8 崩壊(後)――――佐知子
忘れもしない、すべてが変わってしまった日。あれも、八月のことだった。
夏休みの宿題を抱えて図書館で午後いっぱい過ごし、帰宅した時に遭遇したのは、いつにない母と父の大げんかだった。
『バカにしないで。そんな女と社長の言いなりになるなんて、あなたは佐知子のことを何だと思ってるの。大人の都合で利用していいお人形じゃないのよ!』
母の怒声に自分の名前が含まれていることにびっくりして、玄関のドアをあけたところで凍り付いた。私の帰宅にまったく気づかない様子で、リビングにいるらしい二人の言い争いは続いた。
『そんな女って何だ。会社が倒産すれば、お前らだって路頭に迷うんだぞ。塾の新しいCMが起死回生の一手なんだ。ミナセさんは、佐知子なら十分、CMモデルで話題を集めて集客できるって言ってくれたんだぞ。WEB広告でも何でも、知名度を上げていかないと、経営がやばいんだよ。モデルエージェントからプロの子役を派遣してもらう予算なんてないけど、従業員の子どもなら費用をかけずにすむって社長が』
『だからって、校名と苗字入りのジャージで映っている映像を、インターネットに載せていいっていう親がどこの世界にいるわけ? 絶対に認めない! 弁護士に入ってもらってでも、公開前に取り下げてもらうわ』
『佐知子の親は俺だ。俺がいいって言っているのに、そんなことができるわけがない! それに、佐知子なら、これを機会に本格的に事務所と契約して子役モデルもやれるって言われてるんだ。アイツにもチャンスなんだぞ』
弁護士? 子役モデル?
それまでの自分には一切関係ないと思っていた単語がぽんぽん飛び交って、私は呆然とした。
『あんたに佐知子の親を名乗る資格なんてない! どうせミナセっていう女が入れ知恵したんでしょうけど、思い通りになんてさせるもんか。あの大人しい佐知子が、いつモデルなんかになりたいなんて言ったの? 本人に真剣にやる気がなきゃ、務まらないどころか、傷つく機会しかない業界よ、モデルなんて。ありえない! あんな泥棒女に、あんたは熨斗でも何でもつけてくれてやるけど、佐知子は絶対に渡さない!』
『ろくに経済力もないお前に親権なんか行くわけがないだろう! お前らをここまで養ってやったのはこの俺だぞ』
両親の言っている内容は半分も理解できなかった。けれど、母の声には明らかな恐怖とパニックが、父の声には自負と激怒が、それぞれ滴って水たまりができそうなほどたっぷりにじんでいることだけはよくわかった。
ついに、それまでの生活が全て壊れてしまって、元通りにはならなくなったのだ、ということだけは、明らかだった。
『さっちゃん』
後ろから小さな声で呼ばれて、私ははっとして振り返った。
おばあちゃんだった。門扉のところから、心配そうに私を見ている。騒ぎを聞きつけて、様子を見に出てきたらしかった。
『家に入れないなら、おばあちゃんのところに来るかい』
そう言われた瞬間に、私はおばあちゃんに飛びついていた。声も上げられないまま、ぼろぼろと涙をこぼしていた私を連れて家に戻ったおばあちゃんは、私が少し落ち着くまで、静かな二階の部屋で、小さな子どもにするように膝に抱っこしてくれた。
いつの間にかとろとろと落ち込んでいった浅い眠りの中で、おばあちゃんが足音を立てないようにそっと階段を降りていく気配を感じた。
おばあちゃんは、きっと、おいしいご飯を作りに行ったのだ。
私は丸くなって座布団に頬を押し付けながら、そんなつかの間の安心感をむさぼっていた。もう、ここに来るのはこれが最後だろうという絶望めいた確信もまた、胸の奥底にはあったのだけれど。
聞きなれないエンジン音でふと目が覚めると、夏の遅い日もすっかり暮れて、部屋は薄暗くなっていた。窓から外をのぞくと、細身のしゅっとした車が止まっているのが見えた。父が乗っていたり、友だちの家でよく見かけたりするような、荷物がたくさん積める家族向きの自動車ではなく、もっとスマートな形のものだ。
助手席から降りてきたのは、カズ兄だった。シルエットですぐに分かった。
続いて運転席から、ほっそりした女の人の影が降りてくる。
二人は親しそうに何かを話しているようだったけれど、そのうち、女の人のほうがカズ兄に抱きつくように腕を回した。
まずいものを見たような気がして、私は慌てて目をそらした。
どうして、そうなんだろうな。
大好きなカズ兄だし、暗くてよく見えないけれど、きっと素敵な彼女さんなんだろう。それでも、おめでとう、とすぐに思えない自分が嫌だった。
父と母だって、あんな風に仲が良かったときがあったのかもしれない。なのに、今では、そんな面影はみじんも残っていない。それどころか、父は他の女の人とすっかり仲良くなっているみたいだ。あの同僚と言ってた人は、結局ただの同僚じゃなかったってわけだ。さっきの会話でそれに気が付いて、父とその女の人には、とにかく、気持ち悪い、という感想しかもてなかった。
父も母も、もうすっかり、お互いに気持ちはない。どちらが私のことを分かっているか、とか、どちらが私を引き取るかで、肝心の私のことなんかほったらかしでケンカしている。それがなれの果てなら、何で二人は恋なんかして結婚したんだろう。そもそも、二人は本当に最初からちゃんと相手のことを見ていたんだろうか。本当に好きだったんだろうか。
とても、そうは思えなかった。
ナツキちゃんはいつも、アイドルのラブソングにうっとりして、素敵な恋がしたいなあって言う。いつか大きくなったら優しいカレができて、デートして、かっこいいキャリアウーマンにもなるけど、ずうっと一緒に過ごしたい人とケッコンして……って、お気に入りの大切なビーズをたくさん机に並べてみせるみたいに、キラキラした夢を話してくれる。
ラブラブなパパとママがいて、美人で明るいお姉ちゃんがいるナツキちゃんにとっては、それはごく身近で当たり前な未来なのだ。ナツキちゃんの話ににこにこ相づちをうって聞いていたけれど、でも、私にはそんな実感はいっさい持てなかったし、内心ではまったく乗り切れていない自分がひどい嘘つきのような気がして、ずっと空しい気持ちを持て余していた。
いつか、私も、誰かのちゃんとした恋を、心から祝福したり、応援したりできるようになるんだろうか。自分自身が誰かと恋をしたいと思えるようになるんだろうか。
そう思った次の瞬間に、ふと浮かんだのはぶっきらぼうにそっぽを向くリョウトの顔で、わたしはごしごしと消しゴムで消すみたいに、頭の中からそのイメージを追い払った。適当すぎるだろう、私。リョウトにも迷惑だ、こんなの。
父も母も大嫌いだ、と思った。でも、私がその瞬間に何よりも嫌いだったのは、私自身だった。
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次回更新は7日水曜日となります。
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