29 【番外編 8】 アイドルと黒猫
ずんずん歩く彼を小走りで追いながら、私はこみあげてくる笑いをかみ殺した。
「リョウト、ひどくない? 今めっちゃ脅したよね」
「俺は何一つ嘘はついていない。事実しか言ってない」
「そうかなあ」
「サチに不用意に手を出すなって警告しただけだ。よけいなちょっかい出したら、泣いて後悔するレベルで反撃してやる」
「明らかに誤解を招く表現で言ったじゃん」
「何を信じるかはアイツらの自由だろ。文筆業で食ってる人間なめんな」
口をへの字にして吐き捨てる彼の目にも、少しだけ笑いが含まれている。
「大体な、五パーセントくらいはお前にも責任あるんだぞ、あの勘違い」
「なんでよ」
「お前のあのポーズはトラブルしか招かん」
「そんなにヤバいかなあ。私だってドン引きさせる目的でやったけど、そこまで言う?」
私がむうっとふくれっつらをすると、リョウトは繋いでいた手を離して、私の頭をぽんぽん撫でた。また、カチューシャの鈴がちりちりと小さく鳴る。
「ヤバいの意味が違う。男はバカだからな、かわいい女の子が笑顔で言ったことは、嘘だろうと思ってもつい、信じたくなるもんなんだ。もちろんどんな勘違いをしたとしても、勘違いした男のほうが悪いけど、あれは暴力的にかわいいから、外ではやらない。約束な」
ぶわっと頬が熱くなった気がした。リョウトの顔をまともに見られない。
今、かわいいって言った? 二回も? ぶっきらぼうで無愛想が服着て歩いてるみたいなリョウトが? 今夜、初雪降るかも。まだ十一月頭だけど。
「えーと、じゃあ、二人の時だったらいい? リョウトしか見てなかったら?」
ちらっと横目で見ながら言うと、今度はリョウトが耳まで赤くなってそっぽを向く番だった。
「……お前、本気で俺を殺しに来てるだろ」
◇
気を取り直して、その後は二人で一緒に入れるアトラクションを回った。誤算だったのは、お化け屋敷のホーンテッド・マナーハウスだ。気軽な暇つぶしのつもりで入ったのに、これがなかなか物議を醸す内容だった。
この遊園地はお化け屋敷にも力を入れているようで、このアトラクションは、ただ順路を歩いて怖がらせられるというより、主人公になりきって物語を体験する仕掛けになっていた。入場客は入り口で七、八人程度のグループにまとめられ、歩いて館内の部屋を巡りながら、場面ごとに分けてプロのダンサーやアクターが演じている短いショーをいくつも見て回るのだ。
半年ほどでシナリオや演出を入れ替えて、リピーターも飽きさせないようにしているらしい。
現在の公演では、舞台はヨーロッパの元貴族の館。今は廃屋になっている。見物する客は、この屋敷を買い取ろうと下見に訪れた家族連れという設定である。
ところが、館中で怪異が連発。調査を続けるうちに、主人公一家は、館に取りついて呪っていた怨霊の正体と、この館に住んでいた悲劇の令嬢の身の上を知ることになる……というストーリーだ。
「このシナリオは、ちょっと無理があるだろ」
途中でこらえかねたらしく、私にぼそぼそと耳打ちしてきたのはリョウトの方だ。
「出るまでは我慢しようよ」
目を輝かせてお芝居に見入っている、同じ観覧グループのちびっこたちを目で指して、私はたしなめた。言い分はわかるけど、夢中になっている人に水を差すようなことをしてはいけない。
館を出て、十分距離をとってから、リョウトは唸った。
「こりゃ、反省会がいるな」
「はい。承ります。リョウト先生は何が引っかかりました?」
不満げなリョウトがおかしくて、私は芝居がかった調子で、彼と一緒に仕事をしていた時のように水を向けた。
「まず、貴族の令嬢が公衆の面前で婚約破棄されて、婚約者は元メイドと『真実の愛をみつけた』とほざいて結婚する……ってのは今の流行だから、百歩譲って認めよう」
「本当はそこにも色々異論がありそうだね」
「うんまあ、あるけど。それは置いといて、なんでそれで、令嬢がメイドにならなきゃいけないんだよ。あれ、令嬢の生家っつう設定だろ」
「あー、思った! なんで、ヒロインがこき使われる展開? 普通は婚約者が別のところに出ていくんじゃないの?」
我が意を得たり、だ。思わず手を叩いてしまう。
「しかも、銀器を磨いていたときに、貴重な燭台が一つなくなった嫌疑をかけられて、折檻された末に顔がただれてしまう。令嬢は身の潔白を証明しようと井戸に身を投げて亡くなった結果、彼女の亡霊は夜な夜な銀の燭台を数えて回り、全てを失った令嬢の唯一の味方だった飼い猫が館に取り憑いて復讐する……って、色々混ぜすぎだろ。古今東西の名作のごった煮」
「何が入ってる? ええと、番町皿屋敷でしょ、四谷怪談でしょ、もしかして、レ・ミゼラブルもかなあ。あとは……ポーの黒猫?」
「それだけじゃない。たぶん、鍋島の化け猫騒動も、古典落語の死神もちょっとずつ入ってるぞ。節操がないにもほどがある」
リョウトは腕を組んだ。いちいちごもっともすぎて、私はくすくす笑った。
「よくあれで、ハッピーエンドに持ち込んだよね。強引すぎない?」
「聖なる騎士、万能説だな。何で突然登場して、令嬢に永遠の愛を告白するんだよ。無茶すぎる」
「挙句、全ての魔のエネルギーの源だった大量のろうそくを切り払って、令嬢と聖騎士が手に手を取り合って成仏、って、そりゃないよねえ。ものすごい急展開」
「そこだよ、最大の問題は」
リョウトはくっくっと肩を震わせた。
「なんで、ヨーロッパの貴族の館から成仏するんだよ。キリスト教だろ。仏になったらまずいだろ」
「……えっ。あ。ホントだ! 全然ダメじゃん!」
「おい気づいてなかったのかよ。しっかりしてくれ」
「だって、あんな堂々とやってるんだもん」
もうだめだ。私も笑いが止まらない。
二人で腹筋が痛くなるくらいさんざん笑って、笑いすぎて声も出なくなって、しばらく呼吸を整えてから、リョウトがぽつんと言った。
「ずるいよなあ。あんなに穴だらけではちゃめちゃの、ツッコミどころ満載のシナリオだけど、ここではあれが正解なんだと思うよ。こっちは毎回、胃に穴が空く思いで整合性チェックしてるのになあ」
「正解って?」
「ちびっこたちは、完全に釣り込まれて、はらはらしながら見てたろ。見終わっても、そこら辺をオバケが歩いているかもしれない、って想像しちゃうくらいのめり込む子もいてさ」
「うん」
午前中、乗り物酔いで真っ青になっていたリョウトに声をかけてくれた、心優しい女の子のことだ。
「俺もサチも、終わってからもさんざんあのアトラクションの話で盛り上がって、笑って。幸せな気分になるってこういうことだよな。まあ、先方が意図した楽しみ方だったかどうかは保留するけど。あんなん、俺は脳みそひっくり返して逆さに振っても出てこないよ」
しみじみと言う。早くも傾いて色を変えつつある秋の陽に照らされて、その顔は笑っていたけれど、少し寂しそうにも見えた。
「でも、やっぱり私、一人で家にいるときあのショーを映像で見せられたら、くどいなって思って途中で止めちゃうかもよ」
「家で見たら、か。それはそうかもしれないけど」
「あれは、たとえば日曜日の午後に、にぎやかな音楽がたくさん流れている雰囲気の中で、ひととき紛れ込んだ廃墟の洋館っていう異界で成立するお話だと思うの。それも、生身の人間が全身を使って表現して、それを直接向かい合って観客が受けとる形式だからこそ、だよね」
私はリョウトに並んで、黒いジャケットの肘のあたりの生地をそっとつかんだ。目を合わせたらその瞬間にどこかに走り去ってしまう、野良の黒猫を捕まえたような気がした。
「もう今日が何曜日かも思い出せないような真夜中、何の音もしない部屋の中で、どこにも行けずにじっと膝を抱えている人がいるとするでしょ。その傍で、ただそこにいて手に取られるのを待っていてくれる本、静かにそっと寄り添ってくれるお話とかはまた別だよ」
「……そっか」
彼は本当に短く、そう答えた。それだけだったけれど、その肩からはほんの少し力が抜けたように感じられた。














