言葉は相手を不快にさせないように気を遣ったとは云え、やはり場の雰囲気を悪くせざるを得なくなる言葉であった。


「しかしですな。やはり『数』を頼りにすべきではないかと、小官は具申いたします」

「どういう事かな。ピナー殿?」

 育成要塞司令のラーグスは眉をひそめる。

 自分たちの成果を否定された、と感じたようである。

 実際は研究成果と言うより幸運の賜物なのだが、このような研究施設に押し込められ武勲の建てようのない司令官としては、前線指揮官から一段下に見られたと僻んでも仕方ないのだ。


「いえ、不快ならばお詫びいたしますが、それらの竜の中に一頭でシルガラ砦の城壁を一瞬で破壊できる竜が居るのであろうか? と云う事を言いたいのです」


 ルナールは、ほっとした。地位もあり年齢も充分なピナーの言葉ですらこのように場に波風を立てかねないのだ。

 自分が発言していたならば、会議は怒号と混乱の内に空中分解したであろう。


 ピナーの言葉は、その場に居た全員に現実の敵の有り様を思い出させたようである。


 楽観的な雰囲気は一瞬にして気落ちしたものに替わった。

 ルナールは此処が自分の正念場である事を理解し、思い切って発言を求めた。

 勿論、『軍師』の言葉として意見を述べる事を忘れない。


 あくまで伝言だ、という立場を崩さないように気を遣った。


 軍師は過去のフェリシア侵攻において、地下道の建設やトレビッシュを対人兵器として活用するなど、非凡な才を見せている。

 また、五十万の軍を囮に結界破壊をもくろむなど、その戦術のスケールの大きさは他の追随を許すものでは無い。

 結果として侵攻作戦は失敗したものの、軍師の作戦その物は今までは参考意見として取り上げられてきたに過ぎず、彼(周りは女性である事を知らない)の立案が失敗した事は無い。 

 運用する側に問題があった事は誰もが知っている。


 その上、近年はその人物が主席の保護下にある事まで知れ渡って居るのだ。代理の発言と言っても疎かに出来るものでは無く、誰もが素直にルナールの意見に耳を傾けた。


 が、ルナールの話が終わりもしないうちに、やはり場は大混乱に陥った。

 許されざる暴挙と怒るものもあれば、これは大戦略であると擁護する者など意見は大きく分かれた。

 結局、判断は参議達の一時預かりとなったのである。



     ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 帰還の日。マーシアはピンクを基調にあちこちを薄緑や赤であしらったドレスに身を包んでいた。

 袖元や裾周りに編み込まれた細工のレースフリルもその彩りに更に華を添えている。

 ゴシックファッションという奴であり、フェリシアでも充分に通用する服装であるが、材質は全くの段違いといえる物である。


 しかし、それはそれとして彼女によく似合いながらも、今までの彼女を知る人間から見れば『信じられぬ身なり』としか、言いようが無いであろう。


「あちらに帰るまでの辛抱だな」

 巧としては、気を遣ったつもりの台詞であったのだが、マーシアは不機嫌になった。

「どうせ、私には似合わぬと言いたいのだろ」

 これには巧も慌てる。

「いや、まさか! よく似合ってるし、ずっとそうしていて欲しいぐらいだよ。

 ただ、マーシアが嫌がるんじゃないかと思っただけだ」

「ホントか!?」

 首をかしげて巧の顔をのぞき込んできた。可愛い。

「ホントだとも。マリアンには悪いが、やっぱりマーシアは女の子らしい服装をすべきだよ」

 巧がそう言うとマーシアは上機嫌になって腕にしがみついてくる。

 

 だが、次に彼女の口から出た言葉は巧の心臓を僅かにではあるが跳ね上げた。

「杏ちゃんは、もしかしたら私がマリアンだと気付いているかも知れない」

 静かな一言だったが、大きな意味を持つ言葉だった。


「どういう事だい?」

「うっかりね。“杏ちゃん”って彼女を呼んだ。けど、彼女、驚きもせずに自然に話を続けた」

「気付かなかっただけとか?」

 マーシアは巧の言葉に首を横に振る。

「その後、『杏さん』って言った時の方が悲しそうな顔をしたよ。

 だから、此処に居る間はずっと『杏ちゃん』で通した」

 辛そうな、それでいて答えが早く出て欲しいというような、そんな表情だった。


「大丈夫。もし知っているなら、自然に受け入れてくれたって事だし、そうでないにしても、杏がお前を好いている事に変わりはない」

 そういってマーシアの頭を抱いた。


 マーシアは暫く動かなかった。 

 泣いているのかも知れないが、この気持ちは彼女だけのものだ。

 自分が気付かない事もあって良いだろう。

 巧はそう思って、暫くは彼女が自分の胸に額を押しつけるままに任せた。





サブタイトルは、R・F・ヤングの「失われし時のかたみ」からです。

「たんぽぽ娘」が有名な作家さんですね。

本棚にあったと思いますが、そっちは未読です。

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