21 雨上がりの夕空――――佐知子
二人でわーわー言い合いながらどうにかタオルとドライヤーを使って乾かした、まだ少々湿っぽいスーツをもう一度着て、私はその古い家を出た。
そのままお暇するつもりだったのに、当たり前のようにリョウトも雪駄をつっかけて玄関の引き戸に施錠すると、私に並んだ。普段履きが雪駄って、文豪か。
「駅まで送る」
ぶっきらぼうに言われて、うなずく。本当に、あの頃のままだ。
「さっきの話だけど」
「さっきの?」
「漬物石」
思わず赤面してしまった。もう、おばあちゃんのことを聞けてほっとしてからは緊張の糸が切れて、彼の様子に構わず、思っていたことを好き放題に言ってしまった自覚はある。びっくりしているだろう。
「ゆっくりでいいだろ。サチの言ってくれたことは正直すごく嬉しいけど、お前が記憶の中で俺を空前絶後に美化していて、改めて一緒にいてみたら思ってたのと全然違う、ってことだってあるかもしれない」
「うーん」
こちらは一年半、そのつもりで見てきた。それはないと思う。でも、リョウトにはリョウトの気持ちの動きがあるはずだ。私がどれだけちゃんと彼のことを見ていたか、わかってもらうのはこれからでいい。
「こっちは、サチより五つもおっさんだしさ。学生のうちからこんな仕事していて、社会常識とかあんまないし。仕事じゃなしに会ってみたらがっかりするかも」
ちょっぴり照れくさそうに、そっぽを向きながら言う。
「おっさんって言うけど、逆に言えば、たった五歳でしょ。そんな程度で年上ぶらないでほしいなあ。そういうこと気にするんだ」
「するだろ、そりゃ。大体、俺なんか書いてる本と本人の中身は全然違うし」
私の軽口に、憮然とした表情で返す彼にふきだしてしまった。
確かに。どこか暗い影を秘めつつも、ちょっぴり自堕落で甘え上手でわがままなヒーローは、すごく魅力的だけど、こうして会話しているリョウトとはあまり似ていない。
「どっちかっていうと、カズ兄みたいな人だよね」
「やっぱバレてたか」
リョウトは苦笑して肩をすくめた。
「今までできなかったことを一つずつ一緒にやっていって、それでサチが、友だちでいるのがちょうどいいって思えばそれでいいし、でも、そうじゃなければ」
彼はそこで言葉を切った。
ちらっと横目で見ると、ものすごく困った顔で、口元に手をやっている。頬が赤い。
うん。この『そうじゃなければ』は、前向きに聞いておいていいやつだよね。
「じゃあ、したいことがある」
「何?」
「北海道から戻ってきたら、おばあちゃんに会いに行きたい。今まで会いに来られなかったことを謝って、それから」
リョウトは首をかしげた。
「それから?」
「ナスと油揚げのおそうめんの、つけ汁の隠し味を聞きたいの。どうやっても再現できなくって」
「出た、食いしん坊」
リョウトは軽く身体を折るようにしてくっくっと肩をふるわせた。大声で笑うことがめったにない彼の、最大限の笑いの表現なのだ。
懐かしくて、嬉しくて、胸がいっぱいになりそうだ。
「俺もあるよ、したいこと」
今度は私が首をかしげる番だった。
「高校生みたいだけど。朝霧ユニコーンランド、一回ちゃんと一緒に行っておきたい。ユニランも他の遊園地も、あの時サチを連れて行けなかったのにって思っちゃうからどうしても気が進まなくて、ずっと避けてたんだ。だけど、遊園地のシーンもそろそろ書けるようになりたいんだよなあ」
何かのインタビューで苦手なものを聞かれて『遊園地』と答えていたな、と思い出した。
あれは、そういう意味だったのか。
そんな風に思っていてくれたのか。
それだけで十分だ、と思った。一人で夜の砂漠を歩いていると思っていた、あの頃の私に言ってやりたい気がした。
一人じゃない。それがどんな形でも、リョウトは心のなかに私の場所をずっと作ってくれていた。
「大事に想ってもらうって、嬉しいものなんだね」
へらへらと緩んでしまった頬を押さえつつそう答えると、彼はものすごい勢いで私を振り返った。
「ば、おま……」
わあ。耳まで赤い。私はくすくす笑った。
「さすが、リョウト先生。ロマンチスト」
家並みを抜けて、先ほどは雨の中、必死で駆け上がった階段のところまできた。
南東向きに開けた視界には、もう、雨雲もすっかり去って洗いたての夕空が広がっている。紫がかった青の天に、少しちぎれたように残った綿雲は、桃のようにほんのりと残照で染まっていた。
街並みの家々には、明かりが次第に灯りはじめている。
「ロマンチストだと言われようがなんだろうが、俺には俺のペースとやり方があるんだ。年上をからかうんじゃない」
ふてくされたような口調で、私より一歩先に階段を下りながら彼が言う。
「だから、ここから始めていいか」
彼は一段下の階段から、振り返って私に手を差し出した。すっと真顔になる。
「おかえり、サチ。帰ってきてくれて、本当に嬉しい」
「……ただいま」
私は差し出された手を取った。
多分、さっきのリョウトといい勝負で、頬が赤くなっている自信がある。
こういうところ、本当にずるい。こうやって、いざというとき、大事な言葉をちゃんと渡してくれるところ、逆立ちしたってかなわないと思う。
◇
駅前の交差点で、赤信号をにらみつけるようにしていたリョウトはぽつんと言った。
「もう、黙っていきなりどっか行かないでくれよ」
私はぎゅっと、繋いだままの手を握り返した。こくんとうなずく。たくさんのごめんねとありがとうと嬉しいが胸の中でいっぱいになって、口からは何も言葉が出なかった。その代わり、ぽろっと、頬を一粒、涙が転がっていく。
リョウトのことに関する限り、そして、リョウトの前では、私はいつだって、ひどく泣き虫なのだ。
「え、ちょ、待って。怒ったわけじゃないから。責めたつもりじゃ」
「ふふっ」
うろたえて私の顔をのぞきこんでくるリョウトに、思わず、泣き笑いになってしまった。私が泣き虫な時、リョウトはいつもおろおろする。それも、ずっと変わらないのかもしれない。
「何笑ってんだよ」
「だって、慌ててるから」
「そりゃ、慌てるだろ。自分がぞんざいな口調でものを言った次の瞬間に、好きな女の子に泣かれたら」
次の瞬間、リョウトはぱっと口を押さえた。
「……俺は何も言ってない」
目をそらして言う。また、耳まで赤い。
「うん。私も聞いてないよ。だからきっと、ユニランにデートに行ったら、最高に素敵なシチュエーションで、最高に甘い言葉が聞けるんじゃないかなあって、今、すごく楽しみになってきた」
「……言ったな。後になって、やっぱり止めておけばよかったなんて言うんじゃないぞ。日付、決めるからな。覚悟しておけ」
苦虫をかみつぶしたような顔で言う。
目の前の信号が青になった。二人のどちらも、歩き出そうとはしなかった。
私はそっと、繋いだ手を重ねたまま、ずらした。指の一本一本が、彼のしなやかな指と触れ合って、からみあった。
お互いに何も言わなかったけれど、指先に込めた力は二人とも同じだった。
◇
ナンシーとローレンに、初めてのデートがどんなだったか、と聞かれたら、私は、『カッコウの鳴き声付きの歩行者信号が三回変わるまでずっと手をつないでいたあと、わざわざ電車のホームまで送ってもらった』と答えるにちがいない。恋人繋ぎ、という言葉があるくらいなのだから、これが初デートだと私は確信している。彼がふてくされた顔で、『いや、ユニランに行くんだろ』と言うところまで想像できて私は小さく笑った。
「何笑ってんだよ」
さっきと同じことを、またリョウトが言った。ごうごうと音を立てて、私の乗る電車が近づいてくる。
「何でもない」
「まあ、泣いているよりよっぽどいい」
繋いでいた手を離して、彼は私の頭をくしゃっと撫でた。その手は、あの頃と変わらず、ぽかぽかと温かかった。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
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本編はここで終了ですが、やや書き足りなかったところがあって、番外編をつづけて投稿する予定です。
一月二日より更新していきます。
およそ三か月後の後日譚で、本編よりは、少し軽め、少し甘めになるように書いたつもりです。
よろしかったら、お付き合いいただけたら嬉しいです。














