11 兄と泡ぶく――――菱人
サチが引っ越してしまってから一年半で、俺は自宅から通える距離の大学に進学した。
文章を書くのは好きで、それまでも勉強の合間に時折雑文を書いてはノートにため込んでいたのだが、そうした習慣レベルの作文を超えてものを書き続け、それが小説として形になりはじめたのは、大学二年生の終わり頃だったと思う。
その頃、カズトは相変わらず、自由奔放に世の中を泳いでいた。
一時期交際していたらしい、サチにも目撃されてしまった例の女性とは、あれからしばらくして破局したらしい。俺が高校三年になって、受験勉強に追われていたころのことだったと思う。
彼女はカズトより少し年上の社会人で、もう一人の男性とカズトと三人でベンチャー企業を立ち上げた間柄だった。サクラさん、という名前だけは俺も聞き知っていた。
詳しい事情など、カズトが語るわけもないので、断片的に聞き知った事柄を繋ぎ合わせるしかなかったが、サクラさんは結局、もう一人の男性と結婚を前提に交際を始めたらしかった。カズトは自分が持っていた経営権を妥当な条件で彼らに譲って、自分は大学も中退し、別の事業を立ち上げた。
人生の決断としてはわりと大きい種類のものだと思う。けれどカズトは、俺と祖母に対しては、大学で学べることよりも今は新しい事業のほうが面白そうだと思ったし、大学はまたモチベーションがわいたら行き直せばいいから、という、およそふわふわした説明しかしなかった。新しい事業は、ほとんど一人で采配をふるう形にしたようだった。
それから、カズトは決まった女性と長期的に交際することはなくなった。
さすがに行きずりということはないようだったが、気の合う人間と限られた短い期間を楽しんで、長く引きずらないうちにさっぱりと切り替える。相手も、それを納得してくれる人間を慎重に選んでいるらしかった。
洗練されているけれど実のない会話、時間は楽しく潰せるけれど後に何も残らない関係。
そんな彼に魅力を感じるのは、彼と同じようにどこか空虚なものを抱えた女性が多いようだった。お互いに傷つかないように、隣にいてもそっと視線をずらして違う夢をみているような。
カズトが、もうこれ以上その女性と会わないほうがいい、と決めたら、彼はもうその女性とは基本的に直接言葉を交わさない。そのかわり、彼は交際中の会話から知りえた彼女の好みにそって、高価なプレゼントを選ぶ。そして、それを、綺麗だけれど一方的な別れの言葉と一緒に、百貨店の特別な顧客向けに用意された配送サービスを使って彼女の元に届けるのだ。
世間的な感覚から言えば、まったくもって鼻持ちならない、キザな所業である。なかなか高水準のくそ野郎だ。
それでもカズトが交際する女性は、彼のその習慣のことを事前に聞かされていた。深みにはまる前に関係が終わることに、女性もどこかで安堵があったのだろう。バカにしないで、という一言とともに、贈り物が受け取り拒否されるトラブルに発展するのは、ごくまれだった。
そんな時に、面倒を押し付けられるのが、俺の役回りだった。ごくまれとはいうものの、そもそも交際する相手の数が多い。数えていないが、十回以上は手伝ったと思う。
突き返された贈り物を持って、直接その女性の元を訪ねる。言い分があれば聞いてこい、というのが、王様の命令である。
バイト代を払うからさ、頼むよ。そう言って兄はいつも、かなり気前のいい額を提示した。学科の課題がそれなりに忙しくて、決まったアルバイトを探すことが難しかった当時の俺には逆らいがたい魅力の臨時収入だった。
ただ小遣いをやると言われたら、こちらにだってプライドがある。兄からもらう筋合いはないと突っぱねていただろう。だが、そう下手に出られては、そして、本当に困ったような顔で頼まれては、断りにくい。
バイトならしょうがねえな、としぶしぶのように引き受けていたが、俺にとっては、その仕事は、単に金目当てというわけでもなかった。
兄は尊大で、わがままで、甘え上手で、世の中の全てが思い通りになりそうなタイプの人間だった。能力もある。能力を活かす表面的な人当たりの良さや、人を自分のペースに巻き込んでいくような魅力もある。
だが、兄が本当にやりたかったことは、卒業を目前にしていたはずの大学をあっさり中退して新しい事業に打ち込むようになってからも、実現はできていないのだろう、ということが、同じ家で育ってきた俺にはなんとなく分かっていた。
多分、最初に付き合ったサクラさんと一緒にやっていた事業が、カズトの夢への最短ルートだった。そして、彼女が、彼の一番欲しい花だった。
彼女と出会うのがあと五年遅かったら、カズトは、何の迷いもなく一歩踏み込んで、彼女と夢を手に入れていただろう。
サクラさんがもう一人の男を選んだのは、彼女がカズトに自分の全てを賭け切れなかったからだ、と俺は踏んでいた。そしておそらく、彼女がカズトに賭けられなかったのは、他でもないカズトが、祖母と俺を置いて、彼女と自分の人生を選び取る決断をできなかったからなのだ。当時受験生だった俺に何も言わず、カズトは一人で決めてしまった。
王様は、民草の幸福を一番に考えなくてはいけないと、彼は思いこんでいたのだろう。
その後にカズトが抱えていた孤独や空虚に、俺は、どこかで負い目を感じていた。
カズトの挫折の結果として生じた、彼の女性関係のトラブルは、数少ない彼のつまずきと言えた。それをフォローすることで、俺は、少しでも借りを返さなくてはならない、という自分の中にある切迫した思いを満足させていたのかもしれない。
自分からは何も言わない、孤独な裸の王様をどこかでちゃんと見ていてやらなければならないと俺自身がどこかで気負っていた。それが、俺がさしたる抵抗もせず、面倒な役回りを引き受けていた裏の理由だったのだと、今では思っている。
俺自身の動機がどうあれ、カズトに頼まれればやることは大体お決まりのコースだった。彼の個人秘書だと名乗って女性に連絡を取り、改めて突き返されたプレゼントを届けるのが、俺の仕事だった。
たいていの場合、女性は、彼自身とは何の関係もないデパートの外商部員が仕事として贈り物を持ってきたことに腹を立てている。なので、俺が出て行って、彼の個人秘書だと名乗り、贈り物を選んだ彼からの伝言を面と向かって伝えることで、ほとんどの女性は怒りの矛をいったん収めた。
それで終わりになる場合が半分ほど。残りの半分は、俺にもう少し時間を割くように求める。その日限り、と約束して、俺は、彼女たちの希望に応じて、喫茶店か、バーに行く。女性たちはカズトとの思い出を、尋ねてもいない俺にセンチメンタルに語る。俺はそれによけいな意見は差し挟まず、ただ耳を傾ける。そうして、二時間ほど話を聞けば、彼女たちはつきものが落ちたような顔をして、すっきりしたように帰っていくのだ。片手にカズトが用意したプレゼントを下げて。
カズトのプレゼントを納得して受け取ってもらえれば、俺の任務は完了ということになっていた。
俺とカズトの顔だちや体格はあまり似ていない。そのせいか、俺が彼の血縁であることは誰にも気づかれなかった。それどころか、実年齢よりは少々上に見られがちな見た目もあいまって、年齢制限以下で酒場に出入りして、しれっと『アルコールは苦手で』とコーヒーやコーラを飲んでいたときにも、まったく指摘されなかった。
そもそも、兄の元恋人たちは、自分が話している相手の実際の素性や人となりには一切興味がなかったのだろう。
透明な泡がぷくぷくと浮かんで、音もなくはじけるような女性たちの話をひたすら聞いていると、その向こうに、何かを諦めたような兄の横顔が見える気がした。
そんな泡が、いくつも生まれては消えしていくうちに、消えきれなかった幾つかが、次第に腹の底にぶくぶくと溜まっていった。
それがどうにも苦しくて、泡をすくい取って吐き出すように、原稿用紙に広げたのが、俺の最初の作品だった。俺自身がまともに恋愛をしたこともないのに、恋愛小説を書くことになったのは、ある意味必然とも言えた。
あんな泡ぶくを見続けて、自分自身の恋愛をしようという気にはなれっこない。
実際に何度か、試しにでもいいから、と強く誘われて女の子に付き合って外出したりもしたけれど、俺が全く気乗りしない様子なので、先方もあきらめるか怒ってしまう。そのうち、そういう不毛なことを言ってくる人間もいなくなった。
サチが突然いなくなって、身の内にぽっかりと空いていた穴のふちを、カズトの元恋人たちがまた少しずつけずっていく。彼女たちは、俺のうつろな穴にもやもやとした名付けがたい感情を投げ込んで、元気を取り戻して、自分の人生に戻っていく。
俺も、カズトとは違った意味で、自分の人生をつかみとれずに、傍観者のように過ごすしかなかった。その反動が、小説だったのだろう、と、今では思う。
俺の書いたものを、カズトは決して読もうとしなかった。それでも、何気ない思い付きで向月社の新人コンテストに送った作品が、嘘のように次々と選考をすり抜けてしまい、佳作を受賞して出版される運びになったとき、彼は、自分のことのように喜んでくれた。
カズトが俺自身に選んでくれた贈り物が届けられたときには、思わず笑ってしまって、おそらく普段は鉄壁の営業スマイルを誇るであろう百貨店の外商部員に不思議そうな顔をされた。
彼の贈り物は、その品物が何であれ、「お互いに自由になろう」という意味がある。
彼はようやく、俺というくびきから自由になって、自分の人生を歩んでいけるという実感を持てたのだろう。そして、俺にも、自由になれ、と言いたかったのだと思う。
その少し後に、彼はヘルシンキに拠点を移すことを決めた。祖母の人生にも大きな転機があって、俺はこの家に一人暮らしになった。
その大きな波がようやく凪いできたと思った頃合いだった。
突然の引っ越しから、十年余りが経っていた。
すっかり大人になって、サチは俺の前に再び姿を現したのだ。
再会した瞬間に、すぐにわかった。
名字は変わっていたけれど、その顔、仕草、声。もちろん、佐知子、という名前も。














