15 遅刻とアプリコットティー――――菱人
サクラさんの実家からの帰り道、俺はひどく疲れ切っていた。へとへとになりつつ、どうにか事故も起こさず自宅にたどり着いたときには、すっかり朝になっていた。
とにかく少し仮眠をとって、頭が働くようにしなくては、と思ったのは覚えている。
それから体感的にはほんの数分後、俺は控えめな音量で鳴り続ける電話の着信音で目が覚めた。はっとして飛び起きると、閉めたカーテンの隙間から、午後の日差しが入り込んでいる。
数分どころではない。数時間経っている。
電話はほんの数コールで留守番録音機能に切り替わった。
電話に標準搭載されている機械的な応答音声が伝言を促すのに続いて、サチの声が聞こえた。
『先生。……匂坂先生。お約束の時間ですが、連絡がつかないので心配しております。この伝言に気づいたら、折り返しご連絡をいただけますでしょうか』
その声は、夜中に聞いたカズトの声を思い出させた。不安と焦りに満ちたトーン。
俺は受話器に飛びつくようにして耳に当てた。録音中なら、受話器を上げればそのまま通話に切り替わるはずだ。
『すまない。……ちょっと事情があって』
その声は自分でも呆れてしまうほどかすれていた。寝起きの第一声なのだから当然だ。
『あ、リョウト先生! 大丈夫ですか。体調が優れないとか?』
サチの声に、瞬時に安堵の色が混ざった。それでも心配そうに尋ねてくる。
俺はようやく、時計を見る余裕を取り戻した。
約束の時刻を、もう一時間半も過ぎている。大失態だ。
『いや、体調は問題ないんだけど』
『でも、お声が……。打ち合わせは日を改めましょうか?』
俺はとっさに頭の中のスケジュール帳をめくった。ただでさえ原稿が遅れ気味だったことも合わせれば、この打ち合わせが延期されれば諸方面に――何よりも調整役のサチに、多大な面倒をかけることは明白だった。
『できれば今日で。本当に申し訳ない。この後、夕方に時間を取り直してもらうことは?』
『もちろん、可能です。では、十七時に、いつもの喫茶店ではいかがでしょうか』
即答だった。彼女はおそらく、俺のあらゆる返答の候補を想定して、自分のスケジュールを確認済みだったのだろう。
『わかった』
俺はへどろのような罪悪感が喉元にせりあがってくるのをやり過ごしつつ、電話を切った。
夕方に打ち合わせをするのは初めてだった。
駅前のケヤキには、ムクドリがびっしり止まって、いくつもの鈴を合わせて振ったような、けたたましいさえずりを響かせていた。
家路を急ぐサラリーマンの流れを縫うように逆走して、喫茶店へと向かう。思ったより混雑している店内に戸惑っていると、サチが駆け寄ってきた。
『来てくださってありがとうございます。こちらへ。……マスター、奥をお借りします』
彼女はカウンターの中のマスターと短く声を交わすと、店の奥に俺をいざなった。
観葉植物の陰にあって、普段は気にも留めていなかったドアを開けると、その向こうはこじんまりとした個室になっていた。
『夕方は待ち合わせ客でごったがえすから、こちらを使ったら、とお店にご配慮いただきました』
サチは、俺の無断遅刻などまったく気にしていない風に、にこっと笑ってそう説明した。
『こんな部屋があるなんて知らなかったな』
『常連さんが、趣味の手話や囲碁なんかのサークル活動で使うお部屋なんだそうです。皆さん、音が出たり、会話が重要だったりする活動なので、こうして別室を使っていただく方がいいんですって。ほら、囲碁なんて、熱戦になってくると石の音が結構出ますから』
地域の文化サロンの様相である。見れば確かに、部屋の隅に置かれた簡素な棚に、碁盤と碁笥が置かれていた。将棋の道具もあるようだ。
サチが俺の気まずさをほぐそうと世間話をしてくれているのは察せられたけれど、俺は眉間にしわを寄せてうなずくことしかできなかった。
『先生、お食事はとられてますか? こちらのお部屋を使わせていただくのに、飲み物だけなのも申し訳なかったので、勝手で恐縮なんですけど、サンドイッチを注文していたんです。ここで召し上がっても、お夜食にお持ち帰りいただいても構いませんけれど』
彼女はテーブルの上を指し示した。ボール紙の箱が置いてある。見た瞬間に、昨日の夜中から二十時間近く、水分以外のものを口にしていなかったことを思い出した。
ありがたく卵サンドイッチをつまませていただきながら、俺はサチを促して打ち合わせを始めた。ただでさえ、俺の失態で彼女の時間を浪費させてしまったのに、俺への気遣いで世間話をさせて長引かせるのは本意ではなかった。
挿絵やレイアウトのチェックといった、電話やメールでは不便の多い箇所の確認を終え、話が一段落すると、彼女は肩の力が抜けた笑顔になって、広げていた資料を片付けながら言った。
『ありがとうございます。早く時間をとっていただいたおかげで、順調に進められそうです。後の内容は、急ぎではないので日を改めても結構ですが』
『いや、準備していたんなら聞こう。この後で予定があるわけでもないし』
俺が応じると、彼女の笑顔が大きくなった。
『わかりました。飲み物のおかわり、頼みましょうか。アプリコットティーがあるんです。ポットでお願いできるので』
果物の香りが今でも好きなことは、いつの間にかサチにしっかり把握されていた。子どものころから好きだったのだから、彼女にとっては簡単すぎる推測だったのかもしれない。
頼んだ紅茶をマスターが手ずから運んできたところで、サチのスマホに着信が入った。済まなそうな顔で頭を下げつつ、彼女は席を外した。彼女の午後の予定は俺のせいで完全に狂っているはずだ。何本の電話が入ってもおかしくない。謝るべきはむしろ、こちらである。
神妙な気持ちになって椅子の上で座り直していると、髪もひげも白髪交じりのマスターは、紅茶を美しい薄手の磁器に注ぎながらにこにこして言った。
『佐知子さん、午後じゅうずっと忙しそうにあちこちに連絡取られてたんですよ。ちょうど空いてたんで、こちらを使っていただいていたんです』
案の定だ。その忙しさの元凶である自分としては、うなずくしかない。
『こういう仕事をしていると色々な方に会いますけど、一生懸命で、見ていると気持ちのいい方ですね』
まるで出来のいい親戚の子を自慢するように、マスターは目じりのしわを深めた。
『この紅茶もね、彼女が紹介してくれたんですよ。先月だったかなあ。僕が、紅茶メニューを増やしたいんだけど、いいのがないかなあってぽろっと呟いたら、次の週に持ってきてくれて。試飲して、すぐにお店に出すことを決めたんです。台湾のメーカーで、日本での販売数は少ないし知名度も低いんですけど、品質がいいんですよ。聞いたら、果物の香りの紅茶や中国茶を普段から探してるんだって言ってましたね』
そう言えば、以前からさりげなく、編集部からです、と言ってティーバッグのフレーバーティーを差し入れしてくれることがあった。選んでいたのは彼女なのだろう。とっさに、果実茶探しは自分のためかな、と想像して、甘ったるく未練がましい自分に舌打ちしそうになった。そんなわけあるか。彼女だって子どものころから桃が好きだった。彼女自身の趣味だろう。
マスターは、おしゃべりがすぎましたね、と茶目っ気たっぷりに片目をつぶり、サチが戻ってくる前に出ていった。俺はカップから立ち上る甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら考えた。
未だに過去の話題を持ち出してこない辺り、彼女は俺との関わりは完全にビジネスとして割り切るつもりなのだろう、と想像するようになっていた。彼女が引っ越す直前、親父さんとの関係でひどく傷ついたらしいことはうすうす察していた。その頃を知っている自分は、深く会話を交わしたい相手ではないのかもしれない。
彼女がそうなら、それでいい。心穏やかに、明るく幸せに過ごしてくれるのなら、何だってかまわない。
サチはいつでも、自分のことよりも他人のことを優先する。わがままを言ったり、甘えたりしていたのは、うちの祖母に対してくらいだった。再会してからもずっとそれは変わらない。俺がどれだけ仕事上の迷惑をかけても、今日みたいに、まるで何でもないような顔をして、全力でフォローしてくれていた。
サチと仕事の話をしているうちに、ぼこぼこに凹んでいた俺の気分は、どこかでなぐさめられて、少しずつ人間らしい感覚を取り戻しているような気がした。
彼女は遅れた事情を何も聞かなかった。ただ、当たり前のようにそれを受け止めて、今の彼女にできることをしてくれた。
兄の恋人があの人ではなくサチだったら、兄はあんなひどい思いをしなくて済んだのだろうか。
サチだったら、何重にも張り巡らされた結界や煙幕をものともせず、その中心に一人でうずくまっている兄のもとに辿りつけただろうか。兄の夢と自分の夢をどちらも殺さないように重ねて、兄の隣で自分の足で地面を踏みしめて、背中合わせで戦っただろうか。兄から何をもらえるかより、兄に何を与えられるかを考えただろうか。
歳の差はどうしようもないし、過去は変えられない。
でも、もし再会して恋に落ちる未来が二人にあるなら、きっとそうなるだろうと思った。なにせ彼女は、王様の専属パイロットだったのだから。
ふいに、脳裏にサチのあの夜の顔が浮かんだ。
彼女はこのごろ時折、俺に何か言おうとして、それから何気ない風にそれを流していた。
付き合っている人がいる様子はない。
何より、小さいころから、こうと決めたら意志が強くて、めったに気を変えない子だった。
だとしたら、まだ彼女は、ひょっとして。
胸に湧いた刺すような痛みを、俺は紅茶の渋みと一緒に飲み下した。まだ少しだけ熱すぎた紅茶は、喉の奥をぴりっと刺激して通り過ぎていく。
心にあったのは、いやだ、というシンプルな一言で、それがどうしようもないわがままに思えた。嫌も何もない。サチが誰に恋をするのか、兄が誰を選ぶのかは、俺が口を出すことではないのに。
もしそうなったら、俺はサチとどんな顔で向き合うだろうか。
どんな作品を書くだろうか。
想像もできなかった。何かが書けるのかどうかすらわからなかった。それほど、今、サチの存在は、俺の中で大きな場所を占めているのだ、ということに、ようやく気が付いた。
『お待たせして申し訳ありません。先日、次の単行本の表紙候補にどうかとお話ししていた樹脂アートの作家さんと、ようやく連絡がついて、ちょうど今、メールで写真を送っていただいたんです――』
サチが明るい声と一緒に、小さなつむじ風のように部屋に戻ってきた。その屈託のない笑顔がまぶしくて、俺は意味もなくやましい気分になってしまった。なんとなく、目が合わせられなかった。














