第40話
黒樹迷界北部――
アルセイン帝国、ゴルヴィン公爵邸。
夜明けの時刻。
ゴルヴィン公爵は机に向かい、羽根ペンを走らせていた。
紙の上をなぞる音だけが、静かな室内に響いている。
「至高なるアルセイン王陛下へ、謹んでご挨拶申し上げます。
私は、あのお方のご命令に従い、黒樹迷界にて魔法陣の構築を完了し、七日間にわたり現地を守備しておりました。その七日のあいだ、魔竜禁空域において、看過できぬ変化が生じているように見受けられます……
禁空域の変動につきましては、すでに別便にてご報告申し上げました。本書はそれとは別の、緊急の私信にございます。度重なるご報告、何卒ご寛恕ください。
なぜなら――
私は、この帝国が再び興隆する“未来”を目の当たりにしたのです!
黒樹迷界にて遠隔操作の魔偶を用い、警戒任務に当たっていた折、ひとりの奇妙な冒険者と遭遇いたしました……
その冒険者は、明らかに低レベルでありながら、二つもの神器を所持していたのです!
一つは正体不明の空間系神器。
なんと、その冒険者はLv20未満にもかかわらず、千メートル規模の空間転移を実現しておりました。
空間神の権能――
もしこれを帝国の手中に収めることができれば、我が軍は距離も補給線も無視し、大陸のいかなる地にも瞬時に侵攻できましょう!
たとえ単独転移に限られるとしても、空間能力を用いた暗殺・破壊工作は、想像を絶する効果を発揮するはずです!
未来において、空間の力は――
帝国最強の“戦車”となることでしょう!
そして、戦車といえば――
もう一つ、看過できぬ神器がございます。
千年前、無数の神々を屠ったと伝えられる、あの伝説の短剣……
どうやら、再び世に現れたようなのです!
私は、その少女の手に握られた短剣を確かに目にしました。
時の封印により力は大きく制限され、再成長を必要としているようではありましたが――
その材質、その威圧感……
すべてが、伝承に語られる“弑神の短剣”と完全に一致していたのです!
神を殺し得る武器――
それが、確かに存在していました!
もし帝国がその神器を手にし、空間の力と組み合わせることができれば。
敵対する諸国の支配者など、屠られる仔羊に等しく、その生殺与奪は我らの掌中に収まるでしょう!
以上の理由から、私はここに進言いたします。
直ちに全国規模の軍を動員し、あの冒険者を追討すべきです!
当該冒険者の容貌は魔法水晶に記録済みであり、本書と共に信鳩の脚に括り付けました。
事態は一刻を争います。
神器が他者の手に渡る前に、何卒、全土追討令のご発布を――!
私、陛下のご裁可を、静かにお待ち申し上げます!」
書き終えると、ゴルヴィン公爵は手紙と魔法水晶を、機械仕掛けの信鳩の脚に丁寧に結びつけた。
「行け。
この書簡を、必ず陛下のもとへ届けるのだ」
機械信鳩は翼を広げ、静かに窓の外へと飛び立つ。
ヒュッ――
だが、窓を出たその瞬間。
信鳩は何かに激突したかのように、激しく弾き返された。
――一本の矢。
それは信鳩を壁へと縫い止め、正確に中枢を撃ち砕いていた。
「何者だ!? この私に――」
言葉が、途中で途切れた。
ゴルヴィン公爵は、自分が声を失っていることに気づく。
まるで、沈黙の拘束具を嵌められたガウのように。
いつの間にか、鋭い矢尻が彼の喉元に突きつけられていた。
頸動脈を貫くには、十分すぎる距離だ。
――だが、相手はすぐには動かない。
矢尻はわずかに皮膚へ食い込み、彼女の背後で、狐の尻尾が窓を静かに閉めた。
室内は、完全な静寂に包まれる。
そのときになって、ゴルヴィン公爵はようやく、侵入者の姿を視界に捉えた。
胸を締め付けるような恐怖。
それでも彼は、必死に平静を装う。
「……お前は、誰だ?」
「ふふ、白々しいですね」
相手は微笑んだ。
どこか消耗した様子ながら、声は異様なほど落ち着いている。
「ゴルヴィン公爵。
表向きは享楽に溺れた貴族。
その実、アルセイン帝国でただ一人の“傀儡師”。
国王のために、裏仕事を一手に引き受けてきた……違いますか?」
ゴルヴィン公爵の瞳が、大きく揺れる。
それは、蛇に絡め取られたかのような、逃げ場のない恐怖だった。
「な……なぜ、それを!?
神殿ですら知らぬ秘密だぞ!」
「秘密?」
彼女は首を傾げる。
「時間が経てば――
すべての秘密は、必ず白日の下に晒されます」
「……っ!」
ゴルヴィン公爵は必死に思考を巡らせる。
だが、考えれば考えるほど、自分が完全に見透かされているという絶望が強まっていった。
公爵邸の警備をすべてすり抜け、ここに立っている。
それだけで――彼女が自分のすべてを把握している証拠だった。
こんな小娘に……脅されるなど……!
Lv20にも満たぬ新人冒険者が……この私を!?
不意を突けば勝てる。
相手は低レベルだ。
奇襲すれば、一瞬で――
……待て。
ゴルヴィン公爵の視線が、相手の手元に留まる。
「……」
――見間違いか?
その白く細い指に、
奇妙な指輪が五つ、嵌められているように見えた。
……五つの神器指輪???
思考が、完全に停止した。
彼はゆっくりと、鏡に映る姿を見る。
自分を暗殺しに来た存在――
頭から、足先まで。
彼女の身に纏う装備は、すべてが“見覚えのあるもの”だった。
ゴルヴィン公爵は幼少期から、これら神器の伝承を聞いて育ったのだ。
かつて彼自身も、神器に選ばれ、英雄となる夢を抱いたことがある。
神器に認められるためには、
無数の試練を越え、人格・知恵・意志、そのすべてが極限まで試される――
そういう物語だったはずだ。
……それが何だ?
神器ハーレムでも築いているというのか?
「……」
「私が質問する。
あなたは、答えるだけ」
ゴルヴィン公爵は、虚ろに頷いた。
「黒樹迷界で神器を見たことを、他に誰に伝えた?」
「……身分上、極秘事項だ。
誰にも伝えていない。
国王陛下に報告するため、書簡を書いただけだ……」
鏡越しに、彼女の瞳が淡く光る。
嘘を見抜いているかのように。
しばらくして、彼女は頷いた。
「……嘘は言っていない」
ゴルヴィン公爵は震える声で口を開く。
同時に、室内の魔偶へと魔力を密かに繋げた。
「……それなら――」
「それなら、あなた一人が死ねばいい」
「……貴様ァッ!
操傀魔法《百偶の舞》!」
「――っ!」
反撃の隙すら、与えられなかった。
矢は彼の頸動脈を正確に貫き、
叫ぼうとした口は、硬く塞がれる。
魔偶たちは暴風のように動き出し、
室内のすべてを破壊し尽くそうとした。
だが――
矢に宿る冷気が、彼の意識を急速に凍結させていく。
制御を失った魔偶は、次々と床へ崩れ落ちた。
「……弓使い……が……暗殺……」
ゴルヴィン公爵は、最後まで信じられなかった。
自らの屋敷で。
最も安全だと信じていた場所で。
Lv20未満の新人冒険者に、命を奪われるなど。
しかも――
相手は、潜行向きですらない“弓使い”。
あまりにも、馬鹿げている。
――暗殺?
私は、ほんの一瞬、呆然とした。
……そうか。
私も、こんなことをするようになったのか。
砕けた窓から、冷たい朝風が吹き込み、
私の額の髪を揺らす。
信鳩を拾い上げ、
フードを深く被ったまま、私は窓辺に立つ。
光と影の境界線。
下では、異変に気づいた護衛たちが集まり始めていた。
つま先を、そっと窓枠に掛ける。
――跳んだ。
◇
公爵邸。
暗殺現場。
暗殺者が去って、ほどなく。
部屋の影の奥で、
酒紅色の瞳が、静かに開かれた。
背の高い、しなやかな影が、幽霊のように闇から歩み出る。
幽紫の結晶短剣が、指先で一度だけ回され、鞘へと戻された。
指先が弾かれ、
空間に裂け目が走る。
「……まったく」
「……見事、だね」
◇
(第一巻 完)
◇
第一巻は、ここまでとなります。
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