4 王様の専属パイロット(後)――――菱人
『りょーと』
サチが俺の足元にやってきて、シャツの裾を引っ張った。
『やっぱり、ケガしてた。おくちのなか、ちょっときれてた』
痛そうに頬を押さえてしょんぼりと肩を落とす。
『あ、さっき俺とぶつかったからか』
俺はしゃがんでサチの口元を観察した。
顔面への頭突きを思い出す。ヘルメットの衝撃だけではなかったような気もする。
つまり、このケガは、後先考えずに突っ込んでしまった俺のせいということか。
後悔に、じくじくと胸のあたりがうずく。
『この辺ぶつけた』
サチは口元を覆うように手のひらで押さえてみせた。
『どこが痛い?』
詳しく様子を見ようと手を差し伸べかけた俺をさえぎるように、カズトが明るい声をあげた。
『よし。王様のレーシングカーごっこは終わり。さっちゃん、うがいして手を洗って、ケガはばあちゃんに見てもらおう。ばあちゃん、昼ごはんのデザートに桃かスイカを切るって言ってたよ』
その一言に、サチは歓声をあげた。
『もも? やった!』
『いや、口の中を切ってるなら、桃はしみるだろ。スイカの方がまだマシなんじゃないか』
俺が言うと、水を差されたサチはぷうっと頬をふくらませた。
『やだー。サチ、ももがすき』
『やめとけって。ほら、俺はスイカの方が好きだけど。すっぱくないじゃん』
正直どっちでも良かった俺が、サチを誘導しようとして言った一言は、見事に斜め上の返り討ちを食らった。
『じゃあ、りょうほう、きってもらって、りょーとにあたしのスイカあげる! だから、りょーとのもも、ちょうだい』
『おまえ、人の話全然聞いてないだろ』
なんというか、どっと疲れが肩にのしかかってくる気がする。俺はしゃがみこんだ姿勢のままで、目を閉じてため息をついた。
次の瞬間、不意に、右肩と二の腕をきゅっとつかまれた。頬に柔らかい感触が触れる。
ぎょっとして目を開くと、目の前にサチの満面の笑顔があった。
『えへへ。おれいのちゅーだよ』
『ばっか、お前なにしてんだよ』
『さっき、たすけてくれたでしょ。あぶないところをたすけてもらったら、おひめさまはみんなこうするって、ナツキちゃんがいってた!』
『……あのなあ。そういうの、誰にでもするもんじゃないぞ』
口の中の、鉄さびた味のつばが急に気になって、俺はサチから顔を背け、草むらにそれを吐き捨てた。子ども園のクラスメートであるナツキちゃんは、大分おませな子らしい。サチにあまり変なことを吹き込まないでくれ、と、姉のミツキに明日学校で言っておかないと。
『ほら、帰る』
俺が立ち上がると、当然のようにサチは俺の右手にぶら下がるようにしてつかまる。
『いっしょにいく! て、つないでいく!』
『はいはい』
『はいは、いっかいだよー』
つくづく、生意気な五歳児である。
サチがぶつけたのは、口元だったと言っていた。そして、俺の口の中にも、ぶつかった拍子に自分の前歯が当たって切れたところがある。うーん、これってつまり。
小学五年生ながらに、俺はちょっぴり絶望した。グッバイ、俺の青春。
ファーストキスも、ほっぺにとはいえセカンドキスも、五歳児に奪われるとか、まだほんの十一歳だというのに早くも終了の気配だ。
ただでさえ、カッコよくて頭がいいカズトの弟、というだけで、クラスの女子からはカズトの情報を知るためだけの捨て石扱いされているというのに。あいつらは、カズトの振り切った変人ぶりを知らないから、きゃあきゃあ言えるのだ。
その変人は、道端に転がっていた車輪付きのワイン木箱を胸に抱えあげて、うっとりと撫でさすっている。
『痛い思いをさせちゃってごめんよ。ちゃんと直して、もっと早くなるようにチューニングしてあげるからね』
聞き捨てならない一言が耳に飛び込んできて、俺はカズトをにらみつけた。
『お前が何をしようと勝手だけど、次は、サチを乗せるんじゃねえぞ』
カズトはひょいと片眉をあげて肩をすくめた。
『はいはい』
『はいは一回!』
『無人走行かー、なら今度は電気街でドライブレコーダー用のビデオカメラを買ってきて取り付けようかなあ』
『はあ? 何だよそれ。最初からそうすれば良かっただろ!』
イライラが最高潮だった俺が兄に怒鳴ったのは、大人になった今思い返してみても、無理からぬことだったと思っている。
『やだなあ。有人走行こそがロマンなんじゃないか。さっちゃんはあの瞬間に僕の夢をかなえてくれたんだよ』
カズトは俺のかんしゃくを全く意に介さずに飄々と言ってのけると、へらっと笑った。
◇
あの頃から、何かが変わったのだろうか。全てが変わったような気もするし、何も変わっていないような気もする。
サチはやんちゃな五歳児から、落ち着いた大人の女性になっていた。それでも、ときどき、あっと言わされるような思い付きを持ってくる突拍子のなさや、周囲を巻き込んでそれを実現してしまう明るいエネルギーは、昔の彼女をほうふつとさせた。
俺の作品が雑誌掲載されるときのビジュアルアートの選定が難航していた時、どこで見つけたのか、無名の樹脂アート作家の作品を提案してきたのも、その一例だ。当初はイラストレーターへの依頼を想定していたし、全く実績のない作家の作品ということで、上層部は渋ったらしいのだが、確かにその作風は俺の作品とぴったりかみ合っていた。サチから相談を受けた俺が、実現したら理想的だけれど無理じゃないかと思いつつ、ゴーサインを出した後で、彼女がアート作家と社の上層部、双方を説得して実現にこぎつけたのには、正直言って驚いた。
けれど、思ったことを何でもあっけらかんと言っていた幼い子どもの頃とは、やはり全く違う。彼女は折に触れて物思わしげな表情をするようになっていたし、正直、仕事のこと以外では、彼女が何を考えているのか、俺にはさっぱり分からなかった。














